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泣愛のトランペット  作者: kazuha
2章︰試験の罠
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一時的な

 帰り道、武蔵野線に乗り換えて横に大きく揺れると私はどこに行く宛もない怒りを隣にいる子にぶつけた。

「マジでなに!? 自分勝手すぎない!?」

 彼は眺め始めた化学の本から私に視線をずらした。

「アンサンブルのこと?」

「そうよ!」

 私の発言に笑顔で返す彼。

「まぁいいじゃん。オレは下山さんと一緒に吹けるってだけで嬉しいよ」

「そういう……っ!?」

 怒りの中の冷静さがその言葉の意味を理解すると頭に血が登った。いや、なんかものすごく恥ずかしい。

「だからそんなことよりもさ、勉強しないと」

 そう言ってまた視線を本に戻した。どうも、この子は苦手だ。小動物のような性格なのに、こういう所で頼りがいのある男性を演じられる。

 そういう所が、サックスっぽいっちゃぽい。

 そんなことを思いながら暗い車窓から彼の読む本へと視線を移した。

 共有電子対。その言葉を私は知っている。知っているだけじゃ解けない問題。それを知っていて問題を解いている人は何人いるのだろうか。少なからず、現状、私は知らなくても問題は解けると思っていた。大きな過ち。そう、あと2ヶ月もすればわかる過ち。


 自宅に帰ると9時は超えていた。空腹感が胃を痛めつけると共に既に用意されている食事に嗅覚が激しく反応した。溢れ出る唾液を飲み込めば直ぐにでも箸を持つ。

 一口食べれば、なんという祝福。このために生きていると言っても過言ではない。

 食も終われば寝支度。お風呂に入って、ヘアケア・スキンケア。パジャマ姿でココアを作れば、勉強の準備は完璧だ。

 部屋の明かりを点けてマグカップを机の定位置に置く。夜は暗記と決めている私は、それが多い生物の問題冊子と教科書を広げる。今日中にこれは解ききらなければ。

 数にして200問程度。一問一答のものや国家試験形式のものまで多種多様に並べられている問題を50過ぎたあたりでマグカップの中身がなくなった。

 急に押し寄せる眠気に壁掛けの時計を見た。

「12時……」

 ここまでで1時間。よくわからない問題を教科書から引っ張ってきたことも原因だろうがなんでこんなに時間が経っているのかわからなかった。

「くそぉ……、負けてられるか……」

 しっかりと乾かした髪をグシャグシャと、脳を覚醒させるために刺激を与えて再び問題を見る。

 それが昨日の最後の記憶だった。



 目が覚めたのは寒さからだった。もう5月だと言っても早朝は冷えた。

 眠い目を擦りながら窓の外を見る。正確な時間はわからないが、少なからずまだ夜中なのがわかった。真っ暗である。

「あーあ。寝ちゃってたか」

 立ち上がってベッドに潜る。これ以上やっても効率が悪いだけだろう。

 しかし、また寝ようとしてもなんだか頭が冴えていた。気だるい体とは別に、なんだか落ち着かなかった。

 SNSを開く。誰かと話がしたい気分だった。

 正確な時間は午前2時32分。こんな時間に誰かが起きているはずもなく、タイムラインにあるのはどれも2時間前程のものだった。

「あ、先輩愚痴ってる」

 東城先輩の最後の書き置きが、『漢方覚えられるか!』だった。なんだろう。入学早々だが、来年が怖くなってきた。

「今日の先輩何してたのかなぁ」

 なんて思って、先輩のタイムラインを遡っていく。

「あ、美味しそう」

 手作りしたカルボナーラを食べていた。自炊もしっかり出来てるんだなぁ。なんて思っていたら思ってもみないものが目に入った。

 寝巻き姿の美佳子先輩だった。

 先輩は自分の分だけしか撮っていないみたいだったが、そこにあった手鏡がしっかりと彼女を写しこんでいた。

 すっと電源を落とす。

「はぁ……。わかってるんだけどなぁ」

 先輩は私のものでは無い。それでも今あのふたりがひとつ屋根の下にいることが、とても卑猥でやるせなかった。別にそれは合法であるのに。

 布団にくるまり、もう1度ため息を吐いた。寝付けもしないテンションの中、寝なければならないと自己暗示をかける。ただひたすらに目を閉じて、呼吸するだけ。それだけで意外と身体は休まるようだった。

 ただ、このやり場のない気持ちが、段々と私を蝕んでいく。あの時みたいに。



 ヴィバルディの『春』。

 それが携帯のバイブルと共に朝を知らせる。

 高貴な方々の朝に相応しい起き方を毎朝している私。イメージだ。イメージでいいからそんな感じで朝を過ごしたかった。

「ちょっと待って……。私の携帯いじったの誰!!」

 アラームを消した途端に目に入ってきたありえない時間。それは、かなりギリギリな時間。

 疲弊している精神がここぞとばかりに憤慨して体を起こす。そこからの支度なんてお手の物だった。

 電車に乗ってひと安心する。この時間の電車なら余裕がもてた。

 だけど……。

「混んでるなぁ」

 1本。たった1本遅らせるだけで倍の混み方だ。座れないなんてもちろん、身動きが取れないなんて当たり前で、少し足を動かせば誰かの足を踏んでしまう、そんな状況だった。

 たった数駅。それだけでも地獄のようなものだった。

 溜め込んだ苛立ちを吐き出すように、雪崩出る人の中に私はいた。乗り換えなければ。

 無意味に続く階段を上り別のホームへ。

「はぁ、早起きは三文の得ってこういうことなのかなぁ」

 誰もいないことをいいことに、ついていない今日を全否定した。

 乗り換えれば空いているものだった。下り線だからだろうが、通勤ラッシュの時間でも座れる路線なんてなかなかないと思う。

 どこでもいいから座る。座らなければ、こんな重たい教科書なんて開けなかった。

 分からないところをとことん見つめる。朝は昨日の暗記した部分の復習にあてるつもりだったから。

 そんな感じで数駅行ったあとだった。

 隣に同じような教科書を広げている、知り合いを見つけたのは。


 早崎翔太。


 そう、彼だと気づくのに時間がかかるほど彼に見とれてしまった。普段のおちゃらけた彼からは想像出来ないほどの真剣な表情。気持ちの蟠りを取ってくれたようなそれに、なんとなく彼に触れてみたくなった。

 電車の中で眠ってしまい、隣の人の肩を借りるように。事故を装って。


 そう、一時的な気の過ちだ。


 一時的な……、そんなものでずっと私を振り回してる。

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