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謝ることができません

作者: 夏井三毛子

ミステリ系の新人賞に応募して、二次選考で落選した作品です。

謝ることができません



  十二月十日 


 長らくふさぎこんでいた佳代子が、ようやく笑顔をみせてくれるようになった。

肌がぱりぱりするくらい乾燥した気候の休日、わたしは彼女を隣町のショッピングモールへと連れ出した。

 クリスマスが近いからだろうけれど、店内はさまざまな装飾であふれかえっていた。二人で肩を並べて歩くと、小学生のころ一緒に登校していたときのことを思い出す。それを佳代子にそのまま伝えたところ、苦笑とともに「お姉ちゃんがあんまり遅いから、あたしが先に行くことがほとんどだったけどね」と言われた。

 そうだったっけ、と返しかけて、ふと思い出したことがあった。

 小学生のころ、わたしと佳代子は一緒に登校していた。きょうだいはできるだけ一緒に登校するのが、その小学校の決まりだったのだ。妹はそのころから運動神経抜群で、歩くのもしゃきしゃきしていて早かった。一方わたしは、花が咲いていれば遠回りしてでも見に行ってしまったし、川の表面を流れていく葉を目で追い続けていたりしたから、妹の二倍くらいの時間がかかった。

 そのころから、佳代子は男の子から好意を向けられることが多かった。わが妹は、ボーイッシュなショートカットがよく似合う細い顎を持っている。鼻先はちょんととがっていて、目は切れ長だ。小柄ではあったけれど、手足がすらりと長くて、均整のとれた体つきをしている。

ただし、これくらいの齢の男子というのは、好きな子に対して優しくしようという意思が照れ臭さに殺されている生き物である。わたしの妹は、しょっちゅう複数の男子に絡まれていた。

 登下校の時間も例外ではなく、赤いランドセルを背負った佳代子に跳び蹴りを食らわせたり、髪の毛を引っ張ったりという悪事を働くやつらがいた。そいつらが出てくるのは、きまって佳代子がひとりきりのときなのだ。

 そういうわけでお恥ずかしいことに、わたしは半年ほど、妹が悪ガキに絡まれていることを知らずのんびりと登校していた。

ある日、わたしはいつになく急いで下校していた。なにせ十年近く前のことなのでうろ覚えだが、たしか、どうしても見たいテレビ番組があって急いでいたのだと思う。そして、通学路のずいぶん先のほうで三人の男子から小突かれている妹を発見したのだ。

わたしが覚えているのは、視界がきゅうっと狭くなって、その、妹と悪ガキの姿以外が視野の外に出ていったというところまで。耳鳴りも聞こえていたかもしれない。

妹の元へと駆けつけた姉は、学年が下とはいえ男の子三人を相手に殴る蹴るの大喧嘩をしたのだという。よく覚えていない。気がついたら、妹の手を引いて家に帰ってきていた。わたしは頬と眉間とこめかみに血をこびりつかせていた。妹が塗れたタオルをそっと当ててくれたのだが、まったく痛くなくて、汚れもすんなり取れた。つまり、返り血だけだったのだ。

その数日後、男の子たちからいじめを受けることはなくなったという報告を佳代子から聞いた。

体力テストで「E」以外はついたことのないわたしだけれど、火事場の馬鹿力でこういったことが可能になるというのをそのとき初めて知った。

 ――遠い昔の話だ。

「たしかに、隣に並んで登校した回数はすくなかったかもしれないわね」

「なんのこと?」

「だから、小学生のころ、一緒に登校してたって話」

「……」妹は眉間にしわを寄せ、「ずっと黙りこんでたと思ったら、まだそんなこと……」

「さっきまで話していたことじゃないの」

「ずいぶん前に終わった会話でしょ」

 脱力したように言った佳代子は、歩く速度をわずかに上げた。

 わたしがいつも服を買っている店と、妹の行きつけとをそれぞれ二件ずつ回ったところで、いったん休憩を挟むことにした。全国チェーンのドーナツ屋に入り、二人がけの席を確保してから順番にドーナツと飲み物を買いにいく。このショッピングモールに来たときはここ、という風に決まっているから、お店選びに迷うことはない。

わたしは自分のコートをひざの上にかけて、コーヒーの入ったマグカップを持ち上げた。妹も同じように飲み物を口に運んだが、彼女のカップの中身はココアだ。クラスメイトの夢をつぶしてしまって申し訳ないが、妹はクールに見えてその実、かなりの甘党なのだ。

「父さんから連絡は来た?」

そう尋ねると、佳代子は無表情で小さく首を振った。

「母さんからは?」

 こんども否定の動きを見せる。ため息をつきたくなった。気を遣わせてしまうからしないけど。

「薄情な親ね」

「忙しいんでしょ」

 さっくりと揚げられたドーナツを半分に割りつつ、妹を注意ぶかく観察した。これといって悲しんだり怒ったりはしていないようで、少しほっとする。

あの日もそうだった。彼女は何も言わず、ただ無表情だった。ふらふらと帰ってきて、わたしが作った夕飯を一言もしゃべらずに食べて、風呂には入らずに自室へとひっこんだ。いつもは部活動の汗を流さないと気持ち悪くて眠れないと言って必ず入浴するのに。

どれだけ疲れていても崩れることのなかったルーティーンがあの日、初めてひずみを見せた。


  十一月三日


 世間は楽しい三連休だというのに、佳代子はずっと部活動の予定だという。

一通りの家事を終わらせたところで、お腹を空かせて帰ってくるであろう妹のために、とんかつを作ることにした。

 パン粉をトレーに流しこんだあたりでインターホンが鳴って、おや、と思った。

 妹はわたしと同じ、(よね)(かおる)市立高等学校の生徒である。所属する部活動はソフトボール部。公式戦の成績は県内ベスト8が最高らしいけれど、強豪と呼ばれるのは私立のソフト部ばかりだから、公立高校としては頑張っているほうなのだとか。

 平日の練習は、その日の最後の授業が終わってから二十時まで。休日はだいたい九時から十七時までと決まっている。エプロンで手を拭きつつ玄関に向かったが、頭の中には「?」がいくつも浮かんでいた。今の時刻は十五時。練習が終わるまでにはまだまだ時間がある。

佳代子は練習を途中で抜け出すような無責任なことはしたことがないし、怪我をしたのなら顧問から自宅に電話がかかってくるはずだ。

 これまでに何度か、雨が降りはじめたので練習は途中で終わりということはあった。しかし今日の天気はずっと晴れ。午前中に干した洗濯物がベランダではためいている。

 まじめな妹が練習を抜け出してくる理由には思い当たらなかった。玄関のドアを開けると、学校規定のジャージを着た佳代子がぞっとするほど表情の抜け落ちた顔で突っ立っていた。肩にはエナメルのスポーツバックがぶら下がっている。

「おかえり、佳代子」

 わたしは一目で、異常事態だと気がついた。気がついたが、それを悟られてはならないと思った。せめてわたしだけは、普段どおりに接してやらねばならない。

「今日はねえ、トンカツなの。部屋の中が油くさいかもしれないけど勘弁してね」

 佳代子に背を向けてリビングに戻ろうとしたわたしの足を止めたのは、妹の小さな呟きだった。

「部活、辞めてきた」

 言葉を失うというのは、ああいうことをいうのだろう。とっさに、『どうして?』と聞こうとした。そしてすぐに、それは言ってはいけないことだと思った。

結局、わたしは一言「そう」とだけ言って笑った。

「お茶でも淹れるね」

 こくりと頷いた佳代子は、玄関にエナメルのバッグを落としてのろのろとシューズを脱いだ。


 なぜ辞めたのか聞きたかった。部長や副部長といった役職についていないとはいえ、チームの中心選手であるあなたが抜けて大丈夫なの、と聞きたかった。

でも、それを我慢している。言うまでもなく、彼女が話したがっていないように見えたからだ。

 佳代子は必要なことしか話さない。いまどきの女子高生にしては無口な方だろう。姉妹で出かける頻度は高いが、口を開いている時間はわたしのほうが五倍くらい長い。

 それでも、ときどき彼女はたかが外れたように話し始めることがある。ダムが決壊するように。雪崩が起きるように。

最後にその『雪崩』が起こったのは、佳代子のひとつ上の代の先輩が引退した直後のことだ。



  五月二十五日


 試合に負けてしまった。

明日からは新しいキャプテンが指名されて新しいチームがスタートする。

キャプテンは自分たちの代から選ばれる。

佳代子はそこまで一気に話して、「気持ちの切り替えがしたいから、とびきりおいしいものを食べに行きたい」と言った。わたしは彼女の言うとおりにしてやろうと思い、隣町のレストランにしようと提案した。女子高生が二人で行くには少し敷居が高いが、出てくる料理はかなりいける。妹は「そんなに高いところじゃなくていいんだけど」と言ったが、構わず予約した。

一度、家族四人で行ったことがある店に、今日は二人で行く。佳代子の晴れ舞台だというのに、両親は観に来なかったのだ。

 簡単にシャワーを浴びた佳代子は、襟付きの白いシャツと黒いスキニーを着た。連日の練習で絞りこまれた体はそんなシンプルな格好でも十分に格好がつくのだからうらやましい。隣町までは電車で二駅。レストランまではそこからバスで二十分。タクシー使おうか、と提案をしたのだけれど、佳代子はバスでいいと言った。

 佳代子は電車を待つ間、やたらと周りを気にしていた。癖のようなものなので、わたしは放っておいた。

実は、わたしたち姉妹が出かける先が米薫市内より隣町の方が多い理由が、これだった。佳代子は、外出先で知り合いとばったり会うと気まずいのだそうだ。わたしなんかはすっと近づいて「どうも」と挨拶をしてさっと離れてしまうからあまり気にならないのだけれど、妹にとってはそうもいかないらしい。

 茶碗をひっくり返したような形の山のふもとに、レストラン『スリジエ』はある。スリジエはフランス語で桜のことだ。その山は毎年春になるときれいに桜が咲くからそういう名前になったのだそうだ。

 店の名前はフランス語だけれど、出てくる料理はフランス料理のみではない。高校生ですと言えば、若い女の子の舌にもわかるような味付けをしてくれる。お店自体はそれほど大きくはなくて、一つ一つのテーブルの間にパーテーションが立てられており人目を気にせずに食事ができるのだ。店は細長く、壁に沿うようにして五つのテーブルが並んでいる。

 わたしたちが通されたのは、奥からひとつ手前の席だった。一番奥のテーブルにはほかにお客さんがいるらしく、パーテーションの向こう側から楽しそうな笑い声が聞こえていた。

 席に着いたわたしと妹の前に次々と料理が運ばれてくる。メイン料理の後、ウェイターのお兄さんが「学生限定で食べ放題なんです」と言ってかごに盛られたパンを持ってきてくれた。腹を空かせていたらしい佳代子はこんがり焼けたパンをもくもくと消費していって、先におなかいっぱいになったわたしは頬杖をついてそんな彼女を眺めていた。

 食後のドリンクが出てきても佳代子はパンを食べていた。そのときも彼女はココアを注文していたと思う。

 わたしはいつもどおり一方的に、当たり障りのない話をしていた。でもなんとなく、佳代子が何か話したそうにしているような気がしていた。その直感は当たった。何個目かのパンを吸い込んでいったその口が、言葉を話すためにためらいがちに開かれる。

「愚痴を言ってもいいかな」

控えめに頷く。『雪崩』が起こる気配がする。

「どうぞ」

「今日の試合なんだけど」

「うん」

「最終回で代打に出された先輩が三振して帰ってきたとき、あたしの隣で応援していた人が小さく『よかったね』って言ったの」

 脳内で、今日の試合を思い出そうとした。米薫高校は先攻で、最終回の時点で四点ビハインドだった。相手はインターハイ常連の高校だったのだから、仕方がないといえば仕方がない。よく四点で済んだというべきだろう。もちろんそんなのは周りから見ている人の感想でしかなくて、やっている本人たちは本気で勝とうとしていたのだろうけれど。

 最終回の攻撃、先頭バッターはピッチャーフライだった。次のバッターがそういえば代打で、緊張した面持ちでバットを抱えて打席に立っていたっけ。スイングの仕方がレギュラーのメンバーに比べてぎこちないような気がしていたが、そうか、あれは先輩だったのか。

「あの先輩はね、二週間前に肘をけがしてしまったの。そもそもレギュラーじゃなかったから、痛手ではなかったんだけど」

 と、なかなか辛らつなことを言う。

「もし監督が勝つ気でいたのなら、あの場面で代打に送られるのは別のひとだったはず。後輩の中にはあの先輩よりも準備万端の人がいた。もっとずっと打率のいいひとがいたんだから」

 だんだん、彼女が何を伝えたいのかがわかってきた。

「監督が思い出作りを優先したのが、ちょっとショックだった。いまあたしが後輩だからかな? 来年になって、同じ立場になったら、あたしも思い出作りのほうを優先したがるかな?」

 佳代子はココアが入ったマグカップを両手で包み、吐息をついた。

「隣で応援していた人が『よかったね』って言ったのを、あたしは信じられない気持ちで聞いていた。あんた勝ちたくなかったの? って問い詰めたかった。でもそれは、代打で出られた先輩の『最後の試合に出られてうれしい』っていう気持ちを踏みにじることにもなる」

「踏みにじってなんかいないわ。どっちが正解かなんて、誰にもわからないじゃないの」

 佳代子は窓の外をぼんやりと見つめて、つまりわたしからは視線をそらして「なんかね」と言った。感情が読み取りにくい顔をしていた。

「温度差があるな、っていうのはわかってたの」

「部員の中で?」

「そう。わたしたちはどうせ私立の強豪たちには勝てない。向こうは、ソフトボールをやっている中学生をふるいにかけて、おいしいところを持っていって、さらに特別なトレーニングで強化してるんだから。公立高校よりお金があるからナイター練習だってできる。選手たちは寮に入っているから全体の統率も取れる。だから、どれだけ練習したって、勝つのはほぼ不可能。それはわかってるけど、だったらこれまで頑張ってきたことは全部無駄だって言いたいの? やる以上は勝ちたいって思わない? ――これがあたしの意見」

 わたしは続きを促した。彼女の意見が出たということは、それと対立する意見がこれから登場するはずだ。

 妹は口に出すのも苦しいと言いたげな顔で続けた。

「高校の部活動なんて、勝っても賞金が出るわけじゃない。満足感が得られるだけ。それすら難しいなら、とっとと引退してはやく大学受験に集中したほうがいい」

 わたしが言われたわけではないのに、その言葉はアイスピックのような鋭さで心に突き刺さった。

ごりゅ、と音がした。固いもの同士がこすれる不快な音。佳代子がそっと眉をひそめる。

「お姉ちゃん、歯ぎしり」

「ああ、ごめん」

「怖いから」

「無意識なのよ、ごめんね――続けて」

「運動なんて、将来の役に立つとは思えない。一生ソフトボールと付き合っていく人なんか、うちの高校にはいない。だから、どうせなら最後に思い出を残せたほうがいい――これが、みんなの意見」

 最後の一言にぎょっとした。

「待って、みんな? みんなその意見なの?」

「そう」

 主な運動時間は体育の授業だけだった、そんなわたしにだってわかる。青春をささげたソフトボールというスポーツに対する向き合い方が『勝つことよりも思い出を優先』だなんて、やりきれない。

「あんたの思い過ごしってことは?」

「全員参加の話し合いでそうなったんだもの。あたしだけが、勝ちにこだわっている」

 お互いに黙り込む。隣の席から、控えめな笑い声が聞こえてきた。

「全員参加の話し合いって、いつやったの?」

「今日」

「試合が終わったあと?」

「そう。監督が引退する先輩たちを集めて話をしてる間、後輩たちだけで話し合いをしたの。そこで、今後の方針について話が出た。みんな――あたし以外は、先輩方と同じような最後を迎えたいって言った」

 わたしは冷えたコーヒーをひとくち飲んだ。昔は苦手だったのに、いつの間にかこの苦味がやたらとおいしく感じるようになった。

「あたしは反発した。思い出を残すためなら負けてもいいっていうこと? って。そうしたら三咲が」

「三咲ってだれ?」

 妹は夢中になっていた読書を中断させられたような顔をして、説明した。

「糸崎三咲。前に話したでしょ、ファーストのレギュラーで、三番を打ってる」

 聞いた覚えもあったが、すっかり忘れていた。妹の口調からして同級生のようだ。

「その三咲さんがどうかしたの?」

「『そんな言い方をするな』って。熱くなるのは勝手だけど、調和を乱そうとするなって」

 ずいぶんな言い様だ。仲間に向ける言葉ではない。

佳代子は吐きすてるように続けた。

「あいつはもう自分が部長になる気でいるんだ。意見をまとめるのがうまいし、試合に出られるから発言力もある」

「そんな、それで言ったらあんただって一緒でしょ」

 外野手だからファーストほど出番が多いわけではないけれど、佳代子も立派なレギュラーメンバーだ。打順だって、五番だからいわゆるクリンナップだし。

 なのに、彼女は力なく首を振ってわたしの言葉を否定した。

「三咲は人の前に立つのが好きなの。アホみたいにコミュニケーション能力が高いし。顔つきからしてそう見えるでしょ?」

 わたしは今日の試合を見に行った。見に行ったけれど、目で追っていたのは妹の姿だけだ。だから頭の中で、三咲さんという人を特定することができなかった。

「彼女とは合わないの。考え方も、練習の仕方だって」

「そんなもんなの?」

「お姉ちゃんから見て、あたしは天才?」

 真剣な眼差しで、妹が尋ねてくる。唐突な問いだったけれど、わたしは間髪いれずに答えた。

「とんでもない」

「でしょ?」

「そんな一言で、あんたがこれまで積み重ねてきた努力や苦労を片付けてほしくはないわね」

「ありがと。でもね、天才はいるのよ、本当に。それが三咲」

 佳代子はカップに顔を突っ込むかのようにうつむいた。こんな場面でなければ、お行儀が悪い、と注意しているところだ。

「あの子が二回失敗して、三回目で成功できることがあるとする。あたしはダメ。最低でも十回は失敗する。十回で済めばいいけど、一日じゃ成功しないこともある」

「たとえば?」

 わたしの問いに妹は具体的な例を言ってくれたけど、よくわからなかった。なんだバスターエンドランって?

「あたしはあの子より努力してるつもり。だけど三咲だってまったく何もしてないわけじゃない。努力した天才と、努力した凡人じゃ、話にならないでしょ」

 スタートラインが違うんだから、と言った佳代子の顔には、はっきりと悔しさがにじんでいた。

「見えてる世界が違うんだから、考え方も違う。あたしはあの子の考えに賛成できない。試合に勝つために練習をしているのだから、勝つ気のないやつはグラウンドから出て行けばいいのにって思う。少なくともあたしは、自分が出場しない方が勝つ確率が上がるなら、出られなくったっていい」

 佳代子がまじめな娘だっていうことは、わたしが一番よく知っている。なんなら両親よりも。

「お姉ちゃんはどう思う? あたし、間違ってる?」

 妹の質問に、わたしは首を振った。それは答えられない質問だ。

「スポーツというものをほとんどやったことがないわたしがなにを言っても、外からのヤジにしかならないわ」

スポーツを五年間続けてきたこの子に分からないことが、どうして何もやったことのないわたしに分かるだろう。

 納得いかないという顔をしている佳代子に、「だからね」と言葉を続ける。

「姉として、願うことはただひとつよ。――どうか、佳代子が怪我をしませんように」

 勝っても負けても、活躍してもしなくても、どっちでもいいのだ。大切な家族が頑張っているのだから、それを応援できるだけでわたしはじゅうぶん、幸せだ。

 ココアをひとくち啜った佳代子は、「お姉ちゃんらしい」と呟いた。

「何の解決もしてやれなくて申し訳ないわね」

「いいの、吐き出せてすっきりした。こんな話をしたのは初めて。お姉ちゃんだから言ったの。誰にも言わないでよね」

「当たり前でしょ、誰だと思ってるの」

 わたしはそう返して、それ以降は『スリジエ』を出るまでずっと口を閉ざした。

 奥のテーブルからはもう笑い声は聞こえなかった。店内は完全な沈黙に包まれていた。


  十二月十三日


 米薫市立高校の校舎は、四階建てである。最上階が一年生、ひとつくだって二年生、そして二階が三年生の教室となっている。部活動を引退して運動不足になる三年生こそ四階にするべきでは、と最初は思ったけれど、二階に登るだけで息があがってしまう自分を省みると、これでいいのだと考え直した。そもそもわたしは一年生のときからずっと帰宅部で、一年生だろうと三年生だろうと運動不足なことに変わりはない。

 窓から見えるグラウンドでは、つい三ヶ月前まで妹が身にまとっていたのと同じユニフォームを着た生徒たちが元気よく声をあげて走りこんでいた。きれいに二列になった彼女たちがグラウンドのふちをなぞるように進むのをしばらく見てから、自分の机に視線を戻す。アルバイトがあるから! と言い残して去って行った相方の分まで当番日誌を書き終えたところだった。

 机の側面に吊ってあるカバンを手に取ったところで、教室の端から一人の女子生徒が近づいてきた。身長がおそろしく高くて、たぶん百七十五センチくらいある。全体的にシャープな印象の女子だ。

「いまから帰るところか?」

視線をさまよわせる。なんとか思い出した。郡宮(こおりみや)さん、だったかな。

「当番日誌、代わりに出しておくよ。私これから職員室に用事があるんだ」

「いいの? ありがとう」

 彼女は薄い唇の端をついと上げて微笑んだ。

「後輩のお姉さんだからな」

 そう言って、すぐに「違うか」と発言を打ち消した。

「元、後輩のお姉さんだな。佳代子は辞めちまったから」

 嫌味を言っているようには見えなかった。目を伏せてため息をつくその姿からは、ただ『残念だ』という気持ちが伝わってくる。

「郡宮さん、ソフト部でしたっけ」

「引退したけどね」

 ――そうか、その手があったか。

「それじゃ、日誌は提出しておくから」

「あの、郡宮さん」

 わたしは踵を返そうとする彼女の手首をつかみ、ひとつ提案をした。

「職員室から帰ってくるの待ってますから、このあとお茶でもどうですか?」

――この人から話を聞けば、妹が部活を辞めた理由がわかるかもしれない。


 両親から送られてくる生活費は、女子高生二人が暮らすには十分すぎる金額だ。しかしこのご時勢なにがあるかわからないから、わたしはできるだけ節制している。友人と放課後に喫茶店に行くなんてことはしないし、ゲームや漫画を買うこともほぼない。とっとと家に帰って家事を片付けて、妹と肩を並べてコーヒーを飲みながらくだらないテレビを見る。そうやってすごしてきた。

 それを郡宮さんに伝えると、彼女は彼女で「喫茶店なんて洒落たもんは入ったことがない。部活の仲間と行くのはラーメン屋かファミレスだったから」とのたまう。わたしたちは華の女子高生のくせ、おしゃれな店の一軒も知らなかった。

 仕方なく、線路沿いにのろのろと歩きつつ話をすることになった。このまままっすぐ行けば、郡宮さんの生家があるらしい。

「いつもは電車に乗るんだ。歩いても三十分かからないくらいだから、トレーニングがてら走ることもある」

 茶色に乾いた葉がどこからともなく飛んできて、わたしたちの目の前を横切って、またどこかへと飛んでいく。

「今日はほかに予定もないから、家につくまでに話の決着がつかなくても大丈夫だよ」

「そんなに長い話には……」

 なるかもしれない。

「妹のことです」

「佳代子か」

 ふむ、と郡宮さんは鼻を鳴らした。

「あいつはいいプレイヤーだよ。辞めるなんて思ってもいなかった。四番を任せられるのは彼女だけだって話していたのに」

「引き止めたんですか?」

「もちろん。私たちの代、全員で教室に押しかけた」

 それは怖い。しかし、それでも佳代子は戻らなかった。

「かたくなに理由を話そうとしなかったな。これまでお世話になりました、とか、ご迷惑をおかけしました、とか言うばっかりで」

「郡宮さんにも話さないんですか……」

 家族に言わないくらいなのだから不思議なことではないが、ここは相手を立ててそう言っておくことにした。

「辞めた理由について、心当たりはありませんか」

 郡宮さんはスポーツメーカーのロゴがプリントされた紺色のネックウォーマーに顔をうずめてしばらく考え込んでいたが、やがて口を開いた。

「同世代のやつらと意識のずれがあったんじゃないかと、にらんでる」

「三咲さんですか」

「よく知って……いや、佳代子が話したんだよな、そりゃあそうだ」

 冷たい風をわたしたちに浴びせかけて、電車が線路を走っていく。がたがたうるさいから、その間、わたしたちは会話を中断した。

 電車が通り過ぎたあと、郡宮さんが細く長く息を吐き出した。

「私にも姉がいるんだ」

 突然、なんの話かと思った。戸惑うわたしにかまわず、彼女は話を続ける。

「三つ上でね。今は東京の大学にいるよ。小さいころは取っ組み合いのけんかをしたもんだが、大きくなってからはそれなりに信頼できる関係を築けているつもりさ。私は姉にいろんな話をする。部活動でどうしようもなく失敗したこと、インターハイに出場することなく引退してしまったこと、大学進学を考えていること……君のところもそうなんじゃないか?」

 そうだろうか。そうじゃない気もするし、その通りな気もする。

「たいした姉じゃありません。五年間続けたソフトボールを、辞める理由を教えてもらえないのですから」

 どんなことでも共有しあえる関係ではない。現に、わたしはあの子に秘密があるし、あの子はわたしに隠していることがある。ま、わたしの秘密なんて、両親からの仕送りの一部をへそくりにしていることくらいなんだけど。

「妹の立場として言わせてもらうと」郡宮さんが笑みをこぼした。「姉っていうのは都合のいい存在なんだ」

「そうですか?」

「一番ちかくにあって、よっぽどのことがない限りはわがままを許してくれる。いざというときは守ってもくれる。この人といるときは何をしても大丈夫っていう甘えがあるんだな。自分よりも長く生きている先輩であり、気の置けない相手なんだから」

「一緒にいると気が緩む、とはよく言われます」

 わたしがぽつりとそう言うと、郡宮さんは勢いよく笑い出した。

「たしかに! 君の顔をみていると気が緩むよ」

「ばかにしてます?」

 少なからずむっとする。確かにわたしはぼうっとした顔つきの父に似ているし、真剣に悩んでいても『ぼんやりするな』なんて言われるけれども。

「そうじゃなくって。家に帰って君が玄関で『おかえり』って出迎えてくれたら、それだけで癒されるなと思っただけなんだ」

 褒め言葉だと受け取っておくことにした。

「郡宮さんは佳代子に何があったのか知らないんですね?」

 彼女はわかりやすく肩を落とし、「すまない」と謝罪を口にした。笑ったり落ち込んだり、意外に感情が豊かな人だ。

「私にもよくわかっていないんだ。あまりに急で……」

「あの子以外の後輩に聞いたりはしなかったんですか?」

 わたしの質問をうけた彼女は、明らかに狼狽した。

「いや、聞かなかったわけではないんだが、その、あいつらも要領を得ないことを言うもんだから」

「教えてください」

 ずい、と詰め寄る。たぶん、佳代子にはきかせられないようなことを言ったのだろう。彼女が傷つくようなことを、言ったのだろう。

 郡宮さんは観念して、ぼそぼそと言葉を漏らした。

「自業自得だ、と。やっぱり具体的には教えてくれなかった」


 米薫高校の最寄り駅からずっと歩いて三十分。線路沿いの歩道が狭くなり、人とすれ違うときには一列にならねばならないくらいの幅になる。隣の駅が見えてきたころに、「じゃあ、私はこっちだから」と言って郡宮さんは国道にかかった歩道橋を登っていった。

 わたしは駅に向かい、切符を購入して高校の最寄り駅まで戻ることにした。妹とわたしが暮らすアパートは、高校から五分の距離なのである。

 電車に揺られて、たったいま歩いてきた道を眺める。

『自業自得』。ということはやはり何かしらの諍いがあり、妹は不承不承、部活を去ったのだ。追い出されたと言ってもいいかもしれない。

 わたしの中にある、正義の炎がめらめらと燃えている。誰もが、ここから先は絶対に侵されてはならないという領域を持っている。わたしの場合はそれが、佳代子に関することなのだ。あんなにもけなげでいたいけな娘、ほかに知らない。

 こんなエピソードがある。

 わたしたちが暮らす部屋の温水器が故障したことがあった。一日か二日で直るとは言われていたものの、年頃の女の子が丸二日も風呂に入らないなどというのは少し厳しい。わたしは妹の手を引いて、近所の人に教えてもらった銭湯に行った。

 二人でお風呂なんて小学校低学年以来だった。等間隔に並んだ鏡の前に腰かけて頭を洗っていた時、隣からうめき声が聞こえてきた。

 ぐう、うう、というような、痛みに耐える声だった。妹の方に体を近づけ、どうしたのと尋ねると、佳代子は泡を流し終えた手のひらをわたしに差し出した。

 それを見て愕然としたのを覚えている。彼女の掌はマメだらけだったのだ。ところどころ皮がやぶけて、赤い肉がのぞいている箇所もある。真っ赤に膨れ上がっているのは血マメで、これも三か所ほど発見できた。

 あんなにぼろぼろの手、シャンプーやリンスが染みないわけがない。なさけないことに、わたしはそのとき泣きそうになってしまった。佳代子はもう慣れた、と言っていたけれど、これまでずっと、お風呂に入るたびにああして痛みをこらえていたのだろう。

 佳代子は合計で五年間、ソフトボールをやっていた。五年間、手を洗ったり頭を洗ったりするたびに手のひらの痛みを耐えていた。

肉体的な痛みだけではない。もとが努力家ということもあり、めきめきと上達する佳代子には敵がたくさんいた。団体スポーツなのに、チーム内にも敵がいるのだから苦しかっただろう。

 あの子が部活動を辞めたのは正解かもしれない。たとえあの子自身がそれを望んでいないとしても、だ。姉としてはこれ以上傷つくところを見たくはない。

 ――だからこそ、あの言葉は許せない。

『自業自得』。本当に佳代子にも『業』があったのだろうか?

 約一か月間、我慢した。何があったの、どうして辞めたの、と聞きたかった。それがあの子のためだと信じていたから。

 だけど、状況が変わった。

 あれだけ健気な子が、自身のあずかり知らぬところで貶されて馬鹿にされているなんて許せない。きっと何か事情があるはずだ。

 駅に到着して、そのまま学校へと向かった。


 ソフトボール部の顧問は体育教師だということしか知らなかったため、わたしはまず職員室に足を向けた。放課後の校舎には軽音楽部が奏でるへたくそな曲と、吹奏楽部のチューニングの音が響き渡っている。職員室は一階の正面玄関から入ってすぐ右手である。

 失礼します、と小さくつぶやいてから中に入ると、一番近くに座っていた若い男の先生が椅子ごと振り向いた。太い眉毛のしたに、小さな瞳がくっついている。

「どうした、めずらしいな」

「井坂先生」

 彼はわたしが一年生とき、クラス担任だった。担当教科は数学。教え方が上手なことは認めるけれど、わたしの数字嫌いを直すことはできなかった御方だ。

「ちょっとお聞きしたいんですけど。ソフトボール部の顧問ってどなたですか」

「ソフト部はー……大隅先生だろ。今は生徒指導室にいるはずだ」

 わたしは井坂先生に礼を言って、職員室を出た。生徒指導室は一階の廊下をそのまま進んだ先にある。

 大隅先生。わたしは当たったことがないけれど、体育祭の時に男子の組体操で笛を吹く係をしていた姿を見ことがある。いかにも体育教師という感じの、がっしりとした中年の男性教師だ。

 緊張もあったがそれ以上に、使命感が勝った。ノックを三回。野太い声で返事があった。

「入れ」

「失礼します」

 探していた人は、壁際の机に向かってなにやら書き物をしていた。顔を上げてわたしを見ると、ぐっと眉間にしわを寄せる。

「……三年生か?」

 どういう推理をしたのかは明瞭だった。わたしたちの制服にはそれぞれ学年ごとに色の違うマークがついている。女子のセーラー服は胸に星の刺繍がしてあるのだが、三年生はこれがえんじ色なのである。

「はい。佳代子の姉です」

 眉間の皺がぱっと消えて、代わりにいかつい顔がほぐれた。ゴリラが笑った、と思った。

「佳代子の! そうかそうか。あんまり似てないな」余計なお世話だ。「あいつはどうしてる? 部活に戻ろうかって悩み始めてるんじゃないのか、そろそろ」

 ――ふざけんじゃないわゴリラ。あの子はようやく最近、笑えるようになってきたのよ。

 わたしは『上品な笑顔』と心の半紙にでかでかと清書して、先生の目の前に立った。

「どうでしょうね。最近は家で勉強していることが多くなりましたけど」

「そうか……いや、よかったらあいつに伝えてくれ。いつでも戻ってこいって」

 頬が引きつるのをどうにか抑え込み、彼に例の質問をぶつけた。

「先生はどうして佳代子が部活動を辞めたのかご存知ですか?」

「や、それが知らないんだ。何度聞いても教えてくれなくてな。姉なら何か聞いているんじゃないのか?」

 期待を込めた視線を躱し、首を振った。失望したような顔をしないでほしい。こっちだって先生が知らないと分かって失望してるんだから。

「それが、あの子はわたしにも言おうとしないんです」

「そうか……惜しいなあ。怪我もなく、まだあれだけ動けるのに」

「他の選手たちからは何か聞いていないんですか?」

 さきほど郡宮さんに聞いたのと同じ質問だ。先生は太い腕を組み、ううんと唸った。

「佳代子が辞めると言いに来た日、午前中はあいつら、話し合いをしていたんだ」

 先生の話によると、あの日はこういう感じだったらしい。

部員の想いをひとつにするため、一日練習のところを半日にさせてほしいとキャプテン――三咲さんだ――が顧問に言ってきた。先生は許可を出して、その間に事務的な仕事を終わらせようと生徒指導室にいたのだという。お昼休憩をとったのは十三時から十四時までの一時間。その昼休憩がそろそろ終わるかというころに、突然、ジャージ姿の佳代子が生徒指導室に入ってきた。そして、「本日限りでソフトボール部を退部させていただきます」と口にした。

 大隅先生は佳代子を説得しようとしたが、彼女は首を縦に振らなかった。ひとまず家に帰し、他の生徒にも話を聞こうとした。

「そうしたら、みんな口裏をあわせたかのように『佳代子が悪い』って言うんだな、これが」

「佳代子が悪い……ですか」

「そう。あ、しかし」

「しかし?」

「佳代子が悪い、と言ったやつと、『運が悪い』って言う奴がいたな」

 運が悪い。運が悪いから、佳代子は部活を辞めることになったの?

「あの子は、部活動を辞めさせられたのでしょうか」

 わたしがそう溢すと、先生が「それは違う」と弁解してきた。

「俺も最初はそれを疑って、部員たちを問い詰めたんだ。ところがあいつらは、その点に関しては譲らなかった。むしろ、引き留めさえしたんだそうだぞ」

「引き留めた? 佳代子をですか」

 どういうことだろう。なんだか混乱してきた。

「佳代子が辞めると言い出して、一年生の何人かは考え直すよう頼んだのだそうだ。ところがあいつはそれを蹴った」

「その一年生の名前を教えていただくことはできますか」

 わたしは手帳を取り出し、二人分の女子の名前を書き込んだ。『何人か』って二人だけか。だけど、この二人だけは、佳代子の味方だと考えていいのだろう。

 他にもらえそうな情報がなくなったところで、生徒指導室を出た。最後にゴリラから「もし原因が分かったら教えてくれよ」と言われたが、にこ、とほほ笑むだけで返事はしなかった。内容にもよるけど、たぶん教えない。


 残念ながら、この日はそのまま家に帰った。なんと五時を過ぎていたのだ。急いで夕食の支度をしないといけない。佳代子がお腹を空かせて待っている。

 それにしても、なんだかおかしな話を聞いた。辞めると言い出したのは佳代子の方で、後輩はむしろ引き留めようとしていた? どういうことだ。

 人間にも帰巣本能はある。わたしは頭であれこれと考えつつ、アパートの前まで帰って来た。

 部屋の鍵を開けると、ちょうど佳代子が自室から出てくるところだった。

 わたしは妹に向けて、「おかえり」と言った。すると彼女は首を傾げ、「逆じゃない?」と返してきた。

「あんただって学校から帰ってきたでしょ」

「うん、まあ、そうだね。じゃあ『ただいま』。んで、お姉ちゃんおかえり」

「ただいま」

 わたしはローファーを脱いで揃えると、手洗いうがいをしてからキッチンに向かった。冷蔵庫の中には、たまねぎやじゃがいもなどの定番の野菜が少しずつ入っていた。

「たまねぎ一個、ジャガイモ三個、キャベツが半玉、鶏もも肉ひとパック……」

「微妙なライナップだね」

 わたしの肩に手を乗せて、ひょいと覗き込んでくる佳代子がかわいい。それにしても、彼女の言う通りなんというか、微妙だ。

 かといって買い足すのも面倒くさい。このままで何かできればいいのだけれど……。

「あ、そうだ」

 わたしは冷蔵庫の隣にある棚から、『調味料』と書かれた箱を取り出した。中を漁ると、案の定出てきた。

「コンソメ? ……ああ、なるほど」

「本当はベーコンとかソーセージがあるといいんだけどね」

「鶏肉でもきっとおいしいよ」

 妹の許可が下りた。こうして今日の献立はポトフに決定した。


  十二月十四日


 次の日、昼休みに一年生の教室へと足を運んだ。うちの学校は一学年五クラスで、二年生からは理系三クラスと文系二クラスに分かれる。一年生のうちは全員が古典も物理もやらねばならない。

 一年一組、通称11HRの教室をおそるおそる覗き込むと、お弁当独特の匂いがむっと鼻に着いた。それぞれが思い思いに食事を取っていて、教室のどこかからか控えめに音楽が聞こえてくる。誰かがスマホをスピーカーモードにしているらしい。

 入り口の一番近くに座っていた、前髪の長い男子学生に声をかけた。彼はビニールに包まれたコッペパンを机に置いて、入り口にいるわたしのところまで近づいてきてくれた。

「誰を呼べばいいですか」

 意外にも慣れたような様子だ。この席に座っている以上、避けられない仕事なのかもしれない。

 あらかじめ頭に叩き込んできた名前を二つ、挙げた。

「高城里香さんか、伊多田友紀さんはいる?」

 名も知らぬ彼は、重い前髪の奥の瞳をきゅっと細めた。

「いますけど」

「ほんとう? ちょっと呼んでほしいんだけど」

「どっちをですか」

「ん?」

「高城と伊多田のどちらかを呼べばいいのか、両方を呼べばいいのか……」

 なんということだ、適当に覗いた最初のクラスに探していた人が両方がいるとは。

「どっちも呼んでもらえる?」

 男子学生は首を傾げつつも、わたしに背を向けてつかつかとクラスの中を窓際の方へと歩いて行った。四人で談笑している女子のグループに割って入ると、わたしのいる方を指さして何事か話をした。女子たちは四人とも、首を伸ばしてこちらを見ていたが、そのうちの二人ががたがたと椅子を鳴らして立ち上がった。男子学生を押しのけるようにして駆け足で近づいて来ると、二人そろって頭を下げた。

「お疲れ様ですっ」「お疲れさまです!」「佳代子先輩のお姉さんですよね」「インハイ予選を観に来て下さってましたよね」「近々、お伺いしようかと思っていたんです」「いまお時間いいですか?」

 マシンガンのように代わる代わる言葉を放ってくる彼女たちに、こちらがぽかんとしてしまった。どうやら、この娘たちもわたしを探していたらしい。

 ここで話すのも、という常套句で二人を教室から連れ出す。外に出るのも面倒くさいので、ずーっと階段をくだって一階まで行き、中央玄関にある木のベンチに三人並んで腰掛けた。二人の間にわたしが挟まれる形だ。この方が、二人から平等に話を聞ける気がしたのだ。

 わたしが先に口を開いた。

「ええと、高城さんというのは……」

「私です」

 向かって、右側に座っていた娘が手を挙げる。長い髪の毛を二つ結びにしており、小柄で、どことなくウサギを思わせる。肌が健康的に焼けてさえいなければ、もっとウサギっぽかったに違いない。

「じゃあ、伊多田さん?」

 反対側、つまり左に腰かけている娘を振り向く。彼女はこっくりと頷いた。こちらも肌は小麦色に焼けているが、高城さんとは印象ががらりと違う。高城さんがウサギなら、伊多田さんはチーターのようだった。なんというか、顔のパーツひとつひとつが鋭いのだ。髪形も、思い切ったベリーショートだ。

「どうして二人はわたしを探していたの?」

「佳代子先輩のことで、お伝えしたいことがあったので」

「あと、聞きたいことがあったので」

 腕時計に目を落とす。昼休みが終わるまではあと三十分ほどだ。あまりのんびりともしていられない。

「分かった。それじゃ、そちらの用事からどうぞ」

 そう言うと、高城さんと伊多田さんはわたしの体ごしに目くばせをした。一瞬ののち、高城さんが「じゃあ、私から」と切り出す。

「お聞きしたいのは、佳代子先輩がいまどうしてるかってことです」

「元気にしているよ。退部してからは勉強を頑張ってる」

「他には? 何かしている様子はありませんか」

 なぜか焦ったように問いかけてくる高城さんに対して、冷静に答える。

「あの子がこそこそと何かをしていたら、とっくに気がついてる」

 すると、高城さんは目に見えてがっくりと肩を落とした。反対側を見ると、伊多田さんも似たようなポージングをしている。

「どうしたの?」

「いえ……」

 伊多田さんが額に手を当てて、ため息まじりに言った。

「もしかしたら、自主トレを続けてくれてるんじゃないかって期待していたんです。いつでも戻ってこられるように」

 そうだった。この子たちは、佳代子の退部を阻止しようとしていたんだった。ということは、戻ってきてくれることを期待していたとしてもおかしくはない。

「来年のインハイ予選までに、一度、説得に行こうかと思っていたんです。そのためには、一緒に暮らしているお姉さんの協力が必要かもって話してて」

 残念ながら、そういうことなら協力してやれることはない。調べれば調べるほど、佳代子は部活を辞めてよかったような気がしてきているから。

「それで、伝えたいことっていうのは?」

話題を変えるために、そう切り出した。今度は伊多田さんが口を開く。

「もしかしたら、ご家族の方は先輩が部活動を辞めたことについて不審に思っているんじゃないかなって」

 この話は本当はしたくない、という思いが伝わってくる、重い口調だった。

「一か月経っても、先輩は部活動にもどってこなかった。最初はただ、ちょっと長くお休みするだけなんだって思ってたんです。だけど、三咲先輩は『戻ってくることはぜったいにありえない』とか言うし」

 強い風が吹いて、玄関の硝子戸をがたがたと鳴らす。

「あれだけソフトに熱心だった先輩が急に部活を辞めて、ご家族はきっと『どうしてだろう?』って思ったはず。だから、佳代子先輩から話を聞き出してもらえないかなって」

「それで、どうして辞めたのかを教えてほしいって伝えるつもりでした」

「ちょっと待って。あなたたちは佳代子が部活を辞めた原因を知っているんじゃないの?」

 つい、強い口調になった。てっきりこの二人も当事者だと思っていたのだ。

「ごめんなさい……三咲先輩からは、ふわっとした理由しか聞かされていないんです」

「ちなみにどんな」

「佳代子先輩が、その、全体の調和を乱すような言葉を言ったからとか」

 ごりゅ、と、どこからか音が聞こえた。

 伊多田さんがぽかんとした表情でわたしを見る。しまった、また奥歯を噛みしめてしまった。

「あの……今のは」

「ごめん、歯ぎしりは癖なの――続けて」

「ええと、だから、その、むりやり辞めさせたんじゃなくて佳代子先輩の方が自主的に退部を願い出た、みたいなことを言ってました」

 まただ。顧問の大隅先生も似たようなことを言っていた。

「あなたたちがそれを知ったのは、どういういきさつでのこと? つまり、佳代子が退部を宣言した日はどういうスケジュールだったの?」

 自然な流れで、今度はわたしの質問タイムに移っていた。

「三連休の初日でしたから文化の日だったと思うんですけど。あの日は、午前中に話し合いをしたんです。場所は11HRです。ちょうど空いていたので」

 高城さんがそこで言葉を切ると、伊多田さんが後を引き継ぐ。

「話し合いの間、佳代子先輩は一言も話しませんでした。ずっと黙り込んでいて」

「どういう内容の話し合いだったの?」

「それが……三咲先輩がずっと取り仕切っていて」

 また三咲か。あいつはいつか一発殴らせてもらいたい。顔も知らないけど。

「主に、全員の意識を一点に絞らないといけないって話でした。チームプレイなんだから、一人でも別の方向を向いていてはならないって」

「他のメンバーはうんうんって聞いてましたけど、要は『キャプテンである私の言うことが絶対だ』っていう遠まわしな宣言でしたよ」

 佳代子が嫌いそうなやり方だ。

「それで午前中は終わりました。午後二時からグラウンドで練習って指示がでて、私たちは部室棟に行って食事をとったんです」

 高城さんがいう部室棟は、グラウンドを挟んで校舎の正反対にある、横に細長い建物のことだ。二階建てで、たまにその窓ぎわに洗濯物らしきものが吊られているのを見かける。

「一年生と二年生の部屋は違うので、昼食の間に先輩方の部屋でどんな話が交わされたのかはわかりません。昼休みが終わってそれぞれが練習着に着替えて部室から出たら、三咲先輩が『話があるの』って言って、グラウンドに集まるように指示してきたんです」

 伊多田さんが頬を指で掻いて、言いにくそうに続けた。

「先輩方はみんな練習着でしたが、佳代子先輩だけジャージでした。私たちはグラウンドの、ちょうどマウンドのあたりに集まりました。そして、三咲先輩が『佳代子は今日で部活を辞めるから』と」

「三咲さんが最初に言ったの?」

「そうです。で、さっき言ったようなふんわりした理由を……言葉を変えて、同じことを何回も説明してました。その間、佳代子先輩はずっとうつむいて何か考えているようでした」

 その光景が目に浮かぶようだった。あの子は考え事をしたり、言葉を選んでいるとき、うつむく癖がある。

「最後に佳代子先輩に発言の機会があったんですけど、ただ『今までお世話になりました』ってだけ」

「三咲先輩がじれったそうに『他に言うことはないの?』って言ったんですけど、佳代子先輩は同じことを繰り返しただけでした」

 さきほどから感じていたことだったが、この二人はどうやらアンチ三咲の部員らしい。言葉の端々から、三咲さんに対する敵意のようなものが感じ取れるのだ。

「そして、佳代子先輩はグラウンドを去って行きました」

「ちなみに、それは何時くらいのこと?」

 高城さんは宙を睨みつけて、いま記憶を手繰り寄せていますということがよく分かる顔つきになった。

「……私たちがグラウンドに出ていったのが二時ちょうどくらいですから、二時半くらいだったと思います」

 それからうちに帰ってきたということか。それにしてもやや時間のずれがある。どこかで頭を冷やしていたか、よほど、とぼとぼと帰路についたか。両方かもしれない。

「そうなのね。ありがとう、いろいろと教えてくれて」

 わたしが高城さんに向かって礼を言うと、彼女はぶんぶんと首を振って「とんでもない!」と言った。気配を感じて振り向くと、後ろで伊多田さんもおなじ動きをしていた。

「佳代子先輩がいなくなって、チームはガタッと弱くなりました」

「点が取れないんです。中継プレーもうまくいかなくなって」

「センターからチーム全体を指揮してくれる存在がいないから」

「練習試合でもあきらかに勝ちが少なくなったのに、三咲先輩は『外野なんて誰がやっても同じでしょ』なんて言うんです!」

 ここで、高城さんと伊多田さんは声を揃えて絶叫した。

「「内野手のミスをカバーしてやってるのは誰だと思ってんだ!」」

 後から聞いたことだが、高城と伊多田はそれぞれライトとレフトを守っているらしい。

つまり、センターを守っていた佳代子の両脇を固めていたということだ。


 二人と別れたあと、わたしは自分の教室へもどりつつ考えた。

 佳代子が部活動を辞めた理由について分かったことは多くない。まだ調べはじめて二日しか経っていないのだから焦ることはないのかもしれないけれど、悠長なことも言っていられない。時間が無いのだ。わたしの。

 世間はあと十日たらずでクリスマスと浮かれているが、高校三年生にとってクリスマスとは、ふかーいため息とともに頭をかかえたくなる存在だ。言わずもがな、一月に控えたセンター試験のせいである。

 わたしも一応、お隣の栖原市にある公立大学を受験する。こつこつと勉強はしてきたつもりだけれど、やはりここまで来ると少なからず心配になってくる。

 教室にもどったタイミングで、ちょうど予鈴が鳴った。教室に入って来た小柄な古典の先生が黒板に大きく『センター過去問 ポイント25』と書いた。

 ひとまず妹のことは一旦わきに置いておいて、目の前の授業に集中することにした。


 直接、三咲さんから話を聞けばいいというのは頭にあった。しかし、後輩とはいえ『敵』であることに変わりはないから、それにはかなり勇気が必要だった。

だから、わたしはとっておきのカードを切ることにした。最近できたばかりの伝手をつかったのだ。


  十二月十六日


 話を聞く限りではどんなに悪人面をしていることやらと思っていたのだが、糸崎三咲さんという方はなかなかかわいらしい人だった。

 ショートボブの髪形がよく似合う丸顔で、わたしをじろじろと見つめる瞳もこれまたまん丸で、ソフト部というよりも料理部なんかが似合う感じだ。

 わたしが机の下でスマホを操作している間に、郡宮さんはわたしの素性について解説をしてくれていた。

「だから、この人は佳代子がどうして部活動を辞めたのかを知りたがっているんだよ」

「はあ」

 わたしは二人の後輩から話を聞いた翌日、郡宮さんに「三咲さんと三人で話ができるよう場を設けてほしい」とお願いをしたのだ。ボーイッシュなクラスメイトは任せろというように頷いてくれたが、三咲さんから話を聞き出せる保証はないと断りをいれてきた。

 それでも構わない。わたしは彼女と話がしたい。

 そういうわけで、その週の土曜日、練習終わりの三咲さんをファミレスに呼び出してもらった。

「三咲が知っていることだけでいいから、話してくれないか」

「いいですけど、大したことじゃありません」

 三咲さんは郡宮さんからわたしの方に視線を流して、前置きもなにもなくさらりと言った。

「佳代子があたしの悪口を言ったらしいんです」

 聞き間違いかと思った。もしくは小学生の言い訳を聞いているのかと錯覚した。わたしが言葉を失っていると、三咲さんは淡々と話を続けた。

「あたしが直接、佳代子の口から聞いたわけじゃないんですけど。ボロクソに言ってるのを聞いたって奴がいるんです。あの子に問い詰めたら認めました。で、謝ってくれってお願いしたんですけど」

 お願い? お願いだと?

「あの子は謝らなかった。不快な思いをさせたならとか言って勝手に辞めて、勝手に自己完結したんです。ほんと自分勝手なんだから」

 三咲さんはほとんど手をつけていなかった水入りのグラスを指でなぞり、溜息をついた。

「まるで、自分だけが傷つけられたって言わんばかりの顔をしてました。あたしを悪役にして、あいつは追放されたお姫様気取りですよ――チームをまとめるのが大変だなんて、これっぽっちも考えちゃいないんでしょうね」

 この場に妹がいなくて本当によかった、と、かろうじてそれだけ思った。

「あたしはあたしで精一杯やってきたつもりです。だけど佳代子はそれをわかろうとしなかった。傷ついたのはあたしの方ですよ、悪口を言われたんだから。それなのにあいつは謝りもしないで出ていきやがって」

 

ごりゅ、とどこかで音が鳴った。


「口を閉じろ」

隣で郡宮さんがぽかんとしている顔が視界の端に写った。三咲さんも同じように、面食らった顔をしている。わたしが怒ることがそんなに意外だろうか。

「お前のような人間と同じ部活動を一年半も続けたあの子は本当に偉いよ。辞めてくれてよかった。いや、もっと早く辞めるべきだったんだ」

 席を立ち、目の前に座っている三咲さんを見下ろす。自分のグラスを手に取った。

 彼女の顔がクローズアップされて、それ以外、目に入らない。なんだか耳鳴りがする。

 ――前にもあったな、こういうの。いつだっけ。いいや。今はどうでもいい。

「さぞ不快な思いをしただろうよ。佳代子の顔なんか、もう見たくないんじゃないのか?」

 視界が、きゅうっと狭くなった。腹の底が燃えるように熱いのに、頭の芯は冷えきっている。

 背を丸めるようにして腰を折り、三咲さんに顔を近づけた。

「……二度とわたしたち姉妹の前に姿を見せるな」

 わたしは右手に持ったグラスを思い切り握りしめた。グラスははかない音と共に、ただのガラス片になった。三咲さんの口から「きゃ」というかわいらしい悲鳴が漏れる。

「それじゃ」

 三咲さんの顔が真っ青になったのを確認して、わたしは店を出た。

 郡宮さんには、休日明けにでも謝ろうと思った。



 右手から水と血を滴らせたわたしを見て、まっさきに妹が口走った一言。

「バカじゃないの?」

 あんまりだ、と思う。あんたのためにやったことなのに。

手の痛みと、『心配させたくない』という思いがお互いに主張し合い、わたしは涙目でへらへらと笑った。

「消毒液、持ってきて……」

「何があったの?」

「道端で転んで手をついたところに、割れたガラスがあったの」

 もちろん嘘である。

火事場の馬鹿力を発揮させただけである。

 普段使っていない筋肉を使役したせいで、二の腕から手首にかけてがつんとしびれたように痛い。ついでに奥歯も痛い。手のひらも当然痛い。あ、これは痛い。じわじわ痛い。

 利き腕でやらかしてしまったものだから、わたしはその日の夕食を妹に任せなければならなかった。四苦八苦していた佳代子は二時間かけてようやく、塩辛い味噌汁と柔らかすぎる白米を食卓に並べた。お行儀が悪いと自覚しつつ、その二つをどんぶりの中で混ぜてスプーンで食べた。

 また、包帯をぐるぐるに巻いた右手を理由に、妹と一緒にお風呂に入ることを提案したところ、しぶしぶ受け入れられた。

湯船に入り、首をのけぞらせるようにして浴槽のふちにひっかけて、髪の毛を洗ってもらった。

ふと、沸きあがった疑問をそのまま口にしてみる。

「マメは痛くないの?」

 泡が目に入らないように目をつぶっていたから、返事をしたときの妹の表情は分からなかった。

「全然。もうすっかり、綺麗な手になっちゃった」


  十二月二十二日


 クリスマスは必ず帰る、と言っていた両親から、二人並んで土下座している写真がメールで届いた。

 わたしたち姉妹は両親のなさけない姿にひとしきり大笑いをしたあと、なんとなく抱き合って泣いた。慣れたことのはずなのに、どうしようもなく寂しい想いが胸をついた。期待していた分、突き落とされた気分になった。

「しょうがないよ、お仕事だもんね」

 目じりに溜まった雫を指で払い、佳代子は大人びたことを言った。

「ね、しょうがないね」

 子供みたいに泣いていたわたしも、大人びた返事をした。

 わたしたち娘には『公務員』としか聞かされていない両親の仕事。どこの所属なの? とか、どうしてそんなに忙しいの? とか小さいころはよく尋ねていたが、彼らは上手くそれを躱し続けていた。大人の階段をいくつか登ってみると、わかる。世の中には、たとえ家族であっても明かせない職業内容というものが存在するのだ。

 クリスマスの夜はフライドチキンが食べたいという妹のために、学校で行われた模試の帰りに遠回りをして帰った。聖なる夜まではまだあと三日あるが、今のうちに予約をしておかないと当日はとてもじゃないけれどファミリーパックなんて買えないだろう。

 イルミネーションでごたごたした町の中をひとりで歩く。師走、午後六時ともなるともう空は真っ暗である。

 佳代子が部活動を辞めたいきさつ。十一月三日に、部室で何があったのか。

答えらしきものは出たけれど、わたしはそれを、ドラマで見る探偵のように大声で説明することなどしない。元凶は遠ざけられたのだから、それでよしとする。佳代子を慕ってくれている二人の後輩には申し訳ないけれど。

三咲さんの言葉に引っ掛かりを覚えて、面会したあの日からしばらく考え込んでいた。実はあのとき、スマホのボイスレコーダー機能を使って会話を録音していたのだ。何度も繰り返し聞いて、ようやく違和感の正体を掴んだ。

彼女はこう言った。『あたしが直接、佳代子の口から聞いたわけじゃないんですけど。ボロクソに言ってるのを聞いたって奴がいるんです。あの子に問い詰めたら認めました。で、謝ってくれってお願いしたんですけど』と。

悪口を言われたから、謝ってほしい。それはわからないでもない。ただ、直接聞いたわけではないのだ。つまり、第三者が悪口を聞いて、それを三咲さんに言ったということになる。その第三者が誰なのかは分からないが、『三咲側』の部員と考えるのが妥当だろう。


赤い看板のフライドチキン屋に入ると、油臭い空気に出迎えられた。運よくレジには誰も並んでいなくて、待たずに済んだ。笑顔がややぎこちない茶髪のお姉さんに「ファミリーパックを一つ、三日後に予約したいんですけど」と伝えると、電話番号と名前を書かされた。レシートのような薄い紙がレジスターから出てきて、それを手渡される。整理番号らしき三ケタの数字が印刷された紙を財布にしまい、店を出た。

入れ違いに私服姿の若者の集団が入って行った。新人らしいお姉さんがミスせずに仕事をこなせますように、と願いをこめてみる。


佳代子が口にしたその『悪口』は、一体どこで第三者の耳に入ったのか。人間が二人以上いれば愚痴なんていくらでも出てくるものなのだから、特定のしようがない。ふつうは。

スマホに録音されている、三咲さんがだらだらとしゃべっていた内容を辛抱強く聞きとると、なんとなく分かることがある。

『悪口』に対し、三咲さんは『部をまとめることがどれだけ大変かわかろうともしない』と言い返している。『悪口』の内容は、三咲さんが部活動を率いることについてのものだったということが考えられる。例えば、やり方が気に食わない、とか。

佳代子はそんなことをいつ、どこで、誰に対して話したのか。


頬に濡れた感覚があって、夜空を見上げた。星は見えない。厚い雲がこの町の上空を覆っているらしい。腕を持ち上げると、学校指定の黒いコートの上に白いものがふわふわとまとわりついている。――雪か。

米薫市は雪の被害が出やすい地域ではない。一年を通して比較的温暖な気候であるのだが、五年に一度ほどの頻度でちらほらと雪が降る。

佳代子には、幼馴染というものがいない。引っ込み思案だったというのもあるし、親の転勤で引っ越すことが多かったせいもある。わたしが中学生になると、引っ越すのが大変だからといって子供を一か所に留めておいて両親だけが飛び回るようになった。

妹が小学校、中学校、高校と進む中でずっと側にいたのはこの世にただ一人。わたしだ。

あの子が心を許す相手がいるとすれば、わたし以外にはあり得ない。それは自負している。郡宮さんも言っていた。姉にはいろんな話をする、と。


 佳代子はわたしに話したはずだ。三咲さんに対する愚痴を。レストラン『スリジエ』で。

 そのときは録音なんかしていなかったけれど、よく覚えている。佳代子はこう言ったのだ。

『こんな話をしたのは初めて。お姉ちゃんだから言ったの。誰にも言わないでよね』


 あのとき、店の奥にはもう一組客がいた。パーテーションの向こう側にいたのは、もしかすると佳代子のチームメイトだったかもしれない。すべては憶測でしかないけれど、そうだと考えると、部活動を辞めたきっかけを姉であるわたしに隠した理由もわかる。

 三咲さんに対するヘイトが本人の耳に入ってしまった原因が、姉であるわたしに話したせいだということを隠したかったのではないか。

「外食をすると決まって、わたしが『スリジエ』を予約しなければ」

「その店で愚痴を言わせたりしなければ」

「佳代子が部活動を辞めることなどなかった」

 ……わたしがこんな風に考えることを危惧して、あの子は口を閉ざしていたのかも、しれない。


  *


 インターホンを鳴らすと、内側からどたどたという足音が聞こえてきた。数秒ののち、愛しいわが妹が顔を見せてくれる。

「おかえり。あと、ただいま」

「ただいま、おかえり」

 ややこしい会話を交わし、わたしたちは共犯者のように笑いあった。

 模試で疲れるだろうと予想していたため、夕食はピザを取ると決めていた。種類を選ぶことと注文は佳代子に任せて、わたしは自室で制服から部屋着に着替えた。

 届いたピザとオレンジジュースをダイニングテーブルに並べ、わたしたち姉妹は向き合って椅子にこしかけた。

 自分の皿に苦労してピザをとりわけている妹に、さりげなく訊ねてみた。

「佳代子、どうして部活動を辞めたのか、きいてもいい?」

 どういう反応が帰ってくるのか、内心でびくびくしていた。ところが当の本人は、きょとんとした顔で首を傾げた。

「いまさら?」

 どうやら怒ってはいないようだった。ひとまずほっとする。手のマメと同じように、傷は癒えつつあるようだ。今はむしろわたしの方が、シャンプーやリンスに悲鳴を上げている。これこそ自業自得なんだろうけど。

「郡宮さんが教えてくれたの。三咲さんが……」

 自分の頭の中でまとめた話をそのまま伝えると、佳代子はふんふんと頷いて最後まで聞いてくれた。

「だから、佳代子はわたしに気をつかってくれたんだろうなって」

「おおむね当たってるけども」

 ん、と声が漏れた。『おおむね』?

「部活動を辞めた理由をお姉ちゃんに黙っていたのは、それが正解」

 佳代子は、とろけたチーズで油まみれになった指で宙におおきく〇を描いた。

「お姉ちゃんに、気に病んでほしくなかったの。だけど、あたしが辞めた理由そのものに、お姉ちゃんは関係ない」

「どういう意味?」

「『スリジエ』で三咲の悪口……あたしにとっては愚痴くらいのつもりだったんだけどね。つい口走ってしまって、それが本人の耳に入っちゃったのは、意図したことじゃない。これは分かる?」

「分かるわ。事故よね」

 佳代子は小さく頷いた。

「あたし、三咲に対して色々と思うところがあった。本当は一緒の空間にいるのも辛かった。でも本人に対してそれを態度で示したりはしなかった。だから、表面上は良好な関係を築けていたと思う」

「そうじゃないと一年半も一緒に部活動できないものね」

「正真正銘、お姉ちゃんに話したあの時が最初で最後の愚痴だった。それをたまたま聞かれてしまった。直接、あの子に暴言を吐いたわけじゃない。いじめたわけでもない。あの子との共通の知り合いに言ってもいない。どうしてあたしが、『スリジエ』にチームメイトがいると予想できた? できるわけない。あたしにとってあの場所は、お姉ちゃんとゆっくり話ができるプライベートな場所のつもりだったのよ。学校からも離れているし」

 そんなこと、わたしが一番よく知っている。この子がわざわざ、調和を乱すような言動を取るとは思えない。他でもない、大好きなソフトボールを続けるためなのだから。

 苦しみながら、心を痛めながら、じっと耐え忍んできた。

「プライベートな空間で、愚痴を言ってしまったことは悪いことなのかな」

 違うわ、と言ってやりたかったのに、わたしはただ首を振ることしかできなかった。何を言っても、彼女の傷は癒えないと知っていたから。外野からのヤジに過ぎないから。

 佳代子は深く吐息をついて、少し間をおいてからまた口を開いた。

「あたしが部活を辞めた日のこと、聞いたんでしょう」

「午前中は話し合いをしていたのよね」

「うん。その話し合いのとき、あたしがちょっと浮かない顔をしていたのが気に食わなかったらしいの」

誰が――なんて、愚問だ。

「お昼の時間に、『なんか文句があるなら言ってよ』って言われて。あたし、『文句なんかない』って返したの。そうしたら、部員のうちの一人が『あるんでしょ、文句』って」

「……あの日、『スリジエ』にいた人?」

 佳代子は頷かなかった。そして、そのまま話を続けた。

「一瞬、何のことか分からなかった。だけどその子、レストランであたしがお姉ちゃんに話した内容をそのまま三咲に向かって話し始めたの。だからすぐに理解した。あの会話を聞かれてたんだって」

「それで、三咲さんは佳代子に『謝って』って言ったのね?」

「正確には、『そんな酷いことを言っておいて、悪いと思わないの?』だけどね」

 思わず手に力がこもる。やっぱり一発くらい殴っておけばよかった。

「すぐに謝ろうとした。だけど、混乱しつつもよく考えてみたの」

 妹はピザに頭を突っ込むようにしてうつむいた。以前よりも伸びた髪の毛が、彼女の表情を隠す。

「あたしは、いつでもどこでもニコニコしていなければいけないのかな。たとえば気の置けない友人とか家族に向けてでも、愚痴ったり弱音を吐いたりするのは禁止? どこに誰がいるか分からないから、常に気を張っていないといけないの? それって、かなり――」

 消え入りそうな彼女の言葉に、わたしは指一本動かすことができなかった。

 どうしてわたしの妹が、こんなに追い詰められねばならないのだろう。

「あの日、部室でね。あたしを睨みつけてくる部員たちを眺めて、不思議な気分になったの。『あたし、三咲やみんなに対して、悪いことしたなんてぜんぜん思ってないみたい』って。でも、三咲に不快感を抱かせたことは間違いない。チームの和を乱したことは間違いない。――だから、こう伝えた」

 佳代子は顔を上げて、微笑した。

「謝ることができません。かわりに、この部活から出ていきます」



ガラスのコップは頑張れば割れるらしいです。

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