浮き彫りになる思惑
薄茶色の櫛を手にした全 紫釉は、花が咲いた美しい笑顔を浮かべた。
その笑顔の破壊力は絶大なようで、道行く者や出店の人までもが固まってしまう。魅入ってしまっているといった方が正しいようで、男女関係なしに全 紫釉の美しく儚い見目に注目が集まっていた。
当然その中には櫛をあげた本人でもある、爛 梓豪も含まれている。彼は顔を真っ赤にして、全 紫釉に魅入ってしまっていた。
けれど、誰よりも早く正気を取り戻す。
「……はっ! あ、阿釉!」
慌てふためきながら全 紫釉に、黒い衣を深く被せた。
耳の先までゆでダコ状態の彼は、少しだけ前かがみになっている。それでも全 紫釉の両肩に手を置いて、決意を眉にこめた。
そして……
「え? わっ! ちょ、ちょっと爛清!?」
全 紫釉の手を握り、急いでこの場から走り去っていく。
しばらくすると、誰もいないような裏道に到着した。ふたりは息も絶え絶えになりながら、その場で休憩をとる。
「も、もう! 何なんですか!?」
全 紫釉の怒りの矛先は、爛 梓豪だ。彼を睨みながら汗を拭き、乱れた呼吸を整えていく。
「ご、ごめん。でも何て言うか……あの場にいたら、阿釉の身が危険だった気がする」
「私の身? ……え? なぜ?」
要領を得ない彼の回答に、全 紫釉は小首を傾げるしかなかった。
こてんっと首を傾げたとき、銀髪がさらりと流れる。
「私、何もしてませんよ?」
「あー、いや。うん。そうなんだけど……そうじゃなくて……」
頭の上に乗る蝙蝠、抱きしめている仔猫。かわいらしい小動物たちに加え、少女にしか見えない可憐な外見を持っていた。儚げで脆く、細いけれど独特の色香を放つ見目。
それが全 紫釉だった。
爛 梓豪は一度喉を鳴らす。それでも理性を保ちながら周囲を警戒した。キョロキョロとし、全 紫釉の肩に触れる。
「……まあ、そこが阿釉らしいっちゃ、そうなるけどさ」
「……え? それはどういう……つ!?」
何の話か。そう口にしようとした直後、夜空を飛ぶ提灯たちの光が青白くなった。
その輝きは目を瞑ってしまうほど。
「阿釉!」
爛 梓豪が全 紫釉を庇うように前に立つ。
「わっ!」
全 紫釉は彼に腕を引っぱられた。意外と厚い胸板に顔を埋めてしまい、言葉を失う。
──ど、どうしよう。心臓が、鼓動がとても速い。彼を好きだってわかっただけなのに。それに……
大きくて、とても頼りになる。
優しく包まれているだけなのに、不思議と爛 梓豪という男が頼もしく見えていた。
それをおくびに出すことなく、ただ、彼の男らしい腕に包まれることを心から喜ぶ。
「なあ阿釉」
そんな幸せを噛みしめてるのも束の間、頭上から彼の声が聞こえた。全 紫釉よりも頭ひとつ分ほど背が高い彼を見上げ、どうしたのかと恐る恐る尋ねる。
彼以外を見ようとしても爛 梓豪に強く抱きしめられているため、上手くほどけなかった。それでももぞもぞと動き、上手く空を見上げてみる。
「…………え!?」
数秒もたたない内に、胸の高鳴りは驚きへと変化してしまった。
月が隠れた夜空には橙ではなく、青白い色に包まれた提灯が無数に浮かんでいる。まだそれだけなら、そこまで驚く必要はなかったのだろう。
全 紫釉の大きな両目に映るのは、それとは違うものだったからだ。
「ひ、人?」
提灯と一緒に、数えきれないほどの人間が宙に浮かんでいる。そして彼ら、あるいは彼女たちは、虚無の表情をしていた。
動きはカクカクと、糸で操られているかのように鈍い。
「……な、何でこんな……」
言葉すら出てこない光景に、全 紫釉たちは絶句してしまった。
隣にいる爛 梓豪は眉をよせ、ずっと夜空を見続けている。
「浮いてる連中、町の住人だよな?」
「ええ。多分ですが。あそこに、先ほど櫛を売ってくれた男性もいますよ」
ちょうど真上あたりを指差した。そこには出店の男がいて、周囲の者たちと同じように虚無の瞳をしている。
ふたりは、どうなっているんだと顔を見合せた。
瞬間、ゆっくりと両手をたたく音が刻まれる。のんびりと、パンパンとたたかれる音だ。
音がする方を凝視すれば、そこには白い服を着た男がいる。
「──白無相!?」
髪も、肌も、服装ですら白一色の男は、白無相と呼ばれる妖怪だった。彼は足場すらない空中に浮かび、両手をたたき続けている。
やがてそれをやめると、右手を前に出した。すると何もない空間から錫杖が現れる。
「姫様ー! 見てますかぁー? 今からこのわたくしめが、手品……ひいては、倉庫の中にあった物の正体をご覧にいれましょう」
妙に明るい声が、夜空に響き渡った。同時に、口角がいやらしくつり上がる。
「白無相、あなたはいったい何を……」
「ああ。そこだと見えにくいですよね? ええ、ええ。はい。姫様には、特別席を用意してさしあげますとも」
人の話など聞く相手ではなかった。それどころか、全 紫釉の言葉に、身勝手な意見すら被せてくる。
そして有無を言わさず、全 紫釉の体に糸を巻きつけていった。
悲鳴をあげる暇もないまま、全 紫釉の体は宙へと浮かんでしまう。
地上では、爛 梓豪が何度も全 紫釉の名を呼んでいた。
それを目にしながら、白無相と目線の高さが同じ位置にくるように連れてこられてしまう。
無理やり視線を合わせなくてはならなくなった全 紫釉は、捕らわれながら睨むことしかできなかった。