87 「戦鬼、心の一句」
雨粒が窓を打つ音で目を覚ました。
「……いい時間だな」
特に何かしらの準備をすることもなく、自室から出て朝の業務にかかる。
刀一本の身、こういう時に自分の在り方をありがたく思う。身だしなみなど煩わしい手順を踏まずに即座に行動へと移せるからだ。
「マスター、朝だ。起きろ」
「ちょっ、ちょっと待って!」
俺がこなすべき仕事……ご主人様を目覚めさせるために彼女の私室をノックすれば、珍しく返答があった。
夏休みも終わりに近い。彼女なりに生活習慣を正そうと奮闘しているのだろう。
俺としては寝惚けてふにゃふにゃしたご主人様も捨てがたいのだが、最近あまり見かけることができていない……無念に思うと同時に、無性に彼女の顔が見たくなってきた。
「開けるぞ」
「だっ、ダメ! 今入っちゃダメ!」
「いいや入るぞ」
「なんで!?」
俺が早く主人の顔を見たいからだ。
焦ったような声へ無情に返す。何に焦っているのかも気になるしな。衣擦れの音もせん。着替え中というわけではなさそうだが。
疑問に思いながら蝶番を回し、彼女がいるであろうベッドへと視線を移した、ところで──、
「お、”オーダー”! 『見ちゃダメ!』」
瞬間、彼女の命に従い俺の視界から光が消失する。まさに目の前が真っ暗になったというやつだ。
その命令ではせいぜい目を開けられない程度だと思ったが、まさか強制的に視界を奪われるとは。オーダーも中々に容赦が無い。
「……何も見えんぞ」
「は、入っちゃダメって言ったっ」
少し拗ねたような声が前方から聞こえてくる。
「なぜだ?」
「だ、だって……髪がセットできてないから……」
「いつものことだろう?」
「今日は特にひどいのっ。もうペッタンコになってて!」
必死な声に頷く。
ああ、雨のせいか。
昨夜から降り続く雨に、主人の髪が湿気を吸い込んだのだな。
「だからといって視界を奪うのはどうなのだ」
「だって……」
だってだって、と我がお姫様は不満げだ。
そんな彼女の声が少しくぐもる。クッションを抱きかかえたか。シーツの音から、足もモジモジと動かしているな。
「……これはプライドの問題よ。好きな人には、いつだって綺麗な姿を見ていて欲しいわ」
「……ほう」
ぽしょぽしょと小さな声だが、その可愛らしい願いはこちらの耳に届いた。
確かに俺の視界を奪えば、俺が彼女の寝乱れた寝間着や湿気を含んだ髪も見ることは叶うまい。
現に俺はこうして、ドア付近で立ち往生しているわけだからな。なるほど、乙女心を守るため俺の視界を奪うという戦略は一見理にかなっている。
五感から得られる情報。特に視覚情報はその約八割を占めると言われている。つまり現在の俺は、本来の機能の約八割を封じられていると言っても過言ではない。
──とでも思ったか?
「そこだぁっ!」
「ひあああああぁぁぁぁああああ!!??」
全力ダッシュし、さながらビーチフラッグを取るかの如くベッド上の彼女へ突撃した。
無視界の戦闘など初歩の初歩。たとえ五感を奪われようとも、俺は敵を掃討できる。そういう造りなのでな。
「ちょ、やっ、離して! えっ、見えてる!?」
「いいや、姿は見えない」
ベット上で絡まり合うようにして。
腕の中で暴れる彼女を抱き締めながらそう返せば、その口から安堵の息が漏れる。
これを隙と思い、険のある雰囲気を漂わせる彼女をより強く抱き締めた。
「も、もう……いきなり何するのよぉ」
「お前が可愛いことを言うからだ」
「人のせいにしないの。あ、んっ、こらぁ……」
言いながら首筋にキスをすれば、強気な言葉とは裏腹にどんどんと抵抗が弱まっていく。ペシペシとこちらの胸を叩くその衝撃すら甘く感じるほどだ。
「……ほ、本当に見えてない?」
「ああ。ここはどのあたりだろうか」
「ひゃうん! ちょ、絶対分かって言ってるでしょう!」
彼女の弱点である耳を的確に攻めれば、可愛らしい悲鳴が上がる。唇をその尖った耳に這わせれば、ビクビクと彼女の身体は震えた。
「や、だめぇ……」
「目が見えないからか、別の部分が鮮明に感じられる。耳は火照って熱く、香りも一段と華やいでいる。声も一層甘美に聞こえる気がするな」
「解説しないで! は、恥ずかしい……!」
耳元で囁くようにすれば、より彼女の身体が熱くなった。嫌なら抵抗すればいいものを、彼女は羞恥に震えるばかりでこちらを払い除けようとはしない。
そういうところが、この戦鬼を悦ばせることを彼女自身が知っているのだった。
そんないじらしい彼女の輪郭をなぞるようにして、唇を滑らせる。視界が悪いゆえ、きちんと隈無く確かめねば。
おでこ、目蓋、頬……。
キスする度に彼女の可憐な相貌が脳内で象られていく。頭の中で像を結んだその表情は、とろとろに蕩けきっていた。
そして、最後に確かめるべき場所を指でなぞる。瑞々しく指を弾き、熱した鉄のように熱い。
「ん……はむ……ちゅ」
そうやって唇に悪戯していたら、戯れるように彼女はその指を口に含む。
ドロドロに熱い口内で、侵入させた指にチクリと痛みが走った。血を吸っているのか。
「ちゅー……ちゅー……」
コクコクと嚥下する音が聞こえる。どうやら今日の血は“当たり”らしい。
「んっ、ちゅぴ……」
しばらく血を吸わせ、ゆっくりと指を抜き取れば、指先にトロッとした感触を覚えた。彼女の甘い唾液か、俺の血か。その判別は付かない。
……俺もそろそろ、限界だ。
彼女の色香に誘われ、その熱い頬に手を寄せた。
「んんっ、だめぇ……」
「ダメなのか?」
「……ダメに、なっちゃう」
「いいことだ。鬼の主に相応しい」
「……ばか」
その言葉を最後に、互いの吐息のみがこの場を支配する。触れ合わせる唇から芳醇な愛情と、羞恥と、食前酒のように甘酸っぱい恋心が流れ込んできた。
ああ、どんどんダメになればいい。
気高き者は時に、堕落も知らねばよき主君とはなり得ない。理想のみの主など絵に描いた餅。下々の喜びを知り、寄り添った時にこそ、民は餅ではなく人として王を慕うのだ。餅を崇める者などいない。
「んっ、んー!」
苦しそうな声に唇を離せば、息も絶え絶えに吐息を漏らす音が聞こえる。
「はー……はー……もう、加減、しなさいよ……」
「すまない」
少々長すぎたか。
思わず謝れば、こちらの頬を包み込む感触。彼女の小さな掌が、愛おしげに頬を撫でた。
「加減してくれないと、何回もできないじゃない……」
「……それは、盲点だった」
ああ……。これでは俺がダメになってしまう。そう思うほどに頭がクラクラした。
可愛い主人の命に従い、今度は小鳥が啄むようにして、小さく何度も唇を触れ合わせる。少しずつ、少しずつ。遊ぶように、悪戯をするように。
「ジン……」
その表情は見えないが、甘い響きが耳朶を打つ。
俺はそんな可愛らしい女王様を、さらなる堕落の園へと引きずり込むのだった。
「……私、淑女なのに」
「可愛かったぞ」
ひとしきり互いの唇を啄み合った後、ベッドの縁に座って彼女を膝の上に乗せる。
そうすれば、落ち込んだようにマスターは言葉を零した。朝から少しはしゃぎすぎたな。
「そういうこと言う……」
「嫌いになったか?」
ポフ、と胸にもたれかかる彼女にそう問い掛ければ「うっさいわねぇ」と唇を尖らせる。
「──あなたなんて大好きよ、ばーか」
「おう。……おう?」
不思議な言葉が返ってきて、一瞬判断に迷ってしまった。
そんな俺の反応を見て満足したのか、マスターはクスクスと笑っている。これは、してやられたな。
「……それで? 湿気がどうのと言っていたが」
敗戦処理代わりにそう問えば、彼女から憂鬱そうな溜め息が漏れる。こういう時は話題を転換するに限る。そもそもそういう話だったしな。
「日本の湿気ってすごいのね。まさかここまでとは思ってなかったわ。ほら」
盲目となった俺の手を握り、自身の金髪へと誘う。
確かに、いつも通りのきめ細やかさだが、少々もっさりしている感触が否めない。誤差の範囲だが。
「エアコンを除湿にしてなかったのよね。もう、これじゃ人前に出られないわ」
「人前云々より俺の視界よ」
「支障なさそうだしいいんじゃない?」
あるぞ。人の気配や物の位置は分かれども、大切な表情や風貌が見えないのだからな。
「リゼットさーん。入りますよー?」
「トーカ?」
そんなやり取りをしていれば、ノックの音と共に妹の声が聞こえてきた。
「湿気で困ってるんじゃないかと思いまして」
「素晴らしいわ。入って――て、あら?」
ん?
なにやらマスターが驚きの声を上げている。何があった?
「じゃーん! 酒上刀花、巻いて参りましたー! そしておはようございます兄さん!!」
「ああ、おは──おふっ」
「きゃっ」
腹に鈍い痛みと衝撃が。
マスターを押しのけ、頭突きを決める妹は朝から元気いっぱいである。だが気になることを言っていたな。巻いてきたとは?
「? 兄さんにしては反応が鈍いですね?」
「すまん。色々あって今は目が見えん。どうなっている?」
「トーカの髪がゆるふわストレートになってるの。大人っぽくて別人みたい、ドレスが映えそうだわ」
おいなんだそれは見たいんだが?
しかし俺の切なる願いは叶えられず、少女達は話を進めていく。
「ふっふっふ、こういう時こそ髪型をいじって楽しまないといけませんよ。というわけで、リゼットさんもどうですか?」
「助かるわ、お願いしていい?」
「任せてください! リゼットさんの髪、一度いじってみたかったんです。あ、兄さんは早く視界を取り戻してくださいね?」
温もりが遠ざかり、キャッキャとドレッサー付近で楽しそうな声がする。
きっとそこには、妖精達が戯れる桃源郷が広がっているはずだというのに……見えぬ!!
「ヘアミストしてー、ブローしてー……やっぱり綺麗ですよねえ。金髪……私も染めてみたいです」
「日本人に金髪は似合わないんじゃない? よくて茶色くらいじゃないと。でも私、トーカの黒髪好きよ」
「むふー、ありがとうございます」
「お゛……お゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛……!!」
愛する少女達が髪をいじり合う光景を前に、俺は怨嗟の声を漏らす。なぜだ……なぜ今、俺の目は役に立たない!!
「リゼットさんはいつもストレートですから、今日は結ってみましょうか」
「ふふ、いつもとは逆ね」
「ポニテにしてみますか? うーんでももう少し捻って……あっ、そうです」
「え、なに……?」
「スプレーで固めてー、余った部分はお団子にしてー……」
気になる。
二人の間に一体何が行われているのか。見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい。
「じゃーん、できましたー! お嬢様といったらこれですよね!」
「これは……」
なんだ!?
「美少女にのみ許された髪型、金髪ツインテールです!」
なんだと!?
「……結構よくない?」
「私もネタでやってみたんですが、普通に似合ってて驚きです。素材が一流だとやっぱり違うんですねえ」
「ふふん、さすが私ね」
「おお、アニメに出てくるお嬢様みたいです!」
きゃあきゃあと盛り上がる二人。
ん゛ー! なぜだ! なぜ混ざれない! 無双の戦鬼は寂゛し゛い゛!!
「どこだ、俺の可愛い妖精達はどこにいる……?」
「ジン、まだ見えないの?」
誰のせいだと。押し入った俺のせいか。
「オーダーを二回使えないのも不便なものね。解除もできないじゃない。多分今日一日、ずっと見えないんじゃない?」
「なん……だと……」
「兄さんが血の涙を……」
ば、馬鹿な……許されていいのかそんなことが?
「今日が終わるまでその姿で待機を……」
「いやお風呂入るし」
「私、その時間寝てますよ?」
かっ、はっ、ふはっ(吐血)
「夏慈雨に 髪結う少女の 艶姿
雫に浮かべど 映ることあらじ──酒上刃」
「兄さんが辞世の句を詠んでます……」
「天気と涙に雫をかけているのね。あ、お腹切った」
少女達の可憐な姿を見ること叶わぬ今生などいらぬわたわけがーーーーーーーーー!!!!
「──む、見えるようになったぞ」
「あなたなんなの……」
「死んだらリセットってことですね」
細かいことはいい。ええい、血が邪魔だ!
俺はすぐさま立ち上がり、スマホを取り出す。
カメラを前にはにかむ少女達の姿は、湿気に負けぬ色彩を写真に刻むのだった。




