538 「その先」
──負けた。
「う、あぁ……!」
グチャグチャに回る視界。床を跳ねるごとに走る全身への激痛。大きな混乱が脳内を占め、何も分からぬままに身体が甲板を滑っていく。
「あうぅっ……!」
ボールのように転がる身体がようやく止まり、無様に地に伏せ、そうして敗北を悟ったのは──、
「げほっ……あ、ぐ……!」
私……ルナリスルージュ=シルバーグローだった。
盾代わりに握った銀槍は今や大きくひしゃげ、交通事故にでも遭った歪な標識を思わせる。銀の輝きもくすんでしまい、浴びせかけられた返礼の苛烈さを際立たせていた。
「う、ぐぅ……!」
全身が痛い。
ドロリとした不快な感触が口元を汚す。痙攣した手で確認することもできないが、鼻血でも出ているのだろう。顔面が床を殴打する内に、鼻の骨でも折れたか……呼吸するだけで全身が痛むため、鼻だけならまだマシな状態なのかもしれない。
「……天晴れ」
そうして。
一撃でそんな虫の息となった私へ、上から声がかけられる。大きな傲慢さと、しかし一欠片の感嘆すら含んだ声色で。
リゼット=ブルームフィールドの、たった一人の眷属。
無双の戦鬼。その身体は──無情にも、無傷。
「まさに、今持てる総力と呼ぶに相応しい力の奔流だった。一つの余分も無く、そして全てを必要とした連携。美しさすら感じたぞ」
そう、彼の言う通り。
私を含めた百の眷属は、その総力を挙げて彼に挑んだ。連携だって完璧だったはずだ。
前衛と中衛で時間を稼ぎ、後衛の火力で殲滅にかかる。後衛の放った火力は、結界さえ無ければこの船さえ一瞬で沈めるほどの力を備えていた。
そして、それをも目眩ましにした……本命の一撃。私の銀槍で確実にその首を穿ち、勝利を掴む。
……その、はずだった。作戦も上手く嵌まっていた。無双の戦鬼たる機巧の構造上、決死の覚悟で挑めば、彼はそれに正面から相対すると分かっていた。
彼の本質は妖刀にして、鬼。"王の資格を持つ者を試さずにはいられない"。"宝物が如き魂の輝きを近くで浴びたい"。その欲求には決して抗えないと、私は知っていた。
「けほっ、けほっ……」
だって……私は、彼の大ファンなのだから……。
彼が"無双の戦鬼"であると知れていれば、昨夜と違ってやりようもあった。ファンである私だからこそ、立てられる策があった。
だけど──届かなかった。
いや、届いていたはずだった。
血反吐を吐く思いで銀術を修め、それ以来流し込み続けた数年分の濃密な魔力。それがたっぷりと詰まった秘蔵の銀は、たとえ無双の戦鬼の肌でも貫けると確信していた。
避けられるのも想定済み。何度だって槍を歪曲させ、その首に穴を空けるつもりだった。
しかし……その首に穂先が触れた瞬間、彼の姿が一瞬掻き消えたのだ。
次の瞬間には、"こう"なっていた。混乱が収まってきた私は、そこへ至る過程に見当をつける。
(……蹴り)
──無双の戦鬼に近接戦を挑むのならば、刀よりもまず足に注意せよ。
クラスタのホームページ、そのどこかに書かれていた警句。一度だけ見たことがあるそれの意味を今、理解した。
つまり私の槍が触れた瞬間、彼はそれが首の肉を抉るより先に、稲妻が如き強烈な後ろ回し蹴りを放ったのだ。
"王権"であらゆる感覚や肉体を強化した状態の私であっても目で追えず、防御に移行する暇さえ無かった。"閃光"の異名を持つバチカンの剣姫でも、反応できるかどうか疑問が残る。
槍が盾代わりになったのは、恐らく彼がそうなるようにしてくれただけ。でなければ、私の胴が代わりにひしゃげていたであろうことは想像に難くない。
足を封じ、その次に手を封じ。だが次の瞬間、再び足を使われた。あの一瞬で、体勢を立て直されたのだ。
足りなかったのは……あと一歩分だけの、速さ。
「く、うぅ……」
そこに至り、霞む視界の中で涙が滲む。
遅い、と。いつだって、その一歩が遅いのだと言われている気分だった。
「世に百もおらん銀術使い。体裁きからして、相当な槍術も修めている。ククク、お転婆なお嬢様であることだ……オーダーの使い方もな。あれはなんだ、マスター?」
「……"王権"。眷属ではなく、自分にかける絶大なオーダー。眷属へのオーダーも強力だけれど、あれは主人の力の一部を分け与えているだけに過ぎないから」
「斯様な派生系があるのだな」
「もともとこっちが本来の使い方なのよ。後に派生したのが、眷属への"命令権"の方。他にも相当な習熟が必要だけれど、天候や自然物を操る"天権"とか。眷属でもない他人を操る"強権"とか。見たことはないけれど、あの言霊使いにも似た力を行使できると言われている"絶位命令権"なんてのも存在するらしいわね」
「……ほう?」
「それで、それらの源流である王権の凄まじさはご覧の通り。使用後にはほぼ全ての体力と魔力を使い尽くす代わりに、個体によっては眷属へ下すオーダーの百倍にも近い効力を得られるのだとか。一日一回しか使えない、文字通り吸血鬼の切り札よ」
吸血鬼にとっての常識を述べる、ブルームフィールドさん。
こちらの手札を明かすその口振りには、しかし得意さの欠片もなく……なぜか、灰昏い感情が見え隠れしているように聞こえた。
「ほう。そのような手札を見られたこと、光栄に思う。実に見事だった」
その感情の源泉を判断する前に、彼は頷きそんな言葉を放つ。この決闘に終止符を打つかのように、その口調は軽やかだ。視線は動かせないが、周囲の観客達も一様に拍手など送ってくれている。
「お嬢、様……」
あぁ……悔しい。
それはきっと私だけではない。周囲に倒れ伏す眷属達の瞳にもまた、涙と共に同じ感情が宿っている。私を呼ぶ声には、慮る色さえ感じられた。
言ってしまえば、この決闘において囮になれと命じた……私なんかに対して。
(……ごめんなさい)
呟くことはせず、心の中で詫びる。これを口にすることは許されない。それは私に勝利を捧げるために従ってくれた彼等を、侮辱する行為に他ならないから。
一瞬で意識を刈り取られる恐怖に耐えながら、最も果敢に攻め続けてくれた前衛のみんな。ごめんなさい。
味方に矢弾が当たるかもしれないという強い緊張に苛まれながら、完璧な仕事をしてくれた中衛のみんな。ごめんなさい……。
そしてその魔力尽き果てるまで、一つの魔術に魂を込めてくれた後衛のみんな。ごめん、なさい……。
「うぅ、うぅぅぅ……」
「お嬢様……」
皆がくれた、チャンスだったのに。
こんな私のワガママに、文句も言わず付き合ってくれたみんなが、必死でこじ開けてくれたチャンスだったのに!
血が出るほどに拳を握る。情けなく流れる大粒の涙が、どうか止まってくれるようにと。
(ああ……)
だけど……どこか、晴れやかな気分でもあった。
まさに全力だった。全てをぶつけたという実感があった。
それにどこかで……こうなると分かっていた自分が存在したのも、否定はできない。
だって相手は、最凶最悪の無双の戦鬼。あらゆる策を正面から捩じ伏せるために生まれてきた殺戮兵器。既存の戦力で策を練る私達とは、すこぶる相性が悪い。
それを相手に、一瞬とはいえその虚を突けたのだから……よくやったのではないか。そんな感慨さえ、胸を過ぎった。
「ルナリスルージュ=シルバーグロー」
カラン、コロンと。
下駄の雅な音色と共に私を呼ぶ、無双の戦鬼。
私が今持てる輝きは、充分に見せた。そんな私に歩みを寄せるのは、その健闘を称えるためか。
それとも、倒れる私に向けて手を伸ばし「よくやった」と引き上げ、褒めてくれるためか。
「ク、ハハハ……」
「っ」
だが──いずれも違っていた。
嗤いながら、日を遮るかのように立つ漆黒の影。傍らでこちらを見下ろす鬼。悪鬼。
逆光の中で僅かに見える、彼の瞳が……冷徹に告げている。私の浅い考えを、奈落に落とすべく。
「それで?」
「あ──」
喜悦に歪む黒瞳で。三日月に歪む唇で。
ボロボロになった私に向けて……貪欲に、この"次"を求めていた。
「──」
絶句した。
これ以上、私に何を求めるというのか。
自慢の眷属達は既に死に体。吸血鬼の切り札たる王権の使用により、私が眷属に下せるオーダーも最早精々一度か二度。私の装具である銀の魔力も尽き、修復が必要なほどに傷付いている。
衣服は破れ、顔は涙と鼻血で見られたものではなく、美しさの欠片も残していない。
眷属達も同様で、特に一つ上の技を見せる戦鬼を見ては、それを参考にするように限界をも超えて食らい付いていた。もう指一本、動かせないだろう。
全て出した。持ち得るもの全てを。"今の私"が持ち得るものは、全て……。
「ハハハ……」
しかし。
目前の妖刀は、愉悦の笑みで否定する。『まだだ』と。しかしいったい何が……。
その答えは……ふと横に流れた視線の先。この作戦の……いいえ、ずっと私達シルバーグローの必勝を支えてくれていた、一人の眷属を捉えている。
「──っ」
白黒の給仕服。髪は黒のミディアムで、物静かな印象の顔立ちをした少女。今は戦鬼の視線を受け、恐怖に身を竦ませている。
複製魔術師・セーラ。かつて、その強大な魔術の才を暴走させ、親や友人を際限なく“複製”してしまったことで、故郷を追われた私より年下の少女。
その後一つ前の吸血鬼に拾われ、盗品の宝石や絵画を無理矢理複製させられていた。拒めば酷い折檻を受け、私達が救出に向かった時にはほとんどの感情を失っていた。そんな生い立ちを持つ少女だ。
「っ」
望まぬ魔術の行使を強制させられていた少女。
それに目をつける悪鬼。
(ああ──)
そうして……その視線の意味を、理解する私。
この悪鬼は言っているのだ。眷属達は限界を超え、その輝きを見せた。
ならば……『今度は、お前の番だ』と。
既存の戦力では足りない。“今の私”では届かないのなら──、
「クハハハハ……」
今の“その先”に挑まなければ、決して超えられはしないのだと……!
「セーラ……ごめんね……」
「お嬢様、だめ……だめ……」
私が力無く断れば、セーラは涙ながらに首を横に振る。
望まない複製をお願いするご主人様で、ごめんなさい。そんな私すら心配してくれて、ありがとう。
契約のラインを使って、彼女にイメージを流し込む。先刻、一度だけ手に触れた物のイメージを。
「“命令権”『複製魔術、起動』」
「あ、ああ……」
倒れ伏す床に煌々とした魔術陣が展開し……次第にドス黒く濁っていく。
そうして黒く穢れた魔力が収まり、そこに現れた物を見て戦鬼も吐息を漏らした。
「ほう」
それは鞘に収まった……一振りの、日本刀。
戦鬼形態を複製すれば、直ぐさま暴れ出すのは昨夜に見た通り。刀の形態ならば、今はまだ大人しいと踏んでこの姿を複製させたのだ。
「……あなた、まさか」
ブルームフィードさんが、瞠目して呟く。その紅い瞳には憂いすら見て取れる。
(ああ、ブルームフィールドさん……)
私が勝手に憧れて、その強い生き方を羨んだ美しい少女。
だけどその心の内に、深い闇を住まわせていた……一人の、か弱いただの女の子。
(今……)
思えば、失礼な話だった。
彼女の見ている景色も知らず、一方的に手を差し伸べたかったと思うなんて。
だから──、
(今、そちらに行きます……)
知るために。
胸を張って、彼女の隣に並び立つために。
「ハハハハハハハ……」
私は──昏く深い妖刀へと、手を伸ばした。




