鼻血の原因
食堂を出たふたりは、街の中央へと向かう。そこにはいくつかの櫓が立てられていて、奥には古めかしい寺院があった。
爛 梓豪に手をひかれながら、全 紫釉は櫓を登っていく。頂上へ着くと、街が一望できるほどの高さに少しばかり驚いた。
「……それで爛清、何か情報は得られましたか?」
手ぶらで合流だったらどうしてくれようか。そんな考えを瞳に乗せ、彼を見つめた。先の食堂での彼に不信感を募らせ、それを不機嫌な態度で表す。
彼はおどけながら、手にした情報を晒けだした。
「んー? 実はさ。あの食堂で、ふたつの事件が起きてたっぽいんだよな」
「ふたつ?」
思いもよらない数に、全 紫釉は驚嘆する。
風に靡く銀髪を手で押さえ、彼に向かって微笑んだ。その姿は女神のように美しく、花とすら思える儚さがある。
「……っ!? そ、そうなんだよ。鼻血を流して倒れて女性と、姿の見えない店主の娘がいるんだってさ」
「……そう、なんですか?」
こてんと、小首を傾げた。細くて長い銀髪がさらりと揺れ、大きな瞳が彼を捉える。
「……んん! 好っ!」
爛 梓豪は両手で顔を隠した。しどろもどろになって全 紫釉から視線を逸らせば、耳の先まで赤染めている。
「えっと……爛清、風邪でもひいたんですか?」
「え!? な、何でもないよ。うん!」
「本当ですか?」
彼の手に触れる。
すると、爛 梓豪は慌てながら数歩下がった。ぎこちなく笑っている。
「ご、ごめん阿釉、何か俺……ちょっと変かも」
たどたどしく微笑む様は、いつもの天真爛漫な姿とは似つかわしくなかった。リンゴのように真っ赤になった顔を隠しながら、全 紫釉と目を合わせることをしない。
かと思えば突然、触られた手を見つめながら火照った顔のまま「……んん!」と、悶えた。
「え? 爛清!?」
当の本人は、彼の不可解な行動に踊らされてしまう。いったいどうしたのかと、普段の落ち着きをなくした。何度も彼の名を呼び、しまいには大きな瞳でのぞきこむ。
すると……
「阿釉!」
「……え?」
突然、爛 梓豪が予想だにしなかった行動に出た。全 紫釉の腕をぐいっと引っぱり、そのまま細い体を抱きしめる。
「阿釉、俺……すごく、変なんだ! 阿釉を見るだけで、触れるだけで、心臓が早くなる。体が熱くなって、阿釉だけを見ていたいって思っちまう!」
この気持ちの正体がわからないらしく、たどたどしさを含みながら声を発した。
「……爛清」
──どうしよう。私も本当は、あなたに触れるだけで、心が温かくなる。あなたの笑顔を見ているだけで、全身が火照ってしまう。
抱きしめられた彼の男らしい腕に逆らうように、そっと離れた。爛 梓豪へ、美しく微笑み返す。
首を左右にふって、高鳴る心臓を隠す。バクバクと、全力疾走したときのような感覚に見舞われた。
秋風の少しだけ暖かい空気に身を預け、彼へと照れたままに向き合う。
「わ、私は、あなたのそれが何なのか。正直、わかりません」
未だに鳴りやまない鼓動を押さえようと、体の震えを堪えた。平常心を装い、ふふっと微笑する。そして深呼吸をし、真剣な面持ちになった。
「爛清、今やらねばならないことは何か。それを忘れないでください」
ふたりは、仙人へ昇進するための試験に挑んでいる。その最中に、理由や意味のわからない感情に振り回されたくない。
全 紫釉は、心の奥に芽生えた不思議な感情に蓋をしていった。
そしてそれは彼も同じなようで、瞼を閉じては肩をすくませている。ははっと笑い、全 紫釉の両肩を何度か軽くたたいた。
「うん。そう、だな。俺らがやらなきゃならないのは、試験に挑むことだ」
「はい」
ふたりは頷きあう。そして本来の目的へと戻るように、櫓の頂上から街を眺めた。
ざあー……
高くて青い空に、色とりどりの花びらが舞う。
「……それじゃあ阿釉、お互いが見つけたものを話し合おうぜ?」
全 紫釉よりも頭ひとつぶんほど高い背の彼は、隣で大きく深呼吸をした。人好きのする笑顔を絶やさず、瞳だけを細める。
「俺が聞いた話はこうだ。さんにんの子供たちを女手ひとりで育てていた女性が、ある日突然鼻血を流して倒れてしまった。その後は意識すら戻らず、亡くなったそうだ。ただ、遺体の口の周りには黒い液体みたいなのがついてたって話だ。で、その液体から甘い香りがしたそうだぞ」
櫓を支える柱に背中を預け、両腕を組んだ。直前までの飄々とした様子はなく、神妙な面持ちになっている。
全 紫釉は風に遊ばれる銀髪を押さえた。彼に背を向け、別の柱に手を触れる。木製の櫓は真新く、木の香りがした。
そのことに頬を少しだけ緩ませ、大きな瞳で瞬きする。
「私が集めてきた情報も、似たような感じです。ただ、気になることもあります」
「うん?」
爛 梓豪が柱から背を離したとき、全 紫釉が袖から白い布を取り出した。
彼にそれは何かと尋ねられるが、全 紫釉は無言で布を広げていく。広げた布の上には、ひとつの黄色い小さな粒があった。
「何だ、これ?」
興味津々に、布へ顔を近づける。瞬間、彼は唐突に鼻を押さえた。
「うっ! 何か、変な匂いがするんだけど!?」
どうやら爛 梓豪は、この香りが苦手なよう。顔色を悪くしながら、布から離れてしまった。吐き気とまではいかないものの、それでも好めない香りだと断言する。
全 紫釉は苦く笑い、粒の表面を軽くつついた。コツッという音がすることから、それなりに硬いのだろう。中身も詰まっているんだろうなと、何度もつついた。
「あ、阿釉、それは?」
「……これは、カカオの実と言います」
「か、カオ?」
聞いたことがなかった名なのか、彼はいつになく幼い表情で小首を傾げている。
そんな彼を物珍しく思い、クスッと微笑した。
「異国のお菓子を作るために必要な材料だそうです。チョコレートという、甘いお菓子だそうですよ」
「あ、あまーいお菓子、かぁ……」
欲望に忠実な彼は、チョコレートの味を想像しているよう。頬を緩ませ、ヨダレを溢していた。
「……言っておきますが、このままでは食べれませんよ?」
「え!? そうなの!?」
「はい。このカカオは高温の熱帯でしか、生息していません。簡単に言うと、輸入品です」
その場に正座する。
爛 梓豪も習うように、胡座をかいて腰を落ち着かせた。
「詳しい製造方法などは関係ないと思うので、今回は省いていきます」
懐から小刀を取り出す。カカオを半分に切り、中身の白い実を摘出した。それを彼へと渡し、食べてみてと懇願する。
カカオの匂いが苦手な爛 梓豪は鼻を摘みながらも、口を開けて放りこむ。
「…………っ!? ……んん? ……? えっと……何か、つぶつぶした食感だな。果物みたいな甘い感じと変な酸味があって、何とも言えないような……ってか、お菓子って呼べるほど甘くないぞ?」
胡座をかきながら腕組みをする。うーんと唸り、聞いていた話と違うことを問いかけた。
「カカオはこの白い実だけを使います。これを発酵させることによって、甘いチョコレートというものになります。砂糖で調整すれば、もっと甘くもなりますよ?」
「え!? 本当!?」
苦手な匂いだということを忘れ、彼は無邪気に喜んでいる。けれどすぐにハタっと動きをとめた。全 紫釉を見ては、何度めかの腕組みをする。
「えっと阿釉、これと女性が鼻血を流して倒れたってやつと、どう関係してくんの?」
「……このカカオは、禿という國では馴染みがありません。知らない人の方が多いぐらいです」
「だろうなぁ。俺も知らなかったし」
味が癖になったようで、もう少しくれよとねだった。けれど全 紫釉は首を左右にふり、駄目だと強く口にする。
「このカカオは食べ過ぎると鼻血を出して、中毒症状を起こしやすい。最悪……」
「……え?」
茶化すこともなく、ただ、爛 梓豪へと真向かった。
「死にいたります──」