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公私宴  作者: はんすけ
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第8話 慈詠拳

 2回表、鳥取県選挙区代表の攻撃。6番打者、松田、見逃し三振。7番打者、蟹江、見逃し三振。8番打者、楽境、見逃し三振。この回、諸星の投球数はわずか9だった。

 「打てるわけがないじゃろう」楽境の弁である。「160マイルだもの」

 そうして、すぐさまマウンドへ戻ることとなった真田。対峙するは、高知県選挙区代表の4番打者、狩谷。

 「野郎、素人以下か」

 真田の言葉通り、狩谷はグリップの持ち手が逆だった。

 「涼しい顔しやがって」

 それもまた、言葉通りだった。

 右打席で奏でられる口笛。シンディ・ローパーのTrue Colors。

 真田が、球を放った。カットボールは、暴投。

 次は、ストレート。これも大きく外れる。

 「いいよね、スポーツは」返球する漢咲に、狩谷が話しかけた。「球を投げたり、蹴ったり、打ったり、そんなことで充足感を得られるんだから」

 「人類の偉大な発明の一つです」

 「僕もね、高校生の頃、バレーボールをやろうとしたんだ。当時、ハイキュー!! っていう漫画の連載がスタートして、その影響でね。ちなみに、推しは影山くん」

 「なぜ、やらなかったのですか?」

 「家の事情。詳しく聞きたい?」

 「何をくっちゃべってやがる!?」二人の会話を真田が遮った。「打席は戦場! 憩いの場じゃねえ!」

 狩谷は肩をすくめて見せた。それで一層、かっかする真田。

 先の二球とも、すっぽ抜けではなかった。わざと大きく外したわけでもない。ストライクゾーン目掛けて投げて、投球フォームもリリースも完璧で、しかし制球が乱れた、不可解。不可解ゆえに、かっかする。

 彼を知り己を知れば百戦殆からず、とは孫氏の言葉である。これを、真田は実践すべきだった。狩谷の強さを認知し、己の恐怖心をも認知すべきだったのだ。生来の負けん気で、事実と向き合えなかったことが、敗因。そう、勝敗は既に決している。シマウマがライオンを恐れるように、無意識レベルで勝負を避けているのだから、勝ち目なんてない。

 何の打開策も講じぬままに投じた三球目は、狩谷の後頭部すれすれを通過した。

 「哲さん! リラックス! リラックス!」

 そんな海原の声も、真田の耳には届いていない。そうして、必然、四球目も明後日の方向へ飛んでいった。

 長い脚で、悠々と一塁へ向かう。さながらランウェイ。そんな狩谷を横目でにらみ、真田は己の短い腿を全力でたたいた。

 「また至近距離だね」一塁ベースを踏んで、そのまま止まらず、二塁へと歩いていく。「もう一度、捕まえられるかな?」

 虚を突かれた後、ハッとして、大原は狩谷の両肘に手を伸ばした。拘束手段の一つヒューマンキャッチャー、その初動である。

 背後での出来事である以上、狩谷に大原の初動を目視する術はなかった。それでも、無回転の後ろ蹴りを完璧なタイミングで合わせていく。挑発は、このための布石だった。

 腹部に受けた衝撃で、大原は2メートルほど吹き飛び、悶えた。

 狩谷は進塁を続けた。フォアボールはボールインプレイなので、ルールに則った動きだ。そうして、公私宴は走塁妨害に対して、寛容。狩谷の眼前に立ちふさがるのは、皆野。

 「どいてくれない?」狩谷は冷ややかに言った。「青臭いのは趣味じゃないんだ」

 怒髪天を衝くとは言い得て妙で、ポンパドールの毛先はポマードの力に打ち勝ち、逆立っていた。

 「殺すぞ」14歳ばなれしたメンチ切り。「クソが」

 「殺してみなよ。クソが」

 「やめろ、未来!」と大原が叫んだ時にはもう、皆野は右ストレートを繰り出していた。

 時速200キロを超える拳。プロボクサーのジャブと比較してさえ4倍ほど速い。そんなストレートに対して、狩谷は回避もカウンターも選択せず、シャドウボクシング同然の気負いのなさで、ジャブを放った。

 時速500キロを超える右のジャブは、文字通り一瞬で、皆野の顎を射抜いた。

 鼻先で止まった拳が、痙攣し、垂れる。

 前のめりに倒れたのは、意識が消えるよりも先だった。

 「未来!」

 駆け寄ろうとして、しかし腹部の激痛から、大原は這うことしかできなかった。

 「寝てろ。ガキ」

 苦虫を噛みつぶしたように言って、狩谷は汗を拭った。

 「あんちゃんよ」

 呼ばれて、怒れる中年を瞳に映し、狩谷の表情は和らいだ。

 「仲間、二人もやられたらよ」煮えたぎるマグマを思わせる声で、真田は言った。「生かしちゃおけねえ」

 仲間は自分の命より重い・・・・! それがヤンキーの鉄則。元ヤンであっても、染み付いた習性はそうそう消えたりしない。無意識レベルの恐怖さえ振り切って、ステゴロの腹はもう、決まっていた。

 「素敵。こうでなくちゃ」

 恍惚とした声を出して、すぐ、狩谷は横目で二つの靴底を認めた。海原のドロップキックだ。

 当然、真田もドロップキックを目にしていた。そうして生じた、弛緩。タイマン以外の喧嘩は邪道であるという思想、狩谷が海原の動きを視認していると認知した思考、それらが闘志を削いだのだ。

 一瞬の隙を見逃さず、狩谷は右足を蹴り上げた。

 ドロップキックを無視して自分に攻撃してくるなどとは夢にも思わなかった。それ故に、股ぐらを襲った衝撃を、最初、真田は感じ得なかった。

 時間差で激痛がやってきて、吹き出した絶叫は、大城山の麓まで届いた。

 真田が膝から崩れ落ちる、それより先に、海原の両足は狩谷の右肩に届いていた。

 骨を砕く確信が、海原にはあった。しかし触感は水たまりで跳ねたよう。それもそのはず、狩谷は蹴り上げた足を勢いそのまま水平に動かし、上体をひねっていたのだ。

 バレエのフェッテを思わせる動きで衝撃を逃がし、右肩のダメージはほぼゼロ。そうして、回転の最中に海原の呆気に取られた顔を見つけて、狩谷は満面の笑みを浮かべた。

 まだ空中にある海原の体、その腰に向かって左手を振り下ろす。回転が、攻撃の威力を増していた。

 地面に激しく叩き付けられ、腰へのダメージも相まって、海原が上げた悲鳴はひたすらに悲痛だった。

 ほんの20秒足らずで四人を倒し、息を乱すことさえなく、再び歩き始める。

 「君はどうする?」二塁ベースを蹴って、狩谷は松田に尋ねた。「やっとく?」

 「やめておく」さらっと答える。「100パーセント勝てないからな」

 数秒、間を置いてから、狩谷は松田に顔を寄せた。

 「それ、どっちの意味?」

 虹彩の動きさえ見て取れる距離でにらみ合い、それでも両者ともに眉一つ動かさない。

 「まいったね。僕の目もまだまだ節穴」

 そう言って、狩谷は笑いながら三塁へと向かった。

 笑い声が近付いてきて、優崎は数歩、退いた。三塁ベースはすんなりと蹂躙された。

 眼鏡のレンズに瞬く真っ白なうなじ、そこに攻撃を加える覚悟を決めるも、気念で出来たハンコを持つ右手は隠れたまま、動かない。大原を悶絶させた無回転の後ろ蹴り、その記憶が鮮明であること以上に、脳裏に浮かぶ恐ろしいイメージで、動けない。

 攻撃を仕掛けた刹那、手首を切断される、イメージ・・・・・・。

 過呼吸のように乱れた息で、眼鏡は曇った。

 「賢明だよ、おじ様」振り向かず、言った。「わざわざ痛い思いなんて、しなくていい」

 優崎の失意を感じ取ってから、狩谷は香水の瓶を取り出し、首筋に香をまとわせた。

 「僕のお気に入り、ジルスチュアート、エンドノートは妖艶なオリエンタル」歩が、速まる。もう、前方の漢咲しか意識していない。「気に入ってくれるかな?」

 ホームベースから狩谷までの距離、残り10メートル。その間に立つ漢咲は、何の構えもなく、表情さえ無であった。

 「このためにお前を雇ったんだ、狩谷! 漢咲を殺せ!」ダッグアウトで、下劣が叫んだ。「この試合、勝利するだけでは俺の次期ポストも副大臣止まり! しかし、国滅総理の怨敵、漢咲のタマを取ったとあれば、一足飛びで大臣よ!」

 「メインディッシュには早すぎるけれど・・・・・・」狩谷は、昇天するかのように相貌を乱した。「我慢できないんだもん!」

 前蹴り、そのつま先がぎりぎり届く距離で、狩谷は右ひざを大袈裟に突き出した。フェイント、しかし漢咲は無反応。

 無反応を見て取った、刹那に、香水の瓶を投げ付ける。それは額に命中した。

 ガラス片が飛び散り、滴る香水が目に入った。それでも漢咲、微塵も動じず、瞬きすらしない。

 狩谷が更に間合いを詰めた。そうして放たれる、右のジャブ。安定の時速500キロ越え。

 拳と顎が、間に土佐典具帖紙すら挟めない距離まで接近して、ようやく、漢咲が動いた。右手を振り上げる。光が止まって見えるほどの速さだ。

 手応えを得られぬままに右の拳を払いのけられて、一瞬、驚愕するも、すぐに狂気の色は強まった。

 左のストレートが飛び出す。顔を打つ、寸前、また払いのけられる。

 奇声を上げ、ひざ蹴り。またまた払いのけられる。ならばとローキック。それは足で払いのけられる。

 十秒間、狩谷は攻撃を続けた。計10000発の打撃が繰り出される過激な十秒間。ここまでしてさえ、ノーヒット。

 延々と炸裂しない暴力で、過剰に分泌されていたアドレナリンも薄まった。無我夢中に思考が生じる。左のフックからつなげる右のアッパーが、躊躇で遅れる。その瞬間を見逃さない漢咲。防御に一度も用いなかった左手を突き出す。

 迫りくるキャッチャーミット。そこにはしっかりと球が収まっている。触れられれば、タッチアウト。不幸中の幸い、思考を取り戻していた脳はカウンターを選択せず、回避の指示を肢体に送った。

 余裕など皆無で、回避は後方に身を投げる形となった。

 尻も、両の手の平も地面に着けて、狩谷は漢咲を見上げた。

 逆光の作る暗がりが、強大な像を際立てる。

 「キャッチャーミットとボールの重さ分、初速が遅かった」尻を地面に着けたままで、狩谷は後退った。「そうでなければ、左手は僕の体に届いていた」

 谷風に乗って、若いウソが天高く飛翔した。笛の音に似た鳴き声が空気を震わせる。抜け落ちた羽毛がひらひらと舞った。

 「信じられない光景じゃった」皆野たちを介抱していた楽境が、言った。「攻撃を全て防いだ上で、タッチアウトまで狙うとは。それも、何の構えもないままに・・・・・・」

 「実在したのか」蟹江の冷や汗が、海原の首筋を濡らした。「構えという概念すら存在しない、慈詠拳」

 「慈詠拳とは」真田の臀部をとんとんと叩く優崎が、言った。「一体、何です?」

 「公私宴法による最初の総理大臣、法条守が編み出したとされる武術体系です」答える蟹江。「専守防衛の精神を落とし込んだ無手を宗とするカウンターオンリー」

 「自衛を乱すは己自身」松田がつぶやいた。「構えもまた先制攻撃なり」

 「1956年、日本の国際連合への加盟に伴い法条守が出した声明・・・・・・」蟹江は眼鏡の位置を直した。「孤独な平和への訴え、世界がそう呼んだ声明の一節ですね」

 「私は、おこがましい話ですが、それなりの教育を受けてきています。しかし、慈詠拳などという言葉は今日まで一度も耳にしたことがない。一国の総理大臣が編み出したとされるものが、こんなにも認知されていないのは、不自然です」

 「政治家が己を律するために会得する武術として考案された慈詠拳は、1946年の法条内閣発足から1955年までの間、与野党問わず多くの政治家に嗜まれたと、非公式な記録には残っています」再び、優崎の疑問に答える蟹江。「しかし、法条守が党首を務める沈悪党と沈悪党から離脱した情念寺暁が党首を務める善没党が合同し沈没党を結党、以降は脱法条守の流れから慈詠拳も廃れていく。更には、1958年、沈没党の胡麻売男が総理大臣に就任、法条派の排除と法条守に関する情報の隠ぺいが始まり、慈詠拳は法条守もろとも歴史の闇に埋もれていった」

 「慈詠拳、ね」狩谷が、立ち上がった。「地獄耳だから、聞こえちゃった」

 「力の本質を知るは力を持つ者の義務。力とは行使されないことが前提であるべきもの」構えのないままで、漢咲は言った。「慈詠拳とは、そういうものです」

 「それっぽい綺麗事を真顔で言っちゃって。かわいい」朗らかに笑って、それから、気念を発する。「武術とは、力とは、他を殺めてなんぼのもの。そうでしょ」

 気念が、狩谷の両手の指先から肘までを濃紺に染めた。日本刀、その刃に見る青よりも、暗い。

 ひらひらと落ちてきた羽毛を目掛けて、右手を振り上げる。羽毛は、淀みのない断面を覗かせて、真っ二つになった。

 「僕の両手は切り裂きジャック(シリアルカット)」

 「手から肘にかけて、もはや触れることすら出来ませんね」漢咲は、キャッチャーミットを球ごと地に落とした。「払いのけることは、不可能。勝負は、一手で決する」

 その認識は正しかった。ロケットランチャーを用いての早撃ち勝負と同等の緊張感が漂う。

 狩谷が、歩き出した。ゆらゆらと上体を振りながら。

 前蹴りの届く距離まで、近付いた。そうして、体を沈める。吉田沙保里氏の高速タックルに似た動きだ。一瞬で、間合いが縮まる。

 狙いは、右脚。腿を切断するべく、左手を振る。カウンターの膝蹴りに対応できるよう、右手は顔の前。万全を、狩谷は自覚していた。

 過去、何度も切ってきた人の肉。そのどれもこれもが粗悪な肉体で、切った感覚は全て、最悪だった。邪な硬さには、もう、辟易している。しかし、この漢咲の腿といったら、まるで肉質等級5ランク。神戸牛と見紛うほど。絶品であることに疑いの余地なし。

 ズボン越しにも美味を見て取って、興奮は極まった。刹那、それにさえ満たない時のなかで、狩谷は絶頂を迎えた。

 左手が、腿に触れた。ズボンが裂けて、血がにじむ。後は、切り進めるだけ・・・・・・切り進めるだけ・・・・・・切り、進まない?

 肉体が動かなくなっていることを、脳は遅れて理解した。理解して、ようやく感じる、頭頂部の痛み。

 「ずるい人」薄れていく意識のなかで、狩谷はつぶやいた。「本気を隠していたなんて」

 「何が・・・・・・」漢咲の足下に倒れた狩谷を見詰めながら、蟹江が言った。「起きた?」

 「漢咲さんが、攻撃をした?」腿に血がにじむ、その前後で肢体の位置に全く変化のない漢咲が、優崎の眼鏡に映る全てだった。「そういう、こと?」

 「拳を脳天に振り下ろしたんだ」松田が冷や汗を拭った。「狩谷も無警戒だった。最初の攻防で何度も攻撃を払いのけられた狩谷は、漢咲さんのスピードを把握していた。低い体勢の自分に対して、膝蹴り以外の反撃は間に合わないと理解していた」

 「拳を振り下ろす、それを打撃として成立させるためには、当たり前の話じゃが、一度拳を振り上げる必要がある。予備動作を必要とする動きは念頭に置く必要がなかった、と」

 「その通りです」松田は楽境の声に相づちを打った。「しかし、漢咲さんは最初の攻防よりも遥かに速く動いた。結果、無防備な頭頂部に攻撃がクリーンヒットした」

 球を包んだままのキャッチャーミットを、漢咲は拾い、はめた。その左手で、狩谷の背中にそっと触れる。球審が、「アウト!」と叫んだ。

 格闘技のみならず、ありとあらゆるスポーツ、音楽、演劇、エトセトラにおける素晴らしいパフォーマンスは静寂の呼び水となるのが常で、この時も例に漏れず、10秒ほど、公私宴球場はマイナス9.4デシベル相当の空間に変貌した。

 自身の血流、その音調すら聞き分けられる環境で、下劣は、ぐつぐつ、という音を認知した。認知したらもう、血が沸騰しているのだと理解するまでに時間はかからなかった。俺様は激怒している、俺様は激怒している!

 そうして、静寂は破られた。

 「狩谷! この役立たず! 法外な額の前金を受け取っておいて、この様か! その前金、何の金か分かっているのか!? 俺様が汗水たらして稼いだ金だ! 無数の小口で49999円ずつをせっせと得て、必死に大きくした金だ! 払った金、返せよ!」

 日本史に残るレベルの怒声は気付けに十分で、意識を取り戻した狩谷は、素早く立ち上がり、後方に大きく跳んだ。

 向き合って、狩谷は微笑みを漢咲に見せた。

 「どれくらい落ちてた?」

 「20秒ほどです」漢咲も微笑んだ。「体の具合は、どうです?」

 頭頂部に手を当てた狩谷は、「やだ! こぶが出来ちゃってる!」と高い声ではしゃいだ。

 「骨折の心配はありません。そこまでの手応えはなかった」漢咲は、一二塁間に向かって歩き出した。「よく冷やすことです」

 何の躊躇もなく背を向けられた、その事実に、自尊心は傷付いた。

 『僕はもう敵に値しないと?』

 背後から心臓を刺し貫くことなど、容易。殺し屋なのだから当然だ。そうだというのに、踏み込めない。はじめの一歩さえ、踏み出せない。

 本能に、恐怖が刻み込まれていた。

 遠ざかっていく背中に向けて放つことが出来たのは、唯一、嘆息だけ・・・・・・。

 漢咲と背中合わせになって、狩谷はダッグアウトへと歩いていった。

 「どのツラ下げて戻ってきた、狩谷!」ダッグアウトから身を乗り出し、下劣は叫んだ。「漢咲のタマを取る、そういう契約だろう!」

 下劣の脇を素通りし、ベンチに腰を下ろす。

 「タマを取る、契約だろう!?」

 「高知県選挙区代表として公私宴に出場する、そういう契約だよ。漢咲さんのタマをどうこうする話は、あくまでインセンティブさ」

 言われて、わなわなと震える。いつだって、出し抜く側だった。下劣と胡麻の名を笠に着て、法を盾にして、道徳を無視した口八丁手八丁で、利益を貪ってきた。損、などとは無縁の人生。その順風満帆と、領収書を廃する政治家のメンタリティが、口約束などという不安定な契約に対する警戒心を削いでいた。

 口約束、であるならば、後金をちょろまかすことも可能だ。しかし、既に膨大な前金を払ってしまっている以上、負うリスクに勝るリターンは得られない。漢咲と狩谷の実力差が明白になった今、損切りすら不要で、損失は確定している。

 わなわなと震えて、震えて、自ずと、涙がにじんだ。

 「金を返してください。俺様の金を返してください」

 「納税みたいなものでしょ」

 淀みない声とは裏腹に、胸中はドロドロの感情で満ちていた。下劣など眼中になく、唯々、漢咲だけを見詰めながら。

 愛と憎しみはコインの裏表、簡単に裏返る。失神させられた屈辱、止めを刺されなかった侮辱、そうして、背を向けられた恥辱・・・・・・。

 『野球が団体競技でよかった』そう思い、狩谷は笑みを歪めた。『この試合に負けたとき、あなたがどんな顔をするのか、楽しみだよ、漢咲さん』

 悲しいかな、情念とは常に一方通行。狩谷から漢咲へ、漢咲から皆野へ、視線は注がれていた。

 「状態は?」皆野のそばで屈み、言った。「どうなのでしょうか?」

 「大丈夫じゃよ、漢咲さん。みんな、命に別状はない。皆野君も、脳から出血していたが、儂の気念で完治した。直に意識も戻るじゃろう」

 安堵の息がもれたのと、閉じていた目が開いたのは、同時だった。

 皆野は、上体を起こし、大原の顔を見て、楽境の顔を見て、それから、漢咲の顔を見た。

 「あのクソ野郎は、どうした?」

 「アウトにしました」

 「あんたが、やったんだな」

 首を縦に振られて、皆野は地面に拳を振り下ろした。

 舞い上がった砂が、男たちの汗を汚した。

 「そんなに悔しがらなくてもいいじゃない、未来っち」腰をさすりながら、海原が言った。「化け物なんだから、二人とも・・・・・・ああ! すいません、漢咲さん! 化け物って、いい意味でっす!」

 「謝らなくても大丈夫ですよ」漢咲は朗らかに笑い、立ち上がった。「海原さん、大原さん、あなたたちも大事に至らなくてよかった。後、気掛かりなのは、真田さん・・・・・・」

 「大丈夫だ、問題ない」真田の声は、凛としていた。「俺もまだ戦える」

 勇ましいまでの仁王立ち、しかしそれに向けられる仲間たちの眼差しは、憂いに満ちていた。

 「哲さん」重苦しい雰囲気に耐え兼ねて、海原は言った。「まるっきり、タヌキじゃないっすか」

 タヌキとは言い得て妙で、ソフトボール大にまで腫れ上がった睾丸は、ユニフォームパンツに悲痛なフォルムを描いていた。

 「大丈夫だ、問題ない」脂汗を汗で隠して、言った。「放っておけば直ぐに治る」

 「楽境さん。あなたの気念で真田さんの腫れを治せませんか?」

 「無理じゃ」優崎の問いに、即答する。「こればかりは手に負えん」

 「大丈夫だ、問題ない! 何度も言わすな!」激痛が潤滑油となって、すんなりとキレた。「いつまでもダラダラしやがって! 全員、さっさと守備に戻れ! 試合はまだ終わってねぇ!」

 何を言ったかではなく誰が言ったかで判断を決してしまう、人間の愚かしいサガ。睾丸がソフトボールと化した中年に命じられて、逆らう者は誰一人いなかった。

 そうして、プレイ再開。真田が相対するのは、高知県選挙区代表の5番打者、後藤颯太、29歳。例によって例のごとく、彼も妻を龍河洞再教育収容所に収容されていた。

 真田が、振りかぶり、足を上げた。腿が睾丸を擦って、常軌を逸した痛みに襲われるも、マサカリ投法たらしめるフォームは微塵も崩さない。昭和生まれの平成育ち、根性論の爪痕はまだ、残っていた。

 インハイの、スライダー。えげつない初球。例によって例のごとく、後藤も野球の素人だ。それでも、消防士として培った身体能力で、胸元に迫ってくる球を上手に流す。

 打球は、内野席に突き刺さった。

 二球目、またもや完璧なマサカリ投法。激痛、からのストレート。これも流し打ちで、ファール。

 ここからの八球も、地獄絵図だった。全力投球を次々とカットされる、エンドレスエイト。諄いようだが、地獄絵図だった。

 「まずいよ、哲さん」後姿からでさえ、真田の異常を視認できるようになった海原だった。「腫れ半端ないって」

 明けない夜はない、とは幾度となく使い回されて擦れ切った言葉だ。しかし、真理は真理。十一球目、放ったカーブはファールライン上を飛ぶライナーの呼び水となり、優崎のダイレクトキャッチを以てして、真理の証明となるのだった。

 塁審のアウトコールよりも先に、真田は叫んでいた。

 「サー!」現役時代の福原愛氏を彷彿とさせる叫びだった。「サー!」

 「ツーアウト、ツーアウト、ツーアウト!」良心の呵責から、優崎は口早だった。「あと一つで休めます! 真田さん!」

 滝のように流れる汗が、全て脂汗に変わっていた。睾丸はショート寸前、今すぐ休まないと。

 ブレイクタイムへのラストスパートを拠りどころとした胆力で、真田の眼光は右打席に立つ男を射抜いた。鳥取県選挙区代表の6番打者、中山権三、56歳。言うまでもなく、彼も息子夫婦を龍河洞再教育収容所に収容されている。

 中山の目は、氷のように冷たく、偏に、腫れた睾丸を見詰めていた。そんな様子に危険を察したのが、大原だ。交番勤務も2年目に突入し、事件が起こる気配は肌感覚で分かるようになっている。

 徐に、大原はピッチャー寄りに守備位置をシフトした。

 真田が、球を放った。逆境でこそ球速を増す、ハートに比例したストレート。しかし、腿が睾丸を避ける本能で、乱れたフォームはコントロールをも乱していた。

 バッティングセンター同然の、ど真ん中の時速130キロ。そんな球を投じる相手として、中山は最悪の存在だった。


 中山が林業を志したのは、14歳の春。学校の遠足で梶ヶ森に行ったことがきっかけだった。7合目までバスで移動し、そこから頂上までは徒歩という、さほどハードではない登山。登山である以上、リスクがゼロということはないが、それでも、生徒だけでなく学校側でさえ、遭難は想定していなかった。

 「ゴンさんがね、ああ、ゴンさんっていうのは、中山のあだ名です。権三だから、ゴンさん」そう話すのは、中山の当時のクラスメイト、藤枝昌宏だ。「8合目にある天文台を過ぎたあたりでね、ゴンさんがね、ふらふらっと、登山道を外れていったんです。オフサイド! オフサイド! ってね、俺や仲間が叫んで、ああ、ゴンさんはサッカー部だったんです。ガタイが良いのに敏捷で、センスも良くて、あのまま続けてたらプロになっていたんじゃないかな。まあ、とにかく、登山道を外れてね、ふらふら、ふらふらってね。そのまま林の中に消えていったんだい。まあ、そん時はね、大した騒ぎにもならなくて。あいつ帰っちゃったよ、って感じで、クラスメイトも担任も、軽い感じで。ゴンさんはね、普段からユーモアのある男だったからね、ウケ狙いだろってね。それで、ゴンさんをほったらかしたまま遠足は続行で、山頂まで行って。あの日は雲一つなくてね、景観が最高だったよ。四国の全てが一望できるんじゃないかっていうくらいにね。写真、当時はスマホなんてないからフィルムのね、使いきりカメラでね、撮りまくって。本当に、最高に楽しい遠足だったね。まあ、こんなこと、ゴンさんが無事だったから言えるんだけどね。ははは! ゴンさんにもしもの事があったら、最悪の遠足になっていたよ。ははは! そんなこんなでね、遠足は無事、無事じゃないか、とにかく、終わってね、学校に戻って、はい解散、ってなってね、それからですね、ゴンさんの親から息子が戻らないって学校に電話がきて、遭難じゃん! ってなったのは」

 藤枝の証言通り、中山の捜索が開始されたのは失踪から24時間が経過してからだった。

 「生きた心地がしませんでしたよ」そう話すのは、中山の当時の担任、松尾邦久だ。「保身ではなく、中山のことが本当に気掛かりで。中山、良い子でしたから。朝の会なんかで、ちゃんと目を見て挨拶してくれるような子は、あの子以外じゃ記憶にないですよ。本当に、気持ちの良い子だった。一週間くらいで、警察が捜索を打ち切って、マスコミに叩かれまくっていたのもあって、私、当時の短い間だけで、ほら、この通り、すっかり禿げちゃって。それだけ、本当に心を痛めていたんです。それで、私も責任を取りたくて、中山の失踪から一か月後、辞表を提出しようとしたんです。ちょうどその時ですよ、学校の私宛てに中山から封書が届いたのは。封書には手紙が二枚、入っていました。一枚は、退学届でした。中山らしい、本当に律儀ですよ。公立の中学校だっていうのに、退学届なんて。もう一枚には、ただ一言、こう書いてありました。俺は自然の中で生きる、と。私は、思いましたよ。どういうことだ? と。自然の中で生きるとは、中山、どういことだ? と。野人になるってことか? と。野人は岡野だろ? と。ああ、岡野っていうのは、サッカー部で中山とツートップを張ってた岡野です。私、当時はサッカー部の顧問もしてまして。いやぁ、本当に、無給で休日出勤当り前とか、我ながらよく我慢していたなぁ。地獄じゃん。もう二度とやりたくないですね。ははは! おっとっと、話が脱線しましたね。まあ、そういう訳で、中山の一言に疑問を抱いた私は、返事を書こうと思いましてね、差出人の住所を見てみたんです。ところが、梶ヶ森、って書いてあるだけで。これでは返事もくそも無いなと理解はしましたがね、それでも、担任として、いや、大人として、きちんと返事をしなければならないと、腹を決めましてね、懐に入れておいた辞表の裏に、自然の中で生きるとはどういうことだ、と書いて、そいつを梶ヶ森宛てで郵送したんです。心持ちとしては、ほとんどボトルメールでしたね。届くわけねえ、って。そしたら、びっくりすることに、返事が来たんですよ、これまた封書でね。そこには一言、こう記されていましたよ。林業で一生生計を立てるってことだ、ってね。そこに至ってようやく合点がいった私は、恥ずかしながら、泣いちゃいました。男泣きってやつです。すげえな中山、って。中山すげえな、って。だって、すげえじゃないですか。大学を出たって一生の仕事を見つけられない子がたくさんいるなかで、中山は中学二年生にして一生の仕事を見つけたんですよ。すげえよ。私だって、大学を出てから数年の間はいろんな仕事を転々として、教師になったのだって、そういえば教員免許を取ってたな、って思い出したからでしかなくて、結局、定年まで中学校の教師を続けましたが、イカれたクソガキどもに振り回される日々にはうんざりしていただけで、これが俺の一生の仕事なんだ! って胸を張って言えるようなことは一度だってなくて。そんなものなんです。そんなものだから、私は中山に感動して、そうして、もう一度、手紙を送ったんです。応援する、って、それだけを書いた手紙を・・・・・・思えば、それが私の教師人生で最高のムーブだったんだろうなぁ・・・・・・それにも返事をくれるんだから、中山って本当に人間ができている。ありがとうございます、ってそれだけが書かれた手紙は、今も私の宝物です」

 そんなこんなで始まった、中山の林業ライフ。森林率84パーセントを誇る高知県は、自然の中で生きる、という意思を体現するのに格好のフィールドだ。しかし、現実は甘くない。ミュージシャンを目指す中学生や小説家を目指す中学生が味わうのと同じだけの絶望を中山も味わうことになる。

 林業ライフ一日目、初っ端から味わった絶望は、金がない、というありふれたものだった。タワーマンション並の幹回りを持つ木がごまんと生える高知県で、重機も無しに林業なんて土台むりな話。そうだというのに、昨日まで中学生をやっていた中山が重機なんて買えるはずもなく、お年玉の残りを全て使って購入できたのは、マサカリ一丁、それだけだった。

 山菜で栄養を補充し、スギの葉を敷き詰めた寝床で心身を休ませる。上京したミュージシャン志望が三畳一間の下宿で味わう肉体的な苦痛よりも強烈で、親と同居する小説家志望が子供部屋で味わう精神的な苦痛よりも苛烈な、山中の苦痛。過酷だった。全ては金がない故に。

 山を下りよう、と思ったのは一度や二度じゃない。やっぱり進学しよう、と考え直したのも一度や二度じゃない。それでも、固執レベルの執念で自然界にしがみつき、一か月が過ぎ、半年が過ぎ、一年が過ぎ、三年が過ぎたころにはもう、人間界に思いをはせることはなくなっていた。

 その後もキャリアを重ねるなかで、中山の名は林業業界に知れ渡っていく。マサカリ一丁で全てをなぎ倒す姿から、ついた通り名は、マサカリのゴンさん。何の捻りもない、しかしその分かり易さが幸いして、認知度は加速度的に増し、大手企業から事業の委託を受けるほどに、中山の存在感は強まっていった。

 そうして、苦節10年、金がないという逆境は既に過去のもので、梶ヶ森の七合目に建てた住まいは、地元住民からマサカリ御殿と呼ばれる大層立派なものだった。十分にたんぱく質を摂取できる食事、疲労を根こそぎ取り除いてくれる寝床、キャリアをスタートさせた時分には想像もできなかった暮らし。満足していた。満足して、その余裕が、恋愛の呼び水となる。

 日韓共催のワールドカップ、その余韻が冷めやらぬ夏、森林保全ボランティアの講師を依頼されたソフトモヒカンの中山は、美しい女子大生と出会った。漫画やらドラマやらの影響で、恋愛感情は時と共に育まれていくものだと誤解されがちだが、リアル恋愛のテンプレートは一目惚れである。恋愛経験の少ない筆者だが、断言できる。現に、ほら、中山、女子大生に一目惚れ。顔だけで好きになる。

 思春期の真っ只中で山にこもった中山は、当然、恋愛経験なんて皆無だ。更に言うなら、プライベートの概念を捨て去った日々で林業という男社会に浸かり切ってきた故、女性と話すのも十年振りだ。それでは事が進まないのは火を見るよりも明らか。現に、ほら、中山、彼女をじっと見詰めるだけ。時間だけが過ぎていく。

 三日間を予定した間伐作業、そのタイムリミットがあっという間に過ぎて、別れの時、中山は意を決し、彼女を呼び止めた。そうして、手作りのブレスレットを無表情で差し出す。初々しい、緑色のドングリが輪を成す、トトロなら大喜び間違いなしの一品。

 彼女は、ブレスレットを受け取り、本心か社交辞令か判別の付かない礼を口にした。その瞬間に中山が抱いた恐怖の大きさは、筆舌に尽くし難い。中山だって14歳までは人間界に属していたのだ。人間の辛辣さは嫌というほど理解している。彼女が、帰りに立ち寄ったコンビニで、ブレスレットをごみ箱にシュート・・・・・・十分に、十分すぎるほどに有り得ること。しかし、奇跡はあった。彼女は、不器用なプレゼントさえ後生大事にしてくれる、優しい心の持ち主だったのだ。この殺伐とした世界でピュアな二人が出会った、これを奇跡と呼ばずして何を奇跡と呼ぶのか。

 「私と付き合ってください」

 そう彼女が言ってくれて、中山の恐怖は消え去り、後には愛情だけが残った。

 自然界に生きる中山、人間界に生きる彼女、遠距離恋愛ならぬ別世界恋愛がスタートするも、その先に待ち受けるドラマは漫画単行本にして30巻分にはなる波乱万丈なものだった。次から次へと訪れる恋の障害、幼馴染の美女、イケメン上司、農林水産省の回し者の美女、イケメン獣医、遭難した美女、イケメン不祥事アイドル、血縁のない妹(美女)、イケメン幼馴染、エトセトラ・・・・・・一緒に過ごせない時間に忍び寄る無数の誘惑。両者ともに、別れよう、と思ったのは一度や二度じゃない。それでも、純愛レベルの恋慕で互いにしがみつき、一年が過ぎ、二年が過ぎ、三年が過ぎ、五年が過ぎたころにはもう、婚姻届けは提出されていた。

 新婚ながらも別居生活、それでも実る愛の結晶。中山権三、30歳の夏、父親になる。目に入れても痛くない、かわいいかわいい一人息子。この子のためなら何でもする、という精神で、今まで以上に仕事に精が出る。加速度的に速まる時間の流れ、かわいい時分が過ぎ、生意気になった息子。一時は一言も口をきかなかった。高校二年生の夏でサッカーをやめて、途方に暮れた息子。そんな息子に真っ正面からぶつかっていった中山。結果、親子関係修復。建築の道を志した息子。馬鹿高い大学の学費は全て、用意してやった。そうして、卒業、高名な設計事務所に無事、就職。

 「お父さん。今まで本当に、ありがとうございました」

 そんな息子の言葉で、苦労の全てが報われた。抱き合う。抱き合って、巣立つ息子を見送り、未だに美しい彼女、妻とそっと手をつないだ。

 「世界一周旅行、行きたいね」妻が言った。「ここまで頑張ってきた自分たちへのご褒美」

 「いいね、それ」中山は満面の笑みを浮かべた。「それ、いいね」

 新たな目標が、仕事のモチベーションを保った。厳しい時代にありながらも、子供に掛かっていた分のお金で貯金は増やせた。夢に近付いていることが実感できる、充実した日々。幸せだった。幸せで、幸せで、世界一周旅行の資金も貯まったある日、幸せの絶頂を目前にして、妻は帰らぬ人となった。享年五十二歳。くも膜下出血だった。

 「苦痛を感じることはなかったでしょう」という医者の言葉と、「母さん、幸せそうな顔をしているね」という息子の言葉だけが、慰めだった。

 唐突に訪れた悲劇、そこから生じる虚無。世界一周旅行? それ自体には何の意味もない。妻が行きたいと言ったから、行こうとしたのだ。妻と一緒だから、行こうとしたのだ。一人では、何の意味もない。

 生きる理由を失い、同時に、働く理由も失った。マサカリ御殿のローンは完済しているし、息子の大学の学費は一括で払っている。山菜で食いつないでいくことが出来るのだから、これ以上びた一文、稼ぐ必要はない。それでも、マサカリを担いで森林へと入っていく。生きていくためでもない、子供を育てるためでもない、世界一周旅行に行くためでもない。なのにどうして働く? 分からない。分からないまま、無心でマサカリを振り続ける。それしか、出来なかった。

 初体験の、無の境地。積み重なっていく、無の境地。技巧という下地があるからこそ輝く、無の境地。技が極まるのは、必然だった。

 その日、中山が対峙したのは、幹回り5000メートル強のスギだった。百戦錬磨の中山でさえ、デカいな、と呟いてしまうほどの超大物。

 「化け物スギじゃ」木々の間から、ぼろを纏った老人が姿を見せ、言った。「四国四大巨木の一角、化け物スギじゃ」

 幹回り5000メートル強らしく、樹高も尋常じゃない。仮に伐採できたとしても、倒す方向を誤ったならば、災害クラスの大惨事だ。

 伐倒方向を誘導するために、伐採の三大不文律、受け口、追い口、クサビ、これらが準備されることはごくごく当たり前のこと。中山も、長いキャリアでこれらを怠ったことは一度もなかった。しかし、この時は、違った。

 全身に、力をこめた。筋肉が盛り上がり、都合よく、つなぎ服の上半身部分だけが弾け飛ぶ。

 「質感・・・・・・」ぼろを纏った老人は、半裸の中山を食い入るように見詰めながら、つぶやいた。「大きさ以上に、質感・・・・・・」

 ナチュラルな環境でナチュラルに育った筋肉、半端ないって。図らずとも芸術の域にまで達していた肉体は、垂れた朝露さえ弾いて、パワーを具現していた。

 マサカリを、強く握る。そうして、大きすぎるテイクバック。一振りで伐倒するという意図が露な、所作。

 「人死にが出るぞ!」暴挙を止めたい一心で、ぼろを纏った老人は叫んでいた。「麓の町で、大量に!」

 そんなことは言われるまでもなく分かっている。その上で、一振りで済ませるのだ。妻を失って自暴自棄になっている、という訳ではない。確信があるのだ。どの位置にどの角度で刃を入れればどの方向に倒れていくのか、はっきりと分かるのだ。こんなの初めて。だけど、イケると分かってる。イケるなら、全力で振り抜くっしょ!

 文字通りの、フルスイング。必然の、一刀両断。加工されたかのような断面を覗かせる化け物スギは、芸西村の人里から逸れつつ、葉むらを土佐湾で濡らした。この一件での死傷者は無し。後の世に言う、妙見山の歓喜であった。


 ことスイングにおいて、中山の右に出るもの無し。静止物も同然の時速130キロ、そんなもの、目をつぶっていてさえ狙ったところに打ち返せる。

 『この角度、この速度で振り抜けば、この方向に球は飛んでいく。そうすれば・・・・・・』脳が肢体にスイングの指示を送る、その直前、中山は思考した。『試合終了だ』

 目をつぶっていてさえ容易な仕事、それでも、中山は真田を見詰めていた。

 『俺よりも若いな、このピッチャーは。まだまだ現役だ。すまねぇ。早すぎる赤玉、出してもらうぜ。それだけのダメージを受ければ、さすがに試合に出続けることなんて出来やしないだろ。すまねぇ。息子と、息子を愛してくれた人を地獄から救い出すためなんだ。すまねぇ。許してくれ!』

 懺悔とともに振られたバット。最高のスイングだ。MLBの首位打者だって、これほどまでにコントロールされたスイングはできない。

 完璧にとらえられた球、それは中山の狙い通り、真田の腫れ上がった玉に向かっていった。

 一つだけ、中山には誤算があった。それは、硬式野球ボールの固さを見誤った点である。球技をたしなむ生物学上の男にとって、ある種の通過儀礼である、球と玉の衝突。もちろん、中山も経験済みだ。しかし、それはサッカーボールでのこと・・・・・・硬式野球ボールという名の凶器がどれほど危険な物であるのか理解できていなかったが故の、殺人につながりかねないプレイ。責められない。中山は、責められない。サッカー畑の人間を、責められない。

 赤玉が出るだけでは済まない、そんな打球が睾丸に迫ってくる。そうだというのに、真田は投球後の大股開きのまま、微動だにしなかった。

 「文字通りの満身創痍だ」刹那に、真田はつぶやいていた。「無理もねぇ。金玉の激痛に耐えつつ、十二球も投げたんだ。我ながら、よくやったよ」

 自ずと、笑みが浮かんだ。そうして、走馬灯のように、四十九年間の思い出が駆け巡る。喧嘩して、野球して、喧嘩して、野球して、喧嘩して・・・・・・喧嘩と野球しかない、人生がそのままルーキーズ。

 「こんな人生もあるさ」それでも、真田の笑みは潰えなかった。「こんな人生もありさ」

 無神論者でさえ、穏やかな顔で昇天できるのだ。球と玉の距離、残り50センチメートル。両目はもう、閉じられていた。

 球と玉の距離が残り10センチメートルのデッドラインに差し掛かった、その時、公私宴球場に響き渡ったのは、悲鳴ではなく、勇ましい掛け声だった。

 「穏やかなる交通ピースオブマインド!」

 大原を中心に気念のオーラが広がる。直径5メートルのオーラの円は、高速で移動する球にも届き、その動きを停止させた。ピッチャー寄りにシフトをとっていた大原のファインプレイである。

 来るはずの激痛が来ない、そんな空白の時間に両目を開いて、空中で静止する球に吹き掛けたのは、嘔吐のような息だった。

 死を目前にしたときよりも、生還した直後のほうが恐怖は大きい。その事実を思い出しつつ、真田は乱れる息に悪態を混じらせた。

 大原が、静止する球をグローブでつかんだ。球審の、「アウト!」という声は、「クソが!」という中山の大声に隠れた。

 「真田さん」激しく上下する肩に手を置いて、大原は言った。「ダッグアウトに戻りましょう。戻って、回復に努めてください」

 「安静にするさ」真田は、ダッグアウトに向かう皆野を見やった。「おい、未来ちゃん! 次の回はお前の打順からだぜ! できるだけ粘って、休ませてくれよ!」

 その声に何の反応も示さず、皆野の表情は唯々、鬼気迫っていた。

 「かわいい奴だ」

 屈託なく笑う真田は、大原と優崎の肩を借り、ゆっくりと歩み出した。睾丸はもう、バスケットボール大にまで腫れ上がっていた。

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