1-6 嘘のような合意
「ネロちゃん…………? どうしたの」
ウィリアムがドアの前にいるネロに声をかけると、ネロはとてとてと足音をたててウィリアムの方に近づいてくる。
そして立ったままのウィリアムに甘えるように抱きつくと、ウィリアムの顔が見えるように上を向き、上目遣いの姿勢で話しかけた。
「おにいちゃん、このむらにすむってほんとう? ねろといっしょにいられる?」
話を聞いていたのか、それともガランから又聞きしたのか、ネロはウィリアムのこれから先の事について質問する。
どこまで話したものだろうかと、ウィリアムは少し考えたが、特に隠すような事でもない。
仮に村への滞在が認められるようなら、ネロと今後も顔を合わせる事になるだろう。
そう思った彼は、村に住みたいと思ってると、ネロに打ち明けた。
目的については長くなる上に、難しくて理解しづらいことだろうと、特に説明することはしなかった。
単に「もしかしたら、住むかもしれない」という事だけを簡潔に伝える。
それを聞いたネロは目を輝かせながら、小さい声で「ぉ〜」と感激した様子を見せる。
ウィリアムはその姿を見て、「昨日会ったばかりなのに、結構懐かれているんだな」と喜色を浮かべる。
そんな二人の様子を見て、老人が話しかけてくる。
「ウィリアム殿、随分とネロちゃんから懐かれましたね。仲がいいようで、何よりです」
「ネロちゃんはいい子ですし、悪い気はしないですね。妹が出来たみたいで嬉しいです」
「ウィリアム殿が馴染めているようで私も安心しました。正直なところ、この村に置いていくことになったら、なんというか、無責任かなと、心配していたものでして。その様子なら、大丈夫そうですね。安心しました」
「それは……なんと言っていいか、お世話になりっぱなしですから。そんな風に言われると…………なんというか、恐縮です」
ホホホッ、と気の良さそうに笑う老人に、ウィリアムは「本当に親切な人だな」と頬を緩める。
老人と二人で会話しているウィリアムに何を思ったのか、ネロは「ん〜」とウィリアムに頭を擦り付ける。
ウィリアムは最初は戸惑ったが、そんなネロを抱き上げると、腕に抱えて頭を撫でる。
ネロはご満悦といった様子で目を細め、なされるがままにされている。
少しして、ネロが口を開く。
「じゃあ、うぃるおにいちゃん……ねろといっしょにいてくれるんだね?」
「それは分からないなぁ。村に住めるかどうかはガランさんや村長さん次第だから。それに、村に滞在できるとしても此処に住むかどうかは結局ガランさん次第だし」
「ぇえ〜、じゃあねろがぱぱにちゃんといっておくよ! おにいちゃんといっしょにいさせてください! って」
「ははっ、それはありがたいんだけど、もうちょっと言葉を選んでもらえると嬉しいかな…………ガランさんに殴られそうだよ」
「? …………ぱぱ、おにいちゃんのこといじめないよ?」
「うーん、そういう事じゃなくて……なんて言ったら良いのかな。悪い虫みたいに思われちゃうというか…………」
「???」
「まぁまぁ、ネロちゃんから猟師殿…………ガランさんに一言、こう言ってあげれば良いのです。『ぱぱ! ねろ、おにいちゃんといっしょにすみたいな! おねがい! ぱぱだいすき!』ってね」
「わかった! おにいちゃんがいっしょにいられるようにねろがいってあげるね」
「いや、そこまでしなくても…………気持ちは嬉しいですけど。というかお爺さん、声真似上手ですね…………ちょっと気持ち悪いくらい……」
「いやー、流石にそれは傷つきますね。気持ちはよく理解できますが」
そこで全員が耐えきれないかのように吹きだし、笑った。
実際、老人の声真似はなかなかのものであり、顔さえ見なければ聞き分けがつかない可能性すらあった。
その顔が見えているため、大変悲惨な光景になってしまっているのだが。
一頻り笑ったウィリアムはふと、ネロが自分の顔を見ていることに気がつく。
既に見慣れた、くしゃっとした笑顔を浮かべていた。
ネロはウィリアムが自分の方を見たことに気がつくと、ウィリアムの胸元に顔を押してけてから、もう一度ウィリアムの顔を見て、こう言った。
「これからよろしくね、おにいちゃん」
既に一緒に暮らすことが決まったかのように話すネロに苦笑しながら、ウィリアムは「まだ決まってないけどね」と訂正しようとする。
その時、またしてもドアが開く音が室内に響いた。
ウィリアムと老人がそちらを見ると、気まずそうな顔をしたガランが、頭を掻きながらドアの奥に立っている。
ウィリアム達の間に僅かに緊張が走る。
ウィリアムの沙汰を伺いに行ったガランが帰ってきたということは、処遇が決まったと見て間違いないだろう。
ウィリアムは無意識のうちに、喉を鳴らして唾液を飲み込んだ。
その緊張が伝わったのか、ネロも真剣な顔でガランの方を振り向く。
ガランはウィリアムの顔を見て、その腕の中にいるネロを見て、もう一度ウィリアムの顔を見ると、一つ大きなため息を吐き出してから、こう言った。
「滞在の許可は出た。色々教えなきゃいけねぇこともあるが…………ま、これから一つ、よろしくって事で」
ウィリアムは安堵のため息を吐いた。老人は「良かったですね」とウィリアムの肩を叩き、ネロはガランに「ありがとう! ぱぱ、だいすき!」と叫んだ。
そこでようやくガランも笑顔を見せた。
ズンズンとウィリアムに近づくと、その手の中にいるネロの頭をガシガシとやや乱暴になでた。
それがひと段落すると、今度はウィリアム頭へと手を伸ばし、急な事に回避行動を取れなかったウィリアムの頭もガシガシと……ネロよりもやや乱暴に撫でると、その耳元へ顔を寄せて「娘はやらんぞ」と小さく呟いた。
ウィリアムは慌ててガランから離れると、やや慌てた様子で「いやいや、年齢差を考えてくださいって…………」と説得する。
ガランは内心「俺の娘に文句でもあるのか!?」と言いそうになった自分を落ち着かせると、娘の手前、気持ち穏やかな口調で「そうか、それもそうだな。信じるぞ?」とウィリアムに笑顔を向けた。
「怖っ、怖いですよガランさん! 勘弁してください…………」
「いやぁ、お前は男で娘は女。保険はかけてもかけても安心できないからな。言っておくが、娘を傷つけたり、泣かせたりしたら、承知しねぇぞ?」
「はい、それは勿論。承知してます、はい」
ネロはそんなやり取りをする二人を不思議そうな顔で眺めていたが、ガランがウィリアムを困らせていると判断したのか、ガランに対して「ぱぱ、おにいちゃんをいじめちゃだめだよ」と釘を刺した。
娘には弱いのか、ガランはウッと狼狽えると、「いや、違うんだ」と弁明をし始める。
そんな情けない様子を見せる男を無視して、ネロはウィリアムに笑顔を向け、言った。
「おにいちゃんはねろがまもってあげるからね!」
「あはは、ありがとね」
小さい女の子に庇ってもらった事に、男として微妙な気持ちになったが、意識してその気持ちを無視すると、頭を撫でながら礼を告げる。
ネロはそれを受け入れながら、笑顔で「おにいちゃんはねろがいないとだめなんだから〜」と口にする。
ウィリアムは未だ弁明を続けているガランに対して視線を向けると、二人の目が合う。
そしてどちらからともなくその顔に苦笑いを浮かべると、ほぼ同時に笑い出した。
男達は、この家の中でのヒエラルキーを悟ったのだ。
ガランがウィリアムに手を伸ばし、ウィリアムはネロを抱えていない方の手を差し出し、ぐっと握手を交わす。
「これから、よろしくお願いします」
「まぁ、なんだ。悪いようにはしねぇよ」
こうして、ウィリアムの農村での生活が、始まりを迎えたわけである。
「よかったね! おにいちゃん!」