第一話 「入院」
今日、人生で二度目の入院をした。
一度目は、十年以上前に会社の新人歓迎会で飲みすぎて、急性のアルコール中毒で運ばれた時。
そして今回は……なんだろうか?
それもわからないまま――闇の中、仰向けの体制のまま首だけ横に向け、ベッドの脇にそびえ立つ点滴のスタンドを見つめていた。
透明の液下袋の中でゆっくりと減っていく液体が、まるで、なにかの残り時間を告げる砂時計のように見えた。
異変は早朝に起きた。毎日、日が変わる直前にようやく帰宅するような生活だ。貴重な睡眠時間をなんとか確保しようと、寝苦しさをごまかしながらまどろみを手繰り寄せていたが、とうとうそれも限界だった。
目覚めてから、寝苦しさの正体が右脇腹の鈍痛であることを自覚した。長距離を走った時に覚える腹痛の感覚に似ていた。
耐え難いほどではないが、普段ではありえない状況での発症が問題だった。病気かもしれない。虫垂炎もよぎったが、知識としてあった盲腸の位置よりもだいぶ上だ。
まだ、五時台――これがいつも起床する頃合いなら、会社を休んで通院するという選択も取りやすかっただろう。
しかし、病院もまだ開いていない時間では、ひとまず安静にして時をやり過ごす他になく、そのうちに脇腹の痛みは次第に引けていき、目覚ましが鳴る頃にはさっぱりと消え去ってしまっていた。
もちろん、念の為に当初の予定通り病院に行くという選択もできた。しかし、午前から会議があって、後の面倒を考えると休みたくない日だったのだ。
結局、出社に踏み切り、それきり音沙汰ない体調に安心しきって、また日が変わる寸前に帰宅した。危険信号を発していたはずの身体を労ることもなく。
そして、夕食後に痛みは再発した。
このダメ押しとも言える状況をもって、ようやく自分の身に起きているただならぬ異変を自覚した。
――夜が明けたら、今度こそは必ず通院しよう。
そう決意してベッドに横たわった。数時間前のことだ。
しかし、朝を待たず、おれは救急車両で病院に搬送されることを選んだ。痛みは横になっても和らぐどころか次第に尋常ならざる激痛へと変わっていき、いまだかつて無い症状に危機感をおぼえたのだ。
その危機感が、なにか別のものへと変わったのは、闇の中で赤いランプを灯す車両へと運び込まれた直後だった。
一匹のスズメバチが、車内へと紛れ込んできたのだ。今まで刺されたことは無いが、運が悪ければ一回目でも、アナフィラキシーショックを起こす可能性がある。駆除するまで、発車ができない状態となった。
寝台に横たわり身動きが取れない自分の真上を、スズメバチが低い不気味な羽音を立て飛び交う。隊員たちが必死になって追い払う。
そんな光景を、痛みによる朦朧とした意識の中で眺めながら、このタイムロスが、自分の明暗を分けることになるのかもしれないという思いにふけっていた。
――むしろ……あえて、そうなるように、仕向けられたのではないだろうか?
そんな、突拍子もない考えに至った時、スズメバチはまるで役目を果たしたかのように、自ら飛び去り、闇の奥へと消えた。
安堵よりも、なにかの予兆のような感覚が残った。
それを裏付けるかのように、病院に着き、待っていたのは夜勤の看護師からの思いがけない言葉だった。
「今晩は入院していただいて、朝、病院が開いてから検査となります」
朝になってドクターが来るまでは、なにもできないと言う。
だったら、今ここに居ることに、なんの意味があるのか?
この痛みを、朝まで耐えなければならないのか?
……なによりも、朝までの間に、病症が取り返しのつかないところまで、悪化することはないのか?
救急車の発車が遅れた、ものの数分にも満たない時間にすら生死の境を案じていたおれにとって、それはあまりにも絶望的だった。
「痛み止めの点滴を打ちますので」
自分と同年代くらいの、男の看護師がそう言って、寝ているおれの左腕の袖をめくる。
重要なのはそこじゃない。今、自分の身体でなにが起きているのかを、一刻も早く知りたかった。
原因がわからなければ、表面上の痛みだけを誤魔化してしまう処置は逆に不安だった。
とはいえ、耐え難い苦痛が和らいでほしいという願望には抗えず、おれはされるがままに、腕への針の侵入を受け入れた。
やがて、診察台に寝かされたまま病室へと運ばれた。移動にはエレベーターが使われた。階はわからなかったが、降りてすぐの病室だった。容態が悪化する可能性がある患者には、そういう病室があてがわれると聞いたことがある。
おれはどういう扱いなのだろうか。見立て上は命の危険はなさそうだが、万が一を考慮しているといったところだろうか。
病室に他の患者の姿はなかった。診察台からベッドへと移動する。さきほどの男性の看護師と女性看護師の二人で身の回りを色々と整え、最後に周囲を遮蔽するカーテンが引かれた。同時に、室内の証明が落ちる。
「なにかあったら、ナースコールで呼んでください」
そう言い残して、カーテン越しの人影たちは一同に立ち去って行った。あのスズメバチと同じ、どこか現実離れした光景に見えた。
そのうち、痛み止めの点滴が効いてきた。しかし、苦痛が取りさられたというには程遠い。眠るのは無理だろうし、どのみち、朝まで意識を保つつもりでいた。
安楽な姿勢とともに、定めるべき視点を模索した。目を閉じると、痛みを意識してしまうし、なんの変化もない風景を見つめているだけでは、時の流れはため息が出るほど遅い。
いつしか視線は、この隔離されたカーテンの中で、唯一、時の経過を実証する点滴の落下へと向けられていた。
そして――今に至る。
袋の中身は、半分くらいまで減っていた。
この袋の中が空になるのと、夜が明けるのとでは、どちらが早いのだろうか?
もし、空になったら、またあの激痛が襲ってくるのだろうか?
そうなる前に、補充に来るのだろうか?
脳の表層で様々な疑問が浮かんでは、考察もないまま無意味に消えていった。
もっとも、考えたところで答えなど出ない。医療のことなんて、素人にはわかるはずもない。されるがままだ。
今、自分の体内に送り込まれている液体――それが、なんなのかすらも、わからないのだ。
――実際、この液体はなんなのだろう?
そんな疑問を持った時……液化袋の中身に異変が生じた。
中心に濁りが現れ、透明だった液体が、しだいに墨汁のように黒ずんでいったのだ。