2-2 暫しの別れ
ウィリアムは、村で暮らした一週間の出来事を振り返っていた。
「それでは、私はこれで。またここを訪れるつもりですが、急を要する何かがあれば、この紋章を持って首都にきてください。余程のことがない限りは、この地を離れる事はないと思いますが、念のため渡しておきます」
商人の老人はそう言うと、ウィリアムに金属でできたプレートのような物を手渡した。
五芒星の中心に、炎と靴のような物が重なって描かれている。そんな特徴的な意匠が彫られた板だ。
ウィリアムはその紋章を裏返して、表に直して、矯めつ眇めつ眺めると、その瞳に疑問の色をのせ、老人へを視線を向けた。
「これはなんですか?」
「私の所属している組合の関係者である事を示す、身分証明書のようなものです。私はこう見えて、そこそこ名の知れた商人でして、身元にはそれなりの信用を得ています。その紋章があれば、軽い質問などは受けると思いますが、ほぼ無条件で首都への通行許可が出るでしょう。私は旅をしていますゆえ、都合よくその場で居合わせること可能性は低いと思いますが、私の仲間が貴方を迎え入れてくれると思います。困った時は、是非頼りにしてください」
「それは…………」
ウィリアムは驚きを隠せなかった。この老人が今渡してきたものは、要するに「ビザ」のような物なのだ。
それも、本来ならあって然るべき身分の証明や沢山の手続きを省略して首都へ侵入できるほどの。この国がどれだけ警備意識を持っているかは分からないが、一国の懐に入り込むことが出来る身分証明書など、並の商人が持っているものでは無いだろう。
つまり、この老人は、少なくとも「それが許される」立場の人間なのだ。
ウィリアムはハッと、この穏やかで親切な老人がどのような人間であるのか、その背景がどのようなものなのか、全く知らないことに思い至った。
目の前の老人もウィリアムのその様子に何かを悟ったのだろう。目尻に皺を寄せ、微笑ましいものを見守るようにウィリアムを見つめていた。
ウィリアムは戸惑いながらも、口を開く。
「本当、何からなにまで、ありがとうございます。僕に出来ることがあれば、きっと恩をお返しします」
「ホホッ、若者がその様な事を考えなくてもいいのです。まだ子供のうちは、余裕のある大人に甘えていても、誰も叱りつけたりしません。ましてや記憶喪失など、ある意味では赤ん坊と変わりないではありませんか。私の様なお節介焼きには、ありがとうの一言だけでも、十分なのです」
「いえ、そんなわけには…………それと、再開した時には、貴方のことをもっと教えてください。ここまでしてくれた貴方の事を、僕は殆どなにも知らないままなのです。僕を非常識な人間のままにしないでください、お願いします」
「では再開の折には、私の行きつけの店で語り合うとでもしましょうか。紅茶の香りがとても良い店なのです」
「ええ、是非」
そんな会話の後、商人の老人は馬車を走らせ、地平線の彼方へと姿を消した。
老人と同じく歳をとっていることがよく分かる痩せた老馬の歩みは遅く、ウィリアムは長い時間その場に立ち尽くし、馬車の行く末を見守った。
ウィリアムの心中を、感傷や切なさが埋め尽くしていった。
自分という存在を自覚してから、初めての別れ。それはウィリアム思っていたよりも辛く、悲しく、彼の胸を強く打った。
これが今生の別れということでもない、再開の約束すら行った。
それでもウィリアムは、自分が今立っている場所がとても脆く、崩れてしまうかのような、いわゆる「孤独感」を敏感に受け取っていた。
瞳が潤み、景色がボヤけた。
意地だろうか、涙をこぼすことはしなかった。
そんなウィリアムの背中に、呼びかける声があった。
「おいおい、いつまでそこに立ってるつもりだよ…………って坊主、もしかして泣いてんのか? 意外と繊細なんだな、お前」
「おにいちゃんないてるの? だいじょうぶ?」
ウィリアムが振り返ると、そこには手を繋いだガランとネロの親子が居た。二人の身長差が大きいため、ガランが若干屈むような前のめりな姿勢になっている。
ガランは少し驚いたような顔をしており、隣で心配そうな顔をしているネロとはミスマッチな組み合わせに見えた。
そのアンバランスさがおかしくて、ウィリアムは思わず吹き出してしまった。
ガランはどうしてウィリアムが吹き出したか理解できないのか、不思議そうな顔をしていた。
ネロはガランの手を離すと、ウィリアムの方へ駆けつけ、一生懸命背伸びをして、ウィリアムの頭を撫でた。
ウィリアムはネロの突然の行動に驚いたものの、自分を慰めているのだと理解し、撫でやすいように腰を下ろして、頭をネロに差し出した。
「おにいちゃんはねろがいいこいいこ、してあげるの。だからなかないで?」
「ちょっと恥ずかしいかな」
「だいじょうぶ、おにいちゃんはひとりじゃないよ」
「そうだね、僕にはネロちゃんがいるからね」
「お前、本当にうちの娘にちょっかい出す気はないんだよな? おい、こっち見ろよ、おい。聞こえてんのか、おう」
「そうですね、ガランさんもいますからね」
「そういう事を言ってるんじゃねぇんだよ。せめてこっち見ろって、目を合わせろって」
「ははっ、ガランさん情熱的ですね」
「お前な…………」
ウィリアムの心にはもう、孤独感はなかった。
この親子に慰められた事への感謝を胸に抱きながら、これからの事について思いを馳せた。
いったい、自分はこれからどうなるのだろうか。それは好奇心であり、恐れでもあった。
少女に頭を撫でられながら、ウィリアムの心はどこまでも複雑であり、その感情を持て余していた。
「それで」と、ウィリアムはネロを抱き上げて胸に抱えると、ガランに問いかけた。
「僕はこれから、どうしたらいいでしょうか。村長さんや他の村の方々に挨拶をした方がいいですか?」
「あー…………村の連中はあんまり他所から来たやつにいい気持ちを持ってないというか、辺境の村だからな。みんな閉鎖的なんだよ。無愛想だから、そういうのは必要ない。話しかけても無視されるかもしれんし、あまり刺激することもないだろう。とりあえず今日は普通に帰って家事でも手伝ってくれや」
「やっぱりそういうのってあるんですね。でも、ガランさんは普通に話してくれますよね」
「ウチはほら、宿屋だろ? 外から来たやつへの対応は、村長から任されてんのよ。流石に誰も彼も突っぱねてたら、村が廃れちまうしな」
「なるほど…………でも、ガランさんがいてくれて良かったですよ。親切ですし」
「あんまりそう褒めてくれるな、照れるだろ」
ウィリアムは、この野生的な男が、見た目以上に人の心の機微に聡く、そして思いやりを持っている事に気がついていた。
ガランにしても、ウィリアムの事は「悪い奴じゃなさそうだ」と感じていた。
まだ出会ったばかりで信頼など可笑しい話だが、時間はこれから積み上げていけばいい。
何かに追い立てられているわけではないのだ。
少しずつ、お互いを知っていこう。
「ところでガランさん」
「ん? なんだ」
「ガランさんって歳は幾つなんですか。あと、ネロちゃんも。ガランさんって結構歳上ですよね?」
「俺は二十四だ、ネロは七歳になるな」
「え? …………え? 嘘でしょ? え?」
「おいお前、俺の年齢に文句があるなら聞こうじゃないか」
「だって見た目が…………」
「あぁん?」
「…………な、なんでもありません」
そんな会話から、ウィリアムの村での生活は始まった。
この時、誰が予想できただろうか。
この村がこれから辿る、運命。それが既に、取り返しのつかない未来を描いているということに。
こうして何気ない会話で笑い合うことのできる日常、その崩壊が、すぐそこまで迫っているということに。
ウィリアムはこれっぽっちも想像していなかった。
自分が、これから逃れられぬ戦いに巻き込まれていく、という事を。
そしてそれが、世界を揺るがす壮大な争いの幕開けに過ぎないという事を。
出会いと別れ、生と死、自分という存在そのものの意味を。
今はまだ、知らないままだった。