外へと飛び出そう
亡くなった母親と、姿の見えない娘。このふたりは、ほぼ同時期に消えては噂となっていた。
これは偶然なのか。
そこに何かを見出すように全 紫釉は、太陽に溶ける色の髪を耳にかけた。床へと座りながら膝の上に白い獣を乗せ、もふもふとした毛並みを堪能する。
「爛清、もう一度最初から考え直してみませんか?」
大きな瞳で彼を見つめた。
爛 梓豪は頷き、椅子に腰かける。茶器をカチャカチャと鳴らしながら烏龍茶を入れ、一気に飲みほした。
ドンッと勢いよく茶器を置き、神妙な面持ちで頷く。
「私たちの課題は、この街で起きた不可解な事件……子持ちの母親が鼻血を流して亡くなった事件の解決をする。それですよね?」
「ああ。で、聞いた話だと、今まで母親は病気ひとつしていなかった。だけどある日、仕事中に鼻血を流して倒れた」
そのまま帰らぬ人となってしまった。
子供たちは納得できなかったようで、仙人たちに真相を明かしてほしいという依頼をだす。
「隣人の男が言うには、本当に病気ひとつしてなかったんだろうな。女手ひとつでさんにん育てて、倒れた日までは本当に元気だったらしい」
朝、仕事にでかけるときも、何も変わらなかった。顔色も普通だったと、男や子供たちから聞いていた。
ならばなぜ、突然そのようなことになったのか。
爛 梓豪は椅子の背もたれに深く、体を沈ませた。ふあっとあくびをかき、座ったまま上半身だけを大きく伸ばす。
「……でもさ。突然、体調が悪くなるって人もいるだろ?」
「確かにそうですね。心臓発作など、突然起きる病気もあります。ただ、今回はそういうものとは違います」
膝の上でお腹をだして寝ている白い仔猫を見下ろし、ふふっと微笑した。ふわっふわな毛並みを撫でて、爛 梓豪へと視線を向ける。
「カカオ。これが原因で亡くなった可能性を視野に入れて動くべきです」
それからもうひとつと、左手の人差し指を立てた。
「女性がなくなった時期と、娘の噂がたった時期。そのどちらもが、ほぼ同時期なのが気になります」
華服の袖から筆と巻物を取りだす。巻物を広げれば、カカオについての事柄が、びっしりと書かれていた。隅には亡くなった女性、姿のない娘のことが記載されている。
全 紫釉は細長く、ささくれすらないきれいな指で文字を辿った。
「女性が亡くなったのは去年の二月頃。そして女性が死亡した翌日に、店には娘がいるという噂がたったそうです」
「……へえ。時期まで調べてたのか」
爛 梓豪はすごいなと、我がことのように全 紫釉を誉める。けれどすぐに眉をよせ、顎に手を当てて物申した。
「でもさ? 俺が聞いた話だと、娘は体が弱いらしいぞ。それだったら、今まで噂にすらならなかったのは普通じゃないか?」
「外に出なかったという理由で、それも考えられるとは思います。けれど、あまりにも偶然が重なりすぎていませんか?」
膝の上で野生を忘れた姿になっている仔猫のお腹を撫で、ふふっと微笑みを落とす。
仔猫はにゃあと一声鳴き、床へと飛び降りた。両前肢と身体を伸ばし、最後に顎をガシガシ掻く。そしてトテチ、トテチと、窓まで歩いていった。閉じられた窓を爪で掻き、外へ出たいと鳴く。
爛 梓豪は腰をあげて、そっと窓を開けた。すると目にもとまらぬ速さで仔猫は外へと飛び出して、あっという間に姿を消してしまう。
「はは、猫って本当に自由だよな」
「あの子は元々、亡くなった母の友だちだったんです。それで母が亡くなったときに、私が譲り受けました」
そう話す全 紫釉は瞳に憂いを乗せた。青空を見つめながら、風に靡く銀髪を押さえる。
窓を少しだけ開けたまま、踵を返した。床へと座り、彼を凝望する。
「……店主か。あるいは店員か。そこはわかりませんが、あの店の誰かがカカオを購入した証拠が必要になるでしょう」
膝の上を陣取っていた動物がいなくなったことにより、多少なりと寂しさを覚えた。それでも自分たちが優先すべきことは何かと、気持ちを切り替える。
全 紫釉の目の前に座った彼もまた、軽く頷いた。整った顔を開いた窓へと向け、太陽の光に両目を細める。光の中で決して見失うことのない黒髪を軽く掻いた。
「だったら話は早い。カカオを誰が買ったのか。それを調べに行こう」
腰をあげる。そして全 紫釉の腕を引っぱり、半ば強引に立たせた。
「証拠ってのは、日がたつにつれて捨てられちゃう可能性が高くなるものだからな。一日でも早く見つけなきゃだろ?」
全 紫釉より先を歩き、部屋の扉を開けようとする。
そんな彼の行動に驚いた全 紫釉は、扉の前で彼の腕を優しく退かした。下を向き、首を左右にふる。
「私はここに残ります。行ったところで何も変わりませんし。見落としがないか、資料をもう一度確認し……」
「なーに言ってんだよ?」
全 紫釉の言葉を振り切るように、扉の外へ一歩だけ出た。そして全 紫釉の腕を再度掴み、半ば無理やり部屋の外へと押し出す。
突然のことに体勢を崩した全 紫釉は驚きながら、彼の胸板へと顔を埋めてしまった。慌てて黒い衣を被る。そんなこをしている間に、彼は歩き始めた。
「ちょ……爛清!?」
「閉じこもってたって解決はしないさ」
「ですからそれは、あなたがやれば……」
「事件じゃなくて、阿釉がだよ」
「…………え?」
思ってもみなかった言葉に、全 紫釉は言葉を失う。引っぱられるまま階段を降り、他の客に見られながら店の外へと出てしまった。
彼らが泊まっていた地区は観光地のようで、人で溢れかえっている。ふたりが大きな音をたてながら扉を開けて出てきたとしても、誰も見向きもしなかった。
それどころか墨絵を商売とする似顔絵師がよってきて、笑顔で一枚どうかと尋ねてくるぐらいだ。
「…………っ!?」
全 紫釉は陽の光を眩しいと感じ、両目を閉じてしまう。
──怖いわけではない。ただ……ふたりが一緒に聞き取り調査をする必要なんてないと思っただけ。私は、効率よいことを提案しただけなのに……
目の前にいる黒髪の青年は、それをアッサリと捨てた。いいや、別の選択肢を選んだよう。
本と睨めっこしている方が性に合っている全 紫釉にとって、彼のこれは、あまりにも非効率な考えでしかなった。そのことを伝えようと口を開いたとき──
「外は広いんだ」
全 紫釉の腕が解放される。そして彼は両手を拡げ、墨絵師の肩に腕を回して笑顔になった。
「せっかく相棒になったんだ。いつまでも別行動はおかしいだろ? それに……」
墨絵師から離れ、全 紫釉の両手を優しく握る。
「俺が、阿釉と一緒にいたいって思ったんだ」
「…………」
彼の無邪気な笑みに、全 紫釉の心は少しずつ動かされていった。
同時に味わったことのない、不思議な気持ちが生まれる。
──爛清の笑顔を見ていると、何とかなるのではないかと思ってしまう。それに何だろう? 胸の奥が熱くて……
鼓動がいつになく速かった。
爛 梓豪の笑顔、そして声。すべてを見て、聞いているだけでも、心臓がおかしなほどに早まる。
暑いわけではないのに火照った。彼と目が合うだけで、ほぼっと耳の先まで真っ赤になる。
「うん? どうしたんだ阿釉、顔が赤いぞ?」
「な、何でもありません!」
「……そっか? まあ、いいや。ほら、行くぞ!」
ぐいぐいと引っぱられながら全 紫釉は、心の奥に生まれた不思議な感覚に蓋をしていった。