84 「極めて冒涜的な何かを感じたわ」
木炭がスケッチブックを擦る音と、少女の鼻唄のみが室内を彩る夏の一コマ。
耳に心地よい音を聴きながら、しかし俺は視線を一所に留めたまま不動。今の俺に、動くことは許されていない。俺に許されているのは最早視覚情報を探ることくらいのものだ。
そんな俺の視線の先には、
「ふんふふーん♪」
木炭を握った腕を動かすたびに、その黒髪をゆらゆら揺らす一人の少女。
イーゼルを前にし、時折こちらをチラチラと見ながらスケッチブックに木炭を滑らせている。上機嫌そうに鼻唄を口ずさみながらも、その瞳は真剣そのもので彼女の真面目さを表していた。
「じー……」
「……」
手を止め、琥珀色の瞳を細めてこちらを観察し出す。その視線を追えば、椅子に座る俺の足から腰、胸、そうして顔へと動いているのが分かった。
「じー……」
「ん……」
そうして視線が止まる。止まった先は俺の瞳だ。くりくりとした大きな妹の瞳は、スケッチブックに芸術を顕現させるべくこちらの情報を読み取ろうとする。
そんな普段あまり見ることができない妹の真剣な瞳に、俺も負けじと熱を灯して視線を返した。
互いの視線が交錯し、絡まり合う。
彼女の背後。窓から吹く涼風がカーテンを揺らす。夏の日差しが彼女の黒髪に反射し、天使の輪を形成し艶やかに輝いている。
……こちらの方が、よほど絵画じみているな。
「……」
「……」
そうしてしばらく見つめ合い……、
「……むふー」
先に表情を崩したのは彼女だった。
へにゃっと、もしくはデレッと頬を緩ませ照れたような笑みを浮かべている。
「ふ……」
そんな彼女の様子に俺も少しおかしくなり、一つ息を漏らした。
実を言えば、さっきからこれの繰り返しだったのだ。まったく、何をしているのだかと思わなくもないが……悪くない。
「……何してるの?」
「マスターか」
ひょっこりと部屋に顔を覗かせた金髪の少女は、クスクスと笑い合う俺達兄妹を怪訝そうに眺めていた。
しかし、イーゼルの前に座り木炭を手にする刀花を見てある程度は察したようだ。
「選択美術の課題です。一つ好きな作品を提出することになっているので、折角なら兄さんにモデルになってもらおうかと」
「ジンがモデルぅ……?」
「何か文句でもあるのか?」
疑わしそうに俺を見るが、マスターは「ふーん……」とだけ言って刀花の手元を覗く。
「って、全然描けてないじゃない」
「あはは、ちょっと遊んじゃってたと言いますか……」
「この状況でどうやって遊んでたのよ……」
そこは兄妹の絆が成せる技よ。俺達ならば互いが盲目でも遊べる自信すらある。
「それにこう、じっと見てるとなんだか気恥ずかしくなっちゃいますし。兄さんカッコいいですから、もうお胸がさっきからキュンキュンしっぱなしで」
「えー……?」
「なぜ微妙そうな顔で俺を見る」
刀花の言葉に、マスターは首をかしげて俺の顔を見ている。俺の顔面に何かご不満でもあるのか?
「うーん、確かに悪くはない顔だとは思うけれど、顔だけでそこまで熱を上げるほどでも──」
「兄さんは世界一かっこいいでしょう!!??」
「うわビックリした」
突然の刀花の主張に、マスターは相当驚いた様子で胸を押さえて冷や汗を流している。俺もビックリした。
「リゼットさんは兄さんのこと好きじゃないんですか!?」
「へっ!? いや、その……す、好き……だけどっ、別に外見で好きになったわけじゃないというか……」
「私はどっちも大好きなんです! いいですか!」
目の座った刀花は木炭を置き、つかつかとこちらに近付いてくる。そうして俺の顔をビッと指差した。
「キリッとした眉に覚悟の決まった力強い瞳! 鼻筋も通って不機嫌そうに歪んでる唇もとってもキュートで同時にかっこいいじゃないですか!!」
「キュートなのかかっこいいのかはっきりなさいな」
俺にも分からん。
だが我が妹にとっては好みにドンピシャらしく、鼻息荒く俺の顔について語っている。
どうも俺の容姿がかっこよく思われていないのが我慢ならないようだ。まあ俺も妹が可愛く思われていないならばその者の目を抉るが。役に立たぬ眼球など捨ててしまえというのだ。
「特にこの冷たそうに見えて、その奥には優しい温かさのある目がいいんです! もっとよく見てください!」
「ちょっ、ちょっと引っ張らないで!」
いまいちよく分かっていなさそうなマスターに業を煮やしたのか、刀花はその腕をつかんで俺の前へと立たせ、ぐいっと顔を近付けさせた。
「ちょっ、ちかっ──」
「どうです、かっこいいでしょうっ」
唇すら届きそうな数センチの距離まで近付いた彼女は、焦ったように声を上げる。しかしガッチリと刀花が頭を固定しているため視線を逸らすことすら出来ない。
「あ、あう……」
そんな彼女をじっと正面から見つめれば、ボフッと頬を真っ赤に染めて縮こまっていく。普段の凛とした雰囲気も好きだが、こうして恥じらっている姿もまた魅力的だった。
「どうです、分かりましたか?」
「わ、分かった……分かったからもうやめて……」
蚊の鳴くような声でボソボソと呟く主に、刀花は満足したような息を漏らしてイーゼルの前に戻っていく。
へなへなとカーペットに沈むマスターを横目に、刀花は再び木炭を持って頭を悩ませ始めた。
「うぅーん、兄さんがかっこよすぎて私の腕では表現しきれません……」
「どれだけ……」
呆れたように言葉を紡ごうとするマスターだが、慌てて口を閉ざす。また刀花に強引に俺の前へ立たされては堪ったものではないとでも思ったのだろう。
うーんうーんと悩む刀花に、俺は少しだけ口を開いた。
「案ずるな刀花、お前の好きに俺を描け。お前の表現する俺こそが真の俺であり、例え上手く描けずともそこに込められた想いが本物であればそれでいいのだ」
「兄さん……ぽっ……」
「なにが『ぽっ』よ……」
我が主は今日はノリが悪いな。大方、ゲームで負けてこっちに来たとかそんなところだろう。
「期待しているぞ、俺の可愛い妹よ」
「むふー、分かりました! よーし、色も塗っちゃいますよ!」
「デッサンに色……?」
熱くなる兄妹愛に、疑問を浮かべるマスター。
しかし刀花はどこ吹く風で、まるで踊るようにスケッチブックに指を滑らせていく。
楽しそうに笑みを浮かべ、彼女の心根と奥底の想いを一枚の紙に乗せていく姿は見ているこちらも笑顔にしてくれる。
──きっと、そこに込められた想いはどこまでも温かく、そして甘い。
俺はそれを楽しみにしながら、静かに目を閉じるのだった。
「できました!」
刀花の元気な声で瞳を開ける。
少し微睡んでいたようだが、どうやら完成したようだ。
俺が席を立てば、近くのソファでスマホを弄っていたマスターも興味深そうに刀花の元へ歩みを寄せた。
「むふふ、じゃあお見せしますよ?」
スケッチブックを後ろ手に持ち、少しイタズラっぽい笑顔で言う妹に微笑ましくなりながら頷く。
「じゃーん、『私の世界一かっこいい兄さん』です!」
満面の笑みで、刀花はスケッチブックを裏返し、
「ひっ──」
それを見た瞬間、隣のマスターが悲鳴を上げた。そこに描き出されていたのは……、
「いやあ、兄さんのこのアンニュイな瞳を表現するのは難しかったですねぇ」
「瞳……? え、瞳どこ……」
そこには、赤と黒がふんだんに使用された俺の似顔絵らしきものが顕現していた。
白い紙いっぱいに、まるで螺旋のように描かれた幾本の線はまさに芸術的。それらの綾模様がさらに力強くぐるぐると渦を巻き、一見では全体像を把握できないところなどまさに天才のそれよ。
「ちょっと待って! 足とか手とか増えてない!?」
「愛の発露ですね」
驚愕するマスターに、しかし刀花は重々しく頷くのみ。実際、この絵からは深く濃厚な愛情しか流れ込んでこない。まさに珠玉の一枚と言えるだろう。
思えば、小学生の頃から刀花の絵は上手かった。授業で描いた絵を発表した瞬間、周囲の子供達が狂喜乱舞したとか。
「ちょっ、ちょっとジン……これはあまりにも──」
回想していると、まるで見てはいけないものを見たかのように顔を青ざめさせるマスターが言いながらこちらを向き、
「ひいいいぃぃぃぃいいぃぃぃいぃぃい!!!??」
絶叫した。
『何を、驚く、ことがある』
ん、喋りにくいな。バランスも取りづらい。
少し調子を確かめるように身体を動かせば、目の前でこちらを見て腰を抜かしたマスターが絶望している様が見える。
まったく嘆かわしい。少し自分の姿を芸術的に仕上げただけだというのに。
「あ、あああああなた! 似顔絵の方に姿を寄せないでよ!! 普通に怖いんだけど!!」
『何を言う。折角俺の可愛い妹がそう表現してくれたのだ。ならば俺もそうあるべきなのはもはや摂理である』
妹は言った。俺在れと。するとそこには俺が在った。
「うっ、二次元が無理矢理三次元に貼り付けられてるこの不気味さ……き、気持ち悪い。頭がおかしくなりそう……!」
失礼な。姿は変われど俺であることには変わりないのだぞ?
俺はそれを証明するべく、腰を抜かす彼女に手を差し伸べた。
『ほら、手を貸そう』
「三本の手を伸ばさないでよ気持ち悪いって言ってるでしょう!?」
猫のように髪を逆立てて激昂する。やれやれ、困ったご主人様だ。
そんな後退りする我が主は隣の刀花に声をかけ、
「と、トーカ。これがあなたの産み出した化け物よ。自覚をもって早くなんとか──」
「兄しゃん、しゅごくかっこいいでしゅ……」
「えええぇえええぇぇぇぇええええ!!??」
バッとマスターが隣を見上げれば、瞳にハートマークを浮かべ、熱くなった頬に両手を当てる妹の姿があった。断続的に熱い息が漏れ、完全に出来上がってしまっている。
そんな刀花に、マスターは追いすがるようにして肩を揺すった。
「ちょっ、トーカ目を覚ましなさい! あんな邪神に発情しちゃダメよ!」
『誰が邪神だ誰が』
「ひぃっ、覗き込まないでよ目が一杯あって気持ち悪い!」
「兄さん素敵……」
「おかしいでしょどう考えても!」
陶然とした様子の刀花に、マスターはもう涙目だ。
「き、禁止! トーカはもう絵を描くの禁止! ジンも! その姿禁止!」
「えー、でもほら、このはちゃんも“いいね”してくれてますよ? リゼットさんが少数派です」
「嘘でしょ……」
刀花がスマホを見せれば、確かに俺の似顔絵を載せた呟きに“いいね”が押されている。返信も来ており『と、とてもクリエイティブでエキゾチックです刀花様!』と書かれている。見る目があるな。
「おかしい、え、私が? 私がおかしい……?」
マスターはわなわなと震え、常識と民主主義の闇を疑っている。
可哀相に、美術的センスがないばかりに……!
「兄さん、その腕でギュってしてください……それだけで妹はもう……」
『ああ、さぁこっちに来い』
「助けて……誰か助けて……」
茫洋とした瞳で、まるで魔性の宝物を前にしたかのようにして手を伸ばす妹と、虚ろな様子で許しを乞う主。
そんな少し混沌渦巻くお屋敷は、今日も平和に夏休みを謳歌するのだった。
──ちなみに、後にあの似顔絵をコンクールに出品したところ、ウチの学園は出禁になったらしい。
ふん、芸術を介さぬ愚か者どもめ。




