不思議な熱
「それにしても、動物の野生の鼻か……よしっ! 阿釉を信じて、その線で話を進めていこう」
「……え?」
全 紫釉は両目を見開き、無邪気な笑みを浮かべる彼を凝視した。
──普通は、動物の勘を信じようとはしない。ましてや、馬鹿にする人ばかり。それなのにこの人は……
「どうして……」
思わず、声を震せる。
何の疑いもなく全 紫釉の言葉を信じる彼を凝望した。
「ん? どうした阿釉?」
全 紫釉の視線に気づいた彼は椅子から離れ、床に流れる銀髪を手にした。指に巻きつけながら、大丈夫かと心配する。
全 紫釉は下を向いた。
「……どうして、信じてくれるんですか?」
顔を上げ、微笑みを絶やさない彼を見つめた。瞳にかからないほどの前髪を爛 梓豪は弄っている。
それは、普段の飄々とした姿のままだ。
「んー? どうしてって言われてもなぁ」
髪を弄るのをやめ、机の上にある茶器を床へと置く。ふたつの茶杯へ、トポトポという音をたてながら烏龍茶を注いだ。そのひとつを全 紫釉へと渡す。
「俺が信じたいから、かな」
はははと苦笑いし、頬を軽く掻いた。烏龍茶を一気飲みし、上半身だけで背伸びをする。
「誰かに言われたそれが、本当だったとしてもさ。俺は、自分の目で確認してからじゃないと信じない」
どれだけ悪い噂が流れていようと、悪人だろうと、もしかしたら本当は違うのかもしれない。人の噂に尾ひれが付き物なのは常だ。それを最初から信じた状態で接するのは、おかしいのではないだろうか。
純粋なようでしっかりと他者を見極める。
それが爛 梓豪という男のやり方だった。
端麗な顔を裏切らない白い歯を見せ、裏表すら感じない笑みを浮かべている。
「…………」
彼の本音を聞いた全 紫釉の目頭は、徐々に熱くなっていった。下を向いて唇を噛みしめる。
震えそうになる息を飲みこんだ。
「……わ、私には、わかりません。そんな考え、わかりたくもな……」
「いや、わかる必要ないだろ?」
「え?」
ハッキリと。低い声でそう言う彼を、全 紫釉は両目を見開いて凝視する。
爛 梓豪は胡座をかきながら、全 紫釉の膝を陣取る仔猫の毛を撫でた。優しく、どこか照れ臭そうに笑っている。
しっかりと全 紫釉と目を合わせては、ははっと微笑した。
「だってそうだろ? 俺と同じ考えのやつがいたとしても、細部まで一緒とは限らない。だったらその人の価値観をそのまま貫いてくれた方が、俺も、相手だって楽だと思うぞ?」
無理やり合わせる必要もなければ、わかろうという言葉を持ち合わせてもいない。全員が同じ考えで理解し合うことになれば、さぞや優しい世界になろう。
けれどそれは人として……生きる楽しみがなくなってしまうのだろう。
爛 梓豪は語りながら、たははと苦く笑った。
「難しいことは俺にはわからねーよ? でもさ──」
全 紫釉の、細長くて白い手を握る。
「阿釉は阿釉だ。動物が好きで、動物と友だち。それが、俺の知ってる阿釉だ」
「爛清……」
全 紫釉は長い銀髪で顔を隠した。潤んでしまった瞳に映る床は滲んで見える。
彼の男らしい無骨な手は、ちょっとだけささくれたっていた。それでも暖かさがあり、全 紫釉の心へゆっくりと広がっていく。
──暖かい。彼の指が、手の温もりが、とても心地よい。それに何だろう? 彼に手を握られると……見つめられると……
体が熱くなっていった。
走ってもいないのに、慌ててすらいない状態で、鼓動の動きが早くなっていく。
それを悟られないよう、無理やり無表情を作った。彼に握られている手を退かし、烏龍茶を口に入れる。
爛 梓豪を横目に見ながら、深呼吸をした。
「……本当にあなたは、変な人ですね」
ふっと、暗い影を消して、美しく微笑む。
「……っ!?」
すると爛 梓豪が、唾を飲みこむ仕草をした。
そのことに小首を傾げれば、彼は耳の先まで真っ赤になりながら「ひょー!」と、奇妙な叫び声をあげる。床をドンドンたたき、悶えていた。
「……爛清、気持ち悪いですよ?」
──うん。やっぱりこの人、よくわからない。
直前までの感動が一瞬で砕け散る。情けないものを見る眼差しで彼に視線を投げた。けれどすぐに咳払いし、空気を元に戻す。
「話が逸れてしまいましたね。私たちの目的は、お互いの気持ち云々ではなかったはず……試験に挑むこと、でしたよね?」
「……ん? ああ、そうだった」
爛 梓豪は本気で忘れていたようで、からからと笑っていた。
全 紫釉は彼の楽観的な部分を咎めることはない。それを爛 梓豪という男の一部として受け止めているからだ。
くすくすと優しく微笑み、軽く咳払いをする。
「──今回の事件、カカオが原因の可能性として動く。それはいいと思います。けれどなぜカカオだったのかも、誰が何のためにということも、わかっていません」
「問題はそこなんだよなぁー。店主が怪しいとは思うけど、証拠もないし……」
進んでいるようで、何もわからない。そんな状態が今なのではないだろうか。
爛 梓豪は、いつになく真剣な面持ちで口酸っぱく語った。
「…………」
ふたりは無言になってしまう。
全 紫釉の膝の上には、呑気にお腹をだして寝ている子猫がいた。