楽譜棚
曲ぎめは終わり、今日は解散の流れとなった。マチ先輩はレポートがあると帰り、黒田先輩は眠いと言って帰り、案外残りそうなアリス先輩は彼氏と待ち合わせしてると言うことで帰り、なんやかんや残ったのは私と東城先輩ともう1人のフルートの先輩だった。
「東城先輩は帰らなくていいんですか? レポートとか」
「あぁ、それはもう終わったからね」
なるほど、マチ先輩はサボったのか。見下した笑みを浮かべて先輩のやっている事を眺めていた。
ドア付近にある大きめの棚。その中には大量の分厚い茶封筒が入っていた。それらの間には「あ」や「か」などの札が刺さっており、あいうえお順に並べられている。ここまでしていてもなかなか見つからないのが、楽譜である。
「楽譜探してるんですか?」
「うん。決まった曲はだいたいあるやつだからさ。探しておいた方が楽だろ?」
先輩はた行を探している。アンコールとして決まったディスコキッドでも探しているのだろう。
「手伝いますか?」
「いや、楽器吹くために残ったんだろ? それなら吹いてていいよ」
そう言われるととても吹きにくいのだ。近くの椅子に座ってつまらなそうに椅子を回した。
そこで耳に入ったのはとても澄んだフルートの音色だった。
「……『エリーゼのために』」
二宮愛衣先輩は教本であろう本を譜面台に乗せてそれを吹いている。その音はやはり女性の楽器と言わんばかりに透き通った音色がただ辺りに響いている。
ただ、なにかが足りなかった。
「愛衣先輩。なにか悩んでるんですか?」
曲が終わると同時に私は口を出した。不安定な音程にテンポ、mallの部分だけ鬱々しく聞こえたのだ。
「なによ」
鋭い視線。キモから冷える狂気的な鋭さはさすがフルート女子といったところだろうか。
「いえ、特には……」
「ったく、あんたもそこの男と同じこと言うのね」
えっ?
視線を東城先輩に向けると、あははとバツが悪そうに笑っていた。
「アンタたち何者なのよ」
いきなり責められて思ったことを口にする。
「え? いや、普通の人……」
「普通の人は音を聞いただけじゃその人の感情なんてわからないわよ」
有無を言わせぬ言葉の雨。槍の様に降ってくるそれに私はどう返したらいいのかわからず視線を落とした。
「これだから、天才肌の人間は……」
そう呟いてフルートのマウスピースに口をつける。また吹きはじめるとその音は綺麗で、繊細で、緻密で、それでどこか悲しげで、疎ましげで……。
ただの一音なのに、それはあまりにも私の胸を痛めた。
「先輩……」
「まぁまぁ。とりあえず一緒に探そうか、楽譜。『story』がちょっと見つからなくてさ」
「あ、はい!」
先輩の隣に並び、AIの『story』を見つけるために茶封筒の森を漁る。2人並ぶこの場所はあまりにも狭くて、触れる肩の温もりだけでドキドキしているのはまだ私にその気持ちがあることで……。
いかんいかん。そんな不埒なことはしてはならぬ。
頭を横に振って『あ』の部分を探していると、それはそこにあった。
「あ、ありました」
茶封筒の森からそれをすくい上げると私は違和感を覚えた。
「あれ? 軽い」
楽譜は少なくてもA4で10枚は入っているはず。こんな重さではない。もっと指に力が入るはずだ。
「え? まさか……」
急いで中身を取り出す。何が足りないのか確認しようと思った瞬間だった。
「スコアだけだ……」
スコア。パートの譜面を全て並べて誰がどのようなタイミングで何を吹いているのかわかる、楽譜の王様。
それはまるで裸の王様の様に堂々と私の手の中で奏でろと呟いていた。
「うわぁ、こりゃやばいな」
全てのパートを並べて書いてあるスコアは1ページでは収まるわけでもなく、少なくても5ページ。多いと果てしない量がある。そんなもの楽器を吹きながらめくれるわけが無い。
「買う予算もないしな……」
「どうしますか? おこします? それとも曲変えますか?」
私の問いに東城先輩は悩みこんでしまった。譜面をおこすことくらいは朝飯前だが、何が問題かと言うと、この楽譜がM8であることである。
M8の楽譜はピアノ譜と思ってもらうとわかりやすい。高音域、低音域、リズムの3段形式で、誰が何を吹いているのかはざっと書いてある。
「おこすのなんてムリだろ。なら変えるしか……」
「いやよ」
私たちの答えを真っ向から否定したのは、愛衣先輩だった。
「それは絶対にやる」
有無を言わさない鋭い言葉に喉まででかかった言葉を飲んだ。
しかし、イライラした気持ちは消えず、別の言葉が口から出る。
「なら先輩が譜面おこしてくださいよ」
「おい! 友梨!」
東城先輩の怒鳴り声も今の私にはどうでもよかった。大体、嫌いなのだ。上手くもないのに先輩ってだけで威張り散らすやつのことが。
「ったく、しつけのなってない新入生だこと」
立ち上がり、剣幕を纏わせて私の目の前で止まる。
そしてガンをつけ怒気を孕んだ息を吐く。
「私はアンタみたいな子が嫌いだよ。やるから寄越しなさい!」
茶封筒を私からふんだくると、長い髪を舞わせて踵を返した。




