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公私宴  作者: はんすけ
11/11

第11話 政治家のいない国

 三塁側ダッグアウトが歓喜に沸くころ、高知県選挙区代表の面々が集まったマウンドは重苦しい静寂に支配されていた。静寂の源は、下劣の憤怒。喚き散らすよりよっぽど恐ろしい、静かな怒りだった。

 「とんでもないことですよ、これは、諸星くん」

 自ら作り出した静寂を自ら破る。ねっとりとした丁寧語が、聞く者の心をざわつかせた。

 下劣の顔を直視して、諸星の肝は冷えた。望まずともアスリートである。だからこそ、分かるのだ。筋肉の働きというものが手に取るように分かるのだ。下劣の顔は一見したところ、笑顔。しかしその表情筋は、怒りとして働いている。顔で笑って表情筋で怒る、という不自然。ドーピングで作られた筋肉よりも、歪。金メダリスト養成所にすら存在しない狂気が、そこにはある。

 「3点ビハインドです。クズども相手に、劣勢です」笑顔が、痙攣した。「ホームランを二本も浴び、挙句の果てにビーンボールで漢咲を仕留め損ねる。この失態は、一体全体、何なのでしょう? あなたは役立たずの無能ですか?」

 詰められて、諸星は委縮するばかりだった。ブラック企業なんかにありがちな、不毛。

 見かねて、井口は擁護の声を発しようとした。しかしその声は、下劣が懐から取り出した物を目にするや否や、衝撃の余りに喉の奥底へ引っ込んだ。

 下劣は、ポケモンのレアカードを誇示する小学生みたいにして、一発の弾丸を掌で転がした。

 「これを唯の38口径の弾丸だと思ってはいけませんよ。この弾丸は、気念武器です」


 1955年から1975年まで続いたベトナム戦争。この戦争では、後の世で使用等を禁止あるいは制限される武器が幾つも使用された。ナパーム弾、対人地雷、オレンジ剤・・・・・・そんな凶悪な武器群のなか、CCWによって最も強く禁じられたのが、気念武器である。

 気念武器とは、読んで字のごとく、気念を込めて作った武器である。1962年、アメリカ軍が大気圏内で行った実験によると、産業用程度のニトログリセリンを用いたダイナマイトの製造過程で気念を込めた場合、その威力はツァーリ・ボンバを上回ったとされている。ダイナマイトに関わらず、ありとあらゆる火器、更には刃物等の威力までをも飛躍的に向上させてしまう気念武器の技術を国際社会は恐れ、1983年、CCWの発効と同時に、気念武器の使用および製造および保有および移譲は禁止された。しかし、条約破りは人類の十八番である。俗に言うならず者国家のみならず大国までもが秘密裏に気念武器の製造を続け、そうして必然、数多の気念武器が密売ルートに流れ、2034年現在、世界中に散らばった気念武器の数は12500を超えると推計されている。


 表向き、国際社会において大罪とされている気念武器の保有。それを、国連加盟国の政治家が堂々と見せびらかした、クレイジームーブ。高知県選挙区代表の面々は一層、言葉を失った。

 「井口くん。君のリボルバーはS&W、サクラではないが、38口径だね。貸しなさい」

 言語道断だ! と井口は思った。極刑相当の気念武器所持に加え、刑事に銃を貸せなどと宣う狼藉、許し難し! しかし、相手は沈没党の議員、法が裁ける相手ではない。それじゃあ、歯を食いしばることと拳を強く握りしめることしか出来ない。現に、井口はそうした。

 リボルバーが差し出されるのを、下劣は3秒、待った。何事も1秒しか待たない下劣が、3秒ステイ。そうだというのに、井口がリボルバーを差し出さないものだから、仏の顔も三秒まで、笑顔は怒顔と化した。

 「寄越せと言っているんだ、このウスノロが!」怒顔と同様、安定感のある横暴ボイスだった。「俺様の貴重な時間を無駄にするんじゃねぇ!」

 フリーザ緩急、というコミュニケーションの手法がある。読んで字のごとく、穏和な態度から一転してブチ切れる手法だ。人間は慣れの生物である。怒られ続けた人間は必然、怒られることに慣れる。その慣れを防ぐために、フリーザ緩急はあるのだ。笑顔を押し出し、丁寧語を絞り出し、そうして、相手の怒られる免疫が弱まったタイミングで、ブチ切れる。野球に例えるならば時速90キロメートルのチェンジアップを投げた後に時速160キロメートルのストレートを投げるようなもの。これは、大抵のホモサピエンスに効果的だ。恐怖によって支配する、それを旨とする人間にとって、フリーザ緩急は国語に等しい習得必須の手法。これを下劣がマスターしたのは五歳のとき、生意気な幼稚園教諭を支配下に置くため。正しく、下劣は恐怖による支配の天才だった。

 言わずもがな、警察は縦社会であり、井口は過去、数えきれないほどの怒りを上司から浴びせられてきた。しかし、それらの怒りは良くも悪くも策謀のない純度100パーセントの怒り。フリーザ緩急などという小賢しい手法は、下劣相手が初体験。故に、きいた。初めての睡眠薬みたいに、フリーザ緩急が、きいた。

 脊髄反射で、井口はリボルバーを下劣に差し出した。

 ひったくったリボルバーに、下劣は気念武器の弾丸を装填した。そうして、シリンダーを激しく回し、銃口を諸星に向ける。

 「気念の使い手でさえ、気念武器の前では弱者だ」下劣は舌なめずりした。「この弾丸の直撃はミサイルの直撃に相当するぞ。気念で防御したところで、耐えられまい。諸星、この使い物にならないクズ野郎。俺様のプライドを傷つけた罪、死んで詫びろ」

 そう言った時にはもう、引き金を引いていた。乾いた音が大城山の澄んだ空気を震わせる。諸星が、尻もちをついた。

 すぐに二度目の引き金が引かれた。今度は諸星の悲鳴が大城山の澄んだ空気を震わせた。

 高知県民の、ひいては日本国民の悲鳴に、漢咲が反応した。未だ歓喜に沸くダッグアウト、そこからマウンドを見やり、すぐさま事態を理解する。

 海原が漢咲目掛けて放ったコップ二杯目の水は、熱気だけを冷やして地に染みた。漢咲は、マウンドへと駆け出していた。

 「運がいいな、諸星」言いながら、下劣は三度目、四度目と引き金を引いた。「本当に運がいい。あるいは、運が悪いのか? 恐怖が長引いているわけだからな」

 「もう止めろ!」

 井口と中山が同時に声を上げた。

 「俺様に指図するのか、クズども!? 電話するか!? おお!? 龍河洞再教育収容所に電話するか!?」叫びつつ、五度目の引き金を引いていた。「それで、お前たちの大事な人間に死んでもらうか!?」

 井口と中山に限らず、心ある高知県民は全員、これ以上ないってくらい怒っていた。けれど、その怒りを爆発させることができない。悲しいかな、天秤にかけてしまう。己の大事な人と、目の前で虐げられている人を。そうして、人は傍観者になるのだ。

 「いよいよ死ねるな、諸星」フリーザ緩急とは無関係の、純粋な笑顔を下劣は作った。「それじゃあ、死ね」

 六度目の引き金が、引かれた。死を覚悟して、諸星は目をつぶり、祈った。親方が無事でありますように、と。

 約束された発砲に、悲哀は強まった。目をつぶっているのは諸星だけではない。心ある高知県民は全員、目をつぶっている。地球最後の日に味わうような、絶望感。備える。銃声に、備える。しかし、一向に銃声が聞こえない。恐る恐る、目を開ける。そうして、彼らは見た。倒れたハンマーをつまむ漢咲の姿を。

 下劣の笑顔は、既に消えていた。全身が激しく震えている。しかし、漢咲の指先の力によって固定された銃は、下劣に握られながらも僅かさえ震えなかった。

 「強い武器は、人に向けるものではありません」

 言うや否や、漢咲はハンマーをつまんだ手を少し上げ、リボルバーの銃口を空へと向けさせた。

 「ちょっと待て、漢咲!」これから起きることを悟って、下劣は叫んだ。「輸入品の弾が無駄になる!」

 後は、下劣が悟った通りだった。漢咲の放したハンマーが雷管を叩き、発射された弾は瞬く間に公私宴球場を飛び出し、青空に弾道を描きつつ大気圏へ入り、中間圏に達したところで燃え尽きた。

 「なんてことをしてくれたんだ、漢咲! 輸入品だぞ! この底なしの円安で、輸入品だぞ! 23区にマンションが複数建つ額の円をメキシコ・ペソに両替して買った弾丸が、パアだぞ!」

 「円安が毒なのではありません」漢咲は下劣の目を真っすぐに見詰めた。「過ぎたるが毒なのです」

 「そんな話をしているんじゃない!」怒りが恐怖を上回って、下劣は漢咲の視線に真正面から視線をぶつけた。「歳費やら期末手当やら調査研究広報滞在費やら立法事務費やら公設秘書給与やらパー券のキックバックやら役員報酬やら講演料やら、俺様が汗水流して稼いだ円、それが空の藻屑と化したと、その落とし前をどうつけるのかと、そういう話をしているんだ、俺様は!」

 「マニフェストにある通り、私が総理大臣になった暁には、2034年現在1ドル230円を超えた円を130円台後半にします。そうなれば、下劣さん、あなたの円による購買力は上昇する。これが私の落とし前のつけ方です」

 噛み合わないのであった。かたやプロレスをするつもりでリングに上がっている、かたやボクシングをするつもりでリングに上がっている。それでは噛み合うわけがない。口論がこのような状況に陥った場合、どうすれば己の意見を通せるのか? 初志貫徹である。プロレスをするつもりでリングに上がったのであればプロレスに徹する、ボクシングをするつもりでリングに上がったのであればボクシングに徹する。その鉄則を、下劣が破った。ボクシンググローブを外してプロレスの構えだ。正しく、若さの現れであった。

 「緊縮財政か!? おお!? 今を生きる国民に苦しみを与える極悪人か、貴様は!?」

 「国民のために使われるべきお金を絶つことはしません」

 「円を高くするって言っただろ、お前! 国債を発行してどうやって円を高くするんだよ!」

 「1994年以降、特例国債の発行が常態化して久しい。為替市場が抱く円への危機感がデッドラインのふちまで達している今、特例国債の発行は過去にないリスクを伴います」

 「じゃあ、増税か!? 消費税増税か!? そりゃあ、いいや! 下級国民どもは丸ごと地獄行きだ!」

 「税の正しいあり方は、弁です。財源確保そのものを目的とした税は、誤ったあり方です」

 「それじゃあ、こういう事かい!? 国債は発行しない、増税もしない、それで国民のために使われるべきとかいう綺麗事の金は用意すると、こういう事かい!? おいおいおいおい、漢咲さんよぉ、財源はどうしたんだい!? ええ!? 財源はどうしたんだいって聞いているんだい! 財源を示さねぇ政治家はただの豚だ! 恥を知りなさい、恥を!」

 下劣は、勃起していた。快感なのだ。論破することが快感なのだ。過去、SNSで、テレビの討論番組で、国会で、数多のリベラルを論破してきた。そのたび、今と同様、勃起してきた。快感を貪るほど快感への飢えは増し、そうして、いつしか論は論破のためだけの技術と化し、増々、下劣の論は冴え渡る。ここに生産性はない。あるのは勝者の快感と敗者の屈辱だけ。

 勝利の確信が、下劣の表情筋を解した。

 「財源はあります」

 出鱈目だ、と下劣は思った。リベラルにありがちな苦し紛れだ、という経験則から。苦し紛れに対してカウンターを放つことなど、赤子の手をひねるより容易い。故に下劣は、無防備で、漢咲の次の言葉を、待った。

 「財源は、全ての政治家に支払われる全ての給与です」

 鷺が飛び立つ、その水面に残る小波のような声だった。甲信越は広く晴天、それでいて、遠雷が鳴る。

 漢咲の表情は、偏に穏やかだった。

 「今、なんて?」はっきり聞こえていて、しかし耳を疑って、問う。「なんて、今?」

 「財源は、全ての政治家に支払われる全ての給与です」

 繰り返された声は、先と同じ響きを有した。

 下劣の下劣が、驚くべき速度で収縮した。当然だ、予想外な発言をまともにくらったのだから。その衝撃たるや、スタン・ハンセンのウエスタン・ラリアットを二日酔いの状態で受けたのと同等。

 下劣は、よろめき、尻もちをついた。

 「正気か、漢咲?」声は芯から震えていた。「俺様たちに、俺様たち政治家に、無給で働けと、そう言うのか、貴様は?」

 「無給で働く必要はありません。政治家という職業自体がなくなるのですから」

 「せいじかというしょくぎょうがなくなる?」幼児退行したかのような、下劣の声だった。「なにをいっているのかわからないよ」

 「夏の公私宴終了後、9月の最初の国会で、辞職勧告決議に法的拘束力を追加するとともに辞職勧告決議を衆参両院および全ての地方議会に属する議員に対して内閣の決定のみで可決する法改正を行います。そうして、法改正から1年以内に、全ての議員には辞職していただく。もちろん、私も辞職します」漢咲は自身の胸に手を当てた。「国滅同義政権の8年間で衆参両院および地方議会の議員の給与は1000倍以上上がりました。2034年現在、全ての議員に支払われる年間の給与総額は、100兆円を超えています。この予算をなくし、浮いた予算は全て、社会保障等の必要な事柄にあてる。向こう数年、日本が健全になるまで」

 正しく概念のビッグバンであった。これに拒否反応を示すのは、既存の概念である。支配者が革命を嫌う必然で、下劣は自身のほうけた頭を数回たたき、俺様が既得権益を守護らなければならない! と奮い立った。

 「俺様たち政治家がいなければ、政治はできん! 俺様たち政治家をクビにしたら、予算の配分もできん! 俺様たち政治家がいなければ、何もできん! 漢咲! お前の論は根本から破綻している!」

 「議員総辞職と同時に、衆参両院および地方議会は廃止します。そうして、天皇、官僚、AI、三つの異なる立場の多数決による国の意思決定機関を新たに設ける。地方の意思決定機関は、皇室、出向官僚、AI、この三つで国の意思決定と同じシステムを用います」

 「冒涜だ、そんなものは! 民主主義への冒涜だ! 選挙という崇高なシステムを排した、冒涜だ!」

 「新たな意思決定機関の設立後、四年に一度の間隔で、国民による投票を行います。これは四年間の成果を問う投票であり、その結果によっては、天皇および皇室の参謀人事、官僚人事、AIアルゴリズムに変更を加えます。民主主義の火が絶えることはありません」

 全否定であった。政治家という存在の全否定。怒る。怒り狂う。俺様は偉大イコール政治家は偉大。それすなわち、政治家は不要イコール俺様は不要、なのである。俺様は必要不可欠な人間だ! という自負の強さに比例して、怒りは際限なく強まった。

 「貴様だけは許さんぞ、漢咲!」のどちんこが飛び出しそうなほどの叫びだった。「俺様を否定した貴様だけは、絶対に許さんぞ!」

 「国民のために正しいことをする」飛沫をぶつけられてさえ、漢咲は穏やかなままだった。「それが私の、政治家の、最後の務めです」

 「弱小政党のクズが格好つけやがって・・・・・・弱小政党のクズ? そうか、そうだ! 漢咲、お前は弱小政党のクズなのだ! 参議院における慈愛党の議席数をいってみろ!! 今年と2031年に行われた春の公私宴、その両方で圧勝した政党の名をいってみろ!! 沈没党だ! 俺様の沈没党だ! 参議院は沈没党が支配している! 仮に貴様が夏の公私宴で優勝したとしても、貴様の法案は全て、参議院で否決してやる! どうだ、これで貴様の世迷言が現実になることは決してないと分かっただろう!? ざまあみろ!」 

 「参議院に可決していただく必要はありません。法案は、衆議院の再議決によって通します」

 「夏の公私宴本選に出場している慈愛党のチームは鳥取県選挙区代表だけだろう! 夏の公私宴を優勝したチームが得る議席数は233! 衆議院の再議決が可能となる出席議員3分の2以上の賛成、すなわち310議席には届かない!」生じた余裕で、怒りのボルテージが下がる。「他の野党に協力を求めるか!? 無駄だぞ、漢咲! 与野党問わず、政治家にとって最も重いもの、それは己の議席だ! 己の議席は国民の命より重い・・・・! それが政治家だ! 貴様の馬鹿げた法案に賛同する奴なんぞ、いやしない!」

 漢咲が黙して、下劣は論破を確信した。確信して、しかし、勃起しない。これを異常事態と下劣は認識した。心身ともに絶倫、自分がEDとは無縁の人間だと理解しているから。それでは、なにゆえ勃起しないのか? その答えを得るまでに、さほど時間はかからなかった。過去、数多のリベラルを黙らせてきた経験が、下劣に悟らせた。

 『黙らせてきた連中は等しく、憎悪に顔を歪めていた! その無様な顔はいつだって俺様を愉快にした! しかし、漢咲の顔からは微塵も愉快を得られない! こいつの顔には欠片も憎悪がない! むしろ、こいつの顔にあるのは、慈悲!』下劣が視認した通り、漢咲の顔は観音菩薩みたいだった。『漢咲は言葉に窮して黙しているのではない! 漢咲は、俺様に情けをかけているのだ! 果たし合いで打ち負かした相手にハラキリを促す侍みたいにして! 漢咲は、既に、衆議院の再議決を可能とする根回しを済ませている!』

 そうして、下劣はかつて黙らせてきたリベラルたちと同様に、憎悪を顔面に張り付け、黙した。

 下劣の手から零れ落ちた銃を、漢咲は拾い、井口に差し出した。それを、井口は唖然としたまま受け取った。

 次に、漢咲は尻もちをついたままの諸星に手を差し出した。

 逆光で出来上がったシルエットは巨大で、小柄な梶谷とは似ても似つかないのに、諸星は憧憬を抱いて、「親方」と呟きながら、漢咲の手を握った。

 諸星を立たせると、漢咲は下劣にも手を差し出した。しかし、下劣が漢咲の手を握ることはなかった。

 悲しみを覗かせつつ、漢咲は手を引っ込め、ダッグアウトへと戻っていった。

 台風一過に似た空気を、井口たちは感じた。それを感じている間だけは、楽に呼吸ができた。

 徐に、下劣が立って、空気は再び張り詰めた。

 「諸星・・・・・・お前は、ショートの守備につけ」

 どんな暴力を浴びせられるだろうかと身構えていた諸星は、呆気にとられつつ、「はい!」と裏返った声を出した。

 「審判! ピッチャー交代だ! ピッチャー、人解ひとかい!」叫んで、下劣は苦虫を噛み潰したような顔を作った。「人解を公私宴に出場させることは、器のデカい俺様でさえ躊躇していたことだ。しかし、漢咲の野望を知った今、手段は選んでいられない。政治の1ページに悪魔の名を刻むことになろうとも、議員総辞職などという暴挙は阻止する。何が何でも、俺様の既得権益だけは死守せねばならない」

 一塁側ダッグアウトから、男が一人、出てきた。中肉中背に特徴の乏しい顔、年齢は40代半ばといったところ。日曜日にカフェで見かけても何も感じ得ないであろう風貌、しかしこの男、人解体屋たいやを目にした全員が、幽霊でも見たかのように、青ざめた。

 「どうして、人解体屋がここに居る!?」大原が叫んだ。「彼は、死刑囚だぞ!」

 「ちょっと、審判!」海原がダッグアウトから身を乗り出した。「死刑囚っすよ、死刑囚! たまにしかニュースを見ない俺でも知ってる、日本史上最悪の死刑囚! 公私宴法で、禁固以上の刑に処されている奴は公私宴の出場権を有さないんすよね!? 駄目じゃないっすか、死刑囚がピッチャーやっちゃ!」

 海原の抗議が耳に届いていて、しかし審判団は人解の登板を認めた。

 「どうなってんすか、これ!?」海原は頭を抱えた。「これ、どうなってんすか!?」

 「狼狽えているな、人口最小県のクソガキよ!」下劣が高笑いした。「無知な貴様に教えてやろう! 日本国には恩赦という制度がある! 我らが沈没党の力を以てして、人解に対する有罪判決の効力は消し去ったのだ! 既に、人解は選挙権を有している! 故に、人解の公私宴出場は合法だ!」

 「人解体屋ほど知名度のある死刑囚に恩赦が与えられたら、テレビやネットが大騒ぎになるはずです」優崎が眼鏡の位置を直した。「しかし、そんな話は今の今まで耳にすらしたことがなかった」

 「情報統制さ!」下劣は胸を張った。「オールドメディアもSNSも沈没党のコントロール下にある! 恩赦程度の情報を隠すことなど容易いわ!」

 「合点がいった」松田が前髪を掻き上げた。「過去、国滅同義政権下で、公民権を停止された沈没党の汚職議員どもは間髪を入れず再選してきた。そうして、その事実がメディアを騒がせたことはない。カラクリは全て、恩赦と情報統制」

 「それじゃあ、なんでもありじゃねぇっすか!」海原は天を仰いだ。「なんて国だ!」

 怒り、恐怖、不満、嫌悪・・・・・・それらの感情を浴びれば、人間の心は大なり小なりダメージを受けるものだ。厚顔な下劣でさえ、ノーダメージではない。しかし、ここにノーダメージな人間がいる。そう、人解だ。鳥取県選挙区代表の面々だけでなく、高知県選挙区代表の面々からも受け入れられていない、現状。全方位完全アウェイ、正しく四面楚歌。しかし、ノーダメージ、何も感じていない。

 シャバの空気は、最高であった。例えそれが選挙の中心、公私宴球場だとしても、最高であった。人解は、夢想していた。獄中ではかなわなかった殺人、その再開を、夢想していた。

 マウンドまで、来た。徐に、ピッチャープレートを見下ろす。そうして、人解は腕を組み、唸った。

 『このピッチャープレート、何かに似ている・・・・・・そうだ、思い出した。バラバラにした69人目の子の胸骨に似ているんだ。彼女は、17歳の処女。身長は158センチメートル。体重は55キログラム。肩幅は35センチメートル。胸囲はトップバストで85センチメートル、アンダーバストで74センチメートル。骨盤の横幅は13センチメートル。足のサイズは24センチメートル。右手の甲に古い火傷の痕あり。左膝の裏にイボあり。足に軽度の水虫あり。毛髪量多め、眉毛濃いめ、腋毛薄め、陰毛薄め、背中の毛濃いめ、腕毛薄め、脛毛薄め。虫歯はなし、計4本の親知らずが生えている。視力は0.9。聴力は20dB。嗅覚、味覚、触覚、全て正常。骨密度は1.0g/㎠。腸にガスが溜まりやすい体質。右肺の重さは597グラム、左肺の重さは499グラム。胃の重さは159グラム。大腸の長さは157センチメートル、小腸の長さは708センチメートル。脳の重さは1222グラム。心臓の重さは234グラム。こんなにも素晴らしい彼女を失血死させてしまったのは、僕のミスだ。ごめんよ、ごめんよ、ごめんよ。今度、君に似た子をバラバラにするときは、失血死なんてさせないから、許してね、許してね、許してね』

 謝罪を念じながらも、その顔は微笑んでいた。底のない邪悪を抱えながらも、表面化する存在感は果てしなく平凡だった。

 「分かっているな、人解!」下劣が人解の肩を小突いた。「貴様の役目は鳥取県選挙区代表を打ち負かすことだ! そのための恩赦なのだ! 日本国のために、沈没党のために、俺様のために、全力を尽くせ!」

 汚れを落とすかのように肩をはたきながら、人解は小さくうなずいた。

 「後は、セカンドの守備につく奴だな・・・・・・おいっ、そこのお前!」一塁側ダッグアウトの暗がりに立っていた男を、下劣は指差した。「お前がセカンドだ!」

 指差された男は、大慌てで、セカンドの守備位置へと走った。

 「何をぼさっと立ってやがる!?」井口、中山、諸星をそれぞれ睨み付け、下劣は怒鳴った。「お前らもさっさと守備につけ!」

 「すみません、待ってください」駆け出した諸星を、人解が呼び止めた。「一つだけ、お願いを聞いてほしいのです」

 諸星は、足を止め、振り向いた。そうして目に飛び込んだ、ぬいぐるみを彷彿とさせる人畜無害な趣に、警戒の糸が僅かだが、緩む。

 『この人は、本当に、94人もの命を奪った凶悪犯なのか?』

 「私、野球は初めてなんです。ですから、球の握り方を教えていただきたいのです」

 球を乗せた右の掌を、人解は差し出した。成人男性の平均より小さく、爪が伸びてはいるが、それ以外は極めて清潔な手だった。

 親切、これは美徳である。しかし、物事には必ず表裏がある。親切、その裏は、人間失格ムーブ。太宰治は、拒否の能力のない者の不幸を説いた。そこから学ぶのであれば、人間は、棘が刺さるかのような心の違和に抗うべきだ。そうして、抗った果ての親切であるならば、その裏は、幸福、である。これを哲学という。けれど、悲しいかな、諸星と哲学は地球から海王星までの距離で隔たれている。これは彼の非ではない。10歳から野球サイボーグとして過ごすことを強いられ、16歳から現在に至るまでは野球サイボーグを脱することに多くの労力を割いてきたのだ。哲学に触れる余裕など、あろうはずがない。故に、親切。安直な、親切。くどいようだが、親切は美徳である。諸星は、誤ったわけでは、ない。

 球を受け取り、ストレートの握りを見せてやる。大谷翔平選手に対してサッカーファンが上げる類の感嘆があって、一瞬、諸星は人解が凶悪犯であったことを忘れた。

 「そうやって握るんですね。ありがとうございました」

 言いながら、少し距離を詰め、その際に、躓く。

 意図して空を舞った手指は、諸星の手首を軽く裂いた。軽くではあっても、裂いた箇所ゆえ、多少の出血は、あった。

 「ああ、ごめんなさい」

 言うや否や、人解は諸星の手首に唇を当てた。そうして、間髪入れず、血を吸う。

 事ここに至ってようやく、恐怖センサーが機能した。諸星は、人解を強く押し、後方に大きく飛び退いた。

 押されて、尻もちをついた人解は、口内に溜めた血を、ごくり、と飲み込み、「ごめんなさい」と微笑みながら口にした。

 諸星は、自身を濡らす汗の性質すら分からないまま、「いいえ、大丈夫です」と言い、球を人解のそばに落とした。

 「大した出血ではないけれど、ばい菌が入ったら大変だ」人解は、かわいいキャラクターがプリントされた絆創膏をポケットから取り出した。「どうぞ、使ってください」

 「いいえ、大丈夫です」人解のビー玉みたいな瞳から、諸星は目をそらした。「絆創膏は持っています」

 離れていく諸星から視線を外し、絆創膏をポケットに戻し、球を手に取って、糸あやつり人形みたいに立ち上がる。そうして人解は、打席に入る真田を見やった。

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