飲み会のあとの
気だるさ、気持ち悪さ、鼻に刺さるような異臭、寒さ、頭痛。
最悪の体調で目覚めた私。窓から差し込む陽の光がこれ程までに憂鬱を誘うとは思ってもいなかった。
まだ頭の中がグルグルする。体もまともに動いちゃくれないし、足なんてパンパンに腫れて痛い。
あぁ、これが二日酔いってやつか。出来れば動きたくない。このまま寝ていたい。けれど、トイレに行きたい。
そんなジレンマを壊すために私は起き上がる。こんな所で汚名をつけたくはなかった。
そんな時に気づいたのだ。
「━━━━ここどこ……!!?」
モダンな家具と狭い間取りは間違いなく私の家ではない。むしろ男性の部屋のような物の配置に、バカになった私の思考でも血の気の引くような結論を示す。
「え? お持ち帰りされた?」
布団がハラリと私の体から離れると嫌に開放感のある寒さが反射的に秘部を隠す。
「えっ! ちょっ!!」
裸だ。何もつけてない。服も、下着も。
相手は誰だ? 昨日は大丈夫だっけ? むしろ記憶無いのが嫌。
頭の中の私たちが口々に自己主張して、もはや頭の中が真っ白だった。
「起きたか?」
その声に素早く反応する。扉の奥で私を見ていたのは……、
「東城……先輩……?」
すぐに私から視線をそらした彼は指で頭を掻いた。
「ちょっと待ってろ」
そう言って扉を閉めた。
あの反応はなんだろうか。ケジメでもつけてくれるのだろうか。それはそれで私としては嬉しいことだけどさすがに早いっていうか、まだ心の準備が出来てないってか記憶がないのが惜しい。
「やっと起きたか友梨!」
少しだけ開いていた扉が勢いよく開たと思えば、それ以上の勢いで入ってきたのは遥香ちゃんだった。
「え? なに? 3P?」
「訳のわからないこと言ってないで、とりあえず風呂入りな。今あんた汚いから」
え? 汚い? もう訳がわからないよ。私の記憶がないときに何があったのか……。
遥香ちゃんにお風呂場を案内され、そのまま中に投げ込まれるように入れられて扉を閉められた。
「下着と服、ここ置いとくから洗い終わったら来てね」
なんだろう。扱いが雑だ。
仕方ないからシャワーを浴びる。髪もゴワゴワだ。誰のかわからないけどシャンプーもリンスも勝手に使わせてもらった。
洗い終わったから出てタオルで水気をとる。そして、私のしていたものじゃない味気のない無地の下着を身につけ、ダボダボのパーカーとどっかで見たことのあるジャージのズボンを履く。
なんとなくパーカーの匂いを嗅ぐ。臭くはない。どこかで嗅いだことのある匂いだ。思い出そうとすれば痛みが走る。
頭痛。アルコールが私の思考を邪魔する。
「次は絶対に飲まないぞ」
そんな宛にならない決意を固め、覚束無い足で遥香ちゃんのいる方へ行く。
そこには格闘ゲームで盛り上がるマチ先輩と遥香ちゃんがいた。それを見て虚ろな顔をしているのは川田先輩。机に突っ伏して寝てるのは斉木さん? 誰かの上着が被せてあって気持ちよさそうに寝ていた。
「え? 乱交?」
「……大丈夫か?」
近くで私の呟きを聞いていた東城先輩は呆れた顔をしていた。
「あ、いや、まだ酔いが!」
咄嗟につくろうがそんなの所詮言い訳程度にしかならなかった。
「まぁいいや。なん食うか?」
「いや、さすがに。気持ち悪いですし」
「いや、食わなきゃダメだ」
そう言って私の肩を叩いて部屋の中に入れた。それとすれ違うように先輩は廊下へ出ていく。
「お? ゲロゲロ少女! 起きたか!」
「その言い方は酷い!」
遥香ちゃんがマチ先輩の頭をひっぱたいた。痛そうに頭をさすりながらいがみ合うふたり。私の知らないところで何があったんだ? やけに仲が良いけど。
ってかゲロゲロ少女って? 汚い? 起きた時の異臭? え!!?
「え!? 私、吐いちゃったの!?」
思わず叫ぶとマチ先輩がニヤリと笑う。
「盛大に。拓哉の上で」
「だから!」
バチンという音と、テレビのKOと叫ぶ男性の声だけが部屋の中に響いた。
……。もう死にたい。
「大丈夫。始めはそんなものだから!」
遥香ちゃんがすぐにフォローに入る。
「駅の改札手前で盛大に」
「マチ、怒るぞ」
川田先輩がマチ先輩を睨みつける。
「ごめん」
猿山の猿のような謝りのポーズを颯爽と取る。なんだろう。手慣れすぎてて謝られた気がしない。
これは立ち直れない。記憶が無いだけマシなのか、そうでもないのかわからないほど落ち込んでいる。
「私は海賊王になる!」
急に発せられた叫び声。発信源はどうやら斉木さんの様だ。全員の視線を浴びてもなお寝ている彼女の顔はとても気持ちよさそうだった。
「またか。ずっとこうなんだよねぇ」
「どんどん作品が古くなってる気がする」
「さっきは心臓捧げてたしね」
はぁ、幸せそうで羨ましい。私ははやく消えてしまいたい。
憂鬱な気分に浸るとふと鼻を掠めるいい香り。
「なに立ってんだ? 早く座れよ友梨。 マチ! ゲーム片付けて! 朝ごはんにしよう」
振り返ればエプロン姿の先輩。どんな格好でもカッコイイし輝いて見える。色眼鏡なんて言葉があるのだけれど、この人にはそんなものなくてもそう見えた。
「お!? 拓哉特製のぉ?」
「今日はお茶漬け」
「いやっふーー!!」
お盆を、マチ先輩が荒々しく片付けた机の上に置く。人数分のお茶漬けから発せられる美味しそうな香りが湯気とともに私の胃袋に入り込む。急激に感じる空腹。
「ん……。美味しそう」
斉木さんが顔を上げて寝ぼけ眼で呟く。目を擦りその正体を見ると一番最初に口に入れる。
「ふぇー。落ち着くぅー」
他の人もどんどんと取っていき食べていく。
「ホントだ。先輩料理上手ですね」
「いやいや。お湯かけただけだよ」
先輩は遥香ちゃんの褒め言葉に照れながら返す。その流れでお盆に残ったふたつのお椀の内片方を取ると私に差し出した。
「友梨食べないのか?」
「あっ……」
慌てて手を出すと、むしろそれは遠ざかった。
「え?」
やっぱり……、怒ってる? よね……。だって、そんな酷いこと、したんだから。
また気分が海よりも深く深く落ち込んだ。それなのに私の瞳からは一切涙が出る気配がなかった。
「友梨には特別に」
そう言ってポケットから色鮮やかな粉が入った袋を取り出した。
「元気になる魔法を掛けてあげるよ」
その粉をお茶漬けの上にかける。赤、黄、緑と輝くそれは本当にお茶漬けに魔法が注がれているようだった。
「はい、召し上がれ」
再び差しだされたお椀。笑顔を向ける先輩の顔を見てからそれを両手で受け取った。
湯気から運ばれてくる香りはさっきの香りとは全く別だった。海の香り、山の香り、その両方が加わった様だった。
レンゲを手に取りすくい上げる。ご飯だけかと思ったが中からしっかりとほぐされた鮭が顔を出した。
レンゲの上に乗ったそれらは私の目の前に出た途端に私の体はそれを欲する。溢れ出す唾液はまだアルコールの臭いがした。それが嫌で勢いよく口に入れる。
熱くない。でも冷たくない。お茶の香りとご飯の硬さ、鮭の塩加減は絶妙。それだけでも十分なのに、この香りはなんだろう。魚介? 山菜? 様々な自然が私の口で手を繋いでいるようだった。
「美味しい……」
「それはよかった」
頭が痛いのも、気持ち悪いのも全て消えた。この一瞬、お茶漬けを通して私にも魔法をかけたようだ。
「あはぁー! 美味かった」
「よし、じゃぁ帰るか」
マチ先輩と川田先輩はほぼ同時に立ち上がると荷物を取った。
「お前らなぁ。これ目当てで来てるだろ」
「もち!」
東城先輩は大きく溜め息を吐いた。
「ほんじゃねぇ!」
「拓哉、ありがとう」
「気をつけろよ!」
玄関まで行って見送るとまた戻ってきた。
しかしながら、タイミング的には今帰るべきじゃないだろうか。これ以上ご迷惑掛けても……。
「私もここら辺で……」
「それは困る」
東城先輩がきっぱりと言う。手にかけた荷物から手を離して彼の顔を見ると本気で困っていた。しかしながらなぜそこまでして引き止める必要があるのだろうか。
そう思っていたら遥香ちゃんがフォローに入った。
「アンタの服、洗濯したばっかで乾いてないぞ」
それを聞いて悟った。
「あ、美佳子先輩……」
よくよく部屋を見ればあの人のものと思われる人形や2人の写真、私が見るだけでも2人の仲睦まじい世界がこの2LDKの中に構築されていた。
「……そうですよね」
その中に私が入るなんて誰の特にもならない。そう、誰の特にも。
「あ、先輩!」
手を叩いて座り直す遥香ちゃん。
「勉強! 何を頑張ればいいですか?」
何を聞いているんだこの人は。軽蔑のような目で彼女を見る。薬剤師になりたいのなら全部頑張ればいいに決まってる。
「そうだねぇ」
ちょっと間をあけるのかと思いきや次の言葉はすぐに飛んできた。
「機能形態だね」
機能形態。2回受けたが対して難しいとは思えない。自律神経系の話し。交感神経は戦闘状態で副交感神経はリラックス状態、そういう事だけなのに物凄い細かくやっているから困るものだ。
「どんな感じに勉強すればいいですか?」
「ん? そうだねぇ」
そう言って立ち上がり本棚に向かっていく。そこに入っていた大学ノートを取り出し、おもむろにページをめくり始める。
「参考になるかわからないけど、オレはこんな感じでやってたよ」
机の上に置かれたそれには脳の断面図が1ページを埋め尽くしていた。綺麗に色分けされていて部位ごとの名前が書いてある。大脳、中脳、小脳、橋、延髄、それだけじゃなかった。
「ウェルニッケ野?」
「まだやってないかな。かなり重要になるからね。ウェルニッケ野とブローカー野」
「これって1年でやってるんですか?」
思わず聞いてしまった。やっている事がとても高次なことに思えて急に焦り始めたのだ。
「そうだよ。多分前期だったはず」
「うそ! やばくね」
遥香ちゃんが私に同意を求めてくるが、それどころじゃない。滅茶苦茶やばい。
「あれ? 中間テストあるはずだけど大丈夫?」
「え? 聞いてないですよ!」
そういえばそんなこと言ってた。確かだった5月後半。
「やらないとやばいよ。機能形態、1発合格率4割だからね」
絶望だ。それが多いのか少ないのかと考えるより、いきなりの壁を登ることを考える方が優先だった。
「なんとかなるよ。交感神経と副交感神経をしっかりと覚えておけばね」
「よし! 明日からがんばる!」
「遥香ちゃん、それやらないやつ」
「そんなことないよ!」
明日の不安、今日の幸せ。
これから起こることはその繰り返しなのかもしれない。なんとなくそう思った。
私たちのやり取りをにこやかには見ている先輩はやっぱり私の好きな先輩だ。ずっと一緒にいたいし、音楽をやりたい。
「先輩、私吹奏楽入ります」
急のひと言に驚くのは先輩だけじゃなかった。それでも関係ない。決めたことなんだから。




