イカロスの島
鳥のように空を飛ぶ。この人類の夢はまだ実現されていません。そこで肩・肘・手首の関節と風切り羽で構成された翼と尾羽を持つ飛行機械というものを考えてみました。
滑走路が一本しかないローカルな空港の平屋のターミナルを一歩出ると、道路が一本あるだけだった。舗装路の反対側は針葉樹の森。右の駐車場の隅にひなびた感じのドライブイン風の建物が一軒。左は森の中を一直線に続く道しかない。
双発のプロペラ機に一緒に乗ってきた乗客たちはそれぞれお迎えに来ていたらしい人たちとハグしてから一緒に駐車場の方へ歩いて行く。タクシーらしい車は一台も見えない。
困った。急に暇ができてしまったのでメールの返事を待たずに来てしまったのだが、ここまで来てしまえば後はタクシーで、という判断は甘かったのかもしれない。
「ハロー。ユージ・サン?」
その声に振り向くと白基調のレザースーツの袖をウエストで縛った見覚えのない女性が立っていた。
髪はブロンド・・・というほど派手じゃない。落ち着いた感じの枯れ草のような色の髪をポニーテールにしている。薄い色の目の下にそばかすが少し。上半身はグレーのTシャツ。左手にはグローブを突っ込んだフルフェイスのヘルメット。膝のパッドは擦れていないが、そういう走り方をしないのか、それとも取り替えたばかりなのかはわからない。
「ユージ・ナカジマ・サン?」
また尋ねられる。
「イエス。ユージ・ナカジマです」
「私たちの国にようこそ。私はマーガレット。ジェフの娘です」
差し出された右手を握る。意外に握力が強かった。
「あー、マーガレット・・・」
「マーゴと呼んで。ムスメ・デモ・マーゴ・ナノ」
「え? あ・・・ナイスジョーク。ユージと呼んでください」
いきなり日本語が出てきたので対応が遅れてしまった。誰だよ、こんなもの教えたのは・・・。
マーゴは俺がうろたえているのを見て笑っている。
「パパのメールボックスをチェックしてたら今日着くっていうから迎えに来たわ」
「すまない。休暇が取れた。私はジェフに会いたい」
こんな英語で通じるんだろうか?
「残念だったわね。パパは3週間前から行方不明」
なるほどメールの返事が返って来なかったわけだ。
「・・・何があったか聞いてもいいだろうか?」
マーゴは肩をすくめてみせた。
「パパはロッキー山脈を南へ飛ぶと言って出発してそれっきり。パパもあの飛行機械も行方不明」
マーゴは「エアプレーン」と言わずに「フライングマシン」という表現を使った。そう、あれは航空機でもハンググライダーでもない。機械仕掛けの猛禽類の翼だ。
「パパの友人たちが上空から捜索してくれたんだけど何も見つけられなかったそうよ。太陽に近づきすぎて蝋が溶けちまったんだろうとか、今頃は南極で凍えてるんじゃないかとか噂してるわ」
「あー・・・」
「ノープロブレム」
マーゴは何も言わせてくれなかった。
「いいのよ。パパとママはもう離婚してるから。5年前から私たち3人が一緒にいるのはクリスマスからニューイヤーズデイまでの一週間だけだったの。私は時々パパを連れ出してたんだけどね。はい、これ使って」
Tシャツの襟に引っかけてあったメタルフレームのサングラスを差し出された。女性の胸元で暖められていたサングラス!
「パパの家へ行きましょう。あなたが欲しいものはそこにあるわ」
後ろを向いたマーゴが歩いて行く先には1台のバイク(こっちではモーターサイクル)が置かれていた。レザースーツに相応しいカウリング付きのスポーツタイプ。ちょっと古い大排気量モデルだ。
マーゴはリヤシートにゴムネットで固定してあったジェットヘルを差し出した。
「パパのだから大きいと思うけど使えるでしょ」
ジェットヘルに被せてあったゴムネットも差しだそうとして手を止めたので受け取ってデイパックに入れた。多分ジェフもそうしていたんだろう。
「それは背中にして」
ショルダーストラップを斜めがけにして前に回していたデイパックにクレームを食らう。やっぱり飛ばす気だ。
ジェフのヘルメットはかなりゆるかったが、事故らなければ問題あるまい。
マーゴも自分のヘルメットを被り、レザースーツの袖に腕を通してジッパーを引き上げた。グローブをしてバイクにまたがると、顔を向けて合図をくれる。軽くうなずいてからできるだけマーゴに触れないように慎重にリヤシートにまたがる。
「もっとくっついて」
いや、そりゃあなたの背中に密着した方がバイクをコントロールしやすいんでしょうけど、さっき会ったばかりの女性に素直に抱きつけるほど場数を踏んでないんですよ。
でもしょうがない。ほんとにしょうがないので、細いウエストに手を回させてもらう。
「オーケー。行くわよ」
マーゴはアクセルを少しあおってからバイクをスタートさせた。
スムーズなライディングだ。リヤシートが高くてマーゴのヘルメットの上から前方が見えるから動きに合わせやすいのもあるのだが、しっかり速度を落としてからバンクして、加速しながらカーブを立ち上がるリズムが安定していてわかりやすい。いつものコースをいつものように走っているようだ。
と、思っていたら三つ目のカーブからリズムを変えてきた。バイクを倒し込むのが速くなっていく。今までのが「スーッ」だとすると「スパッ」という感じだ。それでも危険な感じはないので、背中の荷物に徹してマーゴの動きに合わせていく。一度大型トレーラーが対向車線からはみ出してきた時も最初から予定していたようにラインを外側へずらして対処していた。
なだらかな丘を越え、次の街の外れにあった一軒家のガレージの前でエンジンが止められる。・・・ガレージだよな、これ? 4分割されたシャッターは高さはともかく、軽飛行機くらいは余裕で入れられそうな幅があった。
先に降りさせてもらった俺はバイクの左側にしゃがみ込んだ。
「大丈夫? 速すぎたかしら?」
酔ったかと思われたようだ。
「いや、チェーンが気になった」
倒し込んでから加速に移るのが少し遅かった(なくてもいい間があった)ような気がする。あれはマーゴ本来の走り方ではないんじゃないか?
チェーンには少し錆が出ていた。グリスを封入してあるシールチェーンとはいってもメンテしなくてもいいというものではないんだが・・・。下側のチェーンを押し上げてみてもたるみが大きい。さらにドリブンスプロケットの後ろ側を引っ張ってみるとこれも大きな隙間ができる。とっくに限界だ。セミスリックのタイヤの溝もかなり浅くなっている。
「チェーンとドライブスプロケットとドリブンスプロケットを交換した方がいい。さらにタイヤも交換した方がいい」
英語に自信がないのでいちいち指さしながら説明する。
「ああ、これはパパのモーターサイクルなの。パパが使わなくなったので私が乗ってるんだけど、このところチェーンは替えていないと思うわ」
「工具があるなら私が調整するが?」
「あなた、メカニックなの?」
「イエス。しかし、車のだ」
「お願いするわ。私はメカは得意じゃないの」
マーゴは左端のシャッターを開けると中に入って灯りをを点けた。
ジェフの飛行機械はガレージの右側の奥に翼をたたんだ状態で置かれていた。塗料の分重くなるのを嫌って塗装していないというカーボン剥き出しの黒い羽根が重なっているので翼と尾羽だけにした巨大なカラスのようだ。
が、今はマーゴのバイクの方が先だ。
「ジェフは大きな男だったのか?」
「6フィート半、200ポンドくらいよ」
195センチ、90キロくらいか。バイクは車よりも軽い分ライダーの体重の影響が大きい。体重や乗り方に合わせてちゃんと調節しないと本来の性能を発揮できないんだが、そういうことをあまり意識しないで乗りこなしてしまうタイプなのかもしれない。
「リヤサスペンションがジェフの体重に合わせてあるようだ。マーゴに合わせるか?」
言ってしまってから失敗したことに気が付いた。このバイクは父親の形見じゃないか。他人が必要以上にいじっていいものじゃない。
「お願いするわ」
すぐに返って来た返答は意外なものだった。
「いいの?」
「パパが帰ってきて『返してくれ』って言ったら元に戻せば済むことでしょ」
そりゃそうだ。
壁のボードにわかりやすく並べられていた工具から必要なものを借りる。その間にマーゴがガレージの中にバイクを押してきてくれたのでスタンドをセットして後輪を上げる。まず90キロのライダーに合わせたのだろう強めに設定されているリヤサスのプリロードをフックレンチで1クリック弱くする。マーゴの体型ならもう一段弱くしても良さそうだが、いきなりソフトにしても挙動が変わりすぎるだろう。
次はチェーンだ。ピンを抜いてアクスルシャフトのナットをゆるめ、アジャスターボルトで張りを調整したらナットを締めてピンをセットする。最後にチェーンラインをチェックしたらスプレーオイルを吹いて、余計なオイルをウエスで拭き取れば終わりだ。
「オーケー。試してみて」
俺がジェフの飛行機械のことを知ったのは半年近く前だ。もう少し高性能なハンググライダーが欲しいかなと思って、その方面のサイトを見て回っていた時に偶然ジェフのホームページを見つけたのだ。
そこに掲載されていた写真は衝撃的だった。黒い翼の翼端が8本の指のように分かれている。これはどう見ても風切り羽じゃないか! 翼全体が羽根らしき物で覆われているし、翼の後ろには広げられた尾羽まで付いている。鳥を真似ようとしているのはわかるが、どう見てもやり過ぎだった。イカロスの時代じゃあるまいし、今時風切り羽に尾羽とは何事だ。
黒い翼の下からはサングラスとヘルメット姿のひげ面のパイロットが得意げな笑顔を見せている。
(・・・鳥かよ・・・)
猛禽類の翼を真似ているのは理解できるのだが、形だけを同じにしても同じように飛べるというものではないはずだ。特に垂直尾翼がないのでは安定性が不足するんじゃないだろうか。しかし、このいかにもアメリカ的な、勇気があるというか、おバカなシロモノに興味を持ってしまった俺は、その先を読んでみることにしたのだった。
少年時代のジェフも俺と同じように悠々と円を描いてソアリングする猛禽類にあこがれていたらしい。俺の場合は海辺でトンビを見ていたんだが、ジェフはコンドルだったそうだ。ジェット戦闘機のパイロットを目指したのも同じだが、視力の問題で進路を航空機の設計の方面に変えたのだという。俺とは頭のできがまるで違っていたらしい。
そしてジェフは10年ほど前に気が付いてしまったらしい。「俺が設計しているのは鳥じゃない」と。これには俺も同意見だ。航空機もハンググライダーも鳥じゃない。フラップにエルロンにスポイラーとギミックだらけの硬い翼に強力なエンジンで強引に飛ぶなんて、便利なのは認めるが面白くもなんともない。かといってハンググライダーというのも基本的にゆっくり落ちているだけだし。
ジェフもハンググライダーに手を出したらしいが満足できず、とうとう翼の広げたり閉じたりと尾羽の操作で本物の鳥のようにソアリングする機械を自作してしまったということだった。
その翼をいっぱいに広げると翼幅は27.5フィート(テニスコートのシングルスのサイドラインの幅くらい)になるらしい。電動式の翼の開度は2本の操縦桿に付いている自転車用のボタン式シフターで操作する。翼を片側だけたためばそちら側の揚力が減って翼が下がる。これでロール操縦をするわけだ。こういうやり方はハンググライダーでも航空機でもしていない。ハンググライダーは翼全体を傾けてロールするし、航空機はエルロンやスポイラーを使う。
尾羽も操縦桿で操作するが、こっちはワイヤー式だ。操縦桿に付いているリリースレバーを握り込んだまま左右に広げれば尾羽も広がるし、レバーを放せばその位置で固定される。「ハ」の字になっているグリップを内側に倒すとそちら側の尾羽が下がり、起こせば上がる。上昇気流に乗ってゆっくり飛んでいる時の細かいロール操縦はこちらがオススメだと書いてある。
(・・・鳥か・・・)
ハンググライダーは宇宙船を地上に降ろす時のパラシュートの代わりとして考え出されたものだ。したがって基本的に操縦性はゆったりしたものになっているし、強い風には押し流されてしまう。ジェフの飛行機械には可変範囲が大きい翼と尾羽があるから強い風にも対応できそうなのだが、翼の平面形を見た感じでは安定性がよくなさそうだし、操縦系がやたら複雑だから誰でも簡単に飛べるようになるというものではないだろう。
構造材もとんでもないものだった。キールや翼の骨は応力の掛かる部分だけにリブを、しかも内側に付けたカーボンパイプ! 腕の関節に当たる部分はチタン合金の削り出しだという。リブ付きのカーボンパイプというのは軽さと強さを両立している鳥の骨の構造を再現したものらしい。エンジニア時代のコネを使ったという話だったが、そうまでして鳥の翼にこだわるというのはさすがに「クレイジー」というのが褒め言葉になる国だけのことはある。
俺がその時まで使っていたハンググライダーはキールの先端にピボットがあって、こうもり傘のようにスパーが展開できるようになっていたのだが、ジェフの飛行機械の翼は肩・肘・手首の部分に関節があって鳥と同じたたみ方ができるようになっている。ただ、本物の鳥のようにたたんだ翼を胴にぴったり沿わせることはできないようだ。そこまでたたんでもそこには胴がない(パイロットはかぎ爪に捕らえられた獲物の位置に腹ばいの姿勢でつり下げられる)わけだが。関節付きの骨格と風切り羽という構造で翼断面型を維持したまま翼をたたむとなると翼の上下面にポリエステル布を一枚ずつ張ればいいというわけにはいかない。ここも実際の鳥のように羽根が重なり合ったままスライドする仕掛けらしい。
やたら複雑な構造なので自重は約65ポンド(30キロくらい)。飛んでしまえば関係ないが、テイクオフする時にはこれを担がなくてはならない。
(米袋三つ担いで立ち上がれってか)
そこで気が付いた。俺はこれで飛んでみたいという気になっている!
どうもジェフの「クレイジー」がうつってしまったらしい。しばらく迷った末にジェフに問い合わせメールを送ってしまった。
その返信が返ってきたのは二日後だった。
「これで飛んで『楽しかった』と言ったやつはひとりもいない。一度ここへ来て飛んでみてくれ。売るか売らないかはその後で決めたい」
つまり「そこらの機体のように楽しくはない」し「まともに飛べないやつには売らない」ということらしい。そして俺は「そこまで言うなら飛んでやろうじゃないか」というタイプだったんで乗り換え用に貯めていた金を使って太平洋を越えたというわけだ。こんな贅沢な材料を使った手作り機を買うのは宝くじに当たらない限りは無理だと思うが、一生に一度くらい飛んでみるのもいい経験になるだろう。
普通のハンググライダーと同じように三角形のコントロールバーが付いているし、キールからはハーネス用のカラビナも下がっているから翼を固定してしまえば一般的な機体と同じように翼そのものを傾けて操縦することもできるんだろう。だが、その三角形の底辺にあたるベースバーからは自転車用らしいボタンシフターとブレーキレバーが付いている2本の操縦桿が突き出している。市販品が使えるならそれでいいという考え方らしい。
(飛んでみたいけど、持ち主がいないんじゃなあ・・・)
ちゃんと羽軸が付いている風切り羽を眺めているところにマーゴが帰ってきた。
「よい?」
ガレージの中に乗り入れてサイドスタンドを立てたマーゴに尋ねる。
「とてもいい感じよ。アリガト、ユージ」
「いいんだ。ここへ来た時のような走り方を一人乗りでするならプリロードをワンクリック下げるといい。膝パッドを擦るような走り方ならそのままでいいだろう」
「わかったわ。ところで、あれで飛びたい?」
その視線の先にあるのはジェフの飛行機械だが・・・。
「イエス。しかし、許可を求めるべき相手がいない」
「ノープロブレム。あれを日本に持って行ってくれればママだってこの家に戻る気になるかもしれないし。ここに置いとくと、いつかは斧でたたき壊されるわよ。あれはママにとっては恋敵だから」
家庭崩壊するまでのめり込んだのか。気持ちはわからなくもないが・・・。
「こんな高価な物を買い取るほどリッチではない」
「いいの。チェーンを調整してくれたじゃない。それで・・・ええと・・・チャラ!」
ほんとに誰なんだろう? 日本人には違いないだろうが・・・。
「それに、あれはあなたにとって価値のあるものなんでしょうけど、私たちにはマイナスの価値しかないのよ。正直に言うと私もあれを近くに置いておきたくないの」
考えてみれば、あれはマーゴにとっても「親の仇」なのかもしれない。
「わかった。使わせてもらう。日本のレンタルガレージに連絡するからパソコンを貸してもらえるか」
「いいわよ。設計図とか、飛んだときの日記なんかも見たい?」
「わお。それはうれしい」
ジェフのパソコンはリビングに置かれていた。マーゴにパスワードを入力してもらって、まずはクラブの事務局にメールを送る。新しい機体を手に入れたのでクラブで借りている倉庫内にパーツの受け取りと組み立てのためのスペースを貸してもらえないかという連絡だ。
すぐに返事が返ってくるわけもないから先に飛行機械関連のファイルを見せてもらう。
最初のページにあったのはソアリングしているコンドルを真下から捉えた写真だったが、次のページから縦横のグリッドが書き込まれた線図になった。さらにそれを細長くしたり、後退角を付けたりしている。
その先には翼と尾羽の開閉機構、そして羽根の作り方。羽根はカーボンの釣り竿の先端部をカーボンシートでサンドしたものを鉄製の型で挟んで三次曲面に成形したまま加熱するという鯛焼きみたいな作り方をするらしい。マーゴに聞いてみるとその型も10セットくらいガレージの隅に置いてあるということだった。
なんとカーボンパイプの設計図というのもあった。このパイプには力がかかる方向に合わせてリブが配置されている。つまり、この外から見る限りは円筒でしかないパイプには上下左右も前後もあるのだ! 翼用のパイプは関節の近くをより強くし、キールは翼とパイロットの荷重がかかる辺りを補強している。鳥の骨と同じ構造を目指したのはわかるが、それを実際に設計してしまう人間も作ってしまうメーカーもある(連絡先が書いてあった)というのはさすがにフロンティアスピリットの国だけのことはある。
ざっと見ただけだが設計図はすべて揃っているようだ。図面に載っていないボルトやナットには記号が書き込んであるから多分規格で決まっている物を使うんだろう。
「ユージ・・・これだけの図面があればあの飛行機械を作れる?」
振り向くとマーゴはひどく真剣な目をしていた。
詳細な設計図はある。特殊な部品の発注先も書き込まれている。作ろうと思えばできなくはなさそうだが。
「できると思う。しかし、なぜそういう質問をするのか?」
「もしもあれで飛びたいという人が現れたら作ってあげて欲しいの」
マーゴにとっては父親の浮気相手で、なおかつ大事な形見ということなのかもしれない。
「部品をワンセット販売して、それを自分で組み立ててもらうという形でよければやろう」
確かホームビルド機という自分で組み立てる軽飛行機があったはずだ。
「アリガート! 寝室は奥のを使ってね。私は買い物に行ってくるわ」
マーゴは玄関に置いてあったデイパックをつかんで飛び出していった。
会長からの返信が来るまでにジェフが残した手書きのノートを何ページかチェックできた。
専門用語混じりの筆記体を読むなんて暗号解読に近いのだが、大きく「ナーバス!」と書かれているところをみると相当なじゃじゃ馬だったんだろう。ハンググライダーの楽しみの大部分は上空から地上を見下ろすことだ。操作が複雑で挙動が神経質では楽しく飛ぶわけにはいかないんだろう。俺にしても可変式の翼と尾羽を使って「鳥のように」飛べるものなら一度は飛んでみたいとは思うが、それを楽しめるか、飛び続けたいという気になるかどうかはわからない。マーゴのためにもできるだけのことはやろうとは思うが。
マーゴが用意してくれたディナーは塩とコショウだけで味付けしたサーモンの切り身のホイル焼きとインスタントのミソスープ、それに刻みレタスだった。さすがに米までは手に入らなかったらしくてトーストだったが。
実は3食ハンバーガーというのも覚悟していたんだが、ハンバーガーを売っているところまで行くのが大変だという話だった。日本みたいに歩いて行ける範囲にコンビニが何軒もあるというわけにはいかないらしい。
「オイシイ?」
ジーンズに着替えたマーゴが聞いてくる。
「イエス。オイシイ」
そう応えてから気になっていたことを聞いてみることにする。
「日本語はどこで覚えたの?」
「カレッジで知り合ったボーイフレンドが日本人なの。空を飛ばない人」
マーゴは「ボーイフレンド」を「恋人」と訳してもいいような表情をしていた。あまり仲良くなってはいけない人なわけだ。わざわざ「飛ばない人」とまで言ってくれるし。
「飛ぶのってどんな感じ?」
「あー・・・だいたいモーターサイクルと同じだ。右へ曲がりたい時には右へ傾ける。左なら左。それに上昇と下降という動きが加わる。ただ、エンジンがないからテイクオフした高さまで戻るということは基本的にできない。モーターサイクルではなく、スキーに近いかもしれない」
手の甲を傾けながら説明してみる。
「そして上から見下ろすのがとても面白い」
「それはわかるわ。でも・・・墜落したら危ないんじゃないの?」
「パラシュートといっしょに飛ぶ。モーターサイクリストのレザースーツと同じ」
「ああ、なるほど」
「私のハンググライダーは遅い。もっと速く飛べる機体が欲しかった。それでジェフの飛行機械に乗ってみたいと思った。操縦は難しいだろうと考えるが」
「そうよね。私も速いモーターサイクルが好き。普段はどんな所を飛んでいるの?」
「私の住んでいるところは小さな島だ。・・・ええと、火の山・・・」
「火山?」
そうだ。ボルケーノだった。
「イエス。火山の島なので、ええと高さ2500フィートくらいのリングのような山がある。そこに海からの風が当たると上昇気流ができる。温かい地面からも上昇気流ができる。それらを使って飛ぶ」
「リングの大きさはどれくらい?」
「ええと・・・」
「メートルでいいわよ」
「ありがとう。だいたい7千メートルだ。山がないところもあるから本当はCの形だ。リングの中には森や・・・牛がいる・・・」
「牧場?」
「イエス」
そうだった。Rで始まる方のランチだ。
「リングを一周したりするの?」
「あー、それは少し難しい。なぜならハンググライダーは前からの風がないと飛べないからだ。後ろからの風と同じスピードで飛ぶのは風のない所にいるのと同じだ。ハードランディングする」
下向きにした手のひらをテーブルの上に落として見せる。
「危ないじゃない!」
「少し下向きにして風より速く飛べばオーケーだ。その前に後ろからの風には近づかなければいい」
「ふうん・・・」
マーゴは飛ぶことに興味を持っているような気がする。こういう時は「よかったら一度飛んでみないか」と誘ってみるのがハンググライダー乗りのマナーなんだが・・・。
「ああ、ゴメンナサイ。トーストをもっといかが?」
「ありがとう。もう一枚お願いする」
「オーケー」
マーゴは席を立ってキッチンに向かった。逃げられた・・・のかな?
翌日、マーゴは大学へ行くと言うので一人でジェフのノートの解読を続けた。輸送用に注文した木箱とプチプチのロールが届かないことには何もできないのだ。
ジェフのノートによると2号機以降は飛行中に翼をたためる範囲を制限するつもりだったようだ。「右だけを開度7にしたらひっくり返ってしまいそうになった」らしい。人間には鳥のような3次元感覚はないということなんだろうなあ。
同じく尾羽も左右を連動して開閉できるようにすると書かれていた。やはり相当なじゃじゃ馬らしい。と、そこで気が付いたんだが、ガレージにあったのはプロトタイプなのか量産型なのかわからない。ノートを置いてガレージに行ってみることにした。
飛行機械の下に潜り込んで防水パッキンの付いた電池ボックスの中のモバイルバッテリーにUSBコードを繋ぐと、5つ並んでいるLEDのうち4個が点灯した。右シフターのUPボタンを押すと右の翼が少しだけ開く。一回押すごとに肩と肘の関節が伸び、手首に当たるピボットも回転して風切り羽が開いていく。1つ2つと数えていったら全閉から全開まで10段階だった。これはダメだ。片方の翼だけ揚力100パーセントでもう片方がゼロでは絶対に墜落する。プロトタイプにありがちな高性能過ぎる機体のようだ。
(・・・じゃじゃ馬か)
口元が緩んでいるのを感じる。こいつは車で言うならレーシングカーなんだろう。誰でも乗りこなせるものではないだろうが、自分に才能があるかどうかを試す機会が与えられるのならやってやろうじゃないか。
結局分解した飛行機械をトラックに載せるまでジェフの家に泊めてもらうことになったんだが、マーゴは食事代すら受け取ってくれなかった。女性からこんなおもてなしをマンツーマンで受けるのは初めてだ。でもそれは俺が好きなんじゃなくて父親に対する思いのお裾分けなんだとわかってしまうのがちょっと残念だった。
島に飛行機械が届いてから一年、俺は暇さえあれば飛びまくった。
何というか、相性がよかったのかもしれない。ジェフの飛行機械は確かにじゃじゃ馬だったんだが、それが面白いのだ。他のクラブ員に飛んでもらうと「下界を眺める余裕がない」「重い」と嫌われるんだが、俺にはその常に修正し続けないと墜落してしまいそうな危なっかしい操縦性が面白くてたまらなかった。それにのんびり下界を眺めるのよりもこの巨大な鳥の能力をめいっぱい引き出してやる方がよっぽど面白い。
そしてこれで飛ぶのが楽しくなるのにはある程度の風速が必要だということもわかってきた。完全無風だと、そこらのハンググライダーに滑空比(百メートル降下する間に何百メートル前進できるかという数値)で負ける。同じ翼面積なら細長い翼の方が効率がいいし、こっちは可動式の関節や羽根のような重い物が付いているし。だが、風速が上がってくるにつれて事情が変わってくる。ハンググライダーというのは結局のところ「糸の付いていない凧」なので、その飛行限界は風速7メートル(原付の制限速度)程度になる。それに対してこの可変翼の鳥は風速5メートルあたりからが面白いのだ。アホウドリは無風状態だと飛べないという話があるんだが、こいつも風の力を利用して飛ぶようにできているんだと思う。
だいぶ風が強くなってきた土曜日の朝、俺はトラックに積みっぱなしの飛行機械に充電済みのバッテリーをセットした。
あまりいいことじゃないのはわかっているんだが、台風がやって来るとワクワクしてしまう。台風は強力な低気圧だからそれに向かって強い風が吹く。ハンググライダーが飛べなくなるほどの風なら島の上空を空港周辺といまだに煙が出ている中央火口の付近を除いて独り占めできるのだ。島を直撃されると被害が出るが、今回は本土に向かっているし。この島ではどの方向から風が吹いてもカルデラのどこかの斜面に上昇流が発生するのでその風に乗れば飛び放題だ。うまいことにカルデラの稜線上に観光用の道路が引いてあるのであっちこっちにある駐車場に車を置いてテイクオフできる。ランディングゾーンはそれこそ島中にある。公式に設定されているのはカルデラ内部の牧場内の2カ所。昔は飛んでいたという牧場のオーナーの好意で外輪山の上に置いてきた車まで戻るためのレンタルの電動アシスト自転車も何台か置かれている。一緒に飛んでくれる仲間がいるのならランディングゾーンに車を一台置いておけば済むことだが。
カルデラの外にも島を海岸沿いに一周する道路があるから道路脇の空き地にランディングしてもタクシーを呼んで車まで戻るということができる。ハンググライダーのためにあるような島だというのでウチのクラブ員は非公式に「イカロスの島」と呼ばせてもらっている。
トラックに乗ろうとしたところでスマホの呼び出し音がした。表示を見てみると三日月島からだ。三日月島というのは空港の反対側にある小さな島で海に沈んだ噴火口の跡が天然の防波堤になっている。昔は空港の近くにある漁港に帰れなくなった漁船の避難所兼若い衆のたまり場だったらしい。今は網元を引退した親父さんとおかみさんが民宿をやっているが他には住人はいない。今は雲の画像なんかも見られるし、漁師の若い衆も少なくなったので大部屋を区切って客を泊めている。おかみさんによると「町中には住みたくないけど、たまには若い衆の顔も見たいのよ」ということらしい。俺も含めて「時々お客さんが来る」くらいだそうだ。海が荒れたら行くことも帰ることもできなくなるような宿だしなあ。
ボタンをスイープするとおかみさんが出た。
『あ、ゆうちゃん? 今日飛んで来られる?』
「行こうと思えば行けるけど、なんで?」
『ウチの人がね、昨日湊でゆうちゃんを尋ね歩いてた娘さんを見つけて連れてきちゃったの』
それは拉致監禁! まったくもう・・・親父さんは魚を捕るのに慣れてるからってお客さんを一本釣りかい。いやいや、それはともかく「娘さん」と呼ばれるような年代の女性に心当たりはないんだが・・・。
『ほら、ゆうちゃんが捕まったよ』
『・・・ユージ? 私、マーゴ』
「マーゴ! えっ、どうして?」
『日本に来たのでここにも来てみたの。パパのフライングマシンはどう?』
流ちょうな日本語だった。
「うん。すごくいいよ。気に入ってる」
『ここまで飛べる?』
「ああ。この風なら飛べると思う。飛ぶ準備ができたらまた電話しようか?」
『はーい。待ってるよー』
おかみさんが応えた。二人して電話に顔をくっつけてたんだろうか。
トラックで走り出そうとしたらまた電話が来た。道端の空き地に停めて画面を見るとクラブの会長を引き受けてくれている牧場のオーナーからだ。
『祐二君、今どこ?』
「えー、お花見ラインをカルデラロードに向かってますけど」
『飛べる?』
「ええ、そのつもりです」
『よかった。今、うちの上空で水谷さんが降りられなくなってるみたいなんで誘導してくれる? 二本松あたりなら風も弱いと思うんだ』
思わず空を見上げた。この風の中を飛んじまったのか!
ハンググライダーでテイクオフするのは簡単だ。下り斜面をちょっと走れば風に乗れる。だが、ランディングはちょっと難しい。完全に無風ならピンポイントランディングを決めてみるのもいいんだが、地表近くの風は乱れる要素が多くて読みにくい。風が強い時にフレアをかけすぎるとひっくり返って背中から落ちることがあるし、予想外の横風を食らって片方の翼端が接地してつんのめることもある。アプローチで十分に高度と速度を落とせれば大ケガをすることはないのだが。
牧場のランディングゾーンは2カ所ともカルデラの稜線が切れた所の内側にあるからこの風向きだと強い風がまっすぐ吹き込んできているのかもしれない。二本松の原っぱはカルデラの陰になる・・・が、これだけ風が強いとどうなんだろう?
カルデラロードに出て誰もいない駐車場にトラックを停めてからおかみさんに電話して少し余計に時間がかかるのを伝えた。
ヘルメット・ゴーグル・ニーカップを装着、素早くハーネスを点検して荷台に固定した電動式リフターで飛行機械を持ち上げる。カルデラから吹き上げてくる風の中に入ると風切り羽がしなり始める。キールの尾羽側を固定していたフックを外し機体の下に入ってカラビナにハーネスをセットしてからベースバーのフック2つも外す。ダウンチューブをつかんで30キロを持ち上げ、UPボタンで翼を広げていくと揚力が増えていくのがわかる。このまま全開にすれば舞い上がれそうな強さの風だが、今回はカルデラ内へ飛び込むことにする。
大きく息を吸って開度4のまま3歩助走でガードレールを越えてテイクオフ。すぐに開度7。腹ばいの姿勢に移行して操縦桿に持ち替え、浮き上がろうとする機体を尾羽で押さえ込んで向かい風の中を降下していく。風切り羽が弓のように反っているが、90キロの体重にも耐えられる機体のはずだから気にしない。
牧場の上空を突っ切っていくと青と白の機体が見えてきた。アスペクト比の大きい(細長い)いかにも高性能という感じの機体だ。しかし、それは同時に不安定な強風の中ではひどく扱いにくいということにもなる。
カルデラの中は基本的に風が穏やかなんだが、ある程度強い風が吹いてくると暴れ始める。だからウチのクラブ員はこういう風の強い日は飛ばない。水谷さんは最近島に来た人だからここの風の癖を理解しきれていなかったんだろう。入会する時に説明はされたはずなんだが。
青と白の機体はよたよたと飛んでいた。一定の高度を維持できなくて上がったり下がったりしている。ハンググライダーの操縦は腕力勝負だから腕がアガッてしまったら終わりだ。急がないと。
開度8にして青と白の機体の横に並べて尾羽の操作で上下動についていく。
「水谷さーん、風の弱いとこへ案内しまーす」
風切り音に負けないように大声で呼びかける。
「たのむー」
「左へ横滑りしてー、左90度せんかーい。カルデラの陰に入ってー、高度を落としてー、左旋回してランディングー。わかったー?」
「えっ、左? それって追い風になるんじゃないの?」
確かに海上を吹いてくる風に対しては後ろ向きになるのだが、俺しか知らない風を説明するのはめんどくさい。マーゴも待ってるんだし。
「こっちが旋回したポイントで旋回してくださーい」
UPボタンで両翼を全開にして、尾羽も広げる。できるだけ向こうの特性に近づけてから手をベースバー(三角形のコントロールバーの底辺部分)に移す。
「行きまーす」
機体全体を左に傾けて旋回に入らないようにしながら滑らせていく。
カルデラの陰に入る直前で左旋回。下降気流に押し下げられながら突き抜けるとほとんど無風からやや上昇気流の見えないトンネルに突入する。
「なんだこりゃあ!」
後ろから声が聞こえる。この風が強い時だけ現れる無風トンネルのことを知っているのは俺だけだ。あ、今二人になったか。
風が弱い内はカルデラの外側斜面に沿って上昇した気流は内側斜面に沿って下降していく。だが、ある程度風が強くなると稜線で気流が剥がれてそのまま飛び越えるようになる。飛び越えた気流は地面まで降下して前後に分かれるので無風トンネルができあがるのだ。
二本松には牧場のワゴンが停めてあった。迎えに来てくれたらしい。墜落して大ケガをするやつが出ると警察や自治体がうるさくなるだろうということで気を遣ってくれているのだ。
「二本松に降りてくださーい」
二本松の原っぱには牧場のトラックと白いワンボックスが停めてあるのが見える。風が強すぎて飛べなくなったクラブ員も応援に来てくれたらしい。
新たに立ててくれた竿のピンクリボンを見る限りは二本松までは弱い向かい風だ。その先には下降気流があるはずだから、着陸しそこなってもっと先まで飛ぶと地面に叩きつけられることになるだろうが、そこまで面倒は見きれない。
「わかったー。どーもー」
余裕を取り戻したような声が返ってきた。ピンクリボンの揺れ具合を見て原っぱの風の状態がわかったんだろう。
手を操縦桿に戻して右に左にとゆっくり横滑りさせながら見守っているとランディングした機体にとりついたクラブ員がパイロットごと機体を脇へ寄せた。残ったかいちょうは手を大きく振っている。「降りていいよ」という意味だが、それには手を振り返して右へ滑らせる。吹き返しの風はこの位置では高度を維持できるかできないかくらいなんだが、この先にちょっとした沢がある。そこなら風が集まるはずだ。この風向きでは三日月島は風下側になる。追い風の中でカルデラを横断するとなると風よりも速く飛ぶ必要がある。そのためには速度エネルギーに変換するための位置エネルギー、つまり高度が必要なのだ。
沢に入り込んだら尾羽で姿勢をコントロールしながらじりじりと高度を稼いでいく。
カルデラの稜線近くまで上昇すると頬ににも少し乱流を感じ始める。ここまでだ。尾羽を使って機首を下げる。開度は4。地表に向かって急降下する。気分は獲物を見つけたハヤブサだ。
スピードが上がってくると揚力が増えてエプロン状のハーネスに胸から腿までが押しつけられる。そのまま下降流に突入。後ろ上方からという一番揚力を発生しにくい風の中でハーネスに押しつけられていた胸と腹が浮き上がりそうになる。これが失速の前兆なので、さらに降下角を増して開度5。パイロットの感覚ではほとんど垂直降下だが、揚力が働くから少しずつ引き起こされている。
下降気流を抜けてもまだ追い風なのでカルデラ内を横切って中央火口を目指す。そこの斜面には上昇流があるからちょっとだけ高度を稼げるのだ。ただ、火口の先でまた下降気流になるのでそれに捕まる前に抜け出す必要がある。
反対側のカルデラ斜面には本格的な上昇気流がある。これに入り込んで翼を全開にすれば上りエスカレーターに乗ったようなものだ。
そのままカルデラの稜線を越えると下降気流に巻き込まれてしまうのでいったん機首をカルデラ内に向けて上昇気流から抜け出し、上空を素直に流れてきた風の中に入り込んでさらに高度を上げる。充分に高度を稼いだらまた180度旋回。すると海の中にぽつんと三日月島が見えてくる。三日月というより口が狭くて肉厚のCの字なんだが、名付けた人はアルファベットを知らなかったんだろう。
三日月島までは一気に飛ぶ。海面近くまで降りれば翼と海面に挟まれた空気は下へ逃げることができないので高度が下がりにくくなって遠くまで飛べる。いわゆる地面効果が発生するのだ。
見慣れた漁船が三日月島へ向かっている。
「おーやじさーん」
操舵室の人影に向かって声をかける。ガラス越しに刈り上げた白髪頭が動いたような気もするが、追い風の中で旋回すると不時着水することになりかねないので近くへ寄せるわけにはいかない。どうせ向かう先は三日月島だし。
三日月島は水が出ない。シャワーは溜めておいた雨水を使うが、調理用の水は湊で買ってくる。小さな畑でやさいは作っているが、米・味噌・醤油・肉・酒・ガスボンベなど島で作れない物は湊まで行かないと手に入らない。だもんで海が荒れたら休業する。もっともお客さんも渡って来られないわけだが。
そして平地もほとんどない。入り江の奥の右側にあるテラス状の平地の二段目にあるのが民宿三日月屋だ。
「おかみさーん」
入り江からピークへ向かう上昇流に乗りながら到着を告げる。おかみさんは飛んでいる所を見せると喜んでくれるのでこっちもサービスしたくなってしまうのだ。
ピークを過ぎたら旋回して風に正対する。翼を全開にして高度を稼ぎながら見下ろしているとおかみさんが転げそうな勢いで駆け出してくる。そしてもう一人。枯れ草色の髪! マーゴだ。白い長袖ブラウスにゆったりした水色のパンツというリゾートファッションでキメている。
よーしよし。見せてやろうじゃないか、ジェフが作った飛行機械の能力ってやつをさあ。
充分に高度を稼いでから翼をたたんで急降下、右へ旋回して三日月屋の前を高速パスする。それからもう一度高度を上げて逆方向から8の字を描くように高速パス。そこで翼をいっぱいに広げて高度を稼ぐ。間が開いてしまうがエンジンがないのだからしょうがない。急旋回の度に失っていく運動エネルギーを補うためには風に正対して高度を上げ、位置エネルギーを獲得する必要があるのだ。
それからいったん三日月屋の高さまで降りる。翼を開度9にして全開にした尾羽を少し下げて機首を下げ、向かい風と前進速度を一致させる。つまり空中静止。そこから尾羽の左側を少し上げて右を下げる。そうするとロールモーメントが働くから機体が左に傾いて横滑りを始める。三日月屋を過ぎたら逆の操作。尾羽というジェフの飛行機械特有の動翼の働きをしっかり見てもらう。
ちょっと後ろを確認。真後ろに三日月島のピークがないことを確かめてから尾羽を上げる。機首が上がり始めたタイミングで翼を全開。かなり上向きの姿勢で翼全体に風を受けて後方に吹き飛ばされる。普通のハンググライダーでこういう事をやると失速してしまうのだが、こいつの場合は風切り羽がねじれて揚力を発生し、失速を遅らせてくれるのだ。
さて、せっかくの強風なのでループ(宙返り)をやってみようかと思う。実はハンググライダーでループは難しい、というか、基本的にできないということになっている。シートベルトで固定されている航空機のパイロットと違って、ハンググライダーの場合はキールから吊り下げたハンモックのようなハーネスに腹ばいになっているだけだからループの頂点でマイナスのGがかかったらキールの上に落下して操縦不能、墜落する。それはこの機体でも同じだが、この機体には尾羽がある。機体の強度にも余裕があるはずだし。
海上で充分に高度を取ってから小さく旋回、翼をたたんで追い風の中を急降下。翼を開度8にして全開にした尾羽を上げる。海面すれすれで水平から急上昇。開度7。垂直になった辺りで開度5。ハーネスに押しつけられた状態を維持するために尾羽を上げたままにして背面になってもプラスのGを発生させ続ける。再び降下に入ったら開度7。そして全開。運動エネルギーを消費した分きれいな円にはならない。巻きの少ないらせんのようなゆがんだ飛行経路だが、ハンググライダーとしては上出来の部類だろう。
アクロバットの展示が終わったらランディングだが、実はこれが一番難しい。ここのランディングゾーンは三日月屋から一段低い所にある昔の網干し場なのだが、狭いし、風よけの石垣に囲まれているから風が巻いている時がある。何本か立ててあるピンクリボン付きの竿もあまりあてにできない。それにマーゴの目の前でヘッドスライディングみたいな無様なランディングはしたくない。ピンポイントとはいかなくても何歩か歩くくらいで決めたい。
ゆっくり高度を下げながらリボンの動きを観察して、そこに吹いている風をイメージする。右へ滑るようにアプローチ。手をダウンチューブ(三角形の斜め線部分)に移して足を下ろす。
膝が着く寸前の高度でダウンチューブを前に押して機首を上げ・・・しまった!翼が持ち上げられる。いわゆる「重い空気」だ。迎え角を戻す前に失速、墜落した。1メートル足らずの高度からだが、右膝の上あたりにビリッとくる。米袋を3つ担いでダイニングテーブルから飛び降りたようなものだからこういうことになる。まあ、多分肉離れだから飛んでしまえば関係ない。なんでもない振りをしてダウンチューブに後付けしたボタンで翼をたたんでベースバーのスポンジ車輪を地面に下ろす。
そこへマーゴが石段を駆け下りてきた。
「ハイ」
ハーネスを外して飛行機械の下から這い出しながら声をかける。
「ユージ! アメージング! ライクァ・リーリィビッグバード!」
「イエス。イッツ・ジェフス・フライングマシーン」
オーバーアクションでまくし立てるマーゴにキメ台詞で応じる。
その時、石垣の上からおかみさんが顔を出した。
「マーちゃん! あんたお腹に赤ちゃんがいるんだから走っちゃダメ!」
後で考えると、そこは「おめでとう」と言うべきところだったと思う。その時は底なしの暗闇に向かって墜落していくような気分で何も言えなかった。
二人にも手伝ってもらって今は使われていない網小屋に飛行機械をしまって、会長宛に「三日月島に来ている」とメールを送ってしまえばゆっくりできる。
置きっ放しにしてもらっているアイスバッグで右膝の上を冷やしながらマーゴの話を聞かせてもらった。なんでも妊娠しているのがわかったので、相手の男を追いかけて日本に来て、教えられていた住所を尋ねていったら女が出てきたということらしい。
日本式の茶碗でお茶を飲んでいるマーゴの顔にはもうソバカスもない。「憂いを含んだ表情」というのはこういうものなのかと思う。一年しか経っていないのに一人前の女性になってしまったみたいだ。ちょっと痩せたみたいだし。
「ゆうちゃん、お昼食べるよね。屏風岩の裏で何か捕ってきてくれる?」
おかみさんがタオルとマイナスドライバーと空のペットボトルが入ったポリバケツを持ってきた。「自分が食うもんは自分で捕ってこい」がここのルールだ。入り江の反対側の磯場には石鯛の大物も住み着いているらしい。何も釣れなければ親父さんが船を出して何かを捕ってくるのが基本なんだが、海が荒れてきているから三日月丸は出せない。そういうわけで何か食える物を捕ってこいというわけだ。
「はい」
立って右膝を曲げ伸ばししてみる。しっかり冷やしたからそう痛くはない。しばらくの間は湿布を貼るようだが、歩くのに支障はなかろう。
「私も行っていいですか」
「うんうん、行ってきなさいよ。こんなとこにいたって気は晴れないからね」
おかみさんはほっとしたように言った。部屋から出ない客なんかこんなとこには来ないからなあ。
玄関でビーサンに履き替えているところで会長から電話が来た。
「はい、祐二です」
「祐二君? 三日月島でアクロバットやったんだって?」
うげっ。休みなのに飛べなかった会員に見張られてたか!
「ええと・・・遠くから知り合いが来てたもんで・・・」
「女の子?」
「えっ、なんで・・・」
「こんな風の強い日に祐二君が島から出るなんて女の子がらみしか考えられないよ?」
「ええと・・・いま飛んでる機体を作ってくれた人の娘さんです」
「そうなんだー。頑張ってねー」
切れた。妊娠している女性に対して何を頑張れというのか・・・。
持っててくれたバケツを返してもらって歩き出す。膝上の痛みがちょっとぶり返してきた。
網干し場からさらに石段を降りてコンクリの桟橋まで行くと親父さんが荷下ろしをしているところだった。
「こんちはー」
よく日に焼けた仏頂面に挨拶。
「おう、来たか」
「来たよう」
バケツを掲げてみせる。
「外へは出るなよ」
「わかってる」
入り江の外側に出るとどんな波が来るかわからないし、釣りをする気もない。
桟橋の先で噴火口の壁が天然の防波堤になっている。その周辺の岩場が俺の狩り場だ。釣りだと全く釣れないという時もあるはずだが、岩にひっついている貝なんかは逃げたりしないから確実に採れる。そう、逃げたり食いついてきたりしない獲物は「捕る」というより「採る」という感じになるのだ。こっちの方が俺の性にに合ってる。
まずはバケツを空にして海水を半分ほど。ペットボトルにも入れておく。
「これ何に使うの?」
「バケツは採ったものを活かしておくために。ペットボトルのは・・・料理に」
海水と真水を半々に混ぜてその分味噌を減らした味噌汁が好みというだけなんだが、説明はしにくい。幸いマーゴはそれ以上追求してこなかった。
「貝は食べられる?」
「あー・・・食べてみるわ」
「オーケー」
まず岩にびっしりへばりついているイガイを大ぶりのと小ぶりのを混ぜてドライバーこじって引っぱがす。それから潮だまりに入ってここらでシッタカと呼ばれている小さな巻き貝を10個くらい。これは親父さんの酒のつまみになる。自分の味噌汁用にはエラコを四本。エラコというのはゴカイの仲間で泥のない磯場にチューブを造ってその中に住んでいる。食べているのは水中のプランクトンだというから泥臭くはない。しかもドレッドヘアみたいに群棲しているからそこに行けば確実に採れる。試しに食ってみて以来三日月島に来る度に食べている。後は青海苔を少しむしって終わりにする。今日食べる分だけ採れれば充分だ。
「ああ、それ触らないで」
バケツの中に指を突っ込もうとしていたマーゴを止める。
「エラコは、ええと・・・刺すから」
「刺す?」
「目に見えないくらいのポリプ・・・クラゲみたいなものがくっついていてそれが刺すんだ。人によっては赤く腫れたりするんだよ」
「ふうん・・・」
放っておくとわざと刺されてみそうな感じだったのでバケツを取り上げてさっさと三日月屋へ戻ることにした。
大きいイガイはバター焼き、小さいのは味噌汁の具になる。おかずは他にジャガイモとサヤエンドウの煮たのと薄く切ったキュウリの塩もみ。俺だけは自分で小鍋を借りてエラコと岩海苔の味噌汁を作る。
「あれ? マーゴのご飯、それだけ?」
パンまでは用意できなかったんだろうが、いくらなんでも少なすぎる。子供サイズじゃないか。ダイエット中なのか?
「食べられないの」
「マーちゃん、つわりでね。パンも肉も食べられないんだって」
「えっ・・・」
「今、何が食べられるか試してるとこ。野菜や味噌や醤油はだいじょうぶみたい。魚も少しは・・・なんだけどねえ」
そうだった。マーゴは妊娠してるんだった。
「突然ベジタリアンになってしまったみたいなの。これも食べてくれる?」
イガイのバター焼きの皿を俺の前に置いてくれる。
「こっちは食べられそうだから」
そう言って味噌汁のお椀に口をつける。
「え? 同じイガイだよ?」
「バターがよくなかったかねえ。マーちゃん、パンにバター塗って食べてた?」
「はい」
「多分それだわ。無意識に『これは食べ物だ』って認識しちゃうとそれだけで胃が縮んじゃうんじゃないかねえ」
さすがに元看護師さん(当時は看護婦さん)の指摘は鋭い。ちなみに親父さんが入院した時の担当だったんだそうだ。
「食べられる物だけ食べてればそのうちに収まると思うけど、どうしても体重が増えないようだったら病院行って。うちにいる間は好きなときになんでも食べられるものを食べていいからね」
「はい。ありがとうございます」
「いいのよう。泊めておいて何も食べさせないってわけにはいかないんだからさあ」
そう言ってけらけらと笑う。親父さんがあまり笑わない分まで笑うみたいなご夫婦だ。
「それ、おいしい?」
マーゴは俺の味噌汁を見ていた。多分、その中のぶつ切りにしたエラコを。
「やめときな」
潮焼けした親父さんが口を開く。
「他に食うもんがあるのにわざわざ食うようなもんじゃねえ」
経験者らしい評価だ。俺だってたまーにこのコリコリした歯ごたえが懐かしくなる程度だし。なんといっても見た目がアレだし。
「食べてみればわかるよう」
おかみさんはさっさと席を立つと台所からお椀を持ってきて小鍋に残っていたのをよそるとマーゴの前に置いた。それ、俺の2杯目なんだけど。
なんとなく3人でマーゴがお椀を口元に持って行くのを見守ってしまう。
「これ、おいしいです。ええと・・・シンプル・・・やさしい味、でいいのかしら」
「ああ、それ、ゆうちゃんのやさしさの味。料理に性格が出るんだわ」
嘘だ。出汁を取らず、海水を混ぜた分味噌もケチっているからうま味が薄いだけだ。おかみさんが目で合図しているから反論はしないでおくが。
おかみさんと一緒に食器を洗い終えて食堂に戻ると親父さんとマーゴはテレビを見ていた。
「台風がこっち来るぞ」
親父さんがぼそっと言うのでテレビを見ると台風の予想進路がほとんど直角に曲がって東北東に向かっていた。直撃とは言わないが島のすぐ北を抜けていきそうなコースだ。大陸の高気圧が強くなったか、太平洋のが弱くなったかしたんだろう。
「いい風が吹きそう。もう一回飛ぶかな」
「ばかやろ。お客さんが来れなくなっちまうんだぞ」
俺はお客さんじゃないらしい。
「マーちゃん、今なら本島に帰れそうだけど、どうする?」
「もう少し・・・台風が通過するまでいていいですか。ここのご飯はおいしいので」
「もちろんいいよ。今のうちにゆうちゃんのお味噌汁いっぱい食べていくといいよ。ゆうちゃんもマーちゃんが帰るまでいられるよね」
「いや。俺、仕事があるから明日の夕方には帰るよ」
「マーちゃんを置いてく気? 仕事なんか波が収まるまで休めばいいでしょ」
俺は漁師じゃないんだけど・・・。
「わかりました。月曜日の朝にします」
間に合わないことはあるまい。
「祐二。あの曲芸飛行を人に見せたらどうだ? あれなら金が取れるだろ」
この島を活性化しようとする人たちはみんな同じことを言う。そして俺の答もいつも同じだ。
「それ無理だわ」
「何でだ」
「風が弱いとあんな飛び方はできないんだ」
「・・・使えねえな」
「遊びの道具だからね。釣りみたいなもんだよ。大量に魚を捕るなら網の方がいいんだろうけど、遊びだったら釣りの方が面白いでしょ」
「・・・ふん」
会長に言われた時には、カルデラロードからテイクオフして牧場上空で飛行演技というところまで考えたことがある。一機だけじゃ寂しいから一機がランディングしたら次がテイクオフするというような形をだ。ただ、それをやるのには機体もパイロットも増やさないとだし、機体の色も真っ黒じゃ見た目が悪かろうし、風向きと強さによって演目を変えることになりそうだし、不可能ではないが越えなくてはならないハードルが多いのだ。こんな楽しいことを仕事にしてしまうというのもどうかと思うし。
テレビを見ているうちに窓ががたがた言い始めた。
「雨が降り出す前にもう一本飛ぶわ」
右膝を曲げ伸ばし。たいしたことはない。
「私、部屋で休んでていいですか」
「そう? お布団敷こうか?」
何か元気のない様子のマーゴとおかみさんが食道を出て行く。
マーゴに見てもらえないとわかった途端にやる気がエアポケットに突っ込んだんだが、飛ぶと言った以上は飛ばないわけにもいかないだろうなあ。
「祐二。おまえ、マーちゃんが好きか」
親父さんが話しかけてきたので上げかけた腰をまた下ろすことになった。
「嫌いじゃないよ」
「なら、さっさと口説け。マーちゃんはおまえに会うために太平洋を越えてきたんだぞ」
「それは違うよ。マーゴは恋人・・・元恋人に会うために日本に来たんだって言ってたよ」
「ばかやろ。マーちゃんはな、湊の土産物屋を一軒一軒まわって『大きな黒い鳥に乗っている人を知りませんか』って聞いてたんだぞ」
それは初耳だ。俺らが飛ぶのはだいたい土曜日曜でエリアもカルデラ周辺だ。墜落も100パーセントないとは言い切れないから民家の上空はできるだけ避けるし、土日に観光客相手に仕事している人たちの近くを飛ぶ機会はほとんどない。遠くから見られても、ただのハンググライダーにしか見えないだろうし。
「女ってのは好きでもねえ男のためにわざわざ海の彼方の離れ小島まで追いかけてきたりはしねえよ。マーちゃんがおまえのことを何とも思ってないんだったら、とっととアメリカへ帰ってるだろ」
「いや、だって・・・マーゴは空を飛ぶやつは嫌だって言ってたよ」
「女の言うことをいちいち信じるんじゃねえ! 女に好かれてるか嫌われてるかなんてのは抱いてみなくちゃわからねえだろが・・・っと、マーちゃんはまだ安定期に入ってねえのか・・・。よし、キスしちまえ。それでひっぱたかれたり逃げられたりしなけりゃ好かれてるってことだ」
いや、今時それやったら犯罪だから。
「おとうさん!」
血相を変えたおかみさんが食堂へ駆け込んできた。
「おとうさん、船出せる? マーちゃん、お腹が痛いって言うの」
「何だ? エラコに当たったのか?」
「違うみたい。盲腸だったら右だけど、左側が痛いって言うから念のために病院の救急に電話してみたら『子宮外妊娠による卵管破裂の疑いがあるからすぐ連れてこい』って言うのよ」
本島には救急外来がある総合病院は1つしかない。後はあっちこっちに内科医院や整形外科があるだけだ。
「波が静まるまで待てねえのか」
「ダメよ! 妊娠中は赤ちゃんを守るために子宮の周りの血液が固まりにくくなってるの。普通ならすぐふさがるような血管の傷から血液が流れ出し続けるのよ!」
「・・・なら、なおさらだ。この風向きだと湊の入り口で横風になる。命に関わるような病人乗せて荒れた海へは出られねえ。海保か自衛隊にヘリを飛ばしてもらおう」
「それで間に合う?」
「俺が連れて行こうか」
二人の会話に割って入る。
「飛べるの? 二人乗りで?」
「飛べるさ。もともと体重がある人用に設計してあるんだ。風さえ強ければ飛べる。本島の方向なら向かい風だし、重ければ風に負けることもない」
体重が二人合わせて100キロくらいとしてジェフより少し重い目だが安全係数の範囲内に収まるはずだ。
二人が顔を見合わせる。
「どうしよう・・・」
「飛んでいけるなら自衛隊のヘリに来てもらうよりゃ早いだろ。やれ。ただし、マーちゃんを無事に送り届けられなかったら承知しねえからな」
元網元のドスの効いた声は怖い。
飛ぶと決まってもすぐにというわけにはいかない。一人なら網干し場で翼を広げればそれだけで飛び上がれそうな風だが、二人だとさすがに重い。親父さんに手伝ってもらって桟橋近くから裏山のピークまで敷かれているみかん収穫用だったらしいモノレールに飛行機械を載せる。小さな2ストエンジンだが、ちゃんと修理したから30キロの荷物を積んでもけっこうな急斜面を登って行ってくれる。本島へ帰るのにも高度を稼ぐ必要があるのだ。もっとも完全に無風になってしまって親父さんの船に載せてもらうしかなかったことも一度だけある。
マーゴには体を冷やさないように、またランディングの時に汚れないように、親父さんの雨具と軍手に俺のヘルメットとゴーグル・ニーカップを着けてもらった。俺の方はここに置きっ放しにしてあった水中めがねからシュノーケルを外して使うことにする。
明らかに顔色が悪くなっているマーゴは、おかみさんに手を引いてもらってもつらそうだったので途中から親父さんがおんぶすることになった。できれば俺がとも思ったんだが、石段もあるような急斜面は腿の負担が大きいのがわかったので諦めざるを得なかった。それどころか最後の方はおかみさんに手を引いてもらう始末だ。
マーゴ用のハーネスもないのでありものでどうにかする必要がある。荷物固定用のナイロンベルトを胸にたすき掛けにして、腿に8の字形に回したベルトと一緒にキールのカラビナに繋ぐ。体重は俺の背中で受けるから痛くはないはずだ。ランディングの時に危なそうなので足首も俺の膝下に固定させてもらう。
痛めた腿でマーゴの体重と機体の重さを支えられるわけもないので、親父さんとおかみさんに両サイドからコントロールバーを持ち上げてもらう。俺は風速と同じだけの前進速度が発生するように機首下げの姿勢を取ることに専念する。
「病院の救急には連絡してあるからー本島に着いたら救急車を呼んで-」
「わかったー」
唸る風の中では会話をするのも大変だ。
「ごめん・・・なさい」
マーゴが耳元でささやく。いや、大きな声を出せるほど元気がないのか?
「いいんだよー。一度はタンデムで飛んでみたいと思ってたんだー」
女の子限定だが。
「翼を広げまーす」
親父さんとおかみさんに支えてもらっているので操縦桿を操作できる。尾羽を下げながら翼の開度を2、3と上げていく。
「1、2の3で手を放して-」
左右に顔を向けて二人が頷くのを確認して親指をUPボタンに置く。
「いくよー。いーち、にいのー、さん!」
UPボタンを押しっぱなしにする。広がっていく翼に風を受けた機体は後ずさりするように舞い上がった。
体を水平にして開度を9にする。全開では風に押されて前進速度を稼げないのだ。マーゴの胸が背中に押しつけられているんだが、できるだけ無視する。
「すごーい! 飛んでる」
「そう、これが飛ぶってことさあ」
三日月島の二人に手を振りながら応える。風向きが少し南よりになったかもしれない。
「カルデラを南側から回り込むよー」
「・・・はい」
大きな半径で右旋回。カルデラ越えの下降流がありそうなエリアを避ける。それでも乱流にあおられて機体が安定しない。もっと高度を上げよう。
「すまなーい。ちょっと揺れるー」
「平気・・・です」
マーゴの声に元気がない。操縦桿のレバーを握りっぱなしにして尾羽で修正し続けているんだが、どうしても対応が一呼吸遅れる。この不規則に上がったり下がったりの動きは慣れないと酔うかもしれない。マーゴにならゲロ吐かれても許すが。
「すまなーい。このままカルデラを越えてー風の弱いとこへ着陸するー」
予定変更だ。もっと高度を上げて稜線を越え、二本松へランディング・・・マーゴの返事がない。
「マーゴ! マーゴ、どうした!」
大声で呼んでも応えない。いつの間にか垂れ下がっていた左手の甲を叩いてみても反応がない。気を失ってる!
もう救急車なんか呼んでられない。街の上空を突っ切って病院を目指すことにする。翼を全開にして風に押し流されながら高度を上げていく。マーゴの胸がつぶれて・・・無視だ!
カルデラ越えの速い気流よりも上に出た所で左翼をほんの一瞬8にしてバンクし、旋回に入らないようにしながら稜線を横滑りで越えたら開度6。尾羽の操作で大きく右旋回しながら牧場の方へ緩降下していく。高度があるうちに後ろ頭で手探り(?)してマーゴの頭の向きを確かめる。俺の肩に左向きに載せているようだ。それならマイナスGをかけなければ首の骨を痛めることもないだろう。
牧場上空を過ぎてカルデラの口を抜け、街の上を一直線に飛んで病院の上に出る。さて、どこにランディングするか?
開度9で風に速度を合わせる。つまり病院の上空に静止するわけだが、この開度だと少しずつ高度が上がっていく。上がりすぎたら8にして降下する。本物の鳥みたいに無段階に調節できればいいんだが、俺の能力でコントロールできるとは思えない。
病院は南向きで、俺は南東方向から吹いている風に頭を向けているから正門前のロータリーの手前にある張り出し部分が正面玄関で、その少し右に救急外来の入り口があったはずだ。そこにできるだけ近い場所にランディングしたい。
ロータリーの左側にある駐車場の病棟側にテニスコートくらいのスペースがあったのでそこに降りさせてもらうことにする。ただし、こんな所にランディングすることは誰も考えないから吹き流しもピンクリボンもない。地表付近の風が読めない。歩道側とロータリー側に植え込みがあるから上空よりはいくらか弱くなるはずだが、それがどれくらいかは降りてみないとわからない。翼を広げるのが遅れたらハードランディングになる。しかも下は草地でも土でもないアスファルトだ。最悪の場合、膝の皿を割るようなことになりかねないが、マーゴさえ無事に降ろせるならそれでよしだ。
ワンボックスの屋根の高さあたりで降下率が下がった。この下に重い空気があるということだ。いやな感じだ。なぜこんな所にこんな風が吹いているのかわからない。一度上昇してやりなおすか?
開度を9に戻した途端に左から突風を食らった。左翼がぐいっと持ち上げられた所に風を受けて右へ流される。ひっくり返ったらマーゴを下にして落ちることになる。とっさに左のDNボタンを押しっぱなしにして尾羽も左をいっぱいに下げて右を上げる。
左翼がたたまれていくにつれて機体が水平に戻っていくが、同時に高度も下がる。こんな縦に細長い翼では風が横に逃げてしまう。タンデムは無理だ。
ロータリー横の植え込みは辛うじて越えられそうなので体を立ててダウンチューブに持ち替える。そこで左足が植え込みに引っかかった。右翼が下がると植え込みに風が遮られてさらに下がっていく。
(マーゴを守らなくちゃ)
右足を伸ばす。路面に当たった風切り羽が折れて風に飛ばされていくのが妙にゆっくり見える。
右足が路面に届いた瞬間、ビリッと右膝の上の筋肉がちぎれる音を聞いたような気がして一瞬息が止まった。機体は路面と植え込みに翼を引っかけて静止している。
振り向くと正門の方から誰かが駆けて来るのが見えたので俺は声を絞り出した。
「救急車ぁ呼んで・・・」
いけねえ。ここが病院だったっけ。
翌日、だいぶ青空が広がってきているもののまだ風が収まらない中をタクシーで警察から病院に向かった。たいした距離じゃないんだが、湿布を貼っていても右腿の痛みで歩くのが辛いのだ。
マーゴは緊急手術を受けた。やはり卵管破裂による出血でかなり危険な状態だったらしい。そして飛行機械は植え込みに左翼を引っかけるような形でまだ置いてあった。誰かがマーゴから外したベルトで植え込みのヒマラヤスギに縛り付けてくれたようだ。そうしてくれなかったらどこまで飛んでいったかわからない。
右翼の風切り羽は1枚を残してちぎれてなくなっている。外から見ただけでは判断できないが、フレームや関節にもダメージを食らっている可能性がある。修理するとなるとアメリカまで持って行って検査するなり作り直すなりするしかないだろう。
きのうの風は病棟に斜めに当たった風がロータリーの方へ曲げられることで加速されたということのようだ。風向きと建物の形をちゃんと見れば予想できたはずだ。病院の屋上に降りるという手もあった。ここまで来てからはミスだらけだ。情けない。
受付でサインしてエレベーターに乗る。3階で降りたら深呼吸を何回かしてから右足を引きずらないように歩く。マーゴに心配させるわけにはいかない。
マーゴは大部屋で点滴を受けながらぼんやりとテレビを見ていた。
「マーゴ」
「ユージ!」
イヤホンをむしり取るマーゴに唇に人差し指を当ててみせる。ここは病院なんだよ。
「ユージ、警察に逮捕されたって聞いたわよ。大丈夫なの?」
「ああ、人の命に関わることだったということを認めてもらったよ」
逮捕されたわけじゃない。事情聴取の上で厳重注意というやつだが、うまく説明する自信がないので適当にごまかす。
見下ろしながらだと話がしにくいので勝手にスツールを引き出して座らせてもらう。右腿の痛みも辛いし。
顔がちかくなったのでマーゴの頬に戻ってきたソバカスがよく見える。
「ごめんなさい。私のせいで・・・」
「いいんだよ。マーゴが助かったんだから」
「そうね。私はね。・・・赤ちゃんはだめだったけど」
そうだった。マーゴの赤ちゃんは卵管と一緒に切除されたんだった。
「でもね、これでもう、あの男と私を繋ぐものは何もなくなったのよ」
「チャラかい」
「そうそう。チャラ! ねえユージ。私、今、お腹に縫い目があるのよ。見る?」
「いやいい! 見せるな見せるな」
シーツに手をかけたマーゴをあわてて止める。
「嘘よ。ガーゼが当ててあるから見えないわよ。あはっ・・・」
マーゴは笑いを飲み込んでシーツの上から腹を押さえた。それは痛いだろう。
「ほら、お腹切った人は笑っちゃだめだって」
とはいうものの、ソバカスと一緒に一年前の陽気さが戻ってきたようで安心した。
「何か欲しいものはある?」
「んー・・・エラコのお味噌汁」
「・・・何でまたあんなものを・・・」
「ここのお味噌汁はおいしくないの。お湯をちょっと足してもらったんだけど味がきついまま薄くなった感じで。結局食事をほとんど残しちゃったからこれよ」
そう言って黄色っぽい点滴袋を指さす。栄養補給用だったらしい。
「わかった。もう少し波が落ち着いたら親父さんたちがお見舞いに来ると思うからその時にエラコも持ってきてもらおう」
「お願いね。それから・・・」
マーゴに見つめられる。何だ? 飛んでる時に胸の感触を楽しんでたのがバレたのか?
「私も飛べるかしら」
やったあ!
「飛べるさ。退院したら普通のハンググライダーにタンデムで乗ろう」
「違うの。パパの飛行機械に一人で乗って飛んでみたいの」
おおっと。だが、そういうとこはマーゴらしい。
「そっちもオーケーだ。モーターサイクルのクラッチやブレーキの操作は飛行機械の尾羽の操作に似てるし、バンクして曲がるのも同じだ。きっとすぐに飛べるようになるよ。だけど最初はハンググライダーからだよ。この島にもスクールがあるから、まずタンデム、次にソロ、それからジェフの飛行機械というステップで行こう」
その間に急いであれを修理しなくちゃな。
完