77「この後橘さんは『三十かぁ…』と落ち込む彼氏の家にご飯を作りに行きました」
『重ね重ねすみません。荷物まで持ってもらって』
「構わん。また滑らせて、救急車でも呼ばれれば俺の編入試験どころではなくなるからな。ひいては俺のためでもある、気にするな」
申し訳なさそうにしながらスケッチブックを見せてくる少女にそう言いながら、抱える段ボールを持ち直した。
どうも図書委員会とやらの仕事で、この少女は新しく入荷した本を運んでいた途中らしい。
現在、少女一人の腕力では辛いであろう重量の段ボールを抱えながら、俺と少女は三階にある図書室へと向かっている。当初の目的である“女生徒との無用な接触”は失敗か……俺としたことが。
『あわわ、兄さんが普通に女の子とお話ししています……』
『さすがにあそこで立ち去るのは不自然だから仕方ないにしても、ジン? 感覚共有してるからなんとなく分かるんだけど、あなたにしては心穏やかじゃない?』
そうかもしれん。
いつもであれば、ションベン臭いガキのお守りなど願い下げであるが、現状俺の心は平静さを保てている。
というのもこの少女、子ども特有のハツラツさといったものがないのだ。元からの性格ゆえか必要以上の主張もせず、今のところ最低限のコミュニケーションで事が済んでいる。おかげでこちらが気を遣うこともない。効率がよいのはいいことだ。
『まあ橘さんって、その必要以上の言葉を持っていませんしね……』
『失声症……よほどのことがあったんでしょうね。トーカは知らないの?』
『謎です。さすがにプライベートなことは誰も聞けませんからね。おかげで今もこの方が何を考えられているのか分かりません。兄さんのことをどう思っているのかも!』
口惜しげな刀花の声を聞きながら、隣を歩く少女のことを考える。
声が出なくなるほどの失意か……それもまた、俺を鎮める要因の一つだ。
少女の瞳の奥をこっそりと覗き見る。
一見、穏やかそうに見えるその黒い瞳。だがその奥の奥、常人には見ること叶わぬ水底に。この俺には……怨嗟を食む妖刀の俺にはよく見える。
凍り付いた感情の源泉が。外側ではなく、内側に牙を剥く氷獄の伽藍が。その凍てついた風が、その身を凍えさせる様がとてもよく見える。俺の口の端も上がるというものだ。
『ふ、年端もいかない小娘が、いいものを持っているではないか』
『ちょっと、ジン!?』
思わず脳内で呟けば、マスターが焦ったような声で制す。
『うぅ、兄さんの悪い癖です……兄さんって不憫な子が好きなんですよね』
少し語弊はあるが、まあこれも妖刀の性というものだ。
冒険の果てに手に入れるような、聖剣や神刀と俺は違う。
妖刀を振るうは失意の底に沈んだ者や抑えきれぬ悪意や害意を持った者。それが世の道理だ。この少女も、その素質を秘めていると言えるだろう。
だが……、
「ふん……」
視線をきり、つまらなさそうに俺は鼻息を漏らす。
確かにこの少女の瞳には悲壮が見える。過酷な冬の山の頂に生える、氷柱のように鋭く硬い悲哀が。
だが、その隣に寄り添うように……それを徐々に溶かす日溜まりもまた、見えるのだ。
この少女は、既に何か救いを得ている。未だその芽吹きは遠い。だがいつの日か、その温かい何かはこの少女の氷を溶かし尽くし、春の桜花を呼ぶのだろう。
つまりこの少女に、既に妖刀は無用の長物であるというわけだ。
「……」
もう少し早く出会っていれば、俺を握る資格くらいはあったかもな。俺としては美味そうな肉の包装表示を見たら、賞味期限が切れていたようなものだ。
その内側に向いた仄暗い激情……マスターの時のように外側へ撒き散らせば、どれほどの甘露になったことか。いや口惜しい口惜しい。
『りりりリゼットさん! 兄さんが橘さんを熱い瞳で見つめています!!』
『じじじジン!? だ、ダメよ! 見つめるの禁止! めっ!』
『セミロングですか!? それとも黒ストがいいんですかー!?』
『ストッキングなら私も履いてるじゃないのこのおバカ眷属ー!?』
に、賑やかな……。
心配せずとも深入りする気はない。おあずけをされた気分ではあったが。
「……?」
お。
見ているのを感付かれたか。少女が不思議そうに首を傾げている。
「……」
すると、またキュッキュッとスケッチブックに何かを綴り始めた。独特の間を持つ娘だな。
『この時期に編入は珍しいですね』
おずおずと。
少し緊張気味な表情でスケッチブックを見せてきた。
この娘の気性にしては踏み込んだ質問だ。俺が見ていたことで逆に気を遣わせてしまったか。聡い娘だ。
「今まで働いていたのだが、事情が変わり主人と妹に勧められてな」
「???」
また首を傾げられてしまった。まあ詳しく言う必要も無い。
キョトンとした顔をしていた少女は、迷いながらも文字を綴る。
『妹さんがいるのですか?』
「ああ。酒上刀花というのだが、知っているか」
「!」
俺が刀花の名を出せば、少女はポムと納得がいったように手を合わせた。
そうして少しゆっくりと歩きながら、少女はまたペンを走らせる。
『お噂はかねがね。お兄さんのことが大好きな可愛い一年生がいると』
「ほほう?」
『ま、まずいです……兄さんは身内を褒められるのにも弱いんです』
そんなことはないぞ? ただ、人間にしては目の付け所は悪くないと評価を改めるだけだ。審美眼は大事だ。
まあこの小娘も悪くない目を持っている。社交辞令くらいは言っておくか。
「そのうち妹が世話になる時が来るかもしれん、その時はよろしく頼む」
「……」
俺がそう言えば、少女は目を細め……、
「……」
またキュッキュッと文字を綴った。
『似てるんですね、妹さんと』
「そう、か……?」
少女の言葉に、窓ガラスに映った自分の顔を見る。
正直、我が最愛の妹とは似ても似つかない顔がそこには映っている。目つきも悪ければ、妹の天真爛漫さなど欠片もない無愛想。俺は妹の魂をも取り込んで形作られたが、共通していることといえば髪と肌の色くらいだ。
適当を言っているのではないだろうな?
「世辞はいらんぞ」
俺が憮然とそう言えば、少女は首を横に振った。
『外見のことではありませんよ』
互いの歩く靴音と蝉の声のみが場を支配する中で、少女の声と言えるサインペンの音が廊下に響く。なんとも、不思議な感覚だった。
『お互いのことを好きだと貫けるところが、とても似ていると思ったのです。仲がいいんですね』
「……ほう」
微笑ましいものを見るように目を細めて、少女はそう文字を躍らせた。
外見ではなく、心根の話だったか。声を出せない少女には、見えているものが違ったのかもしれない。着眼点が面白い子だ。
「その言葉、ありがたく受け取っておこう、橘とやら」
「♪ ……?」
俺が口の端を上げれば、橘は微笑む。しかしその後不思議そうに首を傾げてしまった。ああ、互いに名乗っていなかったか。
「いや、妹から俺も噂を聞いていたのでな。失礼した。俺の名は酒上刃。まだ編入するとは決まっていないが、編入したら二年生だ」
「っ」
少女は少しおかしそうにコロコロと笑って、ペコリとお辞儀をした。よろしくお願いしますと言いたいらしい。
穏やかな空気が流れる中、俺達は互いに認め合うように笑い合った。
『ぱ、パーフェクトコミュニケーション……』
『ちょっと! ジンが他人の名前覚えちゃったわよ!?』
戦慄するような声が脳内に響く。
失礼な、俺だって他人の名前くらい覚えるぞ。遊園地で迷子になっていた子も……ほら、あれだ。なあ?
『とととトーカ! なんかいい雰囲気なんだけど! まずいんじゃないの!?』
『あ、慌てないでくださいリゼットさん!』
再び図書室へ歩を進める中、二人の焦燥に塗れた声が駆け巡る。
『我々には情報が不足しています。確かに二人は怪しい雰囲気かもしれません。ですが!』
イメージの向こう側で、刀花がクワッと目を見開くような気配がした。
『それは情報が不足しているがゆえです! とある一つの情報を手に入れれば、我々の不安は取り除かれるはずなのです!』
『とある情報!?』
興味深い話をしている。戦略的な話は好きだ。まあ俺は橘に手を出すつもりは毛頭無いが。俺が仕えるには霊力も憎悪も足りん。
この子はきっと、上下というより、隣り合う関係で成長していくタイプだ。俺とは合わん。
『いいですか? ようは前提を崩せばいいんです。橘さんが兄さんを好きになるかもしれないという不安。それを一気に解消する情報です!』
『もったいぶらないで教えなさいな!』
ほう、それは……?
『それはズバリ、“恋人の有無!”橘さんに既に好きな人がいれば、心配なんて最初からしなくていいことになるんですから!』
『刀花、やはり天才か……』
思わず感心してしまう。
なるほど、俺が橘に好かれるとは万に一つも思えないが、橘にもし既に想い人がいれば二人の不安も解消されよう。
『で、でもトーカ。それって結構危ない質問じゃない?』
『そうですね、諸刃の剣と言えるでしょう。もしそう聞いて、“いる”と答えれば安心ですが、もし意味深な態度が帰ってきてしまったら目も当てられません。橘さんはなかなか情報を外に出しませんし、ここで少なくとも現状を把握するくらいはしておきたいところです……ここは慎重に──』
「橘、今恋人はいるのか?」
『『ちょっと──!?』』
「!?」
戦略の話は好きだが、それを力でねじ伏せるのはもっと好きだ。構わんだろう。命のやり取りでもあるまいし。
脳内でぎゃあぎゃあ聞こえるが、無視して橘の反応を伺う。穏当な反応が返ってくればいいのだが。
「~~」
しかし橘は、俺の質問にビクゥッと肩を跳ね上げダラダラと冷や汗をかいている。懸命に平静を装うとしているようだが、身体は落ち着きなく揺れ、視線も定かではない。
急激な状態の変化に俺も疑問を隠せない。これはどういう反応なんだ……?
「……どうなんだ?」
「っ」
再び聞けば、ギュッと目を瞑り深呼吸している。
しばらくした後、意を決したように目を開いたかと思うと、ぎこちなく文字を書き始める。
そうしてスケッチブックに綴られた文字は……、
『いません』
スケッチブックで口元を隠し、こちらを伺うような上目遣いで見ている。それはまるで、小動物が巣穴の奥で威嚇しているような反応だった。
『こ、これはどういう反応なんでしょう解説のリゼットさん!?』
『えぇー!? わ、わかんない! これどういう反応なのー!?』
脳内会議は紛糾している。
怪しい……橘は何かを隠している。恋人の有無で動揺する必然性とは?
『本人は“いない”って、言っているけれど……』
『言葉通りに受け取っちゃいけない気がします!』
『でもそうしたら“いる”ってことになるわ……どういうことなの!? なぜいるならいるって答えないの!? なぜ彼女は動揺しているの!? まさか本当にジンを気に入ったんじゃ!?』
『ま、まさか兄さんをキープしようとしているとか!? 清純そうに見えて、あ、悪女さんだったんですか……!?』
いやそれはないだろう。そういう邪気は感じん。
だが気になるな、その動揺の根源が。二人の精神の安定を乱すのならば問い質したいところだが……。
しかし橘はわたわたと慌てたようにスケッチブックを胸に寄せ、忙しなく文字を綴った。
『あとは真っ直ぐ行けば図書室なのでここで結構です。ありがとうございました。無事受かりましたら、二学期でお会いしましょう』
少し乱れた文字でそう俺に伝え、橘は段ボールを奪うようにして俺から取り上げ足早に去って行った、俺としても、試験の時間が迫っていたのでありがたいことだったが……、
「……真相は闇の中、だな」
『『ええーーーーーーー!!??』』
まあ、さしたる問題でもない。たとえ受かったとしても、次に会うとも限らないのだから。同じクラスになって、近い席に座ってしまうようなことにならなければな。
少女達の悲鳴を聞きながら、俺は試験会場へと踵を返す。
橘愛……なかなか面白い女だったと、そう思いながら。




