なんでもなかったみたい
式が終わると直ぐに立ち上がって後ろを見る。しかし、同様に立ち上がった人々のせいで吹奏楽の人が隠れた。またしても、チューバのベルだけが見える。
あそこに、本当に東城先輩がいるかもしれない。
そう思うといてもたってもいられかった。
「友梨ちゃん!? トイレ?」
遥香ちゃんの声なんか耳に入らない。雑踏の1部程度の音でしかなかった。今、私の耳に流れているのはあの四季を自在に操る風の音である。
足早に保護者席を越え、すぐさま吹奏楽隊を確認した。
しかし既にそこには木管の姿がなかった。
「うそ……」
遅かったか。多少の期待を折られた感覚がこんなにも悲痛的だとは思わなかった。
大きく肩を落とし、呆気に取られたように立ち止まると体育館から出ようとしていた新入生とぶつかった。
「きゃっ!」
その衝撃はかなりのもので、私は思わず前に倒れてしまった。手を突き出し顔だけは死守する。
「あっごめんなさい!」
女々しい男性の声。受身を取った腕を庇いながら顔を上げその人を見る。
「大丈夫ですか?」
「あ……」
人見知りなのだろうか、そう思わせる様な雰囲気が顔を隠している髪から漂ってくる。しかし、その奥は間違いなく美男子と呼べる顔立ちだった。
キッチリと整えられた眉毛は細く、くっきり二重の瞼はタレ目の様だ。鼻は見上げているからか高く見え、髭は剃る必要のないほど色がなかった。
「大丈夫です」
そう言って彼の出した手を取り、立ち上がった。
「本当に大丈夫ですか? すみません僕の不注意で!」
低姿勢な彼はヘコヘコと何度も頭を下げる。それを見て物凄く申し訳なくなった私は両手を振り否定する。
「本当に大丈夫だからさ」
オドオドとした態度に若干引きつつもなんとか彼を落ちつかせて、この後の教科書販売に向かわせた。
再び振り返る。吹奏楽。金管だけだが、チューバとトロンボーン、そしてユーフォニウムの大型楽器と呼ばれる人しかいなく、小物の楽器は既に撤退している様だった。
(片付けとかかな?)
まだチャンスはある。この音の正体が誰なのか。
しかし、私が知りたいのはそれだけなのだ。もう、吹奏楽をやる気はない。頭は良くない。だからこんな底辺な大学に来てる。それでも私は薬剤師になりたかった。
顔を上げ人混みに紛れて歩きだそうとする。
すると遥香ちゃんの姿がそこにあった。
「もー! どうしたのよ!」
「ごめん!」
少し怒っていた。それもそうか。私の暴走に付き合わせてしまったも同然なんだから。
そのまま遥香ちゃんの流れに乗り、人混みに紛れて教科書販売の場所に向かう。
「なんでもなかったみたい」
私はそう伝えると彼女は興味無さそうに呟いた。
「本当に吹奏楽好きなんだね」
好き……。どうなんだろう。
高校時代、楽しく演奏してたのかな……私。
返事もできずに咲く乱れる桜を眺める。肌を撫でる程度の風が桜の花を散らせ、妖艶に舞う光に音を重ねる。
「桜の花が咲く頃……」
フルートのソロから始まり木管アンサンブルに移り流れていく季節。ホルンの合図で花開く桜並木。
途中で穏やかな晴れ間の中、原っぱに寝転がりながらその満開の桜を見上げている。次第にその人の周りに人は集まり花が咲いた宴を始める。
その桜はそんな人々を見て楽しみ、さらに花を散らせて美しく輝く。
定期演奏会の選曲の中であった1つ。フルートが桜の花弁のように可愛い雰囲気のある曲が未だに印象的である。いつもは聞いただけじゃそれまで記憶に残らないのに、なんでこの曲はこんなにも私に突き刺さっているのだろうか。
「友梨ちゃんってかなりの変人?」
「え?」
え?
「ひとりでどっか行っちゃうし、ほぼ独り言だし」
もしかして嫌われた? 初日で?
動揺を隠せない。彼女の瞳は私を真っ直ぐ見据えてくる。次のひと言が物凄く怖かった。
「めっちゃおもしろいわ。一緒にいて飽きない」
ハニカミの効いた笑顔。心がふわっと浮く。
彼女のその表情は桜の花と合間って輝いて見えた。
ドキッとした。物凄く。いや、私男だったら間違いなく惚れてたわ。
「惚れそう」
「さすがにそれは気持ち悪い」
苦笑いを浮かべる彼女は私から視線を反らし長蛇の列に並ぶ。これから教科書を買わねばならないのだ。
そんな私たちの前をかなり重そうな紙袋を持ったメガネの女の子が通っていった。その重さのあまり腰をおばあちゃんのように曲げ、今にもすってんころりんと転けて穴に落ちてしまいそうだった。
「やばっ、全部辞書じゃん」
紙袋の中身はパッと見、国語辞典と何ら変わりない分厚さの本が数冊あった。それを見て私は絶句する。
「あれ、全部やるのかな?」
「……考えたくないわ」
2人で未来の不安を語る。
某有名テーマパーク程度の列に並び終え、5万を優に超える教科書を買いそれら全てをロッカーにぶち込むと今日は終わりだった。