沐浴場の秘密
脱衣場と沐浴場の扉は開けられ、ふたつの部屋の中にたくさんの人が集まっていた。宿屋の店主をはじめ、女中、そして数人の宿泊客もいる。
彼ら、彼女たちは、いったい何が始まるのかと、気が気ではないようだった。
「──お? 揃ったな。って、あれ? 客も混ざってるのか?」
黒髪の青年こと、爛 梓豪が呑気な声とともに現れる。端麗な顔立ちを裏切るようながに股で、大きなあくびをしていた。
そんな彼の後ろには、黒い衣に身を包んだ人がいる。爛 梓豪はその人に、いいのかと客たちを指差しながら問いかけていた。
「別にいいと思いますよ。それに、私たちを含む彼ら……客たちには、聞く権利があると思いますので」
ふふっと、妖艶に微笑む。
これには爛 梓豪だけでなく、野次馬という名の客や従業員ですら頬を赤らめてしまった。
「……はっ! あ、阿釉! 頼むから、そういう顔を易々としないでくれ」
「……? そういう顔?」
こてんと、小首を傾げる。
「んんっ! かわいい! ……じゃなくて! あー……うん。もう、いいや。先に進もう」
コロコロと表情を変える彼だったが、最終的には肩を落とすだけに留めた。
「本当に、変な人」
爛 梓豪が何を言いたいのか。全 紫釉には、到底理解できないことだった。何のことだろうかと、モヤモヤしたものを胸の内にしまう。
気を取り直して咳払いした。
脱衣場にいる店主を手招きし、沐浴場に案内する。
「初めに聞きます。この沐浴場はここ最近、増築したんですよね?」
「え? あ、はい。毎年行われる仙人様の試験のおかげか、ここに泊まる方々が増えまして。でもここ数年、沐浴場が狭いという意見をいただいたのです。だったら拡げてしまおうと、沐浴場を増築しました」
若干、逃げ腰になっているようだ。腰が引いてしまっている。
「……なぜ、増築する羽目になったのでしょう? この街……温風洲の宿屋は、ここだけではないはずですよね?」
黒い衣からのぞく朱い瞳が、店主を射貫いた。
店主は「ひっ!」と、悲鳴をあげる。それでも体を震わせながら、一つ一つを答えていった。
「せ、先代……私の親なのですが、商いの相場などを考えずに、格安で設定してしまいまして。見習いの仙人様たちにとっては、そこが魅力だという噂が流れたのです。ありがたいことに、毎年この時期になると、他の宿屋よりも売上が伸びているのは事実でございます」
一気に話したせいか、店主は額から汗を流している。服の袖で汗を拭いて、はははと。苦笑いになった。
全 紫釉は軽く頷く。そして次の質問へと移った。
「では、湯船の水はどこから汲んでいるのでしょう?」
宿屋の裏には井戸がある。その井戸は小さかった。湯船いっぱいになるほどに水があるとは思えないような小ささで、沐浴には適さない。
「答えていただけますか?」
「あ、えっと……沐浴の下に線をひいて、地下水というものから、頂いています」
店主は未だに怯えていた。数人の従業員が、顔を青くした店主を支える。
全 紫釉は湯船に手を入れ、暖かさに頬を緩ませた。けれどすぐに美しい顔に冷めた空気を乗せる。
顔を上げて天井を凝視した。
天井は振動のせいか、パラパラと、粉末のようになって度々落ちてくる。
「…………時間がありませんね」
誰にも聞こえないような小声で呟いた。
踵を返して店主たちへと向き直る。
「単刀直入に言います。宿屋だけに起きている、不可解な地震。それの原因は、間違いなくここです」
指差しした先は湯船だった。
誰もが彼の指先を目で追う。当然、爛 梓豪も追った。誰よりも先に湯船へと向かい、袖を捲って湯の中に腕を突っこむ。
「…………んー? 阿釉、どういう意味だ?」
好奇心の方が勝っていた。長い黒髪の先が濡れてしまっていても気にすることなく、答えを教えてと懇願する。
全 紫釉は黙々と頷いた。
「私たちが足で踏んでいる地、そこには地盤と呼ばれるものがあります」
「じ、ばん? 何だそれ?」
爛 梓豪の興味はすでに湯船にはなく、全 紫釉の言う地盤へと移っている。瞳をキラキラと輝かせ、玩具を与えられた子供のようにはしゃいでいた。
そんな彼に苦笑いだけを送り、全 紫釉は話を続ける。
地盤は、地下水で満たされた帯水層と粘土層があった。それがいくつも重なっている。
粘土層の間にある帯水層は、ほんの少し水を取っただけでは変化しない。けれど過剰に水を採取してしまえば粘土層は緩み、収縮してしまう。それにより、地面が沈下する。
「専門家の間ではこれを、地盤沈下と呼んでいます」
左手で二本指を立てた。
「地盤沈下は、二種類存在しています。ひとつは自然現象によるもの。これに関しては、防ぎようがありません。そしてもうひとつ。それは人工的に、必要以上に水を汲みあげてしまうことです」
今回は後者。人の手によって行われてしまったもの。
そう、告げた。
「……じ、ばん、沈下? 初めて聞く言葉だけど……」
誰よりも先に声にだしたのは、爛 梓豪だ。彼は本当にわからないようで、腕を組みながら両目を瞬きさせている。
「どうやらこの宿屋は、ちょうど、地盤が弱い場所の上に建てられのでしょう。そこに加えて、無理やり地下水を吸い上げてしまったのです」
それにより、建物を支える地層に限界がきているのだと口述した。
全 紫釉以外の者は皆、驚きを隠せない様子。今にも泣いてしまいそうな女中や、顔を青ざめさせた従業員もいた。
そんな彼らに向かって、全 紫釉はある案を与える。
「悪いことは言いません。今すぐにでも、この宿屋を放棄してください」
「えっ!? そ、そんな……できませんよ! ここは先代から受け継いだ……」
「受け継いだとか、そんなこを言っていられる段階ではないんです」
「……っ!?」
容赦ない一言が飛来した。淡々とした口調と、冷めた視線をこの場にいる人々へと放つ。
従業員や店主、野次馬の客ですら、言葉を飲んでしまった。
見かねた,爛 梓豪が全 紫釉の肩に手を置く。耳元で「そんなに危ないのか?」と、囁いてきた。
全 紫釉は一瞬だけ体をびくつかせる。けれどすぐに平常心になり、黙って頷いた。心配する彼に大丈夫だと伝え、従業員たちへと視線を走らせる。
「ここではすでに地盤沈下が始まってます。遅かれ早かれ、この宿屋が崩壊するのも時間の問題です」
スッと、左手の人差し指を天井へと向けた。そこからは休む間もないほどにパラパラと、柱や屋根が粉になって落ちてきている。
そして……
「うわっ!」
天井を支えていた一本の柱が、形そのままに落下してしまう。そして同時に、揺れも激しくなっていった。
「……っ! 時間がねー! 従業員は客たちを外へ避難させろ!」
いつもの能天気さを消した爛 梓豪が、テキパキと指示をだす。従業員たちは彼に従い、客の誘導を始めた。
「阿釉、俺たちも出るぞ!」
「……っ!」
無意識なのだろうか。全 紫釉の手を握ってきた。
全 紫釉は顔を真っ赤にさせながら俯く。黒い衣を深く被ることで、嬉しさからくる笑顔を隠した──
従業員が客をすべて外に避難させたとき、事態は急変することとなる。
「……ったく! せっかくの休みで泊まりに来てるってのに、何でこんな……いてっ!」
客のひとりが文句垂れていると、何かが頭を直撃した。それは何かと見れみれば……
「ん? 瓦? え? なん……で……」
恐る恐る、見上げる。そのとき、宿屋の屋根瓦が勢いよく落ちてきた。それは一枚や二枚でなく、ほぼすべての屋根瓦だ。やがて……
「うわーー!」
大量の砂煙、轟音とともに、宿屋が一気に崩れていく。数々の破片が周囲の家屋の壁や屋根へ飛んでいき、宿屋は跡形もなく崩壊していった──




