11.メアリーの悩み
あれからどうやって邸へと戻ってきたのか、はっきりとした記憶が無いまま、気付けば私は自室のソファーにぼんやりと座っていた。
あの女性は誰なのかしら。城勤めをしているのかもしれないけれど、私は見かけたことがない。
ふとジェームズ隊長の笑顔が脳裏に蘇る。いつも眉間に皺を寄せて、私を見下ろす深い茶色の瞳。彼が笑う姿を目にしたのは、もう何年前だったか。
キリキリと鳩尾が痛んだ。分かっていたはずだけれど、いざこうして実際に目にすると、予想以上に傷付いている自分がいる。いつも見ないふりをしてきたけれど、私は貴族で彼は平民。リオン隊の中にいると、そんな当たり前のことを忘れられるから、私は目を逸らし続けてきた。
――知っている。ジェームズ隊長が私をどう思っているのかも。
彼にとって私は、きっと手のかかる部下であり、妹のような存在。
私よりも先にこの邸を出て、軍に身を置いた彼を追って、同じように私が軍に入隊した時だって、彼は怒りと呆れの入り混じった顔で私を諌めた。同時に、仕方のないやつだという顔をして。それはまるで兄が妹を心配するような、決して女として見ている様子はなかった。
いつだって彼は貴族に対して一線を引いてきた。それは私が相手でも例外ではない。そんなこと、小さな頃から分かっていたはずなのに。
「……どうして、こんなにも苦しいのかしら」
ぎゅっと拳を握りしめ、胸元に寄せる。オルカ隊のセシリアを相手にするときは、こんな想いをしたことがなかった。だって彼女も私と同じ貴族で、心の何処かでジェームズ隊長に、相手にされるはずがないと安心していたから。嫌な女だわ、私って。
「――お嬢様、旦那様がお呼びです」
扉をノックした後にメイドがそう声をかけてきた。
「分かったわ、すぐに参りますとお伝えして」
ソファーから立ち上がり、私は姿見の前へと立った。平均的な女性の身長よりもいくらか高い背、ドレスで隠れているけれど、鍛え上げた身体は女性特有の柔らかさが少ない。それに成長を拒否してしまった私の胸。顔もよくも悪くもない平凡な造りだし、髪の色も印象に残らない茶色。
それに比べて、カフェで見たあの女性はどうだった? いささか顔色は悪かったけれど、日に焼けたことのないような白い肌に艶やかな黒い髪。華奢だけれども女性らしい丸みの帯びた身体つき。服を盛り上げるような豊かな胸元は、私とはまるで違う女性というものを体現していた。
ジェームズ隊長が笑いかける女性。きっと貴族ではなく平民の女性。
鏡の中の私を見つめ返すと、酷く虚ろな目をしていた。なんて酷い顔をしているのかしら。
パチンと音を立てて両頬を掌で抑える。父は見かけによらず、人の機微にとても敏感だ。げんに私がアルバーン様に連れられて直ぐに邸へと戻ってきた時、気分が悪いと言っても私を探るような目で見てきた。
意を決して私は部屋を出て父の書斎に向かった。
「失礼しますお父様。メアリーです」
中から入りなさい、と父の声が聞こえてきた。私は扉を開けて中へと入っていった。
「メアリー、気分はどうだね。メイドたちも心配していたぞ」
「はい、だいぶ良くなりました。アルバーン様にも申し訳ないことをしてしまいました」
書斎机の向こうから私を見つめる父の瞳は、油断なく鋭かった。それもそうだろう、前日にあれだけ会うことを渋ったのだ、父はきっと私がアルバーン様と一緒にいるのが嫌になって、理由をつけて邸に戻ったと思っているのだろう。でも今は訂正する気も起きず、私は父の誤解を解かずにいた。
「彼も心配していたよ。お前の具合が悪いのに気付かず連れ回して申し訳なかったと、何度も謝っていたぞ」
普段の大袈裟で芝居がかった彼の姿しか見ていなかった私は、その言葉を意外に思ってしまった。同時に、いつも素っ気ない態度を取っていた自分を恥じた。
「アルバーン様には直ぐにでもお詫びの手紙をお送りし、後日改めてお詫びを申し上げに参ります」
「いやいや、それなら明後日にでもその機会が訪れるぞメアリー」
「明後日ですか?」
具体的な日数に私が怪訝な顔をすると、父はにこりと含みのある笑みを浮かべた。
「じつは明後日、国王陛下主催の舞踏会があるのだ」
「舞踏会ですか? この次期に?」
私の言わんとしていることを即座に理解したのだろう父は、意味ありげに右手で顎を擦りながら言った。
「今だからこそ、とも言えるな。ゾルオーネ公国に我が王国が、戦争で消耗していないというアピールにもなるからな」
ゾルオーネ公国を収める大公は戦上手で有名だ。そのせいで戦力差がある我がバレーディア王国と長年に渡り戦争を続けているのである。嫌がらせのように進軍を繰り返しては、機を見計らって撤退を繰り返すという先方を幾度も続けてきたのがゾルオーネ公国である。こちら側から公国へと進軍しようとしても、公国を守るようにそびえ立つ山脈が邪魔をして、なかなか決定打を下せないのが現状なのである。本当に厭らしい国なのだ。
「しかしお父様、国境付近に展開している部隊や民のことを考えれば、そのような事……」
王都にいる者達は未だ危機感が湧かないだろうが、公国とほど近い場所に住む人々の事を思えば、舞踏会などと言って騒ぐ気になれない。
「お前の気持ちはよく分かる。だが、すでに決定済みのことだ。それにお前はこの舞踏会に私の名代として出席することになっている」
「なんですって?」
唖然とする私を他所に、父はどんどん話を進める。
「勿論アルバーンも出席する。お前は彼にエスコートして貰う予定だ。これは彼からの申し出てもあるからな」
「き、聞いておりませんわ、お父様!」
「言っていたはずだったが、お前が聞いていなかっただけではないのかメアリー」
とぼけた顔で言い放つ父を睨みつけた所で、幾多の戦場を乗り越えてきた歴戦の戦士でもある父には通用しない。本当に、なんて狸親父なのかしら。いえ、どちらかと言うと、熊といった方が正しい容貌だけれど。
「とにかく、これは既に決まっていることだ。お前も舞踏会に備えて、ダンスの復習でもしておきなさい」
言うことだけ言うと、父はもう用は済んだとばかりに、机の上に広げられたままの書類に目を通し始めた。私は怒りのままに立ち上がると、足音を抑えることもできずにバタバタと父の書斎を後にした。そして直ぐに待機していた執事に捕まり、淡々と「ダンスの復習をいたしますので、こちらにお出で下さい」と有無を言わさず大広間へと連れて行かれ、待ち構えていたダンスの教師とメイドに囲まれて逃げ出すことすら出来なくなってしまった。なぜだろう、この既視感は。
そのせいで、あれだけ思い悩んでいたジェームズ隊長のことも、強制的に頭の隅に追いやるしかなかったので、ある意味助かったといえば助かったのかもしれなかった。