08.メアリー街に出る
私の嫌な予感は的中した。
「ずっとお会いしたかった、メアリー」
ホールで待ち構えていると、玄関から現れたのは予想通りというか、あのローレンス・アルバーンだった。
相変わらず無駄に顔が整っていて、所作も貴族らしく洗練されている。ただ如何せん、大仰すぎるのが疵だ。
「お久しぶりです、アルバーン様」
昨日丸一日、淑女の礼儀作法を特訓という名の拷問で復習させられた私は、いまや完璧に近い所作でお辞儀をした。
アルバーン様はきつく見えがちな薄いブルーの瞳を柔和に緩めると、側に近寄ってくると私の手を取って口付けてきた。
「今日はいつもに増してお美しい。美の女神も今の貴方には嫉妬してしまうでしょう」
掴まれた方の腕に鳥肌が立つ。反射的に空いている方の手で殴りつけたくなるのを、私は理性を総動員して抑えつけていた。
「お褒め頂き光栄ですわ。ですがこの私には過ぎたるお言葉と存じます」
今日私が美しく見えるのなら、それはメイドたちの手柄だろう。彼女達は昨日よりも更に力を入れて、私を必死に美しく見えるように着飾らせたのだから。お陰で体中が苦しくてたまらない。
「ご謙遜を! それよりも、どうか私のことはラリーとお呼びください」
この方は、会う度にこうして愛称で呼ぶことを強要するのだけど、正直呼ぶ気は全く無い。私が愛称を呼ぶのは、私が認めた人だけと決めているのだから。
「恐れ多いですわ、アルバーン様。それよりも今日はどういった御用でいらしたのですか?」
笑顔で話を逸らすと、アルバーン様は小さく首を傾げた。彼の柔らかな絹糸のような金色の髪が、ふわりと美しい顔にかかる。なるほど、王宮内で彼が人気なのも頷ける。
「お父上からは何もお聞きになっていないのですか?」
「えぇ、申し訳ございません。何分父も私も忙しい身でして……」
文官を下に見る気はないけれど、武官であり班を任されている私は他人が思う以上に忙しい。
それなのに、どうしてこんなどうでもいい事に時間を割かなくてはいけないのかしら、あぁ、ジェームズ隊長の馬鹿!
またもや心内でジェームズ隊長へと恨み言を呟いていると、父がホールに現れた。
「アルバーン殿、よくぞ参られた。今日はメアリーのために、わざわざ時間を作っていただき感謝する」
「ジェイ侯爵、お久しぶりです。今日はお招き頂き、ありがとうございます」
やっぱり! これはお父様が仕組んだことじゃないの!
私が邸に戻ってくるのをアルバーン様に言ったのが父だと確信した。
「さっそくですが、今日はとても天気がいいので、せっかくなので街で散歩などいかがでしょう」
アルバーン様が嬉しそうに尋ねてくる。ちらりと父を見遣れば、笑顔を浮かべたまま目だけで私に頷けと圧力をかけてくる。
「……そうですね。お父様、よろしいですか?」
「勿論だとも。だがメイドを一人連れて行くのを忘れないように」
「分かっております、お父様」
未婚の女性が男性と二人きりでいるのは外聞が悪い。でも男だらけの軍隊の中で暮らしている私は、既に外聞どころの騒ぎではないと思うのだけど、この辺りは父なりのこだわりなのだろう。
私は一度アルバーン様に辞去の礼をしてから自室に戻った。外出用のドレスに着替えなければいけない。
「お嬢様、やはりアルバーン様は素敵な方ですわね」
「そうかしら」
素っ気なく言い返すと、周りに居たメイドたちが一斉に私を非難した。
「お嬢様はアルバーン様のどこを見ればそのような感想を抱けるのですか! あれほど美しく洗練された紳士は、なかなかおりませんわ」
「えぇ、そうですとも。その上お嬢様が軍人でも嫌な顔をしない、貴重な紳士ですのよ?」
メイドたちが私を着替えさせながらいきり立つ。
「お嬢様、どうかアルバーン様のご機嫌を損ねるような振る舞いだけはお止め下さいね。あの方を逃してしまったら、お嬢様が孤独な未来を過ごすような気がして、わたくしたちも気が気でないのです」
暗に私が異性から好かれないのだと言われているようで、思わず顔を顰めてしまう。
「その様な顔をなさらないで下さいませお嬢様。笑顔、レディには笑顔が必須ですわ」
今年の流行だという羽飾りの付いた帽子を私の頭に被せながらメイドが注意してくる。
「頑張って下さいませ、お嬢様。くれぐれも――くれぐれも! 淑女としての振る舞いをお忘れなく」
メイドたちが一斉に縋るような視線を向けてくる。私は溜息を零しつつ、彼女たちの圧力に負けて頷き返してしまった。
そして普段よりもさらに気合の入ったメイドたちが、私をこれでもかと言うほどに着飾らせたあと、応接室で待つアルバーン様の元へと送り出したのだった。
ローレンス・アルバーン。書記官長補佐にして、伯爵でもある。しかし彼の父上は私の父と同じ侯爵であり、長男でもある彼は次期侯爵になるのは決定済みであった。
彼が私に対して急に接触を始めたのはいつだったか。私が班長に任命されてからだったような気がする。それまで私は彼の存在さえ名前くらいしか知らなかったし、興味もなかった。そもそもアルバーン様とは、これまで何の接点も持ったことがない。
それなのに、彼はある日突然、私の手を取って告げたのだ。「ずっとお慕いしていましたメアリー」と。
あの時のことを思い出すと、今でも頭が痛くなる。城内でも人通りの多い廊下で、しかもジェームズ隊長が隣に立っていた時のことだ。
混乱する私を置いて、ジェームズ隊長がさっさと先に行ってしまったのも、また悲しい思い出である。少しくらい、私を庇うとかなにかをしてくれても良かったのでは、なんて勝手に心のなかでジェームズ隊長に恨み言を言ったのも覚えている。
結局、それからだろうか。アルバーン様はことあるごとに、私に好きだのなんだのと告げてくる。おまけにそれらは全て、歯の浮くような台詞として吐き出されるのだ、不気味というか混乱するというか。
自己卑下するわけではないけれど、お世辞にも私は世のご令嬢方のような可憐さは持ちあわせてはいないのは自覚している。今日のように着飾れば、それなりに見られるけれど、私の内面にある女性にあるまじき獰猛性のようなものは、隠していても周囲には伝わっているはずだった。
だから私へ本当に思いを寄せてくれる男性など、多分いないのだと考えている。父の元に山程くる私への婚姻話は、たんに私が父の唯一の子供であり、その私が女であるからというだけの話しなのだ。要するに、将来自分がジェイ侯爵家の当主になりたいがために、私と婚姻を結びたいだけだ。
ではアルバーン様はどうだろうか。彼は将来私の父と同じ家格になるのは決まっているから、私の家の地位目当てではないはずだ。ならば女性としての私に惹かれて?
そこまで考えてふと笑みが零れる。それこそ最もありえないことだと。
「どうされました、メアリー」
向かいに座るアルバーン様が声をかけてくる。誰もが振り返るほどの美貌を持ち、地位もある男。貴方の目的は、いったい何なのかしら?
「いいえ、なんでもございません」
暫くするとアルバーン様が御者に合図した。それを受けて馬車が静かに道路の端に止まった。
「お手をどうぞ」
ごく自然な仕草で手を差し出され、私は思わず戸惑ってしまった。普段自分のことは自分でするという、兵士として当たり前の生活をしているものだから、こうして淑女のように扱われると困ってしまう。
「ありがとうございます……」
ぎこちなく微笑みながら、アルバーン様の手に自分の手を重ねた。すると彼は細身の外見に似合わず、思いの外しっかりとした力で私の腕を支えて馬車から降ろしてくれた。履き慣れていない踵の高い靴も相まって、なんとも不安定で居心地の悪い気持ちになった。
通りを二人で歩いていると、すれ違う度に通行人が私たちを振り返って見つめてくる。いえ、正確に言えばアルバーン様を見ているといった方が正しい。
だけどアルバーン様はそんな視線に慣れているのか、やはり熱心に私に話しかけてくるのだった。
「先日贈った薔薇はお気に召して頂けましたか?」
何かを期待するような顔で訪ねられる。私はなるべく平静を装って答えた。
「私には勿体無い贈り物です。ですが私は忙しい身ですのでなかなか世話ができなくて……」
先日貰った薔薇はジャムにできたから良かったけれど、貰うもの全てが食用にできるわけもなく。相手が相手だから、私はなるべく遠回しに贈り物は要らないと伝えたつもりだった。
けれどもアルバーン様は思慮深い顔付きで私に言ってきた。
「それはごもっともです。私が浅慮でした。ならばこうしましょう」
そう言うと、アルバーン様は私の手を取って、近くにあった宝石店へと誘った。
「これならば、枯れる心配もないでしょう?」
アルバーン様が店主に言って、ケースの中にあったサファイアが嵌っているネックレスを出させた。確かに、枯れる心配はないけれど、私が言いたかったのはそういう事じゃないのだけど……
「貴女の瞳の色に合っている。とても素敵ですよメアリー」
誰もが見惚れそうな笑顔でアルバーン様は言うが、私の特徴の無い薄灰色の瞳とサファイアでは、あまり合っているとは言い難い気がする。
どうして彼はここまで私を褒め称えようとするのだろう。異様ささえ感じてしまう。
自分のジェームズ隊長への想いは棚に上げて、私はそんなことを考えてしまった。
「私なんかにお気を使わないで下さいアルバーン様。それに私のような者が宝石など身につけても、宝の持ち腐れですから」
実際、兵士の私に宝石など無用の長物である。だけどアルバーン様は切なげに眉を寄せて、尚も言い募ってくる。
「毎日身に付けるのが難しいのは分かります。ですが休日などにこれを身につけてくだされば、私の貴女への想いも少しは報われるのです。駄目ですか?」
本当に分からない。そこまで私にする理由が、皆目見当がつかない。
ここにはいないジェームズ隊長の姿が脳裏に浮かぶ。私が宝石を身に着けている姿を彼が見たらどうなるだろう。きっと少し馬鹿にしたような顔で、こう言うはず――”似合わねぇ”
「……お気持ちはありがたいのですが、やはりこれは頂けません。アルバーン様はもうとっくにご存知でしょうが、私はジェームズ隊長が――」
「今は……今は私だけを見て下さい、どうか」
アルバーンの人差し指が、私の唇にそっと触れる。剣を握ってきた私の手よりも、余程綺麗な手だった。
「私が一方的に貴女へ何かしたくてお贈りする物です。受け取ってくださるだけで良いのです。これを貴女がどう扱おうが、それは問題では無いのです」
必死にアルバーン様が言い募る。そうしてアルバーン様が私の首に、サファイアの光る華奢なネックレスを着けた。
「ほら、やっぱり似合いますよメアリー」
嬉しそうに笑うその顔は、いつもの芝居がかった笑顔ではなく、まるで少年のような純粋な笑顔だった。
「ありがとうございます、アルバーン様」
根負けして私が言うと、途端にアルバーン様の顔が喜色に染まっていく。アルバーン様が店主と話している間、私はガラスの向こうの通りを行き交う人々を見ていた。日の傾き加減からして、警邏隊が巡回する時間のはずだった。リオン隊からも人員を貸し出す約束をしていたから、恐らく何人かが見廻りをしているだろう。ここに私がいるとはきっと誰も思いもしないはず。なにより、今の私を見ても、誰も私だと気付かないはずだ。我が家のメイドの腕は確かなのだから。
ちらりと店の前で待機するメイドを見ると、彼女は嬉しそうな顔で私を見てくる。気不味くなって視線を外したその先に、私は見慣れた黒髪を見つけてしまった。
「ジェームズ隊長……?」
人混みのなかにあっても直ぐに分かる私は異常なのだろうか。いえ、もともとジェームズ隊長は私の父に近いほどの体躯の持ち主なのだ、目立つのは当たり前だった。
どうしてこんな所にいるのだろうと訝しんで見ていると、ジェームズ隊長の隣にもう一つ黒髪を見つける。長めの艶やかな黒髪をゆるく結んだだけのその人は、私が見たことのない女性。
二人は私のいる店の前を通り過ぎていく。反射的に私は店の外へと飛び出していた。
「お嬢様?」
ドアの横にいたメイドが不思議そうに尋ねてくる。私がメイドへと視線を向けたその間に、ジェームズ隊長と女性の姿はあっという間に遠くへと行ってしまう。
どうして、ジェームズ隊長がこんな所に? 隣りにいる女性は誰?
疑問と不安が胸の中で渦巻いていく。もたもたしている間に、二人の姿が人混みに紛れて見えなくなってしまった。
私は咄嗟に走り出していた。動きにくいドレスと歩きにくい靴に苛立ちながら、それでも彼らの後を追った。
「お嬢様!」
メイドの叫び声が聞こえたけれど、返事をする余裕も振り返ることもできず、私は消えてしまったジェームズ隊長の後ろ姿を必死に探した。
通行人が私を見て怪訝な視線を向けてくるけれど、それどころではない。懸命に人の波をかき分けて進んでいる私の視界の隅に、見慣れた黒髪を見つけた。
「ジェームズ隊長……」
今度こそ見失わないようにと、私は人をかき分け必死に脚を動かした。あぁ、もうこれだからドレスも踵の高い靴も嫌いなのよ!
いつもよりも動きの鈍い私は、あっという間にジェームズ隊長に引き離される。そのせいで、再び彼を見失ってしまった。
「もう! いったいどこなの……」
はしたないと分かっていても私はドレスの裾を持ち上げたまま小走りで通りを彷徨う。周りを見回せば、飲食店が多く立ち並ぶ通りに出てきてしまっていた。昼時というのが災いして、ここも人でごった返している。
暫くうろうろと辺りを見回していると、背後から突然声を掛けられた。
「メアリー! 探しましたよ、いったいどうされたのですか?」
振り向くと、アルバーン様が息を切らせながら私に近づいてきている。そこではたと我に返った私は、自分のしでかした事に気付いて狼狽えた。彼の背後から遅れて私のメイドがやってきていて、その顔が困惑と怒りに満ちているのを目にした私は、しまったという思いでいっぱいになった。これは後で父に報告され、さらに父からお叱りを受けることが確定したようなものだった。
「あの……私なんと申し上げれば良いか……」
よい言い訳はないかと必死に頭を巡らせている間にも、無意識に私の視線は辺りを見回しては彼の姿を探している。そして――
「あっ」
小さく声を上げてしまった私にアルバーン様が声をかけてくるけれど、私の視線はあるものに釘付けだった。
カフェのガラス越しに、見慣れた黒髪を見つけた。そして彼の前に座る同じような黒髪の女性。病的なまでに白い肌に艶やかな黒髪、その顔は横からしか見えなくとも美しく整ったものだと分かるし、黒っぽい服の胸元は私よりもはるかに豊かに盛り上がっている。
ドクドクと耳の奥で鼓動の音がする。足元まで血の気が引くような、嫌な感覚がした。
「メアリー、どうしたのですか。どこか具合でも?」
アルバーン様が心配そうに尋ねてくる。早く返事をしなければ、だから目を逸らすのよメアリー!
だけど私はその光景から目を逸らすことができなかった。なぜなら、滅多に笑わないジェームズ隊長が、黒髪の女性に対して笑いかけていたからだった。
「あの、私……少し気分が悪くて」
口から出てきた声は、酷く掠れていた。息が苦しいのは、コルセットのせいだけじゃない。
「申し訳ございませんが、邸に戻ってもよろしいでしょうか?」
情けなくも微かに震える声で言う私の顔を、アルバーン様が覗き込んでくる。
「真っ青ですよメアリー。今すぐ戻りましょう」
私を気遣って肩を抱くようにして歩き出すアルバーン様に申し訳なく思いながら、私はもう一度、カフェの方へと振り返った。一瞬だけ、ジェームズ隊長と目が合ったような気がしたけれど、これだけの人混みの中で私を見つけること自体が難しい上に、今の私は自分でも誰だと思わずにはいられない格好をしているのだから、きっと気のせいだと思った。自分がそうであって欲しいと願ったから、そう見えたのだろう。
私はアルバーン様とメイドに支えられるようにして馬車のある場所まで戻ると、そのまま邸へと戻ったのだった。