09.ジミー幽鬼と出会う
静かだと思った。いや、静かすぎると思った。
「どうしたジミー、さっきから全然ペンが進んでないぞ」
副官のチャックが、俺が書き終えた書類を確認しながら言ってきた。
「いや、妙に静かだと思ってな」
首を鳴らしながら、慣れない事務仕事で傷んできたこめかみを揉んだ。
「そりゃそうだろうさ、あの愛の伝道師メアリーがいないんだからね」
冗談めかしてチャックが言う。誰が愛の伝道師だ、アイツはただの変質者だろうが。
「今頃彼女、君のことで頭がいっぱいで、邸の人たちを困らせているんじゃないのかな」
容易に想像できるから困る。ジェイ侯爵家の使用人達は口うるさいが、結局はメアリーに甘いからな、あの馬鹿の妄言に振り回されている頃だろうか。いや、だが行き過ぎた場合はジェイ侯爵が咎めるだろう。
「あぁ、くそっ、頭がいてぇ。休憩だ、休憩」
ペンを放り投げて椅子に身を投げ出した。チャックが呆れ顔で俺を見てくる。
「もう音を上げるのか? それじゃあ、いつまでたっても書類が減らないぞ」
「書類仕事は文官共の仕事だろうが。あいつらが纏めたやつを俺が最後に決裁する形でいいじゃねぇか」
「だけど我々にしか分からない情報や装備に関しての確認などもあるからね、それは無理な話だよ」
「分かってんだよ、ちくしょう。あぁ、やめやめ! とにかく一旦休憩だ、お前も休め。俺はちょっと訓練所見てくる」
心なしか硬くなった気がする肩を回しながら、訓練所で適当な隊員を捕まえて打ち合いでもするかと考えながら、俺は席を立った。
「打ち合い訓練もいいが、あまり隊員を虐めるなよ? メアリーみたいにお前にいびられて喜ぶような奴は、そうそういないんだからな」
意地の悪い笑みを浮かべて言うチャックに、書き損じて丸めた書類を投げつけてから、俺は隊長室を後にした。
隊長室を出て訓練所へ向かっていると、その途中にある休憩所の床で人が倒れているのが視界に入った。
不審に思いつつ、どこか具合でも悪くてここで倒れているのかと近づくと、東棟ではあまり見ない白衣を着た黒髪の女がそこにいた。
「おい……あんた大丈夫か――」
「ああああああっ!」
奇声を上げながら、女がいきなり起き上がった。長い髪で顔が覆い尽くされている上に、異様な雄叫びを上げる女に、俺は少し引いた。
「おい、あんたこんな所で倒れこんで、どっか具合でも悪いのか?」
いくら奇妙な女とはいえ、放っておくのもどうかと思って話しかけると、女があり得ない角度まで首を曲げて俺を見返した。
「んー……んぅ? あれ、キミはジミーかね?」
「あぁ? そうだが……って、お前、パットか!」
心配して損をした。俺はさっさと立ち上がり、未だに床に座り込んだままの女を見下ろした。
「おい、なんで開発部のお前がこんな所にいるんだよ」
「あぁ、体が痛い……お腹すいた」
ゴソゴソと自分の服のポケットを漁り始めたパットは、全く俺の話しを聞いている様子がない。
「おい、お前――」
「ね、タバコ持ってない?」
「持ってねぇ。というか、ここは禁煙だ」
「残念、あぁ、もうしょうがないなぁ」
どっこらせいと、女が言うべきではない言葉を発しながらパットは立ち上がった。
「お前、なんでこんな所で倒れてたんだ?」
「んー? いやはや、開発していた物がようやく今朝、完成してね。それでお腹が空いたもんだから、何か食べに行こうと思って彷徨ってたら、眠気に勝てなくて眠ってしまったみたいなんだ」
「ちょっと待て、お前の研究室は西棟だろうが、なにをどうしたら兵舎のある東棟に辿り着くんだよ」
「人類の神秘だね。科学で解明できないことが、まだ沢山あるってわかったよ」
噛み合っているようで噛み合わない会話は、どことなくメアリーを彷彿とさせるが、理解不能なのは、圧倒的にパットの方が上だった。
「とにかく、こんなところで転がってたら迷惑だ、とっとと自分の場所に帰れ」
「相変わらず冷たいねぇ、ジミーは。昔はもう少し可愛げがあったような……いや、あんま変わんないな」
ヒィヒィと、奇妙な引き笑いが、長い前髪越しにチラチラと見える顔と相まって不気味だ。顔の造りは悪くないはずなのに、この女の挙動がいつも異様すぎて、男が寄り付かないのも俺は知っている。
「そうだ、折角だから一緒にご飯食べに行こうよ」
「断る。お前と飯なんか食ったら、飯が不味くなる」
はっきり断ると、パットは何が可笑しいのか、またヒィヒィと笑った。
「ま、いいや。じゃ、失礼するよ」
ふらふらと幽鬼のように休憩室を出て行くパットを見て、俺はなんとなく訓練所へと行く気が削がれ、仕方なく隊長室へと戻ることにしたのだった。