70 「天井の染みでも数えててください」
ギシリ、とベッドが軋む音で私は目を覚ました。
(あれ、私……)
朦朧とする意識の中で薄らと目を開ければ、視界に飛び込んでくる黒い長髪にドキリとする。
一瞬、自分の好きな男性の髪かと思ったが、しかしそれはすやすやと心地よさそうに眠る彼の妹のものだった。
(そっか、勉強教えたまま寝落ちして……じゃあここは彼のベッド……?)
それはそれでドキリとし、布団から香る仄かな彼の匂いでさらに鼓動を早くした。
ギシリ……
(……?)
じゃあ彼はどこに、とトーカが眠る姿を正面に捉えながら思えば、自分が目覚める切っ掛けとなった音が再び耳に届く……背後から。
「はぁ……はぁ……」
(っ!?)
徐々に近づいてくる音と彼の荒い吐息にギクリとし、思わずギュッと目を瞑る。え、え、なになになに!?
彼のベッドの上、目の前には彼の妹、そして後ろから近づいてくる彼の気配。それらの要素が寝起きの頭にガツンと衝撃を与え、私の脳は一気に覚醒した。
そして背後の気配はこともあろうに、私を覆うようにしてピタリと止まった。私が下、彼が上という姿勢で。
(え、なんで止まるの!? これじゃまるで私を……はっ!?)
瞬時に思考を巡らせ、彼の不可解な行動に対し一つの解へ至る。
き、聞いたことがあるわ! 日本には好きな異性の寝所に忍び込む文化があるって! 確か──
(こ、これが……音に聞くジャパニーズ・ヨバーイアサガケ文化!?)
とうことは私、今襲われてる!? す、好きな人のベッドの上で、好きな人に!?
な、なんてハレンチな文化なの……やっぱり日本人ってHENTAIなのね……。
(っていうか、寝込みを襲うとか卑劣すぎない?)
慌てつつも、少し冷静になる。そうよ、眷属のくせに私を誰だと思ってるの?
来るなら堂々と正面から来なさいよね。別にその、こ、拒んだりなんてしないのに……。
(あまりに可愛いからって、ご主人様の寝込みを襲うなんてサイテーよサイテー)
これは躾けが必要ね。私は足に力を入れてそう決めた。
ここは一発、ご主人様としての威厳を見せつけて──、
「リゼット……」
うひゃぅん!?
耳元で囁かれる熱い吐息にゾクリとし、へにゃりと身体から力が抜ける。
な、なんて切なそうな声出すのよぉ……そ、そんな声出されたら、私……。
(そ、それによく考えれば、これって私の大勝利じゃない?)
そう、目の前で二人の美少女が並んで寝てるのに、彼は私の所だけに来た。
ということは、彼は妹ではなくこの私を選んだということ。妹ではなく! 私を! この私を!
(も、もう! 仕方のないワンちゃんなんだから! こ、ここはご主人様の懐の深さを見せつける場面なんじゃない!?)
はー、やっぱりご主人様がナンバーワン! 私の勝ち! なんで負けたのか、事後までに考えといてください! じゃあ、いただくわね?
とはいえ私は淑女。目の前で妹が眠る中でがっつくわけにはいかないの。だから私はあくまで襲われる側。仕方なく、そう仕方なーく下僕の欲望を受け止めてあげる心優しいご主人様なの。実は起きててガン待ちしてたなんて知られるわけにはいかないの。
だから早く来なさいよいつまで待たせるのよ心臓が保たないんだけど?
(早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く)
あ、あ、近づいてくる! 彼の身体が密着してくるのが分かる!
あぁ……遂に私、彼のモノになっちゃうのね。
怖い、けどそれ以上に愛おしい。まさか初めてが妹の眠る横でなんて思いもしなかったけど。こ、声我慢できるかしら……。
「リゼット……あ、あ──」
な、なぁに? 愛してる? それとも勉強の成果を見せてアイラブユー? もうなんでもいいから早く言って! 多分私、その言葉一生忘れないわ!
彼が私を優しく包み込む感触の中、寄せられた唇にドキドキしながら耳を澄ませば……ついに彼の口から私に一生を誓う愛の言葉が──
「リゼット……頭が、痛い……」
「は?」
素っ頓狂な声を上げて目を開ける。
そうして私の目に飛び込んでくるのは、愛しさに目を細めた顔でもなく、欲情にのぼせた顔でもなく……、
意識もおぼろげに、グルグルと目を回す戦鬼の姿がそこにはあった。
「きゅう~……」
「ちょ、ちょっとジン!?」
彼の頭が力なく落ちてくる。
うわ、あつ! 彼の頭がおでこに触れた瞬間わかる、この熱さ。尋常な熱さじゃない!
「お、おも……ちょ、と、トーカ! トーカ! 起きてちょうだい!!」
彼の体重で身動きが取れなくなった私は、慌てて隣で眠る彼の妹を起こすのだった。
「いや知恵熱てあなた」
「兄さん! しっかりしてください兄さん!!」
まあ正確にはストレス性高体温症っていうらしいけど。
私はベッドの上で「うーん、うーん」と唸る彼の姿を見て嘆息した。なんて人騒がせな……。
「大、丈夫だ……我こそは、五百の鎌倉幕府を生け贄とし、水酸化カルシウムを媒介に創造された無双の戦鬼でありおりはべりいまそかり……」
「ダメみたいね」
「兄さーん!?」
まったくなんてこと。一日勉強しただけでこれとは……。
やれやれと首を振り、私はこの世の終わりのように泣いて縋り付くトーカを立ち上がらせた。
「ほら、トーカ。しっかりして」
「でも、兄さんが熱を出すなんて初めてで! もし兄さんが死んじゃったら!」
「勉強のし過ぎで死んだ人なんていないから」
それにどうせ何でもないように生き返るでしょこの子。命の軽さにビックリするわ。
「ほら、とりあえずなにか胃に優しいものを作ってちょうだい。身体に栄養を送らないと、治るものも治らないわ」
「わ、わかりました! すぐに作りますので、リゼットさんは兄さんを見ていてあげてください!」
着の身着のままでキッチンへとダッシュするトーカを横目にふう、と一つ息を吐く。
もう、しょうがない子達。まあでも普段お世話されてる立場だから、こういう時くらいはしっかりしないと。おかゆとか作れないし指示しかできないけど。
えーっと、他に私でも出来そうなことは……。
「寒い……」
「え?」
譫言のように呟く彼を見やれば額には汗をかき、着ている着物もぐっしょりと濡れていた。
「……すまないが、マスター……着替えさせてくれないか。着衣を変える気力もなくてな……」
「え!?」
わ、私が!?
着替えさせるってことは、つ、つまり……裸……ってちょっとさっさと脱ぎ出さないでよバカー!?
「っ……ふぅ……」
身体を起こした彼は躊躇なく黒の着流しをガバリとはだけ、その上半身を露わとする。
その服装ゆえか下にはシャツも着ておらず、一枚脱いだだけで彼の素肌が白日の下に晒された。
汗で張り付いた黒髪、普段では見られない潤んだ瞳に火照った顔と身体。そして着物に籠もっていた彼の熱と体臭が解き放たれ、ムッワアァァァ……とベッドの傍に立つ私の鼻腔を刺激した。
(この戦鬼……すけべ過ぎる!!)
頭がクラクラする。
や、やだ……私ったらなんでこんなにドキドキしてるの。
お風呂にも一緒に入って一度は見たはずなのに、熱い吐息を断続的に吐きながら上下する彼の胸板を見てると……なんだかイケナイことをしてる気分になってくる。
「あ、身体、拭かないと……ちょっと待って」
私は頭をブンブンと振って、トーカが用意しておいてくれたお湯とタオルに手を伸ばした。
湯につけてタオルを濡らし、ベッドに上がった私は後ろに回る。そうしてゆっくりと彼のはだけた背中にタオルを滑らせた。
「ど、どう? 気持ちいい?」
「あぁ、とても気持ちいい……」
ちょ、ちょっとぉ、流し目でこっち見ないでよぉ……。
というか私、男の人の素肌触るの初めてかも……固くて、がっしりとしてて、おっきい……。
(いやいや……)
だ、ダメよリゼット=ブルームフィールド。病人相手に何を考えているの。で、でもでも! 仕方なくない? こんなフェロモンをムンムンに漂わせる彼が悪いわ! 私えっちな子じゃないもん!
「すまないな、マスター……」
「……いいのよ、それだけ頑張ったってことなんだから」
彼の珍しく殊勝な言葉に、呆れはすれど怒る気はなかった。
熱が出るほど頑張ったんだから、それは責められることではないだろう。
彼の大きい、だけど今は少し小さく見える背中をタオルで拭く。弛緩した空気が流れ、その作業は滞りなく終わってしまった。えっと、前は……さすがに……。
「あ、あの、背中……終わったんだけど。もしかして、前も……?」
「……頼めるか」
えぇー!? ちょ、えぇー!?
一応といった体で聞いたのに、帰ってきた答えに心臓が飛び出そうになった。
嘘でしょそこは「いやそこはさすがに俺がやる」って返すところでしょー!? なんでやらすのー!?
「ご、ゴクリっ……」
思わず喉が鳴る。
彼は今、着物の上半身をはだけている。この前時代劇で見た桜吹雪を見せつけるゴールデンさんみたいに。
恐る恐る彼の前に回れば、彼の厚い胸板が視界に飛び込んでくる。その光景に耐えきれず、思わず私は下に目をやった。
「!?」
しかし、それは悪手だと悟った。
そう、彼はプライベートでは着物を好む。そして着物では下着を着けないのがマナー。
つまり、なんというか……見えそうなのである。はだけた勢いで乱れた着物が、彼の大事な部分まではだけさせて。ちょ、あ、あ、あんまり動かないで、見えちゃう! あなたの暴れん坊ショーグン見えちゃうからぁ!?
(誰か助けてーーー!?)
目の前の彼と同じくらいグルグルと目を回しながら、私はギュッと目を瞑って彼の身体を拭いていく。さすがにお腹から下はノータッチ! 私には刺激が強すぎる!! よし、あとちょっとで──!
「うっ、頭が……」
「へうぅぅぅ~~~~!? ちょっとーーーー!?」
終わる、というところで彼が頭を押さえ倒れ込んできた。
彼の体重に抗えず、再び彼が上、私が下という体勢を取られてしまう。
彼の素肌が密着して、体温がダイレクトに伝わってくる。その点で今朝より刺激的で、私の脳はパニックに陥った。
(だ、ダメダメダメ! これはダ──ひゃうん!? 息が! 首筋に! はわわわわ男の人の匂い! すごい! 手が腰ぃ!)
し、死ぬ……死んじゃう! 心臓が破裂しそう!
「すまない、マスター……少し、このままで」
殺す気!?
あまりの事態に戦慄する私もお構いなしに、彼は「マスター、ひんやり……」と心地よさそうにさらに密着してきた。あばばばばばば。
(も、もうダメ──)
もう何でもいいから私を助けて! じゃないと私……私!
「お待たせしましたー! あなたのナースエンジェル、刀花──」
「と、トーカ、助けて……」
もうダメかと思われた刹那、扉が開き天の助けが現れた。
大急ぎで作ったおかゆをお盆に載せたトーカは、扉を開けた瞬間に固まってしまう……が、涙目で震える私と、自分の兄が上半身裸で私を押し倒す光景を認め──、
「……にーいさん♪」
にっこりと、天使のような悪魔の笑みを浮かべた。こういう時、やっぱりこの子は戦鬼の妹なんだなって実感する。
彼女はニコニコとしながらお盆をテーブルに置き、その上からおかゆではない別の物を取り上げた。
パチンというゴムの音。それを聞き、ジンは顔を上げておぼろげに妹の名を呼んだ。
「と、うか……」
「はい、あなたの可愛い妹の刀花ですよ。ということでお尻を上げてくださいね?」
「なに……?」
トーカが鳴らしたゴムの音。それは彼女の手に装着されたゴム手袋から発せられたものだ。そして、その手袋に包まれた指先が摘まむものとは……、
「熱でおいたをする兄さんには、”座薬”を入れましょうねぇ~……」
「!?」
白く長細いカプセルを持つトーカがゆっくりと近づいてくる。なんでだろう、治療行為のはずなのにすごい迫力だった。
「い、いや、刀花……それはさすがに兄としての尊厳が……」
『座薬』の言葉で朦朧とした意識が覚醒したのか、ジンは慌てた様子で話し出す。だが、身体はぐったりとし、相変わらず私を押し倒す形のため尊厳とやらの説得力はなかった。
「むふー、いい体勢ですね? 大丈夫です。優しくしますから……痛いのは最初だけです。先っちょだけですから」
先っちょだけだととんでもない格好になるけどそれでいいの……?
どうでもいいことを考えている間に、トーカはジンの後ろに回り、女の子のスカートを捲るようにペロンと彼の着物の裾を捲った。こ、こっちからは見えないけど、今ジンのお尻が……!
「ふふ、とっても可愛いです兄さん……」
「や、やめ、刀花……あ、あ──」
そして怪しい笑みを浮かべたトーカは、彼の言い分も聞かず静かに狙いを定め……!
「あ、あ……アッーーーーー!」
……これ以上は、筆舌に尽くしがたい。
これにて朝の騒動は終着を迎える。
ただ、彼の尊厳は木っ端微塵に打ち砕かれたということだけは記しておきましょう……。




