1-3 踏み抜いた地雷
「ネロちゃんは一人でお留守番してるの?」
「ぅん」
「お母さんは?」
「…………おかあさん、いないの」
「あっ、ごめん…………」
「ぅうん、いいの」
「ごめん…………」
「……………………」
少し会話をしてみようとしたら、これである。
よく乾いている布切れを持ってきたネロは、ウィリアムが体を拭いている時も、何故かドアの前から離れなかった。
先ほど起きたばかりの時のように、ドアの隙間からウィリアムの方を伺っていた。
体の汗をあらかた拭き取ったウィリアムは、流石に状況のままでいるのは気まずいからと、ネロに声を掛け、話し相手になってもらおうと入室を促した。
今は、二人で並んでベッドに座っている。
しかし、未だ人との会話の経験が老人と巨漢の二人分しかないウィリアムは、ハッキリ言って会話が死ぬほど下手くそだった。
少なくとも、本人がそう自覚する程度には、話題選びが最悪だった。
会話の最初の一歩からつまづいてしまったウィリアムとネロの間に、なんともいえない沈黙が流れていく。
初対面の人に対しては、家族についての質問はしないようにしよう。
そういう教訓を得たウィリアムはしかし、この瞬間は気まずい雰囲気を享受する他なかった。
しかし、ガラン達が村長の家から帰ってくるのがいつになるか分からない以上、こうしてずっと少女と黙りあっているわけにもいかない。
とりあえず話を逸らすことにしたウィリアムは「そういえば」と前置きした上で、手に握る布へネロの視線が移動するように、目の前で軽く揺らしてから、少女への感謝の言葉を伝えた。
「これ、貸してくれてありがとう。おかげで気分もスッキリしたよ。洗ってから返せばいいのかな?」
「…………ぇへへ、どういたしまして。ねろがおせんたくできるから、そのままでもだいじょうぶ、です」
「ネロちゃんはお手伝いができるんだ、偉いね」
「…………すごい?」
「うん、ネロちゃんは凄いよ」
「…………ふへへ……」
普段から褒められなれてないのか、ネロはちょっとした言葉でも顔をくしゃっと歪めて照れている。
笑い声が少し独特だが、とても可愛らしいな。と、ウィリアムは心の中で呟いた。
先ほどまでの気まずい雰囲気はもう存在しない。ネロは褒められて嬉しいのか体を少し揺らしている。
どこからか「テレテレ」と擬音が聞こえてきそうな様子だ。
(よかった、なんとか誤魔化せた)
「ガランさん…………ええと、お父さんのお手伝いは、いつもしてるの?」
「うん、ねろはいいこだから、ちゃんとおそうじもできます」
「へー、そうなんだ。あっ、そういえばこの掛け布団もネロちゃんが持ってきてくれたの?」
「がんばりました」
「そうなんだ! 本当に、いろいろありがとうね?」
「…………ふへっ」
両手で顔を隠して足を軽くパタパタと動かしている様は、なんとも可愛らしい。
会話をすることでウィリアムにも慣れてきたのか、ネロは先ほどよりも大きな、といってもウィリアムにとっては普通くらいの大きさの声を出すようになっていた。
話しかけてから返事がくるまでの時間も、若干短くなっている。
そしてウィリアムは気がつけば、手を伸ばしてネロの頭を撫でていた。
「…………ぁぅ」
「あっ、もしかして嫌だった?」
ネロが急に動きを止めて下を向いてしまったので、ウィリアムも「もしかして、やらかしちゃったかな?」と思い、手の動きを止める。
「……いやじゃない、です」
「……よかった、嫌がられる事をしちゃってたらどうしようかと思ったよ」
ネロはウィリアムに甘えるように体を寄せると、ウィリアムの手に頭をグリグリと押し付け始める。
撫でる事を催促しているのだろうと判断したウィリアムは、そのままネロの頭を撫で続けた。
そこでウィリアムは、この少女に対しては、まだ自分の名前を名乗ってすらいない事を思い出した。
この人を疑う事を知らないような純粋な子に偽名を名乗る事はなんとなく抵抗感があったが、かといって本当の名前は自分でも分からない。
このまま名乗らない事の非礼さと天秤に掛けて、自己紹介をする事を決めた。
「そういえば、まだ名乗ってなかったよね。僕はウィリアムっていうんだ。商人のお爺さんにお世話になってるんだ、短い間になると思うけど、よろしくね?」
「うぃりあむさん?」
「ウィルでいいよ」
「……うぃる、おにいちゃん?」
おにいちゃん。その言葉に、ウィリアムはまるで頭を横から思いっきりぶん殴られたかのような衝撃を受けた。
おにいちゃん、お兄ちゃん? 年下の女の子にお兄ちゃんと呼ばれることが、こんなにも響くなんて。
時と場合によっては警察のお世話になってしまうぞ。と、自分でもよく分からない事を考えてしまうくらいには、彼は動揺していた。
そしてその動揺は、目の前の少女にも伝わっていた。
「うぃりあむさん、おにいちゃんみたいっておもったから…………だめ?」
「うん…………それでいいよ、凄くいい。むしろ、それでお願いします」
「? ……おにいちゃん?」
「うっ」
「どうしたの? だいじょうぶ?」
「うん、大丈夫…………ほんと、本当に大丈夫…………少しビックリしただけ」
「そうなの? えへへっ…………おにいちゃん…………」
ネロはそう言うと、ウィリアムに抱きついてお腹へ顔を押し付けた。
先ほどよりも更に大きい動揺がウィリアムを襲ったが、それが表に出ないよう、力を入れてグッと堪える。
そして、力を込めすぎないよう意識して、ネロを抱き返した。
もし自分がここで過剰な反応をしたら、見た人になんて思われるだろうか。
室内だから誰にも見られてないだろうが、それでもウィリアムは不審に思われないよう、平常心を保とうと努めた。
もっとも、この少女にはウィリアムの煩いくらいになり続ける心音が聞こえているかもしれないが。
その状態のまま少し時間が経ち、流石にこのままだと気まずいので、ウィリアムは気になっていた事をネロへ質問した。
「あー、えっと、ネロちゃんに聞きたいんだけど、僕ってどれくらい寝ていたのかな? ここに着いてからすぐに寝ちゃったと思うんだけど…………ガランさん達はいつ頃帰ってくるんだろう」
「たぶん、いちじかんくらい」
「それは僕が寝ていた時間かな?」
「うん、パパはいつかえってくるかわからない……いつもおそいから…………」
「あー、それは寂しいね」
「うん」
お腹に抱きついた姿勢のままウィリアムの顔を見上げるネロの姿に、ウィリアムは頬を緩めた。
その心の中では「そうか、だからこんなに甘えん坊なんだな。もしかしたらいつも一人で父親の帰りを待っているのかも。僕でよければいつでも甘えさせてあげよう」なんて事を考えていた。
(それにしても、やっぱり時間の感覚は変わらないんだよな)
目覚めた後にウィリアムが真っ先にしたことは、一般的な知識の再確認である。
商人のお爺さん曰く、一日が二十四時間で、一ヶ月が三十日。
そして十二ヶ月で一年なので、一年が三百六十日。
殆ど自分の知識と相違はなく、この事を知った時は安心感を覚えた。
もっとも、その後に聞いた地名や国の名前に全く聞き覚えがなかったため、その安心感も長くは続かなかったのだが。
じゃあ、お父さんが帰ってくるまで僕と話そうか。
そうウィリアムがネロに提案をしようとしたところで、ギィ、と音を立てて、部屋のドアが開いた。
そしてそこに立っていたのは、ネロの父親であり、この宿の主人であるガランだった。
「…………何してんだ、お前ら」
頭をカリカリを掻きながら、どこか呆れたような声で、ガランは二人へと話しかけてくる。
そう、布団に座って抱き合っている男と少女に対して。
(あっ、もしかして僕…………終わった?)
どう言い訳したものかと、ウィリアムは今までにないほどの勢いで頭を回転させ、そして一言。
「…………ごめんなさい!」
と、目の前の巨漢に対して頭を下げたのだった。