汚い涙
「私、学校辞めるの」
その一言に、回転性の目眩を起こした感覚になる。意図せず視界が周り、地に足が着いてないような感覚。
理解できなかった。3年にもなって、辞める必要性がどこにあるのかなんてまったくもって理解できない。
その一言に返す言葉を考えていると先輩が話を続けた。
「私ね、頭悪いんだ」
膝の上にあったフルートの入っているケースバックを優しく撫で始めた。
「1年から単位ギリギリでね。それでも絶対に薬剤師になりたいから死ぬ気で頑張ったんだよ」
私は小さく頷いた。
「小さい頃から病気ガチだった私を1番理解してくれたのは、薬剤師の人だったんだ。吸入器も辛かったし、粉薬は苦いし。それを何とかしようってやってくれたのを見て、大きくなったら私もそういう風になりたいって思ってた」
どこか遠くを見る先輩の目に光なんて刺さるはずもなく淡々と語っていた。
「でも、全然ダメだった。今回のテストでほとんど単位落として。全部回収できるはずもなくて……」
「なんで諦めちゃうんですか……」
どうしてもやっぱり、その根性が嫌いだった。
「再試、全部拾う覚悟でいけばいいじゃないですか。なにやる前から諦めてるんですか」
「無理なんだよ」
「だから、なんで先輩自身が諦めてるんですか! 私とかがもう無理とか言うのなら分かりますよ」
「いや、それフォローになってないでしょ」
アリス先輩の横槍が入った。つい熱くなって余計なことを言ってしまった。
「まぁ、ともあれ私も同意見。なんで諦めるのさ。必要なら教えるよ? みんなでやれば文殊の知恵だよ」
時間をあけて冷静になったのか、いつもの淡々とした口調になっていた。
「だからさ、辞めるなんて言わないでさ、一緒に頑張ろ?」
俯いたまま顔をあげない先輩。納得したのだろうか。少しホッと胸をなでおろした。
「ごめん、それはできない」
心臓が口からとび出そうな発言に思わず口がでた。
「なんでですか! みんなでやった方が……」
「稼がないと、いけないから……。夏休みもバイトしないと、学費足りないから……」
返す言葉がない。アリス先輩も黙ってしまった。いや、そう返されるのがわかっていたかのようだった。
「私が……、稼がないと。だから、留年なんてしてられなくて。1回ダブるくらいなら辞めるってずっと決めてたことだから」
私は勘違いしていたのかもしれない。誰もが恵まれてここにいる。そんな幻想を試験の罠に屠られた。
「アリスごめん。だから学祭には……」
「「出ないなんて言わせない」」
先輩と言葉が重なった。
「学祭だけは出ろ」
「先輩がやりたい曲、やらないで辞めるつもりですか?」
「薬剤師になれなくてもバンドの仲間だろ?」
「吹奏楽らしく、最後は演奏会で終わらないと」
「テストの手を抜けなんて言わないし、出来れば単位揃えて欲しい。一緒に卒業したい」
アリス先輩が隣に座る。嗚咽をなだめるように彼女の背中をさする。
「でも、もし、本当に辞めるのであっても、私のわがまま聞いてくれよ。最後でもいいから」
「うぅ……。最後なんて……う、、やだよぉ、」
その汚い涙をとても愛おしく思う。今まで溜めた汚いものを全て出してしまえると思うから。後悔に塗りたくられた人生を一度リセットしてくれるのだろう。私はそう思った。
この時は先輩に何があったのか、どういう背景なのか、何となく察する程度だった。
数年後の飲み会でアリス先輩がこぼした愚痴でそれを知ることになるなんてこの時にはまだ知らなかった。
『親がいないんだよ。それでいて兄弟が下に2人。叔父叔母がある程度工面してくれてたみたいだけど、さすがにここの学校お金かかるからね。聞くところによると年100万は出てたみたい』
『フルートは母の形見とか言ってたな。お母さんの言いつけでどんな事があっても楽器だけは続けることっていうのがあって部活は入ってたらしい。本当の理由はよくしらないけど』
『あいつ、上手かったよなぁ。ロングトーンだけで聴惚れたからねぇ。……はだ最後まで一緒だと思ってたのにな。なんで、頼ってくれなかったんだろうな』




