137 『図書室での過度な青春は禁止となっています』
「橘、古新聞の移動、完了したぞ」
「♪」
静謐な空気が満ちた学園の一室──図書室にて。
カウンターに座り、本に視線を落としていた橘が顔を上げこちらに笑みを向ける。お疲れ様です、と言いたいらしい。
スケッチブックを手に取ろうとする橘に「分かっている」と断り、俺はいくらかインク臭くなってしまった手をブラブラと振った。
数十年分の情報は文字通り中々に重く、そして手間なものであった。この学園に関する記事もいくらかスクラップされていたが……まあどうでもいいことだ。
「図書委員というのも、なかなかに身体を使うものなのだな」
「……」
俺の言葉に橘はセミロングの黒髪を揺らし、苦笑してコクコクと二度頷いている。
そう、現在俺は橘属する図書委員の仕事に従事している。先程、古新聞をまとめて書庫に移動させてきたところだ。
というのも……、
「座っていればいい仕事だと思い入ったのだが、当てが外れてしまったな」
「──」
じっとりと目を細める橘の視線に肩を竦める。
なんということはない。
──この俺が、図書委員会に入ったのだ。
「生徒は必ず委員会に入り従事せねばならんとは……」
まったく煩わしい。
この俺を使ってよいのは主と妹と──あと友達料金で目の前の少女と最近人気の看板娘だけだというのに……いや増えたな……。
近頃激動している人間関係に「むむむ」と眉を寄せていると、橘はスラスラと文字を綴っていく。
『本、お嫌いなんですか?』
「そういうわけではないが」
コトリ、と首を傾げる橘にそう返す。
本……それは人間が生み出す叡智の結晶。その知識に罪はない。それを使う人間が愚かしいだけでな。
「なんとも不思議なものだ。生み出される結晶は洗練され美しいというのに、それを生み出す人間は汚らしいままだ」
橘が今手にする名著も、配架されている様々な知識が詰め込まれた図書も。
理想を生み出す力はあるくせに、いつまでも人間はその理想に手が届かない。
まったく、因果なものだ。美しいものを生み出すのはいつの世であっても人間であるというのは。
「度し難いものだ」
「……」
腕を組んで不満を述べる俺に、橘はゆったりと微笑むのみだ。仕方ない、というように。
彼女は俺の正体を知らないが、俺が人間を嫌っていることは承知している。
そのことに眉を潜めるでもなく、是正しようとするでもなく。言葉を失った少女は相手を尊重し、それもまた一つの言葉であると頷く。
その決して無遠慮に深入りをしない程よい距離感は……俺も嫌いではなかった。
「……傷付くものは美しいものばかりか」
「……?」
自分のことを言われているとも気付かず、橘は不思議そうに首をかしげている。
ストレスによる失声症か……。
一度、橘にそれとなく聞いたことがある。多大なる犠牲を払ってなお、その病を治したいかと。
しかし、彼女は首を横に振り……、
『"どうやって治すか"は、まだ私も見付けてはいませんが──』
少し照れ臭そうに、
『"誰と一緒に治すか"は、もう決めてるんです』
今まで見た中で一際はにかんだ笑みを浮かべて、沈黙の少女は魔の誘いを振り払ったのだった。
まったく、見せ付けおってからに。
この戦鬼、よもや一般男性に敗北を喫する日が来ようとは思いもせなんだわ。
知っているぞ、ご馳走さまというやつだ。
「橘はいい女だなあ」
「?…… b 」
唐突な俺の言葉に、橘は曖昧な表情を浮かべながらも親指を立てた。賛辞を素直に受け取る度量も持っている。
美しい花は先着順というわけだ。やれやれ、口惜しい口惜しい。
「さて、そろそろ閉館作業に取りかかるか」
「~♪」
手の届かぬところにある花に一瞥くれて、最後の仕事に取りかかる。
そう難しい仕事でもない。少々乱れた部分を整頓し、いまだ残っている生徒を退室させるだけだ。
とはいえ、既にこの図書室に残っている者は俺と橘の図書委員二人と……、
「待たせたな、刀花。そろそろ帰るぞ……マスターは奥の方か?」
「あ、もうそんな時間ですか? リゼットさんは多分そっちの奥の棚の方かと」
俺のことを健気にも待ってくれていた、妹と主がいるだけだ。
我が主の姿はここから見えないが、刀花は机に座り数冊の本を興味深げに読み込んでいた。
これは……、
「レシピ本か。食べたいのか?」
「そうですねえ、結構簡単に作れそうに書いてありますので。兄さんはどれが食べてみたいですか?」
「ふーむ」
共に一冊の本を覗き込めば、隣から甘いバニラのような香りがふわりと鼻をくすぐった。
「やはり肉だな」
「じゃあじゃあ、この牛のすね肉蒸しなんてどうでしょう!」
「中華か。たまにはいいな」
「あんかけにするともっと美味しそうですー……じゅるり」
「ふ、では帰りにスーパーに寄るとしよう──ん、どうした橘?」
「……っ」
晩御飯の献立を決めていれば……なにやら近くに来た橘がクイクイと袖を摘まんできた。
「……」
そうして少し逡巡しつつも、彼女は言葉を綴る。
『男性はやはり、濃い味付けの方が好みなのでしょうか?』
「む?」
なんだ、藪から棒に。
しかしそんな唐突な質問をしながらも、橘の瞳は真剣だ。
……ああ、なるほどな。
「さては恋人の口に合う料理を作りたいのだな、橘は?」
「っ!」
ぽっ、と。
思惑を言い当てられた目の前の少女は恥じらうように頬を染め、口許をスケッチブックで隠す。
なんとも、乙女な反応であった。だが……、
「悪いな、俺はお前に口出しできる助言は持っていない。俺は少々特殊な味わい方を好むのだ。それに、味覚などそれこそ人によるのではないか?」
「……」
まあ彼女も分かっていたことなのだろう。
しょぼーん、と。そうですか……とでも言うように肩を落とした。
「まったく果報者であるな、橘の恋人とやらは。どれだけの功徳を積めばこれほど想われるのか……まあ俺の妹には及ばんが」
確かマンションの部屋が隣同士で、橘が通い妻をしているとかなんとか。
「未成年略取でパクられんよう気を付けるのだぞ」
「っ」
おっと。
橘がムッとした顔をしてハリセンを取り出す。そこには『親告罪なのでセーフ』という文字が踊っていた。セーフとは……?
『今の保護者に許可はとっていますので』
「お、おう。そうか」
疑問に首をかしげていれば追加の文言が。
抜かりはないらしい。強かな部分もあるのか、意外に尻に敷いているのかもしれん。
「もう、意地悪言っちゃダメですよ兄さん。でも味付けは好みが分かれますからねえ」
俺達のやり取りを見ていた刀花はそう言って唸る。
我が家の台所を預かる彼女としても、その辺りは難しいらしい。
「……まあ、橘の恋人は社会人なのだろう。疲労した身体には塩分が効くというのは通説ではある」
好みかどうかは別として。
「だがそこまで気になるというのであれば、休日に共に台所にでも立てばよかろう」
「私もそうやって兄さんの好みを把握しましたね」
「……」
うんうん、と兄妹で頷いていると、橘は少し眉を下げて文字を綴る。
『しかし、せっかくの休日に手を煩わせるというのも』
「なんだそれは……」
気を回しすぎだろう。
そんな遠慮ばかりしているから声も戻らんのではないか。
「逆に聞くが橘。お前が見初めた男は料理を共にするだけで、愛想を尽かすようなたわけなのか?」
「──っ」
それならばこの鬼が、今すぐ目の前に咲く花を手折ってくれるところだが……彼女はブンブンと首を横に振る。変なところで臆病なのだな。
まあ、この者等にはこの者等の歩む速度というものがある。無理強いはせんが……、
「楽しいぞ、相手が美味いと言ってくれる料理を作ることはな」
「食卓は家族が最も長く時を過ごす場所の一つです。豊かにするに越したことはありませんよ?」
「うむ、さすがは俺の妹だ。いいことを言う」
「むふー、そうですか? 褒めてください褒めてください」
「よしよし、俺の妹は世界一だ」
長く食卓を囲み団欒を築いてきた兄妹の絆を見せ付ければ、橘は目を丸くした後にグッと気合いを入れて見せる。うむうむ。
「その調子だ。男など、尻に敷くくらいが丁度よい」
「……」
俺の言葉にくすりと笑った橘は、軽快にペンを動かす。
『酒上さんは敷かれているのですか?』
「無論だとも。もはや椅子だ」
「ふふ、いーっぱい寄りかからせてもらっちゃってます」
「……♪」
こちらにこてんと頭を預ける刀花の姿を、橘は少し眩しげに眺める。
「……どれ、刀花。橘に少しアドバイスをしてやるといい。俺はマスターに声をかけてくる」
「任せてください! この本も借りたいですし、お願いしていいですか?」
「♪」
そう切り出せば、二人は笑顔でカウンターの方へ。
うむ、今日の晩飯が楽しみだな。
「さて、マスターは……」
そうして次に俺はご主人様の尻に敷かれるべく彼女の元へ。
別にそこまで広大というわけでもないこの図書室。少し棚を移動すれば、金色の髪が眩しいその可憐な後ろ姿もすぐに見つかる。
そんな彼女が立つこの辺りには……、
「この棚は……哲学書か?」
随分と小難しい本を読むのだな、我が主は。
「マスター、帰るぞ?」
「ひゃっ、じ、ジン?」
む?
後ろから声をかければ。
難しげな表情をしていた彼女はビクリと肩を跳ねさせ、慌てたように本を後ろ手に隠した。その赤い瞳はキョロキョロと忙しない。
ほう、この反応は……あれだな。
「……哲学書ではなく艶本の類いであったか」
「エンポン?」
「エロ本のことだ」
「なっ、ばっ、そんなわけないでしょうこのおバカ!」
違ったらしい。
完全に思春期男児が川原で本を拾っている時の反応だったのだが。
「……占いの本か」
「うわ一瞬で後ろに回り込まないでよ!」
「図書室では静かに」
「あ、あなたね……!」
プンプンするご主人様もそのままに、ほうと興味をそそられ息をつく。占いに興味があるとは、乙女だな。
「何を占っていたのだ?」
「……ひ、秘密」
「なるほど、恋占いか」
「なんで分かったの!?」
「俺が一番嬉しいと思うものを言っただけだ。可愛いなあ、俺のマスターは」
「な、はうっ、うぅ~~~~~~……!!」
乙女の秘め事など恋以外あるまいて。
まったく、我が主は眷属を喜ばせるのが上手い。素晴らしいご主人様である。牙を剥いて唸るその姿すら絵になるな。
「それで、結果はどうだったのだ?」
「……はあ、微妙だったわ」
それはそれは。
こちらの胸へとボスッと後頭部を預ける我が主はふて腐れたように膨れている。隠すのは諦めたらしい。
そうやってこちらにもたれる彼女の髪を撫でながら、ペラペラとページを捲った。
「……誕生日で占うものか」
「そ。あなた、四月十日でしょ?」
「そういうことにしている」
正確には刀花のものと一緒にしているだけであって、俺に誕生日などない。作刀された日も、戦鬼として顕現した日も覚えていないからな。
「マスターは聖夜だったな?」
「ええ、そうよ」
聖夜生まれの吸血鬼というのもどうなのだとは思うが。生まれも力の有無に関わっているのではなかろうな……。
「マスターが不満であれば、相性のいい日に変えて構わんぞ」
「そういうことじゃないでしょ。それになんか負けた気がするし……」
憮然としたようにそう言って。
彼女は唇を尖らせながら、後頭部をこちらの胸にトントンと何度もぶつける。柔らかいその身体から、優しいラベンダーの香りが舞った。
「まあよいではないか。運命とは受け入れるものではなく、斬り伏せるものと心得る。俺を握る者にとってはこの程度些細なことだ」
「無茶苦茶言うわね……」
その無茶苦茶をいつでも行使できるのだぞ? 我が主といい妹といい、謙虚に過ぎるな。
「それにしても、誕生日か」
本を閉じ、いつものように丁度いい位置にある彼女の頭の上にモフッと顎を乗せる。
「刀花の誕生日は毎年祝ってきたが、これからはマスターの誕生日もきちんと祝わねばなあ」
「……ちゃんと十六回分祝うのよ?」
「もちろんだ」
「……クリスマスも、だからね?」
「三十二回分か、それは豪毅なことだ」
なかなかの無茶振りだが、それを叶えてこそ無双の戦鬼。我が誉れよ。
いじらしく揺れる小さな身体を後ろから抱き、一つ尋ねてみる。
「リクエストはあるのか?」
「ふふ、それを言ったら面白くないじゃない?」
クク、見るがいい。これが男を尻に敷くというやつだ。
こちらを見上げて言うそのイタズラっぽい笑みが、なんともたまらなくこちらの心をくすぐる。
「方向性だけでも教えてくれないか……?」
「んっ……そ、そうね……」
彼女の髪に鼻を埋め、耳元で囁けば。
可憐なる夜の支配者様は、ピクリと身を震わせて眷属にヒントを授けてくださる。
もじりもじりと太ももを擦り合わせながら。
「──素敵な、夜がいいわ」
「ほう、それは……たとえばこういったものか?」
「あ……」
素敵な夜がいいと。
潤んだ瞳を上目遣いにして、こちらを見上げる彼女をじっと見つめ返せば……ご主人様は一つ喉を鳴らしてから、目を閉じる。
可愛らしいヒントをもらった俺は、そのまま彼女の小さな顎を指で持ち上げ──、
「ピピー! 図書委員です! 図書室内での過度な青春は処罰の対象となります!」
『イエローカード』
「きゃあぁぁああ!?」
「おう゛っ」
……持ち上げたところで、ホイッスルの音と共に飛び込んでくる妹と、胸ポケットから黄色い札を出す橘に引き裂かれてしまった。
ちなみにリゼットは唐突なる闖入者に真っ赤になって身体を跳ね上げさせ、俺の顎を頭部で強かに打ち抜いていた。痛い。
「確保ですー! 図書室イチャイチャ禁止法に抵触した疑いで、兄さんは一週間、夜は妹のベッドの上で禁固刑に服することになりましたー!」
「禁固でいいのか? 懲役であれば俺に何か労働を課すことが可能となるが」
「じゃあ懲役がいいです。朝まで抱き枕の刑がいいです」
「ついに前科者になってしまったか俺も」
「このガバガバ妹裁判長……というかトーカは図書委員じゃないでしょうが」
「では橘さん、お願いします」
『イエローカード』
橘がまるで印籠のように掲げる黄色い札を、一枚手渡されてしまった。三枚集めるとどうなるのだろうか……。
『前科を負ってしまった酒上さん、戸締まりをお願いします』
「……承知した」
そういえばそんな作業の途中だったな。
橘の少し凄みのある笑顔に降参だ、と諸手を挙げて刑に服すことにした。
贈り損ねた誕生日プレゼントについてと、早く冬にならぬものかと気の早いことを考えながら。




