闇に潜む者と仔猫
全 紫釉の前に突然現れた姿ない者は、彼を心配するかのように語りだした。
「あのお方だけではありません。わたくしめも、他の者たちも皆、若様をご心配なさっているのです」
建物と建物の間にある暗闇から聞こえる嗄れた声は、ため息を混ぜていく。衣が擦れる音をさせながら、低姿勢で話を続けた。
「……わかっています。あなたも、父上も、私を心配していることを。でも私はもう、子供じゃありません」
被っていた黒い布を取り、美しい顔を見せる。太陽に透けるほどの輝きを持つ銀髪を風に遊ばせながら、手で静かに押さえた。
暗闇を注視しては睨む。
「大人の庇護が必要な子供は、もういないんです。私は大人になったのですから、いつまでも見守る必要はないと思いますけど?」
「ほっほっほっ。若、親からすれば子供はいつまでたっても子供なのですよ。それ以前に、若は体があまり強くありません。霊力の発作を起こしてしまわないか……あのお方は、それをご心配なさっているのですよ」
全 紫釉の睨みすら堪えていないようで、嗄れた声の主は軽く笑っていた。けれどすぐにその笑いは消え、重たい声に変わる。
「若、あのお方からのご伝言です」
「父上から?」
眉をピクリとさせた。暗闇へと振り向き、こてんっと、小首を傾げる。すると暗闇から「若は相変わらずですなぁ」と、苦笑いのような声が聞こえてきた。
彼は意味がわからないと、キョトンとする。
「……若、よーくお聞きくださいませ。あのお方は確かに、若を自由にさせています。無駄に甘いのも変わりませんが。それが災いして、とんでもないことを言い出されたのです」
「とんでもないこと?」
──國を治める父上が言うぐらいだ。きっと、とても重要なことなのだろう。
覚悟を決めて、嗄れた声に耳を傾けた。
「修行して、世の中を知って成長することはいいことだ。けれど、お前が怪我をするようなことがあっては困る。もしもそうなったら……」
瞬間、周囲の空気が一気に変わる。青空はなくなり、雷が飛来するほどの悪天候になっていった。
そんな天候に上乗せするのは嗄れた声だ。
「──人間たちとの全面戦争も辞さない、と」
まるで彼らの会話を邪魔するかのように、雷がそばにある木へと落ちていく。周囲の人々は雷を恐れ、家の中へと隠れてしまった。
けれど彼らはまったく気にする様子はなく、互いに探り合うように視線を交わす。
「……私からも、父上へ伝言があります」
「わかりました。お伝えしておきましょう」
嗄れた声の主が、足だけを明るい場所へ出した。磨かれた茶色い靴だ。
それを見つめながら、全 紫釉は大袈裟にため息をつく。
「修行や試験には、怪我が付き物です。ましてや、仙人の昇進試験となると尚更。それなのに怪我をするなというのは、無理がありますよ」
はははと、から笑いした。しかし目は笑ってはおらず、据わっている。
靴しか見えぬ者は「わ、若、押さえてください」と、慌てていた。
「もしも……もしも本当に、人間たちと全面戦争なんてしようものなら……」
瞬間、全 紫釉の足元が蒼く輝く。やがて地面から蒼い花が顔を出し、一斉に咲いた。
全 紫釉はそれを当たり前のように受けとめながら、最後の一言を放つ。
「二度と、口、聞きませんので」
静かながらに、内に秘めた怒りを爆発させた。元々赤かった瞳をさらに深い色へ塗っていく。ぎらついた眼差しで相手の靴を見ては、妖艶な吐息を溢した。
「そう、伝えてください」
「……それ、絶対にあのお方、絶望なさいますよ?」
そう言いながら、嗄れた声はその場から遠さがっていく。
声の主の気配が消えたのを察知し、彼は嘆息した。そのとき──
「みゃーお」
「……ん?」
どこからともなく猫の鳴き声がする。
鳴き声の正体を探しながら凍りついていた空気を戻し、指を鳴らした。すると蒼い花が淡い蛍火となって消えていく。
そして一番近くにある屋根を見上げた。
「みゃお」
するとそこには、白い毛並みに黒の横縞模様が入った猫が佇んでいる。猫は全 紫釉と目を合わせるなり、勢いよく屋根から飛び降りた。
そして、飛び降りた先にいる彼の腕の中へと収まる。
もふっとした毛並みの猫は、まだ子供のよう。大きな眼は青く美しく、キラキラと期待に満ちていた。長い尻尾をふりふりとさせながら、全 紫釉に甘える。
「え!? 牡丹!? 何でここに!?」
牡丹と呼ばれた仔猫は、にゃあにゃあ鳴いていた。小さな鼻をふんふんさせながら、彼の頬を舐める。
「あはは。くすぐったいよ」
仔猫のもふもふとした毛並みと、つぶらな眼が彼の警戒心を解いていった。仔猫と一緒になって笑い、ギュッと抱きしめる。
桃色の肉球が見えると、迷わずぷにぷにした。
「はあー。牡丹は可愛いねぇー」
すべてが愛らしい。頬を最大限まで緩めながら、そう口にした。
しばらくして仔猫を地へと降ろす。膝を曲げて仔猫の頭を撫でながら、もう一度笑顔になった。
「牡丹、どうしてここに?」
──この子は、実家に置いてきてしまったんだよね。試験を受けるにあたって、動物の参加は認められないだろうし。
できることなら一緒にいたい。
仔猫の両脇へと手を入れ、ギュッと包容した。
「……今度、叔父上に聞いてみようかな。どう思う?」
「みゃう?」
尻尾をふりながら小首を傾げる様は、まさに小動物のよう。全 紫釉はそのかわいさに我慢ならなくなり、仔猫のお腹をすーはーし始めた。
そのとき、ふと、仔猫の香りに違和感を覚える。顔を離して仔猫を見れば、毛並みのあちこちに茶色い泥のようなものがついていた。
「牡丹、何をつけてきたの?」
顎に手を当て、小首を左に傾ける。
──この匂い……カカオに似ている。
なぜ、関係のない仔猫が体にそのようなものをくっつけているのか。それが不思議でならなかった。
「……ねえ牡丹、お前は、どこで遊んでいたの?」
次の瞬間、牡丹が身体を大きくぶるぶるさせる。すると仔猫の身体から、一粒のカカオが落ちた。
彼はそれを拾い、子供と交互に見つめる。
「やっぱりカカオだ。どうして……あっ!」
考える余裕など与えないといった様子で、仔猫は走りだした。途中でとまり、全 紫釉へと振り返る。
彼はそれを着いてきてという合図であると悟り、仔猫に誘われながら走っていった。