41 「可能性はあったでしょ!」
落ち着いて、落ち着いて……。
夏の虫がさざめく夜に。
私は廊下に一人、眷属の居室を前にして胸を高鳴らせていた。
「ゴクリ……」
緊張で喉が渇く。夏の暑さも手伝い、折角お風呂に入った後だというのにしっとりと肌が汗ばんできた。それというのもジンが──
『風呂に入った後、俺の部屋に来てくれ』
『今夜、お前を大人にしてやるからな』
なんて言ったからである。
これってつまり……そ、そういうことなんじゃないの? まったく、”そういうこと”はしないとか言っておきながら……もう。もうもう!
私はそれを前提に、ドアをノックする前にもう一度自分の姿を確認する。
いつも寝間着として着用しているネグリジェではなく、可愛らしさを求めたベビードール。さすがに透け透けのものを着るのは勇気が出ず、装飾のリボンや刺繍が少し多めの、下品にならない程度のものを選んできた。
下着も上下揃いの新品をつけたし、お風呂で念入りに身体を洗ったし、お気に入りの香水もつけてきた。
まさに完全武装。これまでにないほど女として気合いの入った私。戦鬼もイチコロ。ゆえに恐れることなど何もない……はず、なのに。
「うぅ~……」
後は彼がいる部屋のドアを開けるだけなのに、最後の一歩が踏み出せない。先程からずっとこの調子である。何度も自分の姿を確認し、何度も深呼吸。この繰り返しだ。
落ち着かず、意味もなくドアの前を行ったり来たりする。そんな挙動不審な自分を見る者の気配は他にない。
ちなみにトーカは既に寝ている。どうもこの時間を二人だけで過ごすために、ジンが昼間に全力でトーカと遊んで体力を使いきらせたらしい。ここが人目のつかない郊外の森であるのをいいことに、結構好き放題に庭でやったようだ。
私はずっと部屋にいたけれど、なにやら巨大な影が窓から差し込んだり、ブッピガァンという珍妙な駆動音が庭から聞こえてきたりしていた。いったい彼は何を出したのだろう……私は怖くて見られなかった。
──話が逸れたが、そうして舞台がお膳立てされ、彼と私はこの夜二人きり。緊張するなと言う方が無理な話だ。
というか私手ぶらで来ちゃったけれど、それでよかったのかしら……? こういうときの日本の作法ってよく知らないのだけれど。
「あ!」
ちょっと待って!
私はハッとする。そういえば聞いたことがある……日本では大事な訪問をする際には”ツマラナイモノ”を持っていくと!
「あわわわわ……」
あわあわと慌てる。なんで昼間に思い当たっていなかったの私のバカバカ!
ど、どうしよう……彼にとってツマラナイモノってなに? そもそもなんで大事な用件なのにツマラナイモノなの? だけど持っていかないとスゴイシツレイらしいし!
「……え、えい!」
何も思い浮かばない私は、苦し紛れに鋭い爪で指の腹をつつく。針でつついた程度の傷口からぷっくりと浮いてきた血の玉に意識を集中させ、霊力を送り込み念じた。
すると指で肥大化する血がぐにゃぐにゃと姿を変えていく。時に念じ、時に指揮をするように指を振りながら形を整えていく。そうして──
「……こんな、感じ?」
最後に凝固を念じ、出来を確かめる。
その手のひらにあるものは血を操り作った、バラの造花だ。花弁の形も上手くできている。
吸血鬼は血を操る。血液の造形などお手の物……まぁこれくらいプライマリースクールの頃に習う初歩中の初歩なのだけれど……言わずもがな私は習得に時間がかかった。
だが吸血鬼にとって児戯であるからこそ、これはツマラナイモノになり得るのでは? 私が用意できるのこれくらいしかないし。
「よ、よし……」
ドアの前に立ち最終確認を行う。
身だしなみオッケー、ツマラナイモノオッケー、私の覚悟……はもうちょっと待ってぇ……。
「あぁやっぱりもう一回鏡で身だしなみを──」
「さっきから何をしているのだマスター」
「うひゃわぁ!?」
敵前逃亡は許されなかった。
「霊力の反応があったようだが──ほう」
変な声を出した恥ずかしさと、まだ覚悟が決まっていなかったことで涙目になる私を、ジンはドアを開けた姿勢のまま「ほう、ほう」と言って 見つめてくる。うぅ恥ずかしいからあまり見ないで……。
「こ、これ。ツマラナイモノですが……」
「お、おう……?」
視線に耐えきれず、ぐいっと彼の手に造花を押し付けた。彼は不思議そうに受け取りながら、光に透かすようにしてそれを検めた。
「ふむ、マスターの血か? よくできている」
「だ、誰にでもできるわ、それくらい」
プイと顔を背ける。なんだか彼の顔を直視できない。そうして視線を下げていると……
「マスターの血なのだからマスターにしか出来ないだろう? 綺麗な紅だ。まぁ、一つ物申すなら──」
「あっ」
彼は私の手を取る。それは私が爪で傷付けた方の手だった。
「あまり俺の大切なマスターの身を傷付けないでくれないか、眷属の沽券に関わるのでな」
「わ、わかった……んっ」
そう言って彼は労るように私の手を包み込み、あろうことか傷口にキスをした。
二度、三度と彼の唇が触れる度に、私の鼓動は早くなる。傷口に触れる痛みすら、甘く感じた。
「さて、では俺も風呂に入ってくる。少し部屋で待っていてくれ」
「は、はひ……」
ぷしゅ~と頭から湯気がでるほどのぼせ上がったまま辛うじて返事をする。その間に彼は手を離し、私の横を通り過ぎて浴場に向かう……と思いきや足を止め「あぁそうだ」と言って振り向き、こちらに近づいてきた。
トーカを起こさないためか、目線を合わせるように少ししゃがみ、彼はこちらの耳元に唇を寄せた。
「その衣装、よく似合っている。とても可憐だ。ドアを開けた時、思わず息を呑んだぞ」
「──!」
彼の低い声が囁くようにして耳朶を打つ。
彼はそう言いながら私の髪に、手に持つ造花を差し込んでいく。目を丸くする私の姿に満足したかのようにして一つ頷くと、ついでのように私の前髪をかきあげ、おでこに一つ唇を落としてから「ではな」と残して去っていった。
「……」
私は夢遊病者のようにフラフラと覚束ない足取りで彼の部屋に入り……
「きゅう~……」
目を回しながらボフッとベッドの端に倒れ込んだ。
だ、ダメ……死ぬ。死んでしまう。無双の戦鬼が殺戮兵器に偽りなし。既に私の心臓は殺される五秒前。
これが、妹好みに調教された戦鬼の力……まったくトーカはとんでもない化け物を生み出したようね。ただこれだけは言わせて欲しい、トーカ……グッジョブ。
妹の教育に静かに感謝しながら、もそもそと顔を上げる。そういえば私、男の人の部屋に入るの初めてかも……また私の初めてを奪われてしまった。悔しい。
身を起こし、物珍しげにキョロキョロする。
屋敷の各部屋の造りはあまり変わらず、私物で個性が出るのだが……彼の部屋は殺風景だった。最初から部屋に設置されていたガラス製の丸テーブルに椅子が二脚。今私が座るダブルサイズのベッドに、アパートから持ってきたであろうタンス。隅には備え付けの小型冷蔵庫。変わった物といえば、窓辺に置かれた刀の飾り台くらいか。
「なんだか、ただのホテルの一室に来た気分……」
あまり彼の雰囲気を感じられず、少しガッカリする。本棚でもあれば彼の傾向が少しは分かったかもしれないのに。ベッドもまだあまり使用されていないためか、新品同様だ。……いや、ちょっと待って?
「あ、枕だけ違う」
真っ白いシーツが敷かれる中、それだけが少しくたびれた様子でベッド上に鎮座していた。わざわざ自分の枕に替えるだなんて、少し可愛いところもある。彼ならあまり睡眠に拘らず、むしろ不眠不休で動きそうなイメージだったけれど……寝るのが好きなのだろうか?
彼の少し意外な一面を見た気がしてクスリと笑う。そういえば私って、あまり彼のプライベート知らないかも。暇な時とか何してるんだろう……。
──もっと彼のことが知りたい。
そう思うとなんだか居ても立ってもいられなくなる。そういえば、トーカがよく彼の身体に密着してハスハスと匂いを嗅いでいるけれど……ま、枕……
「いや、いやいやいや……」
待って。
落ち着きなさいリゼット=ブルームフィールド。その枕に伸ばした右腕を止めなさい。
「いい? 私は高貴な血に連なるブルームフィールド家の娘。そんな変態みたいなことできるわけないじゃない」
そう、その通りよ。能動的にそんなことしたらただの変態さんよ。そういったことはあくまで偶然でなければならないの。だから、私はちょっと時間を遡るわね?
いそいそと立ち上がった私はドアの前に移動し、ふらふらっとした足取りを再現する。そう、こんな感じ。彼が私のおでこにキスをしたあたりからこう、ふらふら~っと。
「あ、あぁ~、倒れるぅ~」
そうしてなぜか偶然にも……偶然にも! 私の顔は彼の枕の上へ! そう! あくまで! 偶然ね! 偶然って怖いわね!
ボフッ、とベッドの端ではなく枕へダイブ。ちょうど顔が下に向く感じで豪快に。だから匂いを嗅いでしまうのも不可抗力。私、変態じゃない。オーケー?
「……クンクン」
あ……いい。素敵。
彼と密着することはたまにあるけれど、そのときに香ってきていた香りが、そのまま脳にガツンとくる感じ。なんだか彼にギュッと抱き締められている気分。
なるほど……妹が夢中になるわけね。もしかして中毒性物質でも含まれているんじゃないの? 危険ねそれは。もしそうだったらいけないからもう少し念入りに匂いを嗅いで確認しておきましょう。
「むふ、むふふふふ……」
枕を抱き締め、ゴロゴロとベッドの上を転がる。いやいや、これはあくまでベッドの耐久性を測るためであって、決して頭お花畑に浮かれているわけではないの。勘違いしないで欲しいわね。風紀を守るご主人様として当然のことなのよ? そのあたりはねー、わからないわよねー庶民にはねー。いい、これがノブレス・オブリージュってやつなのよ。ふふふ、あははははは──
「待たせたなマスター……なぜ床に正座しているのだ。英国人も正座はするものなのか?」
「あぁ、気にしないで。ちょっと極楽浄土に思いを馳せていただけだから。いいわよね、悟りって」
「お、おう……?」
セーフ? セーフ?
あっぶなーい……。
階段の軋む音がしなかったら死んでいたわ私。というかちょっと記憶が一部欠落しているわ、私は一体何を……。とりあえず枕=危険ということだけは辛うじて……あと涅槃。
「さて、始めるとするか」
「!」
その言葉にドキリとする。え、も、もう? もうちょっとお話ししてからとか……。
心の準備をする間もなく、彼はさっさと電気を消して──
「よっと」
「きゃっ」
正座をしていた私をお姫様抱っこで抱き上げた。
「え、あ、あの。ジン? 電気……」
「む? 点けた方がいいか?」
「……顔が見えないと、怖い」
「吸血鬼が何を……まぁいいが」
彼はそう言って私を抱えたまま再び電気を点けた。彼の精悍な顔立ちがよく見える。あぁ、私このままベッドに下ろされてついに……!
「よいしょ」
「え?」
と思ったら、彼は私を丸テーブルの前の椅子に座らせ、鼻歌混じりに離れていく。え、ベッドじゃないの? めくるめく大人の時間じゃないの?
しかし彼はそのまま小型の冷蔵庫まで歩みを寄せ、こっちの気も知らずにガサゴソと漁る。
「ククク、地下に貯蔵庫があったのは僥倖だったな。しばらくは”コレ”に困らん」
キョトンとする私に対し、そう言いながらいい笑顔で振り向き手に持っていたのは──
「さ、マスター? 少し早いが大人の時間と洒落込もうじゃないか……なぜ今度はテーブルに頭をぶつけている?」
「……耐久性を確かめてるのよ」
よく冷えた赤ワインのボトルと、二人分のグラスだった。
……えぇ、そんなこったろうと思ってたわよ。




