第6話 鳥取県選挙区代表VS高知県選挙区代表
静寂に包まれた公私宴球場。無人の観客席が反射する鋭い陽光を嫌って、上空には一羽の鳥も寄り付かない。夏だというのに、空はどこまでも高く感じられた。
開会式終了後、丁寧に整備されたフィールドは、清潔だった。そこには四人の男の姿がある。球審と、塁審が三人だ。彼等は全員、公私宴庁に所属する国家公務員である。
一塁側ダッグアウトに陣取るのは、鳥取県選挙区代表。つわものたちの血と涙が染み込んだフィールド、それを目前にすれば、冷めた皆野でさえ無感情ではいられなかった。
「背中の龍が震えてるぜ、未来ちゃん」真田が、皆野のスカジャンを指差した。「びびったかい?」
「暴れたいんだよ」声まで、震えていた。「今すぐに」
強がりではないことを読み取って、真田はニヒルに微笑み、「自営業に向いてるな」とこぼした。
スコアボードの時計が、午後二時を指した。
「これより、第22回夏の公私宴、一回戦第一試合を行います!」球審が、イカルの鳴き声みたいによく通る声で言った。「両チームキャプテン、前へ!」
漢咲と下劣がそれぞれのダッグアウトを出て、ホームベース付近まで歩いていった。
「何をしようってんだい?」皆野は大原に尋ねた。「くだらない形式を見せられるのは御免だぜ」
「じゃんけんで先攻後攻を決めるだけさ」大原は自前の水筒に口を当てた。「すぐに終わる」
「じゃんけん? そんなもんで決めるのかよ」
「甲子園だって、先攻後攻はじゃんけんで決める」蟹江が言った。「何も不自然じゃない」
「先攻でも後攻でも構わないっすから・・・・・・」ベンチに座っている海原が上体を伸ばした。「さっさと試合を始めちゃってほしいっすよ」
「野球っていうスポーツは」真田が海原の隣に座った。「どうしたって後攻が有利な競技なのさ。例えるならば、先攻は貧乏人で、後攻は金持ちってとこだ。どれだけ点を稼いでも安心できない貧乏人と、状況に応じて得点に費やす労力を調整できる金持ち。精神的余裕からして全く違う。正に野球は人間社会の縮図だ」
真田が気持ちよく話している間に、じゃんけんの決着は付いていた。
「よし、勝った! 球審、俺様たちが後攻だ!」下劣はこぶしを突き上げた。「安居川水占の大家に大枚をはたいて、じゃんけんの結果を予想してもらった甲斐があったってものだ!」
「その発言は真実か」球審が問い質した。「公私宴法第225条の2。先攻後攻を決めるじゃんけん、その運の要素を除外したとき、4年以下の懲役若しくは禁錮又は100万円以下の罰金に処する」
「大変だ! それならば検察に立件してもらわないと!」腹の底から、笑う。「公私宴庁単体では、違法の一つも処罰できない! 無力なんだよ、お前らは!」
食い縛った歯がみしみし鳴って、球審の閉じた口から漏れ出た。
「いや、本当に、政治をやるには金がかかる!」笑ったまま、三塁側ダッグアウトへと戻っていく。「じゃんけん一つにも金がかかるんだから! まあ、パー券のキックバックが潤沢だから、痛い出費ではなかったがね!」
「下劣さん」漢咲が、口を開いた。「我々が手にするお金は、議席のために用いるものではなく、国民のために用いるべきものです」
ぴたっと足を止め、振り返った下劣の顔は怒りで歪んでいた。
「偽善者みたいなことを言いやがって! 政治家失格だ、お前は!」
「政治家失格・・・・・・」つぶやいて、漢咲は凛と胸を張った。「ありがとうございます。私はずっと、政治を職業とする人間ではなく、政治で誰かを助けられる人間になりたかった」
全く予期していなかった反応、それがまた癇に障る内容で、下劣は憤死の寸前までいった。
ダッグアウトに駆け込んで、勢いそのままベンチを蹴り、叫ぶ。
「漢咲を、決して、生きて鳥取に帰すな!」
有無を言わさぬ圧力に気押されて、高知県選挙区代表の面々は表情を強張らせた。唯一人、狩谷を除いては。
マニキュアで爪を真っ赤に染めながら、狩谷は穏やかに微笑んでいた。
「狩谷! 何をちんたらしてやがる!」下劣は狩谷にグローブを投げ付けた。「さっさと守備につけ!」
「色が落ちちゃう」
グローブを無視して、他のスターティングメンバーに続きグラウンドへと出て行く。そうして、狩谷はファーストの守備についた。
「これはラッキーですよ」狩谷の守備位置を見て、優崎は安堵の声を出した。「彼が投げる球なんて、想像するだけでも恐ろしかった」
「奴が、あのイケメンよりも恐ろしい球を投げるのかもしれないぜ」マウンドに立つ男を指差す。「見な。メジャーリーガーに混じっても見劣りしない体をしてやがる」
真田の言う通り、高知県選挙区代表のピッチャーは恵まれた体格をしていた。身長、220センチメートルオーバー。体重、120キログラムオーバー。八頭身? 九頭身? 十頭身? 肩幅も、測りようがない。メジャーリーガーどころか、キャプテン翼に混じっても見劣りしない体格だ。
「あのピッチャーが狩谷って奴よりも強いのかどうか・・・・・・」松田が言った。「やってみれば分かるさ」
「松ちゃんの言う通りっす。やる前からびびってちゃ気が持たないっすよ」
「その通りじゃ」楽境がメガホンを口に当てた。「漢咲君! 気負わずいこう!」
木製バットを片手に打席へと向かう漢咲が、「分かりました!」と元気よく答えた。
左投げのピッチャーに対して、両利きの漢咲は右打席に入った。ノーヘルメットだ。
片や、野球のユニフォーム姿。片や、スーツ姿。異種格闘技戦を思わせる構図で、しかし二人の視線はすれ違うことなくしっかりと交わっていた。
言葉はなくとも、二人は正々堂々の真っ向勝負を誓い合った。
球場に迷い込んだ風が、土を払う。それが去ってしまえば、後は凪のよう。
漢咲が、構えた。
「神主打法!」真田の野球好きがうずいて、静寂は破られた。「力みが全くない!」
ピッチャーが、投球モーションに入る。
「トルネード投法!」再びの野球好き。「野郎! 足腰が強いぞ!」
投げられた、硬式球。
マウンドからキャッチャーミットまでの約18メートルの距離、それをまるで感じさせない、正に一瞬で、球はキャッチャーミットに収まった。
「ストライク!」球審が叫んだ。
「速い!」真田も叫ぶ。「素人のストレートじゃない! あれじゃあ、さすがの漢咲さんもバット振れねえ!!」
「球速は160キロメートルっす!」フィールドにスマホのカメラを向けていた海原も、叫ぶ。「スピードガンアプリで計ったから、間違いないっす!」
「野球の神様もとんでもない逸材を生み出しちまったもんだ」真田は足を組み、貧乏ゆすりを始めた。「あのタッパで160キロを放る? えぐ過ぎるだろ」
二球目。初球と全く同じ速度の球が、インローいっぱいに決まる。再び、見逃し。
「コントロールも完璧か!」真田はもう、座ってなどいられなかった。「高低差までクロスファイヤー!」
「間違った! 間違った!」唐突に、海原が慌てた声を出す。「間違ったっす!」
「何をです?」蟹江が問うた。
「このスピードガンアプリ、アメリカ製で、球速表示がキロメートルじゃなくて、マイルだったんす!」
「マイルだと!」鬼気迫る表情で、真田は海原の両肩をつかんだ。「160マイルってことじゃないか!」
「時速160マイル・・・・・・」優崎は頭をかいた。「なんだか、ぴんときませんね」
「1マイルは約1.6キロメートルです」動揺のあまり、蟹江は眼鏡拭きで冷や汗をぬぐっていた。
「つまり、時速160マイルは時速257キロメートルか」動揺を押し殺した声で、松田が言った。
「青い光の超特急よりも速い!」ようやく異常事態を理解した優崎だった。「人間に向かって投げていいんですか、そんな球!?」
「駄目だろ」真田は悲壮感のにじんだ目をピッチャーに向けた。「こいつは、無茶だ。あんなのは、打てない」
「打てるだろ、あんなの」皆野が涼しい顔で言った。「速いだけだ、あんなの」
「素人が、分かったような口をきくんじゃない!」真田は皆野に顔を寄せた。「コントロールも一級品! リリースも見えづらい! 角度もきつい! 更には、ピッチングマシンが投げるような死んだ球ではなく、ノビもキレも生き生きしてやがるときた! それを、打てるだろ、だと!? 野球をなめるんじゃないよ!」
「漢咲の顔をよく見ろよ」皆野は漢咲を顎で指した。「優雅な顔をしているぜ。まるで平日の真昼間からアフタヌーンティーとしゃれこむ紳士みたいだ」
三球目が投げられた。三度の時速160マイル。遊び球の意図はなし。
「賭けてもいい。スコアボードに突き刺さるぜ」
インローからのインハイ。それに対する漢咲は、野球の素人である。中学時代は家庭科部に所属、高校時代は文芸部に所属、大学時代は将棋サークルと囲碁サークルに入り浸り、社会人になって以降はゴルフを少々たしなんだ程度。そんな人間が、プロ野球選手でも手が出ない球を打ち返す術は、ヤマを張る、それ以外になかった。
データがない状態でヤマを張っている。そんなもの、本来であれば運ゲーにすぎない。しかし、漢咲のそれは運と異なる次元にあった。
2027年、とあるキー局のニュース番組にて、政治ジャーナリスト上杉龍は次のように話した。
「政治家に最も必要な能力、それは、先見の明です。しかし、嘆かわしいことに、先見の明を有した政治家は、過去から現在に至るまで、たったの二人しか存在していない。一人は、トルーマンに謝罪をさせた男、法条守。もう一人は、日本の失われた希望、漢咲努大」
この放送終了後、上杉龍はマスメディアの世界から追放された。
政界の生き字引とまで呼ばれた男、上杉龍。彼の目が節穴ではなかったことが、2034年の今、照明された。先見の明を有する漢咲は、ピッチャーが投げるコースさえ、寸分の狂いもなく読み切っていたのだ。
三球目が投げられる直前にホームベースから離れていた漢咲は、インハイを強打するためのスペースを十分に確保していた。後は、バットを振るのみ。肘をコンパクトにたたみ、バットのヘッドを立てた、素晴らしいスイング。必然、ジャストミート。身の毛もよだつ轟音は、アオダモとコルクの悲鳴。
遥か上空に舞い上がった漢咲の打球。センターは、一歩も動けなかった。
まるで羽が生えたかのように飛び続ける打球は、公私宴球場を飛び出し、大城山を飛び出し、辰野町を飛び出し、松本市まで到達して、松本城の大天守に突き刺さった。
ピッチャーの頬を、一筋の汗が伝った。
常軌を逸した場外ホームランで、誰もが呆気に取られていた。格好をつけていた皆野でさえ、ぽかんと口を開けている。
沈黙のなか、漢咲は昔気質なメジャーリーガー張りのポーカーフェイスでダイヤモンドを一周した。
漢咲がダッグアウトに戻って来て、ようやく、鳥取県選挙区代表の面々は先制点を認知し、歓喜に沸いた。
「度肝を抜かれたよ!」真田が漢咲の肩をたたいた。「全盛期の大谷翔平の打球みたいだった!」
「これなら楽勝っすね!」脱いだタンクトップを振り回す海原。「漢咲さんだけでも四得点が確定なんすから!!」
「漢咲さんだけに頼ったりはしませんよ!」優崎は意気揚々と腕を回した。「私たちも続きます! ねえ、真田さん!」
「もちろんだ!」真田は帽子を深くかぶり直した。「俺、優崎ちゃんと続いて、公私宴3連発だ!」
興奮の坩堝、その中心にいて、しかし漢咲の表情は沈んでいた。
「これを」おもむろに、漢咲はバットをかざした。「見てください」
一同、素直にバットを見る。そうして、驚愕。
バットは、絞られた雑巾みたいに捻じ曲がっていた。
「何の冗談です、これは?」優崎の顔から血の気が引いた。「公私宴用のバットが、こんなにも変形するなんて」
公私宴で使用されるバットおよびグローブは全て、公私宴庁が用意した物である。激しい戦いに耐えられるよう、気念を込めて作られたそれらの強度は、CrCoNi合金を遥かに凌駕していた。
「彼の投げる球、その真価は球速やコントロールにはなく、球質にあるのです」漢咲はピッチャーを見やった。「重い球、そんな形容ではまるで足りない・・・・・・火の玉、そう呼ぶのがしっくりくる。気念の力が足りない者が、火の玉をジャストミートしようものなら、インパクトの衝撃に耐えられず、即死するでしょう」
その死の宣告には説得力があった。
数人の目が、泳いだ。
「先程、海原さんは仰った」鳥取県選挙区代表の面々に視線を戻す。「私だけでも四得点が確定、と。皆さんには、その四点を守り切ることに尽力してほしい」
「奴の球には手を出すな」真田の眉間にしわが寄った。「ってことか?」
「その通りです」
「危険だから」しわが深くなる。「ってことか?」
「リスクを負う必要はない」
「弱者扱いか!?」真田は帽子を地面に叩き付けた。「俺は保護されるために長野まで来たわけじゃねえ!」
人類史上ベスト10に入るガンが飛んだ。それから目を逸らすことを、漢咲はしなかった。
真田が、目を切った。帽子を拾い、かぶる。
「フルスイングだ」バットを、握った。「160マイル、しばいたる」
渋いセリフの余韻を纏いつつ、打席に向かって歩き出す。
「止めなくていいんすか!?」海原は漢咲の腕に触れた。「哲さん、マジっすよ!」
「我々は軍隊ではありません」海原の肩にそっと手を置く。「キャプテンとはいえ、私に許されるのはお願いのみです。命令はない。皆さんそれぞれの判断を、尊重します」
「そんな、シビアな」優崎がこぼした。「死んでしまうかもしれないのに」
「真田さんの命も、心も、真田さんのものです」
「僕たちは九人しかいない」蟹江が言う。「一人でも試合続行が不可能となれば、その時点でフォーフィッテッドゲームとなり、鳥取県選挙区代表の敗退が確定する」
「それでも」漢咲は真田を見詰めた。「尊重します」
真田が、右打席に入った。そうして、構える。ガニマタ打法だ。
「投げてみろや、若いの! 野球は年季だってことを教えてやるぜ!」
外野の天然芝まで揺らした大声に、ピッチャーは全く動じなかった。
真田に対する一球目、投げた。安定の160マイルがアウトローに決まる。見逃し、1ストライク。
二球目は、アウトハイ。これまた見逃しで、2ストライク。
「大見得切ったのに、一瞬で追い込まれちまったっす」
「これでいいじゃないですか」優崎は海原に目を向けた。「漢咲さんが言ったように、リスクを負う必要はないのですから」
午後二時八分、気温がこの日最高の38度に達した。手汗を嫌って、ピッチャーはロジンバッグを執拗に握った。
「諸星! 分かっているな!」ピッチャーに向かって、下劣が叫んだ。「仏の顔も二度までだぞ! もう一点取られようものなら、龍河洞収容所にいるお前の親しい人間がどうなるか、分かっているな!」
悲痛で、諸星の顔は歪んだ。ロジンバッグを投げ捨て、思い切り振りかぶる。
三球目は、インローに向かった。しっかりと、ストライクゾーン内だ。
「馬鹿の一つ覚えでストレート! こちとら、わざわざ二球も見逃してるんだぜ! タイミングさえつかんでしまえば、160マイルも100キロも同じよ!」真田、テイクバック。「緩急をつける変化球がないピッチャーは、カモだ! スタンドでは勘弁しない! 富山県まではじき返してやる!」
真田のスイングは、音速を超えていた。これなら160マイルにもアジャストが可能だ。現に、球とバットはショートツ寸前、今すぐかち合いたいよ。
真田は、ホームランを確信した。正にその時、球が何百倍もの重力を受けたように急降下した。
「フォークだ!」
蟹江の判別は、正しかった。恐るべき、ストレートと全く同じ速度のフォークボールだ。
真田のバットが空を切り、球はホームベース付近に深々と突き刺さった。
ホームラン後のセレブレーションまで思い描いていて、精神的ダメージは計り知れず、それでも、一瞬で立ち直る年の功。人生、思い通りにならないことだらけだということは熟知している。
真田は、一塁に向かって全速力で走り出した。
「振り逃げ!」蟹江が叫ぶ。
キャッチャーが、球を手に取ろうとして悪戦苦闘する。なかなか掘り出せない。
「出塁確定っす!」
海原が言った、刹那に、真田はぴたっと足を止めた。一塁ベースにはまだ到達していない。
「真田さん!? まさか、肉離れ!?」
「優崎さん、違います! 狩谷だ! 狩谷の気念に当てられて、動けなくなっているんだ!」
狩谷は、一塁ベースに片足を置き、笑みを浮かべながら、強力な気念を発していた。それによって、真田は蛇ににらまれた蛙のようになり、硬直していたのだ。正に、大原の指摘通りである。
「サービスしてあげるから」狩谷は言った。「いらっしゃいよ」
「お前さんがイカしたネエちゃんなら」引きつる口角を無理やりに上げる。「すぐにでも飛び込むんだがね」
「イカしたネエちゃんより、僕のほうが上手だよ。男の体を理解しているから。さあ、素敵なあなたに、触れさせて」
「変わった趣味だ。こんなおっさんのどこがいい?」
「子供じゃないんだ。見た目なんかで判断しない」狩谷は中指をなめた。「あなたのような生意気さを失っていないおじさんは、そそる」
「身重の女房がいるんだ」冷や汗が目に入った。「悪いね」
「つまらない男」
狩谷は、発する気念を強めた。
ねっとりとした重量感に堪え兼ねて、真田はうつぶせに倒れた。
「まるで・・・・・・」真田がうなる。「子泣き爺を背負わされたみたいだ」
「気念を収めたまえ! 狩谷さん!」漢咲が叫んだ。「故意による殺人は、公私宴で許容される守備の範囲を超えている!」
殺人、というワードで、ダッグアウトに戦慄が走った。
「どういうことですか、漢咲さん!?」優崎の声は裏返っていた。「狩谷さんは気念を発しているだけでしょう!?」
「殺しの道を極めた者であれば、気念を発するだけで人の命を奪えます」
「狩谷が、殺しの道を極めていると?」松田が言った。
「ええ。彼は、殺し屋です」
「さすがだね。世間知らずの坊やではない」狩谷はなめるような眼差しを漢咲に向けた。「嬉しいよ。僕のことを認知していてくれて」
「あなたの顧客には沈没党の関係者も多くいる。野党の人間として、把握はしていました」
「把握はしていても、証拠はつかめていない。僕の仕事が完璧だから」
「狩谷夢彦・・・・・・そんな名前、聞いたこともない」大原がつぶやいた。
「今、言ったばかりでしょ。僕の仕事は完璧。警察のリストに加えられるようなへまはしない」
「どうして、俺が警察だと分かった?」
「分かるさ。裏社会の人間だもの」
狩谷は手で拳銃を形作り、撃つ真似をしてふざけた。
「殺し屋。本当にそんなのがいるのか」松田は首を横に振った。
「いいんすか!? そんなやばい奴が公私宴に出場して!?」声のトーンを制御できず、海原の声は強く響いた。「公私宴法違反!? みたいなやつにはならないんすか!?」
「禁錮以上の刑に処されている間でなければ、殺し屋だろうが何だろうが公私宴の出場権を有しています」
蟹江の説明に納得できず、海原は腕を組み、顔をしかめた。
「時を、失礼、話を戻そう」漢咲が言った。「気念を収めたまえ! 狩谷さん!」
「嫌だ、と言ったら?」
「力尽くです」
漢咲が発した気念、それは、嵐の前の静けさであるように淀みなく澄んでいた。ブラフとは思えないほど、真に迫っている。
「打者と走者、それ以外の出場者が守備に対して攻撃を行えば、一発退場だ」漢咲の気念を感じ取り、狩谷のボトムスは隆起した。「あなたたちは九人しかいないよね。それでも、あなたは、本気・・・・・・本気? たまらない。増々、好きになっちゃう」
「手出し無用だ! 漢咲さん!」真田が、一塁へと這って進みながら、叫んだ。「こんな気念、女房の怒気に比べたら可愛いものだ!」
「そうなの? それじゃあ、マックスまできつくしようか」
有言実行、発する気念を全開にする。
重量感、などという生易しいものではない、真に重量を持った気念に襲われて、真田の体は地面にめり込んだ。骨も、筋も、リアルにみしみしと音を立てる。
「これ以上、見てはいられない!」
優崎がダッグアウトから飛び出そうとして、海原もそれに続こうとした。
「誰も来るんじゃない!」背筋を酷使し、めり込んでいた顔面を地上に出して、真田は声を振り絞った。「一回戦の一回表で敗退なんて、死んでも御免だ! 手出しして退場になった奴は、投入堂から突き落とすぞ!」
その声によって、優崎と海原はフィールドを踏む寸前で制止した。
真田は、モグラのようにして土をかき分けながら進んだ。
「すごいや」狩谷の肌につやが増した。「鳥取県選挙区代表は、いい男パラダイス」
果てしなくゆっくりな前進であっても、前進は前進だ。真田と一塁ベースの距離は、着実に、縮まっていった。
ようやく、キャッチャーが球を掘り出した。すぐさま、狩谷に向かって送球する。
送球の気配を感じ取り、真田は精一杯、右手を伸ばした。その手は、一塁ベースまで後10センチメートル、届かなかった。
塁審が、「アウト!」と叫んだ。
「残念」一塁ベースをつま先でつつきながら、狩谷は気念を収めた。「頑張ったのにね」
弱みを見せぬよう、痛む体に鞭打って、力強く立ち上がる。そうして、真田は血走った眼を狩谷に近付けた。
「殺し屋だってな。それにしては随分と穏便にアウトを取るじゃないか。ベースなんぞ使わないで、タッチアウトついでに俺の心臓をうがってしまえば、お前さんたちの勝ちだったのによ・・・・・・情けをかけたんか!? おお!? なめとんのか!?」
「なめてないよ。僕の気念に当てられた程度では死なないと判断していたんだから」興奮する小型犬に向けるような目で、真田を見詰める。「あなたを殺さなかった理由は一つ。漢咲さんと絡む前に試合を終わらせたくなかっただけ」
「なめてるって言うんだよ、それが!」
「どうしてそんなに怒るの? もしかして、焼きもち?」
デニーズのキャラメルハニーパンケーキ、そのパンケーキとバニラアイスみたいな温度差で、二人は視線を交わらせ続けた。
「鳥取県選挙区代表の2番打者、早くダッグアウトに戻りなさい!」塁審が言った。「試合の進行を遅延させる行為は、最悪、退場処分になるぞ!」
真田は、舌打ちをして、両手をポケットに突っ込み、狩谷に背を向けた。
狩谷は、真田のどっしりした尻を視姦した。
ダッグアウトに戻って、開口一番、「どんな意図があろうとも、俺たちにあんたの本気を疑わせるような言動はとるな! 漢咲努大!」と怒鳴り、真田はベンチにどすんと座った。
「真田さん」漢咲は真田の隣に座った。「あなたの言葉、肝に銘じます。肝に銘じたうえで、私は、誰も死なせないための行動をとり続ける」
「そんな甘ちゃんが勝ち抜けるほど公私宴は甘くない!」
「その甘くない道を行くのが、鳥取県選挙区代表です」
それだけ言い合って、後は、沈黙。ロックバンドのギターとベースが仲違いを始めたときに漂う類の雰囲気が、ダッグアウトを覆った。
静音なんて望めない扇風機が、キュルキュルキュルキュル、不快を奏でる。汗が、まとわり付いた。
「哲さん! アウトになったからって切れちゃ駄目っすよ! ドンマイっす、ドンマイっす!」吹き抜けたのは、海原の明るい声だった。「漢咲さんも、何でもかんでも真面目に答えなくていいんすよ! ドンマイっす、って一言だけで十分なんっすよ、こういう場合! そういうわけで、漢咲さんもドンマイっす!」
中野梓派と秋山澪派の抗争に割って入る琴吹紬派みたいなピュアなメンタルが海原にはあった。
「ほら、優崎さんが打席に立ったっすよ! 哲さん、漢咲さん、せーの、で声援を送りましょう! せーの、怪我しない程度に頑張って!」
海原に釣られて不明瞭な声を出した真田と漢咲は、目を見合わせて、笑った。
「すごいな、海原さんは」と大原が言って、楽境も、「本当に。こんなにも良い若者が日本にはおるんじゃな」と言った。
声援は、ちゃんと優崎に届いていた。緊張がほぐれ、委縮していた体がしゃきっとする。右打席、バットを短く持って、しっかりと構えた。
ストライクゾーンぎりぎりに、球が真っ直ぐ飛んでくる。テイクバックさえないまま、1ストライク。真田のようなタイミングをつかむための見逃し、などではなく、単純に球が速すぎて見えていない。そのまま、二球目、三球目も見逃しで、三振。これで2アウト。
優崎は肩を落とし、神妙な顔でダッグアウトに戻った。
「すみません。何も出来ませんでした」
「ドンマイっす!」海原が明るく言った。
「ドンマイです!」漢咲が続いた。
「ドンマイだ!」真田も続く。
さわやかな励ましを立て続けに浴びて、優崎は屈託のない笑みを浮かべることができた。
良好な雰囲気に背中を押されながら、大原は右打席へと向かった。
「大原さん! 無茶だけはなさらないように!」
優崎に続いて、海原たちも声援を送る。それに、大原は手を挙げて応えた。
ゆっくりと、バットを構える。打ち気は十分、しかし気負いはない。バッターとして理想的な精神状態だ。
諸星が振りかぶる。そうして、160マイルのストレート。アウトコースに決まって、1ストライク。
「打席で見ると更に速いな。まともに打つことは100パーセント不可能だ」
言葉とは裏腹に、まったく絶望していない。その証拠に、うっすらと笑っている。
大原は、静かに気念を発した。
諸星が二球目を投げようとした、そのリリースの刹那に、大原は技名を叫んだ。
「穏やかなる交通!」
技名に呼応して、大原の気念はオーラとなって視覚化し、円形に広がった。
「気念のテリトリーだ!」蟹江が言った。
「なんだ、それは?」皆野が尋ねる。
「特殊な気念の力、その効果を発動できる空間のことだ!」
「特殊な気念の力って、なんだ?」重ねて、尋ねる。
「他者の心身にダメージ以外の負荷を与えるもの、生物以外の物体や環境にのみ影響を与えるもの、それらが特殊な気念に分類される主だったものだ!」嫌な顔一つせず説明してくれる、解説者気質な蟹江であった。「熟練者の多くは、特殊な気念を習得している!」
「百聞は一見に如かず」真田が口を挟んだ。「見なよ、未来ちゃん。ピッチャーが放った球を」
皆野は真田からフィールドへと視線を動かした。そうして、驚愕の声を上げる。
「球が空中で静止してやがる!?」
その言葉通り、諸星が投げた球はホームベース上で静止していた。
「俺を円の中心とした直径5メートル以内のテリトリー、そこを移動する生物以外の物体を静止させられる」大原は言った。「それが、穏やかなる交通だ」
「すごい技だ」真田は両手を上げた。「マッポの恐ろしさを思い出した」
「さすがは大原さんっす!」海原が騒いだ。「これならティーバッティングと同じっすよ!」
静止した球をスタンドまで運ぶつもりの、大きなテイクバック。
大原がバットを振ろうとした、その時、ハッとした漢咲が、叫んだ。
「その球を打ってはいけない!」
危機感を刺激する声に反応して、球に接触する寸前、バットを止める。
「なぜ止めるのですか!?」大原が言った。
「その球は、静止してなお、時速160マイルで移動していた際と同等の破壊力を有している!」
「それは滅茶苦茶ですよ、漢咲さん」蟹江が呆れた声で言った。「移動している物体と静止している物体が同等の力を有するなんて、有り得ない」
「これを、見てください」
漢咲は袖をまくった。
見事に鳥肌の立った腕を見て、蟹江の表情は険しくなった。
「世の中には、摂理を超越した現象が存在します。あの球こそが、正にそれです。衝撃の余り、恥ずかしながら、私の全身はこの有様です」
「あんたほどの男が、全身鳥肌」真田はごくりとつばを飲んだ。「それじゃあ、マジの話か」
「論より証拠だ」
そう言って、大原は屈み、土で団子を作り始めた。
「気念を込めながら作ってやがる」真田が言った。「ああやって作った土団子なら、鉄球よりも強度があるぜ」
大原は立ち上がり、静止している球に出来立てほやほやの土団子を投げ付けた。
鉄球以上の強度を有する土団子は、球に当たった瞬間、爆散した。
飛び散る土が榴弾のようで、大原は目を腕で守った。
「漢咲さんの言う通りだった」そっと腕を下す。「この状態でさえ、危険だ」
静止し続ける球、それが放つ威圧感は正しく抑止力だった。抑止力とは、すなわち恐怖である。
三十秒ほど、場が停滞した。
「爆発物処理みたいなものだ」真田は汗をぬぐった。「あの球に手を出すのは、並大抵の度胸では不可能だ」
状況の変化がないまま、更に三十秒が経過する。
「鳥取県選挙区代表の四番打者」球審が言った。「これ以上は遅延行為に該当するぞ」
大原は、遠く西の空を見詰め、それから、皆野を見やった。
みぞおちが張るような、深呼吸。後にはもう、球だけを見ていた。
「大原ちゃん、打つ気だ」と真田が言って、優崎が、「大原さん」とつぶやいた。
気念を、練る。練った気念は全て、両手に集める。そうして、大原の両手は光り輝いた。
「両手の強度を最大限まで高めている」蟹江の眼鏡が光を反射した。「とてつもない練度だ」
「大原君は本当に交番勤務なのかい、漢咲君?」楽境が尋ねた。「SATにだって、あれほどの強者はそうそうおらんじゃろう」
「穏やかなる交通。あれは本来、交通部にニ十年以上従事した人間が習得できる技です。大原さんはそれを、交通課への実習期間わずか一か月足らずで習得しました」
「天才、なんじゃな」
「ええ。警察史上において有数の」漢咲は力強くうなずいた。「治安維持以上の役割も担える交番に、彼のような優秀な人間がいてくれることは、地域の大きな財産です」
再び、大きなテイクバック。そこからの、フルスイング。
バットの芯が、球に接触した。大原の両手が激しく血を噴いた。
「大原さん!」皆野が叫んだ。
ボウリングボールを金属バットで強打した際に生じる衝撃、その百倍以上の衝撃が両手に及んでいた。すぐさまバットを手放すシチュエーション。しかし大原、かえって強くバットを握る。激痛でさえ揺るがない、決意。そうして、限界まで腰を回し、球に対して更に強い力を加える。反作用で両手のダメージは増し、比例して出血量も増す。
血しぶきが舞うなか、大原はグリップを全力で絞り、球に最後の力を加えた。
強力な力のぶつかり合いで、空間がひしゃげた。まるで横綱同士の立ち合いだ。
バットが、真っ二つに折れる。同時に、穏やかなる交通のテリトリーは消え去り、ライナー性の打球が三遊間に向かって飛んでいった。
サードとショートが飛びつくも、捕球できず、打球は外野の芝でバウンドした。
血まみれの手を大きく振り、一塁へ向かって走る大原。
「レフト前ヒットっす!」海原が歓喜の声を上げた。
「さすが大原ちゃんだ!」真田は海原と肩を組んだ。
「まだです! まだ分からない! 真田さんの二の舞になれば、レフト前ゴロだ!」
蟹江と同じ考えを、レフトも持っていた。上手に捕球を済ませ、素早く一塁へ送球する。
「よし、狩谷! 気念で打者を足止めしろ!」
命令して、すぐ、目を丸くする。狩谷が美顔ローラーでフェイスラインを刺激していたからだ。気念を発するつもりがないことなど一目瞭然の立ち振る舞いである。
「この馬鹿! さっさと俺様の命令通りにしろ!」
下劣の怒声はむなしく響き、大原は一塁を駆け抜けた。
命令だけではなく、レフトからの送球も狩谷はスルーした。それを、カバーに入っていたライトが捕球した。
「今度こそ、レフト前ヒットっす!」
「今度こそ、さすが大原ちゃんだ!」
「審判!」海原と真田の歓声よりも大きな声で、漢咲が言った。「走者の治療のため、タイムを要求します!」
要求が認められ、一時、試合の進行は止まった。
「治癒の気念が使える、儂の出番じゃな」
そう言って、楽境はダッグアウトを出た。
「俺のほうから行きます」という声を挙手で制して、楽境は大原に駆け寄った。
楽境に手を触られて、大原は歯を食いしばった。
「痛いじゃろうが、少し辛抱しておくれ」
触診は三十秒ほど続いた。
「両手とも粉砕骨折」楽境は冷静だった。「腕には損傷なし」
「治療をお願いします」大原は、努めて平生な声を出した。
「もちろんじゃ」
楽境は、大原の右手を両手で優しく包み、気念を発した。
「有機で追肥」
気念が乳白色に輝く光となって、大原の右手に流れ込んだ。すると、砕けていた骨が動き出し、くっつきあい、正常な状態へと立ち所に戻っていった。
「動かしてみなさい」
言われるまま、右手を動かしてみる。握ったり開いたり、指まで動かす。痛みもなく、全て円滑に機能する。
「完治しています」
その声に笑顔を返し、楽境は大原の左手をとった。
左手の治療も終わって、楽境は、「いのちだいじに、じゃぞ」と言い、大原の腰を軽くたたき、ダッグアウトへ戻っていった。
「ありがとうございました、楽境さん」頭を下げる。それから、一塁ベースを踏み、狩谷をにらんだ。「どうして、俺を気念で足止めしなかった?」
「鳥取県選挙区代表で二番目に強い人・・・・・・」美顔ローラーを胸ポケットに仕舞いながら。「味見したいじゃない」
言うや否や、大原の下半身に右手を伸ばす。本日二度目の股ぐら握りだ。
不意打ちに対して、大原が発揮したのは、ネコ科の動物に匹敵する反射神経。股ぐらを握られる前に、右手をつかむことに成功する。自身の右手の平を狩谷の右手の甲に当てる特殊なつかみ方だ。
大原の親指は、狩谷の親指と人差し指の間に入っていた。そのまま、右手を胸の高さまで引き上げる。この時点で、狩谷の右手は完全にひねられていた。逮捕術にある、二カ条という技だ。
ひねりを、大原は更に強めた。狩谷の右手の平が上を向いた。
狩谷は、片膝をついた。
「妻以外の人間に、触れさせるわけにはいかない」
「君も、愛妻家アピールか」筆舌に尽くし難い痛みに襲われながらも、狩谷の声は弾んでいた。「妬ましいね」
二カ条は完璧に極まっている。しかし、大原には全く余裕がなかった。拘束する側の顔が強張り拘束される側の顔が綻ぶ様相は、不気味だった。
大原は、危険物から逃れるようにして狩谷を放した。
「ネコも悪くないかも」まだ痛む右の手首をさすりながら、言う。「でも、僕はやっぱり、タチだ」
大原は、口早に、タイムの終了を塁審に告げた。
「狩谷よりも大原さんのほうが強いんすね」ベンチに腰掛けながら、海原は言った。「ちんこ握りを回避して、合気道みたいな技まで極めたんすから」
「そう感じたのなら、キヨちゃんよ」真田は腕を組んだ。「バットを振ろうだなんて考えるなよ」
「なんすか、それ? 俺は振るっすよ」
「鳥取県選挙区代表の5番打者!」球審が大声を出した。「既に試合は再開しているぞ!」
「やばい! 俺っす!」
立ち上がり、忙しなくバットを手に取って、海原は左打席へと走っていった。
諸星がセットポジションをとり、大原は3メートルのリードをとった。狩谷も今は真面目に、牽制球に対応できる構えをとっている。
クイックモーションで投じられる、一球目。球速、球威ともに全く衰えないストレート。空振りで、1ストライク。
セットポジション。大原のリードは3.5メートルに伸びている。
諸星が、牽制球を投げた。頭から一塁に滑り込む大原。セーフだ。
「盗塁する気だぞ」
さすがは野球好き、真田である。その予測通り、大原のリードは牽制を受けてなお、4メートルまで伸びていた。
執拗に一塁へ鋭い眼差しを向けてから、諸星は投球動作に入った。その完璧なタイミングで、大原がスタートを切る。
海原は、空振り。捕球を済ませたキャッチャーが二塁へ送球する。
座ったままでさえ二塁へのノーバウンド送球が可能な、恐ろしい強肩。完璧なスタート、そのアドバンテージが一切なくなって、大原は勢いそのままスライディングを試みた。
ロックマンよりも円滑なスライディングへの移行が功を奏して、大原の足は球よりも先に二塁に届いた。
「セーフ!」
塁審の声に、ダッグアウトは沸いた。
ノーサイン、独断による盗塁をとがめる者はいなかった。
スポーツとは、流れである。公私宴における野球も例外ではない。英断と良好な雰囲気。今、流れをつかみ掛けているという事実を、海原は理解していた。
「ここでタイムリーを打たなくちゃ、覇王丸の甲板長の名がすたる!」
覇王丸とは、有限会社魚住水産が所有する漁船である。覇王丸で日本海と魚類を相手取るのが、海原の営みなのだ。しかし、その営みは今、国滅同義政権下で奪われつつある。
1960年代前半には60万人以上を数えた日本の漁業就業者も年々減少を続け、2022年の時点で123100人までその数を減らしていた。そうして、2034年7月現在、漁業就業者数は18200人まで落ち込んでいる。ちなみに、2034年の上半期における減少数は49700人であり、この異常な減少を招いた要因は、米中キャパシティ全振り外交の一環として2034年1月の通常国会で内閣が法律案を提出し3月に成立させた漁業中国フル委託関連法にあった。
漁業中国フル委託関連法とは、国内の漁業を廃し日本が消費する海産物を全て中国からの輸入に依存する、というものである。国内の漁業を廃する、とはいっても、日本国憲法第22条第1項によって国民の職業選択の自由は守られているため、沈没党は漁業就業者を自主的な廃業に追い込むべく、彼等を徹底的にいじめ抜いた。その第一手が、漁業中国フル委託関連法の成立に伴う漁業法の改正に便乗して成立させた漁業権オークション制度の施行である。読んで字のごとく、漁業権をオークションにかけるこの制度。オークションへの参加資格は皆無で、国内外問わず、全ての個人、企業が漁業権を獲得できる。国内の漁業就業者の大半が小規模な家族経営である事実を鑑みれば、オークションに巨大企業が参加することがどれほど残酷な行為であるか、分かるだろう。
組合の総力を結集するなどして、どうにか漁業権を競り落とした国内の漁業就業者に対しては、テレビやネットなどを使った国産の海産物へのネガティブキャンペーンで攻撃する。事実無根の風評を流布し、不買運動を扇動し、国内の漁業就業者を窮地に追い込んでいく。そんな非道が日常化した6月、国滅同義は外遊先の北京にて、このように公言した。
「危機に瀕する日本の食料問題、その解決策となる三本の矢。耕種農業米国フル委託関連法、畜産米国フル委託関連法、そして、漁業中国フル委託関連法。日本を救う、私の完璧な施策は今、完遂間近でございます。今回の外遊にて、私は古き友人、虎札家鴨主席から、日本の漁業権を全て中国企業で競り落とす、という約束を取り付けることに成功いたしました。漁業権のスムーズな譲渡を可能とするため、誇り高き日本国民は、今こそ一丸となって、国内の漁業就業者数を0にしなくてはなりません。我々なら、出来る! 日本人なら、出来る! 国益を軽んじ、職業選択の自由などという戯言に胡坐をかく愚か者たちを、今こそ根絶やしにするのです!」
改めて、言おう。海原の営みは、否、食料生産に関わる全ての日本国民の営みは、国滅同義政権下で奪われつつある。
「絶対に、打つっす!」改めて、決意を固める海原。「奈々ちゃんのためにも!」
!?
自ずとマガジンマークが飛び出す発言だった。営みを失う危機に瀕して、しかしそんなことは眼中になく、唯々、推しだけを思う現代人のサガ。
「奈々ちゃんのためにも!」
大事なことだから、二度言う。漁業中国フル委託関連法? いいから有村奈々だ!!
海原の両手が強い光を放つ。練った気念が集まっている。
「すごい練度だ!」蟹江が叫んだ。「大原さんと同等!?」
「両手に気念を集めるのなんて初体験っす! でも、しょっちゅう銛や網に気念を込めているんすから、経験値は十分なんすよ!」
「それにしたって」真田は脱帽した。「初体験の出来じゃない」
「海原君」楽境が鋭い眼光を放った。「あの子もまた、優れた気念の才を有している」
強い打ち気と気念を、キャッチャーも感じ取っていた。タイムを要求し、マウンドへと走っていく。
「もう一度、フォークを要求する」キャッチャーは言った。「安心してくれ。もう二度と、さっきのようなへまはしない」
「信じます」諸星が言った。「井口さん」
井口は諸星の腕を軽くたたき、キャッチャースボックスに戻った。
プレイが再開される。セットポジションでの三球目が、ストライクゾーンのど真ん中に向かっていく。
2ストライクノーボールで放られたど真ん中。プロ野球選手でさえ急いてしまうシチュエーションにあって、海原、球を引き付ける。スイングスピードの自信と漁師の勘が、160マイルを引き付けるという無謀を成立させていた。
球は、ホームベース上に差し掛かったところで急降下した。ど真ん中からでも1バウンド投球となる、お化けもびっくりの落差だ。
超高速で急激に軌道を変化させる球、そんなもの、目で追うだけでも至難の業だ。ましてや、打ち返すなんて不可能・・・・・・そんなふうに考えていた時期が、筆者にもありました。
ウミウ、という鳥がいる。潜水して魚類を捕食する鳥である。その潜水する様は、諸星のフォークに酷似していた。日本海を仕事場とする海原にとって見慣れた軌道である。そうして、音速を超えるスイングだ。必然、バットと球が触れ合う。
完璧なアジャスト、ゆえの強打。直後に襲ってくる、激痛。
「まずい!」漢咲が叫んだ。「フォークボールもストレートと全く同じ威力を有している!」
海原の両手から噴き出す血が、漢咲の発言を立証していた。
「このままでは死んでしまう!」優崎、絶叫。「バットを手放して、海原さん!」
今、バットを手放したらどうなるのか? 答えは、こうだ。バットは球の力によって遥か彼方へ吹き飛ぶ。そうして球は、バットを吹き飛ばしてなお本来の軌道通りに進み、キャッチャーミットに飛び込む。つまり、ファウルチップによるストライク、三振だ。この事実を、海原は理解していた。
「手放すわけには、いかないっす!」海原も、絶叫。「奈々ちゃんを、助けるんす!」
「奈々ちゃん奈々ちゃん奈々ちゃんって!」悪意なく、優崎は続けた。「赤の他人でしょう!?」
禁句だった。それを耳にしてさえ、激高することなく、海原は微笑んだ。
退屈に耐え兼ねて、高校を中退したのが十六歳の夏。中卒を雇用してくれる会社は少なく、魚住水産所属の漁師となった理由は、生活のため、背に腹は代えられなかったから。
漁師としての日々は、スリリングだった。ダイオウイカとプロレスをやった。台風の直撃を受けて北極海まで流された。火器で武装した海賊相手に銛一本で白兵戦を演じた。それでも、退屈はぬぐえなかった。
日々を生きている、それだけ・・・・・・どこまで続くかも分からない、それだけ・・・・・・。
むなしくて、自暴自棄になり、ガラの悪いクラブに入り浸りだしたころ、耳にしたのが、エンジェルイレブンのデビュー曲、this is for youだった。メインボーカルは、有村奈々。圧倒的な歌唱力と表現力に、海原は一瞬で魅了された。
生の歌声を聞いてみたくなり、鳥取市でのライブに足を運んだ。そうして、小さな箱に有村奈々の一生懸命な姿を見つけて、ライブが終わるまでずっと、涙は止まらなかった。
有村奈々と同じ日々を生きている・・・・・・どこまでも続いてほしい・・・・・・。世界はもう、退屈ではなかった。
「赤の他人ではあっても」海原は穏やかに言った。「生きがいをくれた、恩人なんっす」
義理人情に反することなく生きる、それが海原の行動原理。恩人のためならば、命の危険を冒すこともいとわない。
左打席に血の雨が降る。バットが球を押し込んでいく。
どこからともなく、歌が聞こえてきた。
日本海のさざ波が
おいらの子守歌よ
海鳥よ 海鳥よ
陸のお袋に伝えてくんな
俺のお袋はあんただけだが
俺の心は この海のもんよ
日本海の荒波が
おいらの寝床よ
海鳥よ 海鳥よ
陸の女房に伝えてくんな
俺の女房はお前だけだが
俺の体は この海のもんよ
おかずだ おかずだ
ならば一層 網を持て
しけが来る しげが来る
ならば勇んで 銛を持て
凪のあすから 陸に上がるか
なあ 海鳥よ 海鳥よ
凪のあすから
ああ 海鳥よ
「海鳥に託して」蟹江がつぶやいた。「どうして、海のない長野県でこの曲が?」
「信州の海だ!」真田が叫んだ。「キヨちゃんの気概に呼応して、信州の海が歌っているんだ!」
漁師のための歌が流れたなら、もうホームも同然だ。船上にいるかのようにリラックスできる。
理想的な精神状態で、バットは綺麗に振り抜かれた。
はじき返された球はライナーで飛んでいき、三遊間を割ったところでバウンドした。
海原が走り出したときにはもう、大原は三塁ベースに迫っていた。
「狩谷! 殺気を放て!」井口が叫んだ。「レフトゴロでアウトにする!」
「嫌だね」狩谷はあくびをした。「若い子を這いつくばらせる趣味はないんだ」
井口は舌打ちをした。それから、三塁を回った大原を真っすぐに見据えた。
「バックホームだ!」井口は再び叫んだ。
指示通り、捕球を済ませたレフトがバックホーム。構えられたキャッチャーミットに一直線、抜群なコントロールを有したレーザービーム。
「滑り込め!」
真田に言われる前から、大原はヘッドスライディングの動作に移行していた。クロスプレイは覚悟の上だ。
キャッチャーミットに、球が収まった。すぐさまタッチにいく井口。
ヘッドスライディングとタッチ、二つの大きな力が衝突し、ダートサークルの土は猛烈な勢いで噴き上がった。
砂塵が舞い乱れる、とても目を開けていられない環境で、しかし球審の両目は大きく見開かれていた。そうして、大原の手がホームベースに触れる前にキャッチャーミットがタッチを済ませたのを目視する。
「アウト!」口内に土が入ってくるのも構わず、球審は叫んだ。
「アウトだと!?」真田が怒声を上げた。「沈没党の回し者か、球審さんよ!?」
「よしなさい、真田さん」漢咲が真田を制止した。「公私宴の審判は中立です。彼等は、天使と悪魔の戦いでさえ公平にジャッジする」
「漢咲さんの言う通りです」周囲を覆う砂塵が晴れて、姿のはっきりと見えた大原が、言った。「タッチのほうが僅かに早かった」
大原と井口は、既に立ち上がり、にらみ合っていた。
「今のクロスプレイ、あなたは俺に致命傷を与えられたはずだ。後頭部を強打でもしていたならば」
「見くびるな。俺は人を傷付けることを良しとするようなクズじゃない」井口は大原に背を向け、三塁側ダッグアウトに向かって歩き出した。「高知県選挙区代表は、誰も彼もが沈没党なんぞのために戦っているわけではないんだ」
大原は井口の後姿を見詰めた後、一塁を回っていた海原のそばへと走っていった。
二塁ベース付近では、既に楽境が海原の治療にあたっていた。
先刻の大原同様、海原の怪我も有機で追肥によって瞬く間に完治した。
「ナイスバッティングでした」
「大原さんも、ナイスランした」
裏表のない声を掛け合って、二人は笑みを浮かべた。
ダッグアウトに戻ってきた大原と海原を、鳥取県選挙区代表の面々は拍手で迎えた。
「大原ちゃん、キヨちゃん。二人の勝利への意志、確かに感じ取った」そう言って、真田は左手にグローブをはめた。「高知県選挙区代表には一点もやらない。俺の全てを懸けて、投げる」
「ええ! 完封しましょう!」大原も左手にグローブをはめた。
「よし! 気合い入れて守るぞ、お前ら!」
真田に呼応する、「おお!」という声が上がった。そうして、鳥取県選挙区代表は守備についていった。