表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ヤミの病室  作者: 黒音こなみ
3/6

第三話 「ID」

 昔から、運が悪いという自覚があった。

 生い立ちや境遇というわけではない。誰の身にも、偶然の範囲内で起こる災難を、印象深く意識する機会が多い。

 頻度の高さや……被害の大きさとも少し違う。具体的に言わなければ、説明は難しい。

 

 よく人に話すのは、大学時代に自転車を盗まれた話だ。千台近い自転車が停められている駅の駐輪スペースで、よりによって自分のものが狙われたことに腹を立てたが、仕方なく買い直した自転車も、即座に盗難にあったのだ。

 それも、施錠を補強しようと、店でチェーンを購入している間にだ。

 細かい話をすれば、帰りの足を失って乗ることになったバスで嫌な人間と鉢合わせしたり、盗難補償をめぐって販売店の嫌味な店員と揉めたりと再三ストレスを被ったが、この話にオチがついたのは二年後だった。警察から、隣町でその自転車が見つかったという知らせが届いたのだ。

 当時、車を保有していなかったおれは、友人に乗せてもらって、隣町の交番まで自転車を引き取りに行った。

 

 そして、現地で事故に巻き込まれた。

 

 買い物に寄ったスーパー駐車場で、後方を確認しないままバックしてきた初老の女性に、為す術もなく追突されたのだ。

 最初の自転車盗難をトリガーに、まるでピタゴラ装置のように自分を災難に巻き込む仕組みが次々と作動し、最後の自動車事故へと帰結したかのようだった。

 つまりは、偶然に起きた現象が結果的に災難に結びつくというより、あからさまに、特定の個人に害をなすことを目的としたストーリー性を持っているとしか思えない現象に、事あるごとに見舞われてきたのだ。

 心霊現象的な観点から言えば、「祟り」や「呪い」といった類を連想させるが、先の自転車の事例からもわかるように、神罰というよりは、もっと下劣な嫌がらせという印象が強いので「呪い」寄りなのかもしれない。

 いずれにしても、なにか起きるたびに、自分を不幸な目に合わせて、せせら笑う存在を意識するようになってしまっていた。



 だから、白状をすると、救急車での運搬時――あんな切羽詰まった状態でスズメバチが飛び込んできた時点で、おれは今回の件もその類ではないかと予感してしまっていた。

 そこにきて、今しがた起きた点滴の異変。そして、このリストバンド患者ID……。

 

 ――55294――「午後に急死」だそうだ。

 

 漠然とはいえ、頃合いが指定されていたら普段でさえ気味が悪いが、今はあまりにも、そう信じさせる状況が整っていた。

 焦燥がこみ上げる。今まで心待ちにしていた夜明けが、一変して恐怖へと変わった。

 

 死ぬ――自分が消えてなくなる。

 この、身体を失う。

 この、意識を失う。

 そして、もう、二度と戻らない。

 永久の闇――

 

 死の恐怖といえば、そういう哲学的な思考から生じるものを予想していた。

 しかし、今自分が抱く恐怖は、その手前で味わうかもしれない、筆舌に尽くしがたい苦痛と苦しみだった。

 文字通り、死ぬほどの――あるいは、死んだ方がマシと思うほどの――だ。

 今までの生涯に思いを馳せ、心静かに終末を迎え入れる姿が想像できなかった。

 

 焦燥で激しく躍動する心臓の鼓動に合わせ、こころなしか、和らいでいた腹痛がまたぶり返してきたような気がする。

 点滴は半分を切った。どう見ても、朝まで持たない。

 いや、そもそもこの点滴は、本当に体内に入れても大丈夫だったのか? 

 黒化したように見えたのは、処方ミスなどの暗示だったのではないか?

 

 解決したはずの問題も含めた様々な憶測が沸き上がり、疑心暗鬼となって精神を蝕み始めた。

 ……気が触れるかもしれない。そう思って、一切の思考をやめた。

 しかし、一度空になった無音の脳内に、言語や理屈を介さない恐怖が、再び立ち込めてきた。

 

 あぁ……そうか。恐怖とは元々、本能的で原始的な感情なのだ。

 だったら、やはり、これから起こりうる苦しみも含め、受け入れて覚悟するしかないのか?

 終末期の人間が、身体の崩壊とともに、徐々に死を受け入れていくという何段階かのプロセスを、あとたった半日程度で行なえと?

 

 最終的に、おれは、現時点でおおよそ満足とは程遠い生涯を振り返ることにした。

 まるで、興味のない本を流し読みするかのように、感慨もなく記憶のページを淡々とめくっていった。

 その目的は、安らかな最期に向けてではなく、ただ、眼前の恐怖を取り除くためだけにあった。

 

 やがて、液化袋の中身が尽きた。切れると同時に激痛が戻ってくるということはなかった。

 もう少し経って、ベッドを囲むカーテンの一方――窓側が、明るみ始めた。


 朝だ。


 しかし、ある程度の時間が経過しても、思った以上に光は入らなかった。外は曇りなのかもしれない。


 突然、ベッドを囲むカーテンに人影が映り込んだ。

 そして、隙間から、ゆっくりと、男の顔だけが突き出てきた。

 

「痛みはどうですか?」


 点滴を処方した看護師だった。声をかけなかったのは、寝ていることを考慮したからだろうか?

 まだ痛むが、運ばれた時よりもマシだと答えた。

 男は、九時になったら検査のためにまた迎えに来ると言っていったん去り、その時間より十五分ほど遅れてやって来た。

 それから、車椅子に乗せられ、血液検査やCTなどのいくつかの検査を済ませた。

 

 検査結果は、午前のうちに出ると言われた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ