19 「無力……あまりに無力……!」
「……マスター。いいから出てくるがいい」
「む、むりぃ……」
玄関ホールの階段横に設置されたトイレのドアを前に、俺は途方に暮れていた。
時折ノックしながら声をかけるが、帰ってくるのは顔を手で覆っているのであろうくぐもったか細い声だけだった。
あの後、指から血を吸うことに夢中になっていたリゼットは、刀花のドロップキックで正気に戻った。
しかし正気に戻った瞬間、爆発するのではないかと思うほど真っ赤になった彼女は、その瞳にじわりと涙を溜めて「私はなんてことをーーーーー!?」と言いながらネグリジェ姿のままトイレに駆け込んだのだ。
その様子に文句を言うつもりだった刀花も呆気にとられ、二人して呆然と見送ってしまった。そうして一時間、俺は天岩戸と化したトイレを前に声をかけ続けているのだった。
ちなみに刀花は空腹のせいで力なく窓から空を見上げるのみだ。お労しや我がリトルシスター。
「マスター、刀花の空腹も限界だ。そろそろ朝食に行きたいのだが」
「も、もうちょっと待ってぇ……」
これである。
そのもうちょっとでどれだけ粘るつもりなのか。おかげで俺は外で用を足すことになったぞ。まぁ俺ほどスケールのでかい男になれば、この大自然全てがトイレと言えなくもないがな。はっはっは。
「気にするなマスター、変態性というものは誰しもが持つものだ。それが発露したからといって、それは誰にでもある過ちなのだ」
「変態って言わないでよぉ~……!」
おかしい、すすり泣きが酷くなってしまった。
「ふっ、まったく……やれやれだ」
そんなトイレに引きこもり愚図るマスターを前にしても、俺は余裕の心持ちで相対している。
なにせ俺は先ほど母の心に達したのだ。母性、それは全てを包み込む慈愛の心。たとえリゼットの変態性を垣間見ようが、外で用を足させられることになろうが、今の俺には全くの些事なのだ。まさに鬼の目にも涙というやつだ。外のトイレは開放感に包まれていたぞ。
「トイレを増やす武器でもあればよかったのだがな」
はっはっはと笑いながら言う。
思わずそんな冗談も口から出るほどだ。
まぁそんな限定的でニッチな武器などあるわけもなく、必要な時がくることもないだろうがな!
「兄さん……おしっこ」
──ないこともなかったなぁ!!!
「マスタァー! さっさと出てこいーー!!」
俺は怒りにまかせてドアをバンバン叩く。
慈愛の心? あいつは置いてきた、この先の戦いについて来られそうにない。
そんな俺の勢いに中のリゼットは「ひうぅ~~~~!?」と情けない声を上げている。
「無理って言っているでしょー……! もうしばらく一人にさせてぇ……」
「自室で一人になればいいだろうが」
なぜよりによってトイレに引きこもるのか。
「自室だとあなたに連れ出されるじゃない……!」
「……それは、そうであるな」
実際トイレを前に俺は立ち往生をしているのだ。自室であればさっさと刀花の空腹を満たすため外に連れ出しているところだ。彼女の目論見ははずれていない。
さすがに無双の戦鬼たる俺でも、女の子が入っているトイレを無理矢理開けることは憚られる。しかし……。
「まずいな、このままでは刀花が汚れヒロインになってしまう……」
「汚れって言わないでください……」
これでも私、学園では清純派で通っているんです……と小さい声で言う。知っているとも、そのおかげでラブレターや告白も絶えないことも。B組の田中にD組の山田に遠方の学校の遠藤に――絶対に許さんからな。
そんな清純派の妹はいつものようにニコニコしながらも冷や汗をダラダラと流し、足をプルプルさせている。
「に、兄さん……なんとかしてください」
「ジン、そっちはそっちでなんとかして……」
……ほう?
我が所有者と我がマスターから直々のオーダーだ。これは彼女たちの言うようになんとかしてこそ戦鬼の仕事と言える。
いいだろう! 俺は五百の魂を生け贄に、鬼を斬った妖刀を媒介に創造された無双の戦鬼である。少女の尿意の一つや二つ、俺の障害たり得ないということを証明してくれる!
「我流・酒上流──」
……酒上流!
「──」
さ、酒上流……!
「……」
……いや無茶では?
「どうすればいい……」
背中を嫌な汗が伝う。どうする、俺はどうすべきだ。この状況で俺は何をするのが最善なのだ!?
ま、まぁ待て、まずは達成条件の確認をしよう。
1、刀花の尿意をなんとかする。
2、リゼットをトイレから連れ出す。
とりあえずこの二つが目下の目標であり俺に課せられた使命だ。
「ふ、ふむ……」
こう見るとリゼットを連れ出すことが最適解だが、それが出来ていればこの一時間苦労はしない。恥辱に悶える少女をトイレから引きずり出すというのも気が引ける。
では、刀花からなんとかすべきか?
刀花の様子を確認する。白いワンピースに身を包んだ自称清純派の妹は、裾をギュッと持ちプルプル震えていた。なぜそこまで限界になるまで言わなかったのだ、兄さんは妹の膀胱が心配だ……。
「くっ」
そんな刀花の様子に俺も焦りが募る。
落ち着け、落ち着け……。戦場では焦った者から死んでいく。俺に出来ることを冷静になって挙げていくのだ。
──戦鬼形態となり、アパートのトイレまでひとっ飛びするか?
いや、刀花はもう我慢の限界に達している。こんな状態で衝撃の多いジャンプなどすれば、我が妹の尿で朝の打ち水をしてしまう事態になる。それは避けたい。
──ならば特殊な武器でなんとかするか? とはいえ尿特攻の武器などまったく思いつかない。
そうだ、尿はつまるところ水。水を操る剣でどうにかできないか? 水を纏う剣ではなく、尿を纏わせおしっこソードを……いやそれ漏れてるではないか。
水を操る剣は却下だ。いっそ幻でトイレを創り出し……いやそれ漏れてるではないか!
「こうなったら滅相刃で尿を……」
いやダメだ。滅相刃は刀花が使ってこそ真価を発揮する。大雑把に消滅させるだけの俺の滅相刃では……。
そもそもの話、刀花に武器を振るうとなると守護する立場として許可できない。
「くっ……!!」
俺はガクリと膝から崩れ落ちた。
俺は……無力だ……!!
無双の戦鬼は妹の尿意を前に敗北するしかないのか!?
「刀花、不甲斐ない兄をどうか許しくれ……だが、これだけは言わせてくれ」
「兄さん……」
あまりの情けなさに俺は許しを請うた。
それでも、これだけは言っておかねばなるまい。
「刀花──たとえ漏らしても、お前は美しい」
「嬉しくないですうぅぅぅぅぅぅ!?」
ひーんと刀花は泣きながら声を上げる。すまない、刀花すまない……。
「うぅ、こうなったら仕方ありません」
もじもじと歩きにくそうにしながらも、刀花は崩れ落ちる俺に近づく。
「兄さん、リゼットさんを外に出しましょう」
「し、しかし……」
この一時間、梃子でも動かなかったリゼットを如何様にして出す……?
「リゼットさんは自分のフェチを恥ずかしがって出てきません。それなら──」
刀花は口惜しげにしながらも俺に言い放った。
「兄さんもリゼットさんに自分の恥ずかしいフェチの話を明かせばいいんです! それでチャラです!」
本当は私だけの秘密にしておきたかったのですが! と刀花は悔しげに涙を流している。
「そ、そういうものなのか……?」
どうにも不思議な理論で釈然としないが、刀花が言うのであればそうなのだろう。それに今は一刻の猶予もない。このマイナスとマイナスをかけてプラスにするような作戦で行く!
俺は気合いを新たにトイレの前に立つ。しかし俺のフェチの話か……。それを今から話すとなると嫌な汗がじわりと噴き出てくる。
いや、これも刀花の清純派イメージを守るためだ、喜んで俺は恥を被ろう。
「マスター、一度しか言わないからよく聞くがいい……」
「……」
これまでの会話を聞いていたのか、リゼットは一言も喋らず、こちらに耳を傾けている。
「俺は……」
今ここに、無双の戦鬼は妹しか知らなかった秘密を打ち明ける。
冷たい汗が背中を伝い、緊張で呼吸が苦しいが……えぇいままよ!
「俺は──刀の状態で胸に挟まれるのが好きだ」
「──」
……言ってしまったぞ。
あぁそうだとも、俺は刀の状態で胸に挟まれるとドキドキするのだ悪かったな。
「……」
恥を忍んで打ち明けた秘密に、しかしドアは沈黙を保っている。
くっ、沈黙が痛い。というか早く何か言ってこのなんともいたたまれない時間を終わらせて欲しい。
数秒か数十秒か、俺が変な緊張感を味わいながら待っていると……。
「そ、それ……ほんと?」
ガチャリ、と。
天岩戸が如く固く閉ざされたドアが、ついに日の光を取り入れた。
「失礼します!」
「わっ」
その隙を見逃さず刀花は素早くトイレに入り込み、リゼットの背中を押してドアを閉める。
「……」
「……」
刀花がいなくなり、妙な沈黙に支配された二人が残された。
チラチラとこちらを上目遣いで見るリゼットは、何か問いたげに口をもごもご動かしている。
「ね、ねぇ……ほんとなの?」
「あぁ」
「……だから一昨日の夜に刀花に抱かれて寝ていたのね」
「……あぁ」
「……妹の胸に抱かれて興奮するなんて不健全よ?」
「う、うるさい……」
あーまったく。顔が熱い。刀花の貞操を守るためとはいえ、なぜ俺がこのような辱めを。
「”オーダー”、刀になりなさい」
『おい』
問答無用で俺を刀にしたリゼットは、そっと手を伸ばし、俺を胸にかき抱いた。刀花ほどではないが、これはこれで……っていやいや。
『くっやめろ、恥ずかしいだろうが』
威嚇するように鍔を鳴らす。
「私も恥ずかしい目に遭ったのだから、あなたも恥ずかしい目に遭いなさい」
頬を染めながらも、意地になったのかリゼットは俺を離さない。
「それに妹の胸より、ご主人様の胸にいる方がよほど健全なんだから」
そう言って俺をより強く抱きしめる。形のいい胸が俺を押し、薄着のネグリジェ越しに心地よい感触を伝えてきた。
「ど、どう? ドキドキする?」
『……するから打ち明けたのだ』
「ふ、ふーん……?」
リゼットは満更でもなさそうな顔で俺を抱え直した。
『……弱みを握られた気分だ』
「あら、気にしないでジン。変態性は誰しもが持つものよ。それが発露したからといって、それは誰にでもある過ちなんだからね」
『ぐっ』
まんまとしてやられ歯噛みする俺を、秘密を知ったことで調子を取り戻したリゼットはどこか楽しそうに見つめるのだった。




