第二話 「点滴」
たかが腹痛で命の危険などと、大げさかもしれない。しかし、そう思ったのには根拠があった。
一年前、健康診断を受けた時に、血液検査で肝機能に関連する数値が異常な値を記録した。
ALT、AST、γ-GTPという三つの項目のうち、ASTの値が基準値の範囲の七倍。自分なりに調べた結果、可能性のある病気は「肝炎」、「肝硬変」、そして、「肝がん」といった、散々なレパートリーだった。
しかし、当時はなんら自覚症状がなかった。だから、再検査ではなく病気以外でその数値が出る可能性を見出そうとネットの情報をあさり、実際にそれを見つけたことで、この件を勝手に完結させてしまった。
だが、救急車が到着するまでの間に調べた腹痛の部位――その位置にある臓器を知って、一年越しの恐怖が蘇った。
昔からそうだった。自分という人間は、基本、物事をおおよそ悲観的に捉えるのに、こういう重大なことに関しては、楽観的思考で片付けようとするのだ。
いや……楽観的というより、認めたくない現実から目を逸したいだけなのだろう。
心配ない。きっと、なにかの間違いだ――と。
今となってみれば、愚かな習慣だった。
――それなのに、液化袋の中心から染み出していく墨のような黒い濁りを凝視し、おれはまた、同じことを思っている。
一体、この状況のなにが心配いらず、間違いだと納得しようというのか。
点滴が黒ずむなどという話は、聞いたことがない。なんにしても、見た目が変わったのなら、それは成分変化に他ならない。
しかし、あるいは考慮されているのだろうか?
なにかの拍子に人体に有害な物質に変化してしまうものを、身体に投与するはずがないのではないか?
そうやって、歪んだ認知で状況分析する自分を、さらに遠巻きに見て焦燥している自分がいる。
その二つは、液化袋の中身がついに黒一色と化し、次の瞬間、チューブを伝って自分の体内へと流れ込む液体までもが侵食された時、恐怖の感情を軸にして統合された。
突発的に、右手の指がチューブを掴んで圧迫した。管を潰して体内への侵入をせき止めようとしたのだ。
腕から点滴を引き抜かなかったのは、この期に及んでまだ、なにかの間違いを信じているからだ……。
上を向いて、ナースコールに目をやる。両手がほぼ不自由な状態だが、指が空いている点滴中の左手を使うしかない。
来てもらわなくてもいい。この状況が、異常なのかどうなのかさえわかれば。
せき止めているチューブ内の黒い液体がもれないよう、慎重に両の手を頭の上に移動する。
しかし、腕が自分の顔の上まで来た段階で――
……チューブ内の液体が、元の色に戻っていることに気がついた。
横を向いて液化袋を確認するが、それも同じだ。
一度、目を閉じてから、また開いて確認する。見間違えだというのなら、むしろ、黒ずんでいた状態こそ、その可能性があるのだが、あれほど鮮明に目にした光景が錯覚だったとは信じられなかった。
……いや、現実としか思えない錯覚なら、見たことはある。
物心ついたばかりの頃、寝室の天井にはカメラを持った女性の写真が貼ってあった。その顔に集中すると、カメラを持った指や、微笑む女性の口元が微妙に動くように見えた。面白くて、それを寝る前の遊びにしていたほどだった。
他にも、家の中のある部屋では、上を向いて蛍光灯を眺めていると、そこから、小さな光の玉がゆっくりと降ってくることがわかり、それを捕まえて遊んでいたこともあった。
どちらも、子供ながらに目の焦点を少し変えることで生じる錯覚だという認識を持っていたが、そのリアルさと再現性は、今でも鮮明に記憶している。
もしかしたら、この点滴に関しても同じことなのかもしれない。
単調に滴るだけの溶液――その、ほとんど代わり映えしない光景に娯楽性を見出そうと、幼少の頃の一人遊びの感性が、無意識で呼び起こされたのかもしれない。そうとでも思わなければ、現状に説明がつかなかった。
仰向けの自分の顔の真上で、チューブを圧迫していた右手の指を緩めた。よく見れば、つまんでいても全てをせき止められていたわけではなかった。もし、あの黒化した液体が錯覚ではなく、まして毒性があったのなら、様態が変わっていてもおかしくない。
そうやって、おれはまた重ね重ね、自分の楽観的思考が作り上げた信憑性を補強していった。
それにしても、あの子供の頃の不思議な遊びは、本当に目の錯覚を利用したものだったのだろうか?
時々、今みたいに当時を振り返った折に疑問に思うようになったのは、心霊番組で「オーブ」という存在を知ってからだ。
死者の魂などと諸説ある光の玉は、はっきりと霊の姿が捉えられている必要があった従来の心霊写真や映像に比べ、構成上、はるかに楽に心霊現象を主張することができる。
だからこそ、こちらも穿った見方をしていたが、ある時、自分が捕まえていたあの光の玉は、オーブだったのではないかと思ったのだ。
もしも、あれが錯覚ではなかったのだとしたら、天井のポスターの女が動いてたのも……。
……たしかめようもない。この部屋の天井には、あの蛍光灯も女のポスターもない。
あるのは、間抜けに空中で静止している自分の両腕だけだった。
その時、右手のリストバンドが目に入った。点滴の処置と一緒に、看護師が巻いていったものだ。患者が付けるものだと説明されたが、点滴にばかり意識がいっていたので、じっくり見たのは今がはじめてだった。
リストバンドには、PCで管理していると思われる患者IDが印字されていた。
――55294
自分はよく、こういう数字の羅列を目にした時に、おぼえるつもりがなくても、語呂合わせの語句を思い浮かべてしまうことが多い。
そして、今、それをしてしまったことを後悔した。