第五話 「見舞客」
夕食を完食するのに苦労した。
ずっと寝たきりの状態だったので腹は減っていない上に、病院食でありながら、それなりの量があった。
しかも、食べた後に待っていたのは、また腹痛だった。どうやら、腹が張ると痛みが悪化するようだ。
昨晩と同じように、痛み止めの点滴を処方してもらいながら苦痛に耐え、そうこうしている間に院内は消灯となった。
今夜も眠れないのだろうか? 気がつけば、既に丸一日以上、眠っていない。
もっとも、明日もどうせ日中は寝ているだけだ。次の日に差し支えるなどと考えなくてもいい。自然と眠れる時を待てばいいのだ。
そうやって、自分に言い聞かせる。まだ、眠ることに対して若干の抵抗もあったが、入院中、まったく不眠でいることなど不可能だ。
逆に、点滴にしろ、見知らぬ同僚しろ、疲労やストレスによる認知の障害なら、一度、十分な睡眠を取ることで改善されるかもしれない。
相変わらず、自分が望む方向に対して都合の良い理由付けをしているという自覚はあった。今、自分は安眠を求めていた。
その願いは、痛み止めが少しずつ身体に浸透し、いつしか痛みと慣れない環境での寝苦しさを睡魔が上回った時、一度は叶いかけたようだった。
「どうしました?」
室内に響く女の声で、意識が覚醒した。
押し殺すような息遣いを含みながらも、声量はむしろ大きい。耳の遠い老人に語りかけるような調子だと思ったのは、大学時代にそういった施設での実習経験があったからだ。
そして、それは比喩などではなく、まさに隣のベッドの患者に看護師が語りかけたのだとわかった。
ナースコールが押されたらしい。カーテンで遮られているので状況はわからないが、患者は呼び出した女性看護師になにやら訴えてた。しかし、入れ歯が外れているのか、自分にはまったくその内容が聞き取れなかった。
それでも看護師との会話は成立しているようだ。あるいは、聞き流されているのだろうか?
なんにしても、お互い声量が大きかった。多少、耳が遠くても周りの患者が目を覚ましてしまうのではないか。現に、自分はこうして起こされてしまっているのだ。
予想通り、間もなく自分と対角に位置するベッドの老人が声を上げた。
「○○さん、なにしてんの?」
怒っている様子ではない。単純に、なにをしているのかを尋ねるような口調だった。○○は、女性看護師の名前らしく、「大丈夫ですよ」と返されていた。
たしか、この老人も認知症がかかっていた。だから、ちゃんとした状況説明ではなく「大丈夫」と返されたのだろう。
しかし、それで会話は終わらない。今度はこんなことを言う。
「なんで、あの人の布団は膨らんでんだい?」
最初は意味がわからなかったが、看護師が、「膝を立ててるだけだよ」と言うので、おれのことを言っているのだと理解した。
腹痛を軽減する姿勢を模索するうちに、仰向けで立膝にするのが楽だとわかり、それが常態化していたのだ。向かいから見ると、布団が膨らんでいるように見えるのだろう。
看護師はそれを説明したのだが、理解できないのか、同じ質問が何度が続いた。膝を伸ばせば質問が止むかとも考えたが、反応したようでバツが悪いし、できればこの姿勢を崩したくなかったので、無視を続けた。
すると、そのうち看護師がおれの所までやってきて、隣とを隔てているカーテンを掴んで、通路方向までカバーするように引き、老人の視界からおれを遮った。
なんだ、通路側にも引くことができるのか。今まで落ち着かなかったので、最初からそうしてほしかった。
しかし、そこまでしても、話題がおれから離れただけで、老人の質問は止むことはなかった。どうやら、完全に覚醒してしまったようだ。
――テレビを見ていいか?
――娘は、次、いつ来るって言ってた?
そんな問答を続け、
「あの、布団が膨らんでた人――」
一周して、またおれの話題へと戻ってしまった。これでは、意味がない。
「布団が膨らんでた人のさ、隣に居たのは、お見舞いの人?」
…………呼吸、心音、腹痛、全てが、そのまま凍りついた。
じいさん……あんた、なに言ってるんだ?
「☓☓さん、あれ、だれ?」
じいさん、本当にやめてくれ。
「さあ、だれかしらね?」
おい、否定しろ、看護師。そんな縁起でもない話にまで合わせるな。
そう内心で悪態つきながら、ふと、気付いた。
……さっきと、名前が違う。○○じゃなくて、☓☓になっている……。
「☓☓さん、どうして、夜なのに見舞い来てんだ?」
「夜に来る人だっているんですよ」
いない……いないって、そんな奴……。
「今日、泊まってくの?」
「そうね、多分、泊まってくんじゃないですか?」
勝手に決めるな。許可するな。追い出せよ……。
「あの人は、どこが悪いの?」
「お腹が痛いんですって」
「いつまで、入院すんの?」
「――……まで」
……今、なんて言った?
「あの人、死んじゃうの?」
老人の問いかけに対して、沈黙が続いた。
その静寂の中、おれは過呼吸で自分の足元だけを見つめていた。
左も、右も、決して振り向いてはいけないと思った。
やがて、女の声が言った。
「あなたの方が先だから」
直後、なにかが床に落ちる大きな物音が響いた。
そして、立て続けざまに、老人の絶叫――――
ナースコールを押すまでもなく、看護師が数人駆けつけてきた。
どういう状況かは察した。慌ただしく処置が始まる。
しばらくして、さすがに起床していると思ったのか、一人の女性看護師がカーテンを開け、おれの様子を確認した。
「すみません。患者さんが、ベッドから滑ってしまって」
やり取りから、命に別状がないことはわかっていたので、そうですかと答えた。
看護師の名札を見た。最初に病室に来た○○だった。
☓☓という女性看護師のことを尋ねた。
「その人は、もう居ないんですが……あの、前にも入院したこと、ありましたか?」
どうして居なくなったかは、訊かなかった。
そして、人が居る内に、自分のベッドの周辺を見渡し――今は、なにも居ないことを自分に強く印象付けた。