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公私宴  作者: はんすけ
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第7話 強いられる理由

 負けられない試合のマウンド、それはプレッシャーが具現した地獄の丘。精神力の足りない者であれば近付くだけで発狂してしまう、そんな場所に、真田は正気を保ったまま上がった。

 徐に、片膝をついて、ピッチャーズプレートに触れた。恋人の頬に触れるような手付きだ。そうして、そのままキスをする。唇が触れるだけの、ピュアなキス。安心してください、正気ですよ。

 真田は地元の草野球チーム倉吉ヤンキースの監督兼キャプテン兼エース兼4番を務めている。ジャイアン並みのマルチタスクだ。こんなこと、好きでなくてはやっていられない。しかし、好いてはいても、勝敗なんて二の次という草野球に辟易しているのも、また事実。

 「最近、高校時代のことをよく思い出すんだ」真田はこう語る。「一年、二年のころは、引退してしまう先輩たちのためにマウンドに上がった。三年になってからは、苦楽を共にした同期たちのためにマウンドに上がった。全て、負けられない試合のマウンド。胃の中身を吐き出すなんて表現じゃまるで足りない、胃そのものを吐き出してしまいそうな、とんでもないプレッシャーだったよ。逃げ出そうと思ったことは、一度や二度じゃない。実際、試合前日に島根に逃亡したこともある。夕日に染まる出雲大社を眺めながら、このまま島根に永住してしまおうかと考えたこともある。それでも、それでもだ。試合当日になれば、自然と体が球場に向かっていた。結局のところ、俺は勝負事が好きなんだわね。愛していると言ってもいい。度し難いサガさ・・・・・・そうさね、勝負事、もとい負けられない試合のマウンドっていうのは、愛しい女、みたいなものなのかもね。辛くって、痛くって、悲しくって、重たくって、やりきれないものも全部まとめて受け入れなくてはならない、愛しい女。時には耐えられなくなって逃げてしまうこともある。だけど、いつだって、愛しい女のもとに帰るのさ。苦しくても、愛し続けるのさ・・・・・・それで言うと、草野球のマウンドはガールフレンドみたいなものだね。責任がなく、忍耐もなく、執着もなく、気楽に付き合えるだけの関係。そこに、本物の刺激はない」

 飢えていたのだ。本物の刺激に、飢えていたのだ。甲子園鳥取県地区予選準決勝のマウンド、あの夏の日以来、約30年振りに再会した、愛しい女。他人行儀なそっけなさの裏に見え隠れする深い親しみを感じ取り、おぼろげになっていた愛が燃え上がり、そうなればもう、技巧を捨て去ったキス以外、なかったのだ。

 「純度100パーセントのピッチャーじゃ」レフトの守備についた楽境が、言った。「桑田真澄でさえ、マウンドにキスまではしなかった」

 ピッチャーズプレートから唇を離し、立ち上がる。鋭い眼光はもう、左打席でバットを構える高知県選挙区代表の1番打者に向けられていた。

 「完全試合だ! 覚悟しやがれ、高知県選挙区代表!」

 強烈すぎる気迫、それに対峙して、1番打者の森重は、ヘラヘラと笑うばかりだった。

 森重は、一目でスプリンターと分かる体格をしていた。身長175センチメートル、体重65キログラム。強靭な筋肉を身にまとい、体脂肪率は6パーセントを下回る。こんな体で、タンクトップに短パン、アンクレットに短距離用スパイクという身なりだ。野球をしにきたなんて、とても信じられない。

 「キスしてたな、おっさん」森重は、ヒマワリの種の殻を吐き捨てた。こんなところだけ野球っぽい。「正気かよ?」

 「愛ゆえに」

 それだけ言って、真田は投球動作に入った。とてつもなくクール。良好な精神状態だ。

 足が、上がる。上がる。まだ上がる! 大リーグボール2号? そこまでは上がらない。これは、マサカリ投法だ!

 溜めは十分だ。上げた足を振り下ろし、右腕も振り下ろす。

 放られた時速110キロの球。それは、漢咲のキャッチャーミットに収まった。インローぎりぎりに決まっている。

 極めて真っ当なストレートに、森重は、笑った。

 「ウケる! 遅すぎ! 近所の中学生のほうがもっと速い球を投げるよ!」

 露骨な挑発だった。しかし、今の真田の精神状態であれば乗るはずが・・・・・・。

 「ナマ言ったのか、ガキ」乗っていた。こめかみに血管が浮かび上がっている。「シバかれたいのか、ああ!?」

 言い終わる前から体が動いていた。ずんずん、ずんずんと、森重に近付いていく。

 笑みの消えた顔が、青ざめた。

 『乱闘!? この程度の挑発で!? 短気にも程があるだろ!』森重は心中で叫んだ。『殴り合いなんて冗談じゃない! 園児の時分にライオン組の真斗くんとやり合った以来だぞ!』

 真田がファイティングポーズをとり、森重がへっぴり腰でバットを振り上げた、その瞬間、さわやかな声が緊迫の隙間を吹き抜けた。

 「ナイスボールです、真田さん!」漢咲の声だった。「球質、コントロール共に最上級です!」

 平生、褒められることなんて一切ないスタンダードな中年に、これは効いた。

 「そうかい?」少年のように、はにかむ。「そうかい?」

 「そうですとも。これほどの生きた球を完璧に制球するとは、心底、恐れ入りました」

 中年の感情の起伏は二子山が如く、とはよく言ったものである。その証拠に、ほら、今怒った中年がもう笑う。幼児と大差ない。

 「さすがは漢咲努大、俺が生れて初めて支持した人物だ! ものを見る目がある!」

 ご満悦で、マウンドに戻っていく。挑発された過去は、既に記憶の海で藻屑と化していた。

 「ちょろ過ぎるだろ」胸を撫で下ろしつつ、森重はこぼした。「喜怒のピタゴラスイッチ」

 乱闘が回避されたことで、プレイはすんなりと再開された。大きく振りかぶり、二球目を放る真田。アウトローにカーブが決まって、ツーストライク。

 『かっかさせて制球を乱すつもりだったが、すっかり落ち着いてしまったようだ』森重は唇をなめた。『死球も四球も望めない。それならば・・・・・・』

 返球を済ませて、漢咲はストレートのサインを送った。真田が首を縦に振る。

 三球目、投げた。アウトローいっぱいに構えられたキャッチャーミットは微塵も動かない。

 カーブの球速は、80キロだった。そうして、この三球目の球速は一球目と同等。心身が野球仕様に仕上がっている人間でなければ、バットを振ったところでタイミングの合う訳がない、えげつないまでの緩急だ。くどいようだが、森重の心身はスプリント仕様である。

 三振待ったなし、そんな状況で、森重は、バントの構えをとった。

 「セーフティバント!」センターの守備位置で、蟹江が叫んだ。「これなら緩急を苦にしない!」

 バントという技術、これを筆者は軽んじていないと断っておきたい。ましてやツーストライク。フェアゾーンに転がすのが至上命題。難易度はウルトラC相当だ。しかし、しかしである。インハイの時速150キロならまだ知れず、アウトローの時速110キロを転がすだけならば、例えスプリンターの拙いバントであっても、可能だ。事実、バットの芯に当たり跳ね返った球は、ホームベースと三塁ベース、そのちょうど中間で停止した。

 一瞬、虚を突かれ、しかしサードの優崎はすぐに気持ちを立て直し、猛チャージをかけた。デスクワーク中心の就労スタイルとは思えないほどフットワークが軽い。毎朝1時間のウォーキングの成果だ。

 優崎が、捕球を済ませた。そうして、送球のモーションに入りかけたところで、動きを止める。

 優崎の瞳に映ったのは、バッターボックス内でにやつく森重の姿だった。

 「速さ比べをしよう」バットをひょいっと放り投げる。「西部劇みたいに」

 「子供じみた、若造が!」真田が叫んだ。「実ちゃん! 即サードゴロにしてそいつを日本一のマヌケにしてやれ!!」

 もう一度、送球のモーションに入る。

 優崎の手から球が離れた、刹那に、森重は気念を発した。

 「土佐山の傾斜マウンテンストリーム!」

 技名が響き渡るや否や、森重の体が地べたを滑り出した。ファウルラインに沿ってスパイクピンが筋を刻んでいく。平面にありながらも、ボールドウィン・ストリートを下っているかのようだ。摩擦という概念を超越している。

 初速から音速を超えていて、送球よりも早く一塁に到達した森重は、ベース上で急停止し、お手上げのジェスチャーを真田に見せ付けた。マイケルジョーダン気取りだ。

 怒りのボルテージが急上昇するも、それを遥かに上回る驚愕で、真田はマウンドに立ち尽くした。

 「さあ、始まるぜ」尚も増長する森重。「盗塁地獄が」

 高知県選挙区代表の2番打者、井口が右打席に入った。

 動揺したまま、真田はセットポジションをとった。そうして、間髪を容れず、森重が叫ぶ。

 「土佐山の傾斜!」

 再び、地べたを滑り出す。

 真田が振り向いた時にはもう、森重は二塁ベースを踏んでいた。

 「親父」森重は、遠い目で、南西の空を見上げた。「あんたと手に入れた、この土佐山の傾斜で、俺はあんたとお袋を救い出してみせる」

 

 「高知県を流しそうめん最速の県にするんだ」

 そう言って、森重の父、郁夫は、十五年間勤めた商社を退職した。働き盛り、三十七歳の時である。

 妻、由紀子は、郁夫の唐突な行為を、許容した。失業給付を受給している間の我慢だという甘い目算のもとに。

 森重の自宅は、土佐山の麓にあった。そうして、土佐山の傾斜は流しそうめんに最適な環境だった。

 退職してからというもの、郁夫は山腹に入り浸り、そうめんを流し続けた。失業給付の受給期間が過ぎてからも、ずっと。

 由紀子は何度も、働いてください、と懇願した。しかし、それに対する答えはいつだって、「高知県を流しそうめん最速の県にするんだ」だった。由紀子がフルタイムで働きだす以外、道はなかった。

 当時、森重は小学六年生。大人になりつつある心身を持て余すお年頃だ。多感ゆえに、日常生活の全てがもやもやする。それを発散するには、体を動かすのが手っ取り早くて、郁夫が流すそうめんと競争がてら土佐山の傾斜を駆け降りるのが、いつしか習慣になっていた。これによって、足腰と気念は自ずと鍛えらることになる。

 中学一年生になってからも、流しそうめんとの競争は続けた。しかし、中学二年生にもなると、さすがにこれ以上、父親を看過することは出来なかった。

 「あんた、いつまでこんなことをやっているんだよ!?」土砂降りの山中で、森重は叫んだ。「お袋にだけ働かせて、いつまでこんなことをやっているんだよ!?」

 「高知県を流しそうめん最速の県にするんだ」

 「この二年間、あんた、それしか言わない!」

 「高知県を流しそうめん最速の県にするんだ」

 卯の花が雨粒と共に落ちた。

 森重は、笑った。

 「高圧洗浄機で押し流してみろよ」父親が丹精込めて作った樋を、ぽんぽんと叩きながら、言った。「お望み通り、高知県が流しそうめん最速の県になるぜ」

 「馬鹿野郎!」郁夫は激怒した。「流しそうめんを愚弄するな!」

 初めて父親に怒鳴られて、森重は涙目になった。

 「この竹!」樋を力強く握る。「水! そして、傾斜! その三つだけを用いるのが、流しそうめんよ!」

 「イカれてるよ! あんたも、学校も、ソシャゲも、インフルエンサーも!」2020年代の十四歳らしい発言だった。「何もかも全部、イカれてる!」

 叫んで、転がり落ちるように山を下って、それからの一年間、父親の半径3メートル以内に近付くことはなかった。

 そうして迎えた、森重、中学三年生の秋。進路が決する、人生の分岐点。相も変わらずそうめんを流しに行こうとする郁夫を泣いて制止し、そんな由紀子の努力の甲斐あって実現した、家族会議。

 「あなた。状況、理解しています?」由紀子は、全力で自制しつつ、郁夫に語りかけた。「私たちの息子は、はりまや高等学校への進学を希望しているんです。私立の進学校です」

 この期に及んで、郁夫はそうめんを流す仕草を見せた。

 「いいって、母さん」森重は言った。「何を言っても無駄だよ」

 「お金が掛かるんです!」失意の露な息子の声が、由紀子を熱くした。「大金です! 当然ですよね、私立の進学校ですもの!」

 「高知県を流しそうめん最速の県にするんだ」

 「預金が底を突きそうなんです! 状況、理解しています!?」

 郁夫の瞳に、淡い光が宿った。

 「貯えなら、大分あっただろう?」

 退職して以来、初めての真っ当な発言だった。

 「あなたが仕事を辞めてからというもの、預金を切り崩しながら生活してきたんです!」

 「そんな、だって、君、働いていたじゃないか」冷や汗のにじんだ額を、乱暴にぬぐう。「フルタイムで」

 「高校を卒業して直ぐ家庭に入った私が、どれだけ稼げると思っているんですか!? 手取り15万円ですよ! 家と車のローンがあって、家族三人、どうやって暮らしていくというんです!?」

 流しそうめんどころではない、その事実に、郁夫はようやく辿り着いた。

 「この子、本当はアイスホッケーをやりたかったんですよ!」夫が正気に戻ったのを認知して、しかし、由紀子は一層と語気を強めた。溜め込んだ不満は、憎しみに変わっていた。「それが家計に気をつかって、陸上をやっていたんです! 中学の三年間、ずっとね! あなたがそうめんを流している間、ずっとね!」

 「母さん、俺、陸上、好きだよ」父親への情けもあって、言った。「進学するにしても就職するにしても、続けるつもり。だから、そのことはもういいよ」

 「いぐない!」一蹴。「短距離用のスパイクも、先輩のお下がりを使っているんですよ、この子! 受験勉強だって、塾に通えないから、いつも自分で工夫して、人の何倍もがんばっている! 助けて下さい! 助けて下さい!」

 四国の中心で、愛をさけぶ。切実だった。

 罪悪感に堪え切れず、郁夫は土下座した。ほくそ笑む由紀子。

 「許して下さい! 許して下さい!」

 決着は、付いた。明日からはハローワーク通い。即時の就職が至上命題だ。

 「最後に・・・・・・」恐る恐る、頭を上げた。「もう一度だけ、そうめんを流してきていいですか?」

 「駄目です」断固たる由紀子。「決まってんだろ」

 「そんな殺生な」

 「今すぐ破壊してこい」苛立ちが強すぎて、過激になっていた。「流しそうめんに関する全てを破壊してこい。それなら、山に入ることを許す」

 何の表情もなく、郁夫はとぼとぼと家を出て行った。

 十分ほど立ってから、由紀子は森重に言った。

 「お父さんを見張ってきて。魔が差さないように。本当はお母さんが行くべきなのだけど、お母さん、冷静でいられそうにないから」

 消沈した母親の声に、森重は従った。

 朝露に濡れた傾斜を駆け上って、見つけた郁夫は、大きな斧を振り上げていた。全長30メートルの樋、その中間で真っ二つにしようというのだ。

 斧は、震えていた。重みによる震えではないと、遠目でも分かった。

 「父さん!」

 呼ばれて、息子を見やり、笑った。泣きながら。

 力一杯、振り下ろす。

 「流してよ!」

 その声で、斧が止まる。刃と樋の距離、残り10センチメートルだった。

 「最後にもう一度、流してよ!」

 「でも、母さんが・・・・・・」

 「流してよ!」

 息子が泣いている。ここで流さなければ父親ではない。

 手招きした。十五歳の息子が五歳児のように寄ってくる。

 ポケットに常備している一束のそうめんを、流す。これで生涯最後。明日からは地獄の人間社会に戻るのだ。

 流れ、離れていく、時速14キロのそうめん。

 ほとんど無意識のうちに、森重は走り出していた。しかし、そうめんはもう、地に落ちる寸前。

 「土佐山の傾斜!」

 そう叫んだのも、ほとんど無意識のうちだった。

 地べたを滑るような、初速から音速。そんな異次元の動きで、そうめんに追いつき、空中でキャッチする。気念、土佐山の傾斜の誕生であった。

 「これからも、流せばいいじゃん!」そうめんを握りしめた手を、父親に向ける。「休みの日に、流せばいいじゃん!」

 郁夫は、膝から崩れ落ちた。

 「高知県を流しそうめん最速の県にするんだろ!」

 後はもう、言葉なんて必要なかった。抱き合って、一緒に家に帰って、いもの茎の炒め煮を食べて、それで十分だった。


 鳥取県選挙区代表はタイムをとっていた。内野陣がマウンドに集まっている。

 「どうして今まで気が付かなかったのか」大原が言った。「あの高知県選挙区代表の1番打者は、ブリスベンオリンピック100メートル走で銅メダルを獲得した、森重流生だ」

 「日本人初の0.2秒台・・・・・・」松田は腕を組んだ。「どうりで速いわけだ」

 「野球じゃねえ」真田の肩は大きく上下していた。「野球のスピードじゃねえ」

 「大丈夫ですか?」

 その優崎の心配は、的確だった。真田の疲弊が著しい。まだ三球しか投げていない、しかし、俊足のランナーを抱えるピッチャーの負担とは、常人の想像を遥かに超えるものなのだ。ましてや、セットポジションをとった瞬間に盗塁を決められるという初体験のおまけ付き。相当、追い詰められている。

 「大原さん」海原が言った。「穏やかなる交通ピースオブマインドとかいう気念で、森重の動きを止められないんすか?」

 「穏やかなる交通は、生物に対して効果を発揮しないのです」大原は無念を露にした。

 「万策尽きた」そんな即決を口にしてしまうほど、弱気になっている真田だった。「次は三盗、その次はホームスチールだ。セットポジションをとった瞬間に盗まれるなら、手の施しようがない」

 容赦なく降り注ぐ日差しで、マウンドは一層、地獄の様相を呈した。

 「どうだ、鳥取のゴミども! 思い知ったか!」三塁側ダッグアウトから、下劣が罵声を飛ばした。「これが高知県選挙区代表の力、すなわち、俺様の力だ!」

 「お前の力じゃないだろ」森重が、声を潜めて言った。「クズ野郎め」

 苦境に立たされた人々を見る愉快で、下劣は大いに笑った。

 「鳥取県選挙区代表!」球審が叫んだ。「タイムが長いぞ!」

 「1失点は、やむを得ません」漢咲が言った。「真田さん。森重さんのことはお気になさらずに。同点になってからが、勝負です」

 内野陣はそれぞれの守備位置に戻っていった。プレイ再開。悲壮感を露にしつつ、真田がセットポジションをとる。そうして、安定の、「土佐山の傾斜!」であった。すんなりと、三盗が成功する。

 1失点はやむを得ない、ランナーは気にするな・・・・・・そんなもの、野手の理論である。投手は、割り切れない。

 真田は、グローブを地面に叩き付けた。

 「タイム!」優崎が叫んだ。

 「賢明だね、あんた」森重が屈伸しながら言った。「タイムがなければ、すぐにでもホームを盗んでいた」

 日光が、肉体の若さを照らし出す。その眩しさから目を逸らした優崎の顔に、影が差した。

 「森重さん。あなたは確か、まだ24歳のはずだ」

 「この秋で25歳だ」

 「若い。人生まだまだ、これからだ」

 眼鏡の奥にある目、その薄暗さを見つけて、森重はすくんだ。

 「おっさん、何が言いたいわけ?」精一杯の強がりだった。

 「約束してほしい」淡々と口を動かす。「決して、ホームスチールは行わないと」

 「馬鹿を言うなよ」流れる汗が、冷や汗に変わっていた。「おかしいんじゃないの、あんた?」

 「あなたがホームスチールを狙った瞬間、プレイの一環として、私はあなたを攻撃する」優崎はもう、森重を明確に見据えていた。「出来るならば、それは避けたい」

 「そんな虚仮おどしが通用するとでも思っているのか?」

 「あなたは、悪人ではない」会話はギリギリのバランスで保たれていた。「あなたの人生を、壊したくはない」

 「俺が悪人ではないだなんて、どうして分かる?」

 「仕事柄、たくさんの人を見てきたんです」うっすらと、笑った。「分かります」

 真夏に感じる、寒気。森重は本能で悟っていた。これは、虚仮おどしではない。それでも・・・・・・。

 「走るぜ、俺は」震える腿を、思い切りたたく。「家族のためだ」

 「私も」気念を発する。「家族のためです」

 「プレイを再開するぞ」塁審が、言った。「いいな?」

 優崎はうなずいた。

 プレイが再開された、刹那に、森重と優崎は叫んだ。

 「土佐山の傾斜!」

 「迷宮役場ラビリンスプリズン!」

 優崎の気念が、具現化し、ハンコの形を成す。実印に用いられるような17mmサイズだ。

 音速を凌駕する手さばきで、ハンコは森重の体に届いた。

 右肩に印影を刻まれた森重は、卒倒し、そのまま精神世界の迷宮へと落ちていった。

 

 黄ばんだ空には雲一つなく、そこには太陽も月も見当たらない。

 こんにゃくの弾力を有するアスファルト、しかし森重の足音は石畳を踏むように硬質だった。

 東西南北、どこにも視界を遮る物はない。唯、無骨な建物が一軒あるだけ。

 森重は、夢現で、無骨な建物に入っていった。

 屋内には、果ての見えない奥行きがあった。外観よりも遥かに面積が広い。

 インフォメーションの窓口を見つけて、近付いてみる。

 カウンターの内側で、女が頭を下げた。女だという以外には何の情報も得られない、特徴の乏しい女。

 「迷宮役場へようこそ」女は言った。「ご用件は?」

 「ホームベースに行きたいのです」森重は言った。「親父とお袋を助け出さないと」

 「ホームベースに関してのご相談は、784階にある住宅担保株式増進窓口で伺っております」女は、遠く、遠くを指差した。「784階へは、あちらのエレベーターをお使いください」

 歩いて、歩いて、ようやくエレベーターの前にたどり着いた。ホールボタンを押す。すぐにドアが開いた。かごの中には、特徴の乏しいエレベーターボーイが一人。

 「何階でございましょうか?」

 「784階です」

 「申し訳ございません。こちらのエレベーターは地下への一通でございます」エレベーターボーイは、遠く、遠くを指差した。「784階へは、あちらの階段をお使いください」

 歩いて、歩いて、階段も、上って、上って、どうにかこうにか、784階。

 無数に並んだカウンター、そこから目当ての窓口を見つけるのも骨が折れた。住宅担保株式増進窓口の前に立ったとき、森重の疲労はピークに達していた。

 「ホームベースに行きたいのです。親父とお袋を助け出さないと」

 「ホームベースでございますね。身分を証明できる物を提出してください」

 「マイナンバーカードでお願いします」

 「マイナンバーカードには対応しておりません。他に身分を証明できる物はございませんか?」

 「ありません」森重はうなだれた。「運転免許、取っておけばよかったな。走ったほうが速いものだから・・・・・・」

 「お急ぎであれば、住民票をお取りになるのがよろしいかと。2階の総合窓口にて、発行しております」

 言われてすぐ、階段を駆け下りた。住民票を取り、階段を駆け上がる。

 「住民票、持ってきました」

 「これでは、身分の証明にはなりません。マイナンバーが記載された住民票の提出をお願いします」

 再び、駆け下り、マイナンバーが記載された住民票を取り、駆け上がる。

 「持ってきました」

 「はい。ホームベースに関してのご相談でしたね。こちらの書類をお持ちになって、地下359階、単身者家庭貸付窓口へお行きください」

 びっしり印字されたA4用紙を手渡され、地下359階へ。そこでも紙媒体の書類を手渡され、他の窓口へ行くよう促される。

 たらい回しにされ、それでも、森重は不条理に従順であり続けた。フランツ・カフカもびっくりな有様で、延々と・・・・・・。


 陽光をたっぷり吸収した黒土が、俯せに倒れる森重の体を熱した。

 「この馬鹿! さっさと立って、走れ!」

 公私宴球場に響き渡る下劣の怒声に、森重は何の反応も示さない。

 「聞こえているのか!?」

 「聞こえてないって」持参したハサミで眉毛を整えながら、狩谷が言った。「サードの素敵なおじ様にやられたんだから」

 「やられただと!? 一体、いつ!?」

 「あんたのような戦いの素人には見えなかっただろうね。なにせ速かった」

 「この下劣杉男が戦いの素人だと!? 貴様、狩谷、侮辱するな! 俺様は次期、防衛副大臣候補だぞ!」

 「世も末だ」

 狩谷が笑って、下劣の顔は憎悪に歪んだ。

 「試合が終わった後、ただでは殺さないぞ、狩谷。この世のありとあらゆる苦痛を味合わせてから、殺してやる」

 ハサミを仕舞った狩谷は、下劣に目もくれず、優崎を舐るように見詰めた。

 眼鏡を外し、眉間を強くつまんでから、かけ直す。そうして優崎は、森重に向かって深く頭を下げた。

 「真田さん」頭を上げ、マウンドに目を向ける。「球をください」

 言われるまま、送球。

 球をキャッチしたグローブで、優崎は森重にそっと触れた。

 塁審の、「アウト!」という声が木霊して直ぐ、井口が森重に駆け寄った。

 ゆっくりと仰向けにしてやって、露になった苦悶の表情は、背筋を冷やすのに十分だった。

 「意識がない」森重の眼球彷徨を確認してから、井口は優崎を見上げた。「どうなっている?」

 「彼は今、悪夢を見ているのです」先細った声。「一秒が二十四時間に感じられる、延々と続く悪夢を」

 不規則に漏れ出る森重のうめき声で、空気は一層と張り詰めた。

 「このままだと、彼はどうなる?」

 「この状態が5分も続けば、廃人になるでしょう」

 「回復させる方法は?」

 「敵に塩は送れません」

 「助けてやってくれ」

 「私からもお願いします」漢咲が、井口と優崎の会話に加わった。「彼を助けてやってください」

 敵からの助け舟に困惑して、井口は閉口した。

 「彼の能力は見たでしょう?」泳ぐ視線。「攻守にわたって、私たちの脅威になります」

 「大丈夫、脅威にはなりません」滑らか極まりない弁舌。「まずは守に関して。先程、1回表の大原さんの打球に、森重さんは対応しなかった。彼のスピードであれば、センターの守備位置からでも落下点に到達できただろうに。そう、森重さんは対応しなかったのではなく、対応できなかった。野球の素人が正確に落下点を見極めることなど不可能だからです。森重さんが野球の素人であることは、明白」

 2033年度世界陸上競技選手権大会を目前にして放映された特番、森重流生ブリスベンの歓喜から一年~新たなる挑戦~。ゴールデンタイムを丸々使った生放送の最中、メインパーソナリティーの元プロ野球選手とキャッチボールをするという演出が炸裂した際、森重はグローブのはめ方すら分からず、はにかんだ。はにかみ王子、そんな愛称の誕生を、漢咲はリアルタイムで視聴していたのだった。

 「では、攻は?」優崎も漢咲同様、前述の特番を視聴済みだった。「次は彼も私を警戒してくる。同じ手でアウトに出来る保証はありませんよ」

 「次は我々のほうも彼を警戒できます。球を転がされなければ良いわけですから、高め中心の配球で対応します。真田さんの制球力であれば、間違いは起きません」

 憎しみが生じない、大変に稀な論破であった。優崎の強張った心が、解れた。

 「それに、何よりも・・・・・・」漢咲は優崎の肩に手を置いた。「森重さんの人生を壊してしまうことを、あなたは望んでいない」

 理を尽くした後、情に訴える。漢咲が並の政治家と一線を画するゆえんは、こうした所にあった。

 安堵だけで出来た息を、優崎は吐いた。

 穏やかな気念が、発せられる。

 「役場解体プリズンブレイク

 気念で形作られた12mmサイズのハンコを、親指、人差し指、中指で支え、振り下ろす。

 左肩に印影を刻まれた刹那、右肩の印影が消え、森重は、かっと両目を見開き、絶叫した。

 「助けて下さい! 助けて下さい!」

 「大丈夫だ、森重さん!」のたうつ森重を、井口は強く抱き締めた。「あなたは助かったんだ!」

 森重が昏睡状態に陥っていた時間は、ほんの一分。そんな短時間で、森重の体重は3キログラムも減っていた。

 脳髄に刻み込まれた恐怖は人の温もりを感じてさえ払拭できず、尚も手足を振り乱す。

 時間だけが恐怖の特効薬で、数十秒の後、森重が落ち着いたころ、井口の体にはいくつも痣ができていた。

 「ここは、どこなのですか?」迷子のような声だった。「迷宮役場の、地下40812階ですか?」

 「ここは、公私宴球場です」問いに応えてから、井口は森重の体を解放した。「試合はまだ、1回の裏です」

 「公私宴球場・・・・・・試合・・・・・・」パニックの余韻で、笑顔は引きつった。「地獄から地獄に戻ってきたのか」

 立ち上がり、ふらつく。

 井口に体を支えられ、森重は礼を言い、それから、優崎のグローブに収まている球を見て、項垂れた。

 「ダッグアウトに戻ろう」肩を貸し、ゆっくりと歩き出す。「あなたには休息が必要だ」

 衰弱した若者と献身的な若者、胸を打つデュオ。心ある高知県民は、ベンチから腰を上げ、横になれるスペースを作った。しかし、そこに至る道程を塞ぐ男が一人。そう、下劣だ。

 「何様だ、お前は!?」憤慨の余り、人相の邪悪さが増していた。「無様にアウトになった挙句、ベンチでおねんねか!?」

 日陰を目前にして、立ち尽くす。重みを増していく森重の体に、井口の良心は痛んだ。

 「下劣さん。森重さんは一人で立つことすら難しい状態です」

 「だから何だ!?」

 ぐっと怒りをこらえ、尚も下手に出る。

 「彼に休息を。どうか、寛大な御心で、お願いいたします」

 「その役立たずを休ませる?」下劣は冷たく笑った。「いいぜ。そいつ自身が望むならな」

 言い終わるや否や、取り出したスマホを森重の視界でちらつかせる。

 「龍河洞再教育収容所に直通電話をかけるぞ、森重。お前が使い物にならなくなったって、所長に報告するんだ。さて、何が起きるかな? なにせ暗い洞窟内だ。職業訓練中の事故なんて日常茶飯事」

 ただでさえ青ざめていた顔が、更に蒼を濃くした。

 「休息なんて、必要ありません!」かすんだ声をしぼり出す。「俺は大丈夫です!」

 「他人に支えられたまま言っても、説得力がないぜ」

 森重は、井口を突き飛ばした。

 「この通りです!」震える足で踏ん張って、自力の直立を見せる。「俺はまだ、やれます!」

 「やれますじゃない! やるんだよ!」どすん、とベンチに座る。「お前、一回でも座ったり横になったりしたら、即、直通電話な」

 横暴がまかり通る、縦社会の縮図であった。力と恐怖による支配に対して、人間は、無力。メダリストも例外ではなく、ダッグアウトの隅へ行き、尚も立ち続けるその姿は、唯々、悲惨だった。

 「井口! お前の恋人も龍河洞再教育収容所にいること、忘れるなよ」

 井口は、俯いた。そうして、片方の靴ひもが解けていることに気が付く。

 手が震えて、結び直すまでには時間がかかった。

 

 日本三大鍾乳洞に数えられる、龍河洞。文化的価値を有し、優れた観光資源でもあった名所は、国滅同義政権下における2029年、その様相を大きく変えることとなった。

 発端は、2028年のアメリカ合衆国大統領選挙に人権派として名高いワールド・ピース・ロッドマンが勝利したこと。「likes fair trade! hates forced labor!」というキャッチフレーズがアメリカ国民に支持された事実は、世界中の投資家を売りに走らせた。こうして、第三次産業は大打撃を受けることとなり、日本有数の大企業、下劣アパレルカンパニーもまた例外ではなかった。

 高知県高知市に本社を構える下劣アパレルカンパニーは、昭和の時代からアジアの安い労働力を利用してきた。「公平な取引が、嫌いだ。強制労働が、好きだ」とは、創業者である下劣権左衛門の言葉であり、トップの座を譲り受けてきた権左衛門の息子も孫も、創業者の考えに忠実だった。故に、株価大暴落。2028年11月の株価は、前月比でマイナス82パーセントを記録した。この時点で、日本政府が動く。間接的な形式をとっているとはいえ、実質、下劣アパレルカンパニーの大株主は日本銀行。国有企業も同然であれば捨て置けない。アジアでの労働環境を改善させつつ安い労働力は維持させる、これが、国滅同義政権に課せられたミッションだった。そうして、2029年1月27日、銀座でシースーと洒落込んでいた国滅が、閃く。

 「国内の洞窟で、秘密裏に、綿とかを作らせればいい」同席していた国土交通大臣に向かって、言った。「おあつらえ向きの洞窟が高知にあっただろう。何と言ったか、ほら、あれだよ、あれ。虎の穴、だったか」

 「龍河洞、でございましょうか?」

 「それだ、それ。そこに刑務所や入管施設から労働者を大量に送り込めばいい」

 「しかし、龍河洞の内部は大した広さを有しておりません」

 「ならば、爆破して広くしたまえ」鶴の一声だった。「私が許す」

 やばいだろ、と考えられるくらいの常識は持ち合わせていた。しかし、総理大臣にNOと言えるだけの気概は持ち合わせていなかった。だから、国土交通大臣は、ただ一言、口にしたのだ。「了解いたしました」と。

 そうして、日本中の発破技士を集めての一大工事がスタートする。文化財や自然環境への配慮は一切必要ない、という政府の指示に、心ある発破技士は次々と去り、しかし残った連中が容赦なく、発破。前代未聞の突貫工事により、2029年3月8日、龍河洞の内部は東京ドーム400個分の広さを有するに至った。

 「最高に爽快だったよ」そう語ったのは、龍河洞内で8000発以上のダイナマイトを爆発させた、柄崎二郎だ。「何も気にしなくていいんだ。労働安全衛生に関する全てを気にしなくていいんだ。唯、無心になって、発破すればいい。こんなに働きやすい現場は初めてだったよ。8000発だ! 8000発! 一か月程度の工期で、8000発! 松ダイナマイトをだぜ! 震えたよ、物理的にではなくね。生涯で一番の仕事だ、間違いない。死んだ! と思ったことは一度や二度じゃないね。現に、ほら、見てみなさいよ、アナウンサーのお姉ちゃん。ここ、ほら、脇腹のところ。こんなに肉が削げちまってる。これが体中、あちこちだぜ。へへ、よく生き残ったもんだ。たくさん死んだのによ。そう、たくさん死んだんだ。何人死んだか分からなくなるくらいにね。だけど、構うことはないんだ。なにせ、お上のお墨付きだからね。まあ、あいつらだって、好きなように発破しながら死ねたんだから、本望だろうよ。お国のために死ねたんだから、本望だろうよ。まあ、なんにしたって、すごい仕事だった。我ながらね。人類史に残る偉大な業績だよ」

 表向き、龍河洞の拡張は治水のためとされていた。難しい工事をやり遂げた英雄として、柄崎は時の人となり、テレビや人気ユーチューバーのチャンネルに多数出演。その都度、自身の仕事を得意気に語る様子から、彼の人生は絶頂期を迎えているかのように見えた。しかし、2030年12月、柄崎二郎は薬物の過剰摂取によって生涯を終えることとなる。

 「あいつは、私にだけは、真情を吐露していました」そう語ったのは、柄崎二郎の兄、柄崎一郎だ。「道化を演じることに疲れた。俺は英雄なんかじゃない。爆発音と、死んだ仲間たちの断末魔が、耳から離れない。そう、あいつは言っていました」

 フリージャーナリストが得たこの証言は、定着した情報操作の渦に飲み込まれ、今なお、柄崎二郎は英雄として祭り上げられている。

 多くの犠牲によって完成した、強制労働のための空間。2029年の内にはもう、多くの受刑者や外国人が収容され、強制労働はスタートしていた。

 至るところに設置されたLEDライトが、洞窟内に敷き詰められた培養土を照らす。これでワタを育てるのだ。洞窟内には、縫製工場も完備されており、収穫した綿はすぐさま衣類に加工される。生産と製造、その全てを無給の収容者に行わせることにより、下劣アパレルカンパニーは対アジアにおける人件費と取引額を見直してなお、その競争力を損なうことはなかった。

 下劣アパレルカンパニーの株価は、2031年の1月には2028年10月以前の水準まで回復していた。そうして、東京に初雪が降った日、下劣アパレルカンパニー代表取締役会長下劣勝は、政府の協力に対するお礼という名目で、国滅を会員制のクラブに招いた。

 「総理の好物、酒池肉林コースでございます」

 下劣勝が言うや否や、91平米の個室に仰臥位の女性が五人、運ばれてきた。全員、体の上に料理を載せている。女体盛りだ。しかも、活き造りだ。

 イカやらタコやらが蠢くたび、女性たちの表情は小さく歪んだ。

 「今日はちゃんとシラフの女を用意してきたな」国滅は、タコの足で乳房をもてあそんだ。「前回のようにシャブ漬けの女を寄越してこようものならば、この店にミサイルを撃ち込むところだったぞ。アメ公から買った物が大量に余っているしな」

 「その節は大変な失礼をいたしました」

 「下劣勝君。私はね・・・・・・」タコの足が女性器に伸びた。「恥辱にまみれる弱者を見下ろすのが、なにより愉快なのだよ」

 「同感でございます」

 同じ価値観を共有していた。それなら飯も上手い。酒も進む。二時間の後、国滅は心身ともに満たされていた。

 「ところで総理、ご相談がございまして」接待は慣れたもので、下劣勝が機を逃すことはなかった。「龍河洞の労働力に関することなのですが」

 「言ってみなさい」

 「ありがとうございます」国滅以外の人間には下げたことがない頭を、恭しく下げる。「現在、少々困ったことになっておりまして」

 「だから、それを言ってみなさい」

 「龍河洞の労働力が、低下しているのです」

 「どうして?」

 「人員不足です」

 「それなら、増員すればいい」

 「そうしたいのは山々なのですが、既に日本中の刑務所と入管施設が空っぽなのです」

 「私の偉大な統治の成果だな。日本は平和になった」

 「いえ、そうではなくて。既に全員を龍河洞に収容してしまったというだけの話で」

 「全員? 日本中の受刑者と不法滞在者を? どうしてそれで労働力が低下する?」

 「過労死が多発しておりまして」

 「過労死なんてそうそう起こるものではないだろう。一体、どれくらい働かせているのだ?」

 「5時から23時まで。365日、休日なしです。洞窟内という閉鎖的な空間での労働なだけあって、心身の負担も一入でしょう」

 「生温いな」

 「はい?」

 「3時から23時までに労働時間を伸ばしたまえ」

 「しかし、それでは増々人員不足に・・・・・・」

 「甘えたことを言うな、勝! お前、それでも経営者か!」ちゃぶ台返しの要領で、国滅は女体をひっくり返した。「労働者は酷使しても潰さない! 鉄則だろ!」

 「申し訳ございません! ありがたい金言、肝に銘じます!」土下座、そこからの上目遣い。「しかし、労働者の体調管理を見直したところで、現状、人員は不足したままです」

 「はっきり言え。私に何をしてほしいのだ?」

 「はい。小耳に挟んだのでございますが、無職発電所で大規模な増員を行ったとか。出来ましたなら、そちらから龍河洞のほうへ千人ほど、お借りできたらと考えております」

 「お前、馬鹿なのか?」

 「はい?」

 「今、アメ公のトップが誰か、言ってみろ」

 「ワールド・ピース・ロッドマン大統領でございますか?」

 「そうだ! ウエディングドレスを着て大統領就任の宣誓を行った、あの男だ! 人権だの環境だのと口うるさい、あの男だ! 脱原発の急先鋒である、あの男だ!」

 「それが、この話に一体、何の関係が?」

 「お前、馬鹿なのだな!」

 「はい?」

 「あの男に睨まれているうちは、原発を増やせないと言っているのだ! 無職どもを使った人力発電以外に、日本の電力需要を満たす術はないと言っているのだ!」

 「そんな、それでは下劣アパレルカンパニーは、私は、どうすればよいのですか? ただ働きさせられない労働者を大量に使ったりしたら、競争力を保てません」

 「一つ、確かなことはだな、勝よ」女性を踏みつける。うめき声が、響いた。「一円でも株価を下落させたら、私はお前を生かしておかないということだ。日銀の資産は国の資産、すなわち、私の資産なのだから」

 本気だと、理解できた。

 下劣勝の頬をつたった汗、その雫が大理石の床を濡らしたとき、重厚なドアが勢いよく開かれた。

 「誰だ!?」下劣勝は怒りを露にした。「国滅総理の貸切だぞ!」

 「俺様だ、父上! 下劣杉男様だ!」

 息子の狼藉に、一層と青ざめる。

 「申し訳ございません! 国滅総理!」脊髄反射で謝罪する。「散々甘やかしたため、礼儀知らずに育ってしまいまして!」

 「構わん。杉男君、だったね。ちこう寄れ」

 下劣は国滅のそばで片膝をついた。

 「国滅総理、突然のご無礼、お許しください!」

 「君は確か、私の派閥だったね」

 「はい! 昨年の夏の公私宴にて、高知県選挙区から衆議院議員に当選してすぐ、国滅総理の豪遊会に所属いたしました」

 「私のプライベートに水をさした訳、聞かせてもらえるかな」ねっとりとした笑みが、浮かんだ。「話の内容によっては、君、除名だよ」

 「国滅総理に喜んでいただけるお話しが出来ると確信しております。もう既に、龍河洞の労働力の低下はお耳に入っていますことでしょう。俺様、いえ、私には、その問題を解決する妙案があるのです」

 「続けなさい」

 「はい! その妙案と申しますのは、龍河洞を龍河洞再教育収容所と名を改め、公に、一般市民を収容していくものでございます」

 邪悪な企みであると直感して、しかし国滅は何のためらいもなく、食い付いた。

 「詳しく話しなさい」

 「はい! 再教育収容所、すなわち、職業訓練センターという名目なのでございます。一億総生産社会を生きる日本国民の義務として手に職をつけるべし! というキャッチフレーズのもと、強制的に収容していくのでございます」

 「素晴らしい考えだが、不可能だ。未だ国家としての完成を見ない日本において、一般市民の強制収容など夢のまた夢」憂いて、目を閉じる。「憲法第11条の改正は、我が悲願の一つよ」

 「心痛、お察しいたします、国滅総理。しかし、どうか気を休めてくださいませ。憲法なんぞに支配されたこの国においても、一般市民の強制収容は可能でございますから」

 国滅の目が見開かれ、下劣はほくそ笑んだ。

 「無職発電所への強制収容は、憲法に定められた勤労の義務によって正当なものとなりました。それと同じ手口でいくのでございます。すなわち、憲法に定められた教育の義務による再教育収容所への強制収容でございます」

 「おお・・・・・・」唸らずにはいられない国滅だった。「エキサイティング・・・・・・」

 「しかし、杉男よ」下劣勝が横槍を入れた。「教育の義務の対象は、子女だぞ? 子供なんぞでは大した労働力にならない」

 「日本国民であれば成人であっても日本の保護する子女も同然だ、父上」

 「そんな屁理屈・・・・・・」

 「勝! 屁理屈ではない! 解釈だ! 法律とは全て解釈! 憲法であっても例外ではない!」

 過去、何度も解釈で法律の壁を乗り越えてきた国滅だからこそ、その言葉には説得力があった。

 今度は、下劣親子が唸らずにはいられなかった。

 「称賛に値するよ、杉男君。君の英知は称賛に値する」

 握手を求められ、下劣は感極まり、涙ながらに手を伸ばした。

 酷使したことなど一度もない赤ん坊のような手が強く結ばれる。それは悪意に満ちた人相との対比で、この上なく不気味に見えた。

 「一つ、懸念がある」

 「何でしょうか、何でしょうか、我が敬愛する総理!」たった一度の握手で、忠誠心は育まれていた。「何なりと、何なりと仰ってくださいませ!」

 「一般市民を強制収容することによる支持率への影響だ。愚かな民衆というものは、法律に則った動きに対してさえ拒否反応を示すものだからね。無職どもの強制収容には寛容だった連中も、自分が強制収容の対象になり得ると分かれば黙っていないだろう」

 「ご安心ください、総理。その点も問題はございません。私の庭である、高知県であれば問題はございません」

 「そう言い切れる根拠は?」

 「高知県は昭和の時代より下劣アパレルカンパニーが多くの雇用を生み出してきた地でございます。故に、下劣の家の者の影響力は絶大。更に、私は高知県知事としての六年間、下劣の家の支配をより強固にすべく、暴力と贈賄、情報統制に精を出してまいりました。結果として、今の高知県は官民ともに私の意のままでございます」

 「慢心するな、杉男君。絶対とは、この国滅同義自身の施策にしか存在しないのだから。君は今、中央にいる。地方で問題が起きたとき、すぐに動けないようでは困るよ」

 「現在の高知県知事は、私の従兄弟、胡麻誰男でございます。幼少の頃より、私がいじめ抜いてきた男でございます。奴は私の手足も同然。万が一、問題が起きた場合にも、素早い処置は可能でございます」

 「万全、ということだな」

 「万全、ということでございます」

 国滅が、笑った。この日最高の笑顔だった。

 「よろしい。高知県限定での強制収容、君に一任する」

 「ありがとうございます! 必ずや、国滅総理のご期待に応えてみせます!」

 「ところで、杉男君。一つ提案なのだが」

 「提案などとは恐れ多い! 何なりとご命令くださいませ!」

 「では、命ずる。強制収容は、政権に批判的な人間から優先して行いたまえ」

 これだけで全てを悟り、下劣は感嘆した。

 「一石二鳥、というわけでございますね、国滅総理! いや、これは一石二鳥をも超越して、一石三鳥!」

 「一石四鳥だよ、杉男君。高知県は日本のモデルケースになるのだ。全てが上手くいった暁には、全国に再教育収容所が出来ることだろう。君に課せられた任は重大だよ」

 「この重責、身に余る光栄! 国滅総理が描かれた偉大な絵図、私が現実のものといたしましょう!」

 「勝! お前、良い息子を持ったな!」

 「ありがとうございます! 私も鼻高々でございます!」

 邪悪な笑い声が三つ、重なった。最後まで生きる希望を捨てなかった鯛の目から、光が消えた。

 総理大臣がやると決めたらすぐにやる、トップダウンの政治体制で、2031年の4月にはもう、龍河洞は龍河洞再教育収容所として機能することとなった。

 2034年7月現在、龍河洞再教育収容所に収容された高知県民の数は5万人を超えている。

 

 固く、固く、靴ひもを結んだ。

 バットを握りしめ、バッターボックスへ向かう。

 ホームベースを見下ろして、それから、漢咲に目を向けた。

 「森重さんを助けてくれたことには礼を言います。ありがとうございました」

 礼を言い終えたときにはもう、ピッチャーだけを見ていた。

 「私はあなたたちを倒したいわけではない。あなたたちを助けたいのです」

 漢咲が言って、井口は冷ややかに笑った。

 真田が、振りかぶる。井口に対する初球は、インハイのストレート。

 ややボール気味の球に、手を出す。窮屈になりながらも、フルスイングが功を奏して、打球は内野席まで飛んでいった。

 ワンストライクからの、二球目。アウトローのストレート。これまたフルスイングで、空振り。

 大きく息を吐き、それから、バットを短く持つ。

 三球目、四球目と、ストライクからボールになるカーブが続いた。どちらにも手を出しそうになったが、全身の筋肉を酷使して、バットの急停止に成功した井口。

 未だピッチャーが有利なカウント、しかし、三振を確信したカーブが立て続けにボールとなった事実にピッチャーの神経質なサガは、震えた。

 もう一度ボール球になる変化球を投げれば十中八九、三振を取れるシチュエーションで、真田、ストライクゾーン内に球を放る、悪手。これが三球も続く。井口はコンパクトなスイングで、三球ともはじき返した。ファール、ファール、ファールラインすれすれのファール。次は確実に、フェアだ。

 ロジンバックを握る。執拗に握り、上体が白煙に隠れる。

 白煙を払いのけ、真田は大きく振りかぶった。

 ボール球になる変化球を要求し続けた漢咲、その甲斐なく、球は今度もストライクゾーン内に向かった。

 井口もまた森重同様、野球の素人。それでも、置きにきたカーブを四連続で打ち損じるほど劣った運動神経は有していない。

 鋭いダウンスイングは、低めの球を強打した。

 ゴロとは思えない速度の打球。三遊間が切り裂かれるのは時間の問題。現に優崎は一歩も動けない。しかし、捕球したのはレフトではなく、ショートだった。

 ショート、松田。彼は、井口のファール連発を鑑みてサードよりにシフトしていたのだ。

 例によって松田も野球の素人だが、彼が見せる軽快な動きは、元プロ野球選手、井端弘和を彷彿とさせるものだった。

 「センスの塊だ」三塁側ダッグアウトで、諸星がうなった。「足さばきから、グラブの出し方まで」

 既に猛ダッシュしている井口。森重ほどではないにせよ、俊足だ。100メートル走を優に10秒台で走るだろう。一方、捕球を済ませた松田は三遊間の深い位置にいる。ステップの猶予はない、と一瞬で悟る聡明さで、上半身の力だけを用いた送球を断行。そうして、諸星は再びうなることとなった。

 強肩、それは体格に恵まれた人間の特権。小柄な人間がノンステップ送球などと、本来であれば不可能。しかし、松田は小柄なれど、中華料理のプロフェッショナルだ。豪傑ラーメン、と暖簾に屋号を記していても、大抵はチャーハンを作っている。すなわち、重たい鍋を年がら年中振っているということだ。鍛え上げられた手首は、強い。弱い肩を補うほどに、強い。事実、スナップを利かせた松田の送球は、一度も地に着くことなく、猛スピードで大原のグラブに向かっていった。

 凄まじい送球を察知して、井口はヘッドスライディングを敢行した。

 グラブに球が収まる乾いた音、男の手がベースに触れる儚い音、それらの後には、「アウト!」という塁審の声があった。

 井口は全力で地面をたたいた。そうして、立ち上がり、下劣の罵声が待つダッグアウトへと戻っていった。

 帽子を脱ぎ、額の汗をぬぐう真田の顔は、つき物が落ちたように晴れ晴れとしていた。アウト二つを取った時点で投球数は既に14。先発ピッチャーにとっては面白くない立ち上がり。それでも、笑みを浮かべていられるのは、ストレートとカーブ、この2球種のみで現状を迎えられたからに他ならない。

 鳥取県で草野球に通じている者ならば、誰もが真田の通り名を知っている。倉吉のベーシックカラー、その名が表す通り、繰り出す変化球の数は12を数える。

 「手の内を見せずに済んで、よかった」左打席に入った諸星をにらみ、真田は帽子をかぶり直した。「この怪物を相手に、初見のアドバンテージは捨てられない」

 長身が際立つ、力みの感じられない構え。宮本武蔵を彷彿とさせる佇まいに、野球人の血がさわいだ。

 「まるで2001シーズンのバリー・ボンズだ」自ずと、真田は会釈していた。「ありがてぇ」

 孔子を信じるならば、真田も直に天命を知る歳だ。しかし、彼のハートは野球少年そのものと言えるほど青々としていた。

 活力に満ちたモーションで、球を放る。

 諸星は、わずかなテイクバックの後、腰の力を100パーセント利用して、左の肘を力強くたたんだ。刹那に、右手の握力をブレーキとして、バットを止める。球の鋭い変化を目視したからだ。

 ストレートと全く同じ速度、尚且つ、打者の手元にきて初めて変化を始める、超一級品のシュート。それがインローいっぱいに決まって、しかし真田は大きく舌打ちをした。

 『詰まらせるための球だった。それを、野郎、見送りやがった。間違いなく、ストレート待ちだった野郎がだ。余程、スイングスピードに自信があるのだろう。そうでなければ、あそこまで球を引き付けられない』

 真田の心の声は、事実を全て言い表していた。

 次の球は、ボールになるシンカー。これも、諸星は見送る。その次は、ボール球のストレート。これまた見送り。

 強烈な威圧感に当てられ続け、目眩を覚えた真田は、マウンドを外し、ゆっくりと屈伸した。

 「すごい漢だ」心の声が、漏れていた。「歩く野球名鑑と呼ばれるこの真田哲夫のデータにないのが不思議なくらいだぜ」

 球審に注意されるまで屈伸を続け、十分に整った心身の状態で、投球モーションに入る。投げる球は、カットボール。

 ここまで全ての球種を全く同じモーションで投げていた真田。しかしこのカットボールだけはリリースポイントがやや右にずれていて、それを諸星が見逃すことはなかった。

 球自体は、見送り。アウトハイに決まって、追い込まれるも、諸星に焦りなし。

 真田が、振りかぶった。カットボール以外と全く同じリリースポイントでカーブを放る。

 大きく外れ、これでフルカウント。

 相も変わらず晴天だというのに、雷鳴のとどろく音が、聞こえた。

 「これが、野球」言いながら、投球モーション。「もう、草野球ではない」

 やや右にずれたリリースポイントで、球を放る。

 カットボールだと、確信。後はもう体が自然に動く。フルスイングだ。

 本能に従順な、脳の神秘。諸星の理性は、罠かもしれない、と訴えている。しかし、そんな訴えなんて知ったこっちゃない。目前に格好な獲物が迫るなら、飛びつくのが脳の定め。脳の奴隷である四肢も既にアンストッパブル。

 十分に球を引き付けられる力を自ら放棄した相手に、真田の球は容赦なく、落下した。スプリットフィンガーファストボールだ。

 時速200キロを超えるバットスピード、それを物語る強力なスイングは、大気のみを吹き飛ばした。

 球は、漢咲のキャッチャーミットにしっかりと収まった。

 「スリーアウト!」球審が叫んだ。「チェンジ!」

 優れた投手と打者、目が合うのは、必然だった。

 「わざと、リリースポイントをずらしていたのですね」

 「覚えておきな、坊や」右手をポケットに突っ込む。「野球はスポーツじゃねえ。命懸けの騙し合いよ」

 ニヒルに決めて、飛びついてきた海原を背負いながら、真田はダッグアウトへと歩を進めた。


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