384 「それは鬼を殺す毒にして、」
「盲点でしたね……あなたの中に、それ以上の化け物が飼われていたとは。常より鬼の力で封じていたとでもいうのですか……?」
「ガ、アァ……!」
昏い霊力の濁流を前に、朱雀が傷付いた身体を押さえながらそう分析している。苦虫を噛み潰したような顔をしているのは、これを受けて踏み留まるだけの力しか残っていないからだろう。
霊力を持つ者ほどこれの影響を受けるのか、周囲の妖怪達も同様であり、中には霊力の穢れた性質により気を失っている者さえいた。
そして俺も──、
『クスクスクスクスクスクス……』
「誰だ……お前、は……」
頭の中で木霊するその囀りに、苦悶の声を上げて抗おうとしていた。
玲瓏ささえ感じられる、女の声。俺はその声に、聞き覚えがある。むしろ、己の口から発した覚えすらある。その者の容姿さえ思い浮かべられる。
宵闇に垂れる柳のように艶やかな黒髪。深い井戸底を思わせる、吸い込まれそうな黒い瞳。華奢な身体を包み込む黒い和服に、そこから伸びる嫋やかな手足。それら全てを、この目で見たはずだ。
だと、いうのに……!
「誰だ……お前は……!!」
『クス、分からずとも結構』
認識が"一致しない"。
間違いない。この女は刀花の空想から生まれ、俺が演じる"姉"……◼️◼️◼️◼️のはず。
それでもこうしてまるで自我があるように話し始めるのもおかしい話だが、それ以上に違和感が勝る。不一致感が勝る。
「お前は……◼️◼️◼️◼️では……」
『乙女の秘密を、みだりに暴こうとするものではありませんわ』
口に出した音が、認識できない。形にならない。柔らかな砂をどれだけ固めても、それが確固たる形にならないのと同じように。
「く……」
──まるでその者がいたことを、世界が抹消してしまっているかのような空白だった。
『さて……不出来なお前に代わって、ややこしいことは全てこの私が片付けて差し上げましょう』
まるでいつもそうしてきたとでも言うように、頭の中の声は疲れすら滲ませて言葉を紡ぐ。
『……随分と増えたのですねぇ人間も。愛だのなんだのと宣いながら、下卑た欲に突き動かされる肉袋。ああ汚ならしい、おぞましい……』
その声に合わせ、我が意識と機巧が変容していく。
なまくらのようになっていた意識は目的に向け先鋭化され、垂れ流されていた霊力が明確な意思を持って彼方へ走る。遠く、遠くへ……女にとって、ちっぽけなこの星を包むように。
戦鬼を変容……いや、"最適化"していく。
『あぁ……あァ……多い、多いィィィ……汚い汚い臭い臭い臭い臭い気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い』
「ア゛、ア゛ァ゛ァァァァ……!!」
「これは……いけない……!」
殺戮兵器の起動準備と共に、狂気に堕ちる女。
そしてその声は聞こえていないはずの朱雀が、こちらの意図を察して緊迫した声を上げる。
「何をしているのです戦鬼! この星の悉くを滅ぼすおつもりか!」
「『惚けたことを。道具を正しく使うことに、何の疑問がありましょうや』」
「っ、あなたはいったい……」
現世に顕在化した女の声に、朱雀が視線を鋭くする。
「どなたかは存じ上げませんが、おやめください。それは人一人に、背負える業ではありません」
「『あはぁ……お優しい人。一種族を滅ぼそうとした殿方の言葉とは思えません。しかしご安心を。私は大切な者のためならば、悪魔にでも神にでもなれるのです』」
「なぜ、どのような恨みがあってそのようなことを……!」
「『クス、クスクスクスクスクス……』」
嗤う。
無知蒙昧に向けて、なにを分かりきったことを聞いているのかと。
「『──衛生観念上。家族にもよく言っていますわ。帰ったら手を洗いなさいと。それと同じことです』」
「こ、の……!」
怒りや恨みは確かにある。
しかしこの女にとってそれ以上に、生物とはただただ汚物であった。
「『ゴミがある。掃除機がある。ならば、やることなど一つでしょう?』」
日常的に掃除機をかけることと、これはなんら変わらないことなのだ。
汚物への嫌悪感が意識のほとんどを占め始めている。蠢く大量の人間を知覚しながら、俺はなんとか言葉を絞り出した。
「や、めろ……!」
『異なことを、お前も望んでいたことでしょうや』
「刀花は、望んで……いない……!」
『クスクス、優しい妹ですからね。言い出せないところも可愛らしい……お姉ちゃんが、代わりに綺麗にして上げましょう……』
夢見る少女のように、女は陶然とそう呟く。これは妹のためなのだと。
このままでは、刀花以外が死ぬ。この女の勘定に、リゼットや綾女、ガーネットが含まれていないのは明白だった。
「そのような勝手を……!」
『そのような体たらくだからですよ、お前。まったく、感情を芽生えさせたのも善し悪しといったところですか……』
呆れ声が響くと同時に、自我が蝕まれ始める。女の意識と同調していく。己と妹以外の生物に対する嫌悪や憎悪で塗り潰されていく。
「ア、アァァァァァ……!!」
『酒上家家訓『言い付けは守ること』お姉ちゃんが背中を押して上げますから、ねぇ……? お掃除、できますね?』
楽しそうに言うのは、いよいよ霊力が臨界に達そうとしているからか。それに伴い、こちらの思考も憎悪一色に染まっていった。
既に朱雀も妖怪達も、為す術なく地に這いつくばるのみ。戦鬼創造の儀式も、昏い霊力に飲まれ発動を阻害されている。最早この女を邪魔する者は皆無であった。
『フフ、アハハハハハハ──!!』
そんな無様さが最高の食い物なのか、女が喜びの声を上げる。
斯様な理不尽に対する怒り、悲哀、絶望がここに集う者共の瞳によく浮かび上がっていた。負の感情のみがこの場を支配し、まさに地獄の様相を呈している。
「……万事休すですか」
意識が朦朧とする中、それら嘆きの声を子守唄にしながら思う。
ゆえに……あぁ、ゆえにこそ──、
「──刃君、お願い。起きて」
──唇に触れる柔らかな感触と、心を安らげる挽き立てのコーヒーの香りがいっそうのこと、この地獄において異彩すら放つのだ。
「──」
初めて味わう彼女の唇は震えており、閉じられた瞳からは涙の跡が見て取れる。
そしてなにより触れる唇を通し、思考の隙間に流れ込んで来る想いがあった。
それは傷付いた友に対する憂慮であり、不明な状況に対する不安であり、焦燥であり……、
──そしてそれら以上の愛情と、乙女の切実な願いであった。
「……」
女の声は、いつの間にか消えていた。
「……あや、め……なぜ、ここに……」
宿にいろと言ったはずだった。真面目な彼女であれば、口約束すら律儀に守るはず。
昏い霊力の波動が収まり、場も静寂に包まれる。唇を離し、制服が血や泥で汚れることも厭わずに、どこか俺を抱き締めるように抱える綾女は、こちらの耳元で小さく呟いた。
「ごめんなさい。刃君のこと、疑ったの……信じたかったから、疑った」
「……あぁ」
俺は綾女に「信じて待て」と言った。だが以前にこうも言ったものだ。
──人は誰かを信じたい時、疑うものなのだと。
彼女はこれまで守ってきた己の信条を曲げ、まさしくその通りに行動したのだった。
あぁ……そんな彼女の姿が、とても眩しく映る。人の生々しい情動を理解し始めた、少女の姿が。清廉なだけだったその心に、生の脈動が走る様が。
そんな、今もっとも身近に感じる人間の少女に……俺は──、
触れていた唇の熱が、夜風で途端に冷えていく。
私の腕に抱かれた刃君が、ゆっくりと瞳を閉じて身体の力を抜いた。そうすると、彼の身体が徐々に透けていき、私の胸の中に一振りの刀として残った。
「……助かりました、薄野殿」
物言わぬ刀となってしまった刃君をカチャリと胸に抱いていれば、刃君と同じくらい傷だらけの朱雀さんが安堵した笑顔でそんなことを言う。
だけど、私の心はあまり穏やかではなかった。
「……刃君に……私の大切なお友達に、何をしたんですか」
「……」
刃君がこんなにボロボロになるなんて、絶対におかしい。朱雀さんや妖怪さん達も傷付いているけど、鬼さんがこんな風になるなんて普通じゃない。
「ふむ……真実を、言ってしまっても?」
「はい」
「戦鬼殿の親切が無為になると知っても?」
「いいから、言ってください」
「では僭越ながら。原因は私ですが、そうした遠因はあなたですよ、薄野殿」
「……え?」
私……? どうして……。
「あなたにお渡しした"薬"があったでしょう。あれは、端的に言って"毒"だったのです」
「っ!?」
「あなたが毒酒を飲ませなければ、今回のことは起こりませんでした。あれさえなければ私も勝機を見出せませんでしたし、彼は一刀の元に私を斬り伏せたでしょう」
「……どうして」
「文字通り、格が違うからですよ。我々弱い人間は、そういった手を使わねばそもそも勝負にすらなりませんからね。これも私の正義を貫くため……あなたを利用させていただきました」
「……私の、せい」
「一端は、程度ですが。しかしその功績は大きい。その腕の中で沈黙している彼の姿が答えです」
あぁ、そうなんだ……私が、疑わなかったから。
「……」
私が──ずっと人間を高く見過ぎてたから。
私は信じたかった。人と人が分かり合えることを。だから信じた、今の人間を。
でも……信じることって、他人に優しくすることって、難しいことなんだよね。できない人もいるんだよね。私がテストで満点を取れるからって、他の人も取れるとは限らないんだよね。
そんな当たり前のことにすら目を背け続けて、そうして今……私は、取り返しのつかない過ちを犯した。大切な友達が、死にそうになっているという最悪の形で。
結局私は優しい理想にばかり目がいくばかりで、他人に寄り添ってなんていなかったんだ。
自分だけが傷付けばいい……それは結局他人と関わり合って傷付けてしまうことから逃げるための言い訳で、自己満足のための方便で。
それだけじゃ自分の心は守れても、大切な人を守れたりなんてしないんだ。
「さて、この状況……どう動いたものか」
「よぉ、朱雀様ァ……」
ちょうど呆然としている私を挟むようにして、朱雀さんと妖怪達が再び相対する。
「儀式の再起動には時間を要する。しかしそれを見過ごすあなた達でもない」
「そういうこった……人獣一体する霊力も、もう残ってねぇだろ」
「あなた方を焼き尽くす程度ならば容易ですよ。しかし困りましたね……素材は可能な限り減らしたくないのですが」
「テメェ……!」
妖怪達は殺気立ち、朱雀さんも満身創痍ながらも瞳に闘志を燃やす。彼には人を傷付けてでも、遂げたい正義があるのだ。守りたい何かがあるのだ。
……じゃあ、私には? 私の理想を尊重した結果、刃君はこんなに傷付いてしまった。その果てに私は、何を手に入れたの……?
「……」
何も無い。
教訓は得たのかもしれないけれど、それは諦めにも似た何かであって……それを原動力に変える力すら無い。零には、何を掛けても零なんだから。
ああ、ここに刃君がいてくれたら、きっと両者の間に割って入って、なんなく争いを止めてくれるだろう。リゼットちゃんでも、刀花ちゃんでも、もしかしたらガーネット先輩でも、この場で何かを変えられる力をきっと持っている。
だけど、この場にはその誰もいなくて……私はどこまでも、無力で……。
「……おや」
でも、もう逃げるわけにはいかなくて。
「もう、やめてください……!」
辿々しい手付きで刀を抜いた私を、朱雀さんは意外そうに、そして妖怪達は怪訝そうに見る。
「お嬢ちゃん、何の冗談だそれは」
「冗談じゃ、ありません」
刃君は、この場所を守ろうとしていた。人と妖怪の秩序を保とうとしていた。
それの邪魔をしてしまった私が今、その責を負わないと示しがつかない。どれだけ声が震えようと、足が竦もうと。
刃君は結局、誰も殺さなかった。この場において一人でも死んでしまったら、もう、絶対に取り返しのつかないことになってしまうから。
だから……私が、やらなきゃ……!
「武器を、下ろしてください……!」
「薄野殿、下がらねば死にますよ。彼の想いを無碍にするものではありません」
「お嬢ちゃん、どけ。戦場で武器を持ったモンに優しくなれるほど、妖怪は甘くない」
すげなく、あしらわれる。こちらを驚異とすら見ていない。たとえ刃物を持っていても、相手が戦いを知らない小娘では警戒のしようもないのだろう。
『力の無いモンに、何かを変えることなんかでけへんのや』
いつか言われた、白虎さんの言葉を思い出した。
こういうことなんだ。何も変えられないから、無力は罪なんだ。変わらないってことは、成長しないってことなんだから。
「やめ、て……」
悲しくなる。思わず泣きそうになる。
この状況を引き起こした一端は私にあるのに、もうどうすることもできない。その権利が無い。力が無い。
「──」
だから、
だから……そんな自分の無力さに、嫌気が差す。どうしようもない程に、自分のことが嫌いになりそうになる。
……ううん、やっぱり、ちょっと違う。
「──っ」
……“怒り”だ。
それより先に、自分の無力さに怒りを覚える。
どうして。どうして誰も言うことを聞いてくれないの。
許せないことがいっぱいある。刃君を傷付けた朱雀さんも、妖怪としての在り方を体現しようとする妖怪さん達も、なんなら……私にずっと責任を負わせないようにしていた、刃君にだって……。
そして、なにより許せないのが──、
「うぅ、ふ……ぅぅ……!」
──こんなところで泣くことしかできない、無力な自分が、許せない……!
恥ずかしい。情けない。心のどこかで今でも誰か助けてと願う自分が浅ましくて仕方がない。
私の顔が醜く歪んでいるのか、朱雀さんも妖怪達も憐れみすら浮かべてこちらを見る。そうやって向けられる表情が、更に私をみっともない心地にさせる。
他人を変えたい。自分を変えたい、変わりたい。こんな情けない自分から。こんなに無責任な自分から。
無力なままでは、責任だって取れないことが分かったから……!
そう、私が今求めるもの。それはご大層な理想でも、逃げるための方便でも、優しい嘘でもない……!
それは……、
それは──!
「──あぁ」
──力が、欲しい……!!
「え──」
そう思った瞬間──手元で光が、爆発した。
『他人を傷付ける覚悟を備えた、無力で優しい少女に今一度問う……』
手にした刀が。
これまで発してきたものとは異なる、暖かさすら感じさせる白い輝きを放ち始めた刀が……こちらにこう問い掛けてきていた。
『──力が、欲しいか?』




