10.ジェームズ街に出る
翌日、俺は減らない書類に辟易し、小言を言うチャックを置いて、また訓練所へと赴いた。だが、その途中にある休憩所で、再びパットに出会ってしまった。
「おい、ここは禁煙だと言ったはずだぞ」
「んぅ? そうだっけ」
だらしなくソファに凭れながら、紫煙をくゆらせるパットに頬が引きつる。
「そもそも、なんでお前がまたここにいるんだ。仕事はどうした」
「昨日言ったじゃないか、一段落したと。それを言うなら、キミこそ仕事はどうした? リオン隊はそんなに暇な部隊だったっけ」
一々癪に障る女だ。俺は不機嫌を隠さず、パットの向かい側のソファに音を立てて座り込んだ。
「やだなー、本当に君は怒りっぽい男だ。そんなんじゃあ、オンナノコにモテないよ」
ヒィヒィと笑いながら、パットは煙を吐き出した。俺は顔を顰めて手で煙を追い払った。
「そうだ、キミも暇そうだし、今日こそ一緒に食事に行こうよ。いい気分転換になるよ」
貧乏臭くフィルターギリギリまで煙を吸い込みながら、パットが俺を見て言った。
「チャックも一緒に連れて行くならいいぞ」
「いいよー、何人でもオッケィさ。食事は大勢で取るほうが美味しいからね」
ついに持ち手までタバコを吸ったパットは、名残惜しそうにタバコを床へと放り投げ、つま先でそれを踏み消した。
「おい」
「あ、ごめんごめん。ヒヒッ、つい癖でね」
頭を掻き毟りながら、床に放り出したタバコの吸い殻を拾うパットを見た俺は、だらしのない女だと思った。
脂ぎった髪は適当に結っただけといった風だし、服もあちこちよれていて、白衣もそこらじゅうによく分からない汚れが付着している。メアリーは変態で馬鹿だが、この辺りは意外ときっちりしている女だと改めて認識したが、ふと一々メアリーと比較している自分に驚いた。
「どうしたんだい? わたしの美しさに驚いたような顔をして」
「お前が兵士だったら、問答無用で殴ってるところだ」
メアリーが相手なら、気兼ねなくあの胡桃色の頭を叩いているところだが、パットは腹立たしいことに兵士ではない。
「ヒィーッヒッ、このわたしを殴ってもし脳に損傷でも与えたら、人類の損失となってしまうよジミー」
「お前一人がいなくなって困るようなら、人類も大したことないってことだな」
皮肉で返せばパットは一層引き笑いを大きくする。まるで森の奥で大釜を掻き混ぜる魔女のようだった。
「それじゃ、わたしは一旦研究室に戻って金を取ってくるよ。あ、キミが奢ってくれるならここにいるが」
「てめぇの分はてめぇで払え」
「ケチだねぇ、ますますオンナノコにモテないよジミー」
パットがソファから立ち上がる。俺も立ち上がり、休憩所を出ていこうとした。
「チャックを誘ったら直ぐに城門に向かう。お前も早く来いよ。遅かったら先に行ってるからな」
「酷いねぇ、待つという気がないのが、実に酷い」
「うるせぇ、早く行って来い」
パットを追い立てた俺は、再び隊長室へと戻った。
「おいチャック、昼飯を外で食うが、お前も一緒に来ないか? ちなみにパットも一緒だ」
書類から顔を上げると、チャックはしばし思案した後言った。
「いや、俺はここで昼食を摂るよ。二人で気兼ねなく行って来い」
「……お前、パットが来るから来ねぇとかいうんじゃないだろうな」
「まさか、そんなわけないよ、ははっ」
嘘くさい笑顔で笑うチャックに、図星かと思ったが、無理して誘う必要もないと思って俺は引いた。あまりしつこく誘って機嫌を損ねると、書類仕事が増えるだけだと判断したからだ。
隊長室を一人で出て、俺は城門へと向かった。途中、訓練所に寄って各班の報告を聞いた。
「驚くほど静かですよ、隊長」
ダニーが気の抜けたような顔で俺に言った。
「なんていうか、下の奴らもなんとなく気がそぞろというか、張り合いがないというか」
言われて部下たちを見ると、メアリーが班長をする第一班の奴らの動きが、普段よりも鈍い気がした。
「あんなんでも、やっぱ班長なんスよねぇ」
メアリーがこの場にいたら、確実に鳩尾に一発食らっている様なことをダニーが言う。他班の奴らも第一班ほどではないにしろ、訓練所内の静か過ぎる空気にいささか違和感を覚えているようだった。
「お前が今はメアリーの代わりなんだ、感心してねぇで、しっかりと下の奴らを鍛えておけ」
「了解したッス、ジェームズ隊長殿」
気のない敬礼をし、ダニーが隊員たちの中へと戻っていく。他の班の様子も見て回ったが、概ねダニーの様な腑抜けた返答ばかりだった。
たかだか班長一人がいないだけでこの体たらく。些かの不安も感じたが、逆にあいつが居れば士気の底上げができるという事でもある。普段は喧しく鬱陶しいだけのメアリーだが、存外隊員たちに好かれているのを感じて、俺は不思議な面持ちになったのだった。
「今、城でも街でも人気なカフェがあるんだが、そこへ行こう」
パットと共に、俺は久しぶりに街へと下りていた。下っ端の頃は警備隊と一緒に、よく町の巡回任務に駆り出されたが、今では仲間と飲みに行く以外、ほとんど来ることは無くなっていた。
パットに先導されながら、昔よりも賑やかになった商店街を歩いた――とにかく歩いた。
「……おい、お前いつになったら、そのカフェに着くんだよ」
「んぅ? おっかしいね、たしかこっちだったはずなんだけどな?」
忘れていた、コイツはあり得ないほどの方向音痴だった。昨日休憩所で倒れていたのも、よく考えたらそれが原因のはずだ。
「どこら辺にあるんだ。店の名前は?」
「えっと、確か……なんだったかな」
こいつに任せた俺が馬鹿だった。俺は近くにあったカフェへと足を向けた。
「ちょっと、どこに行くんだ? その店じゃないよ」
「うるせぇ、お前に任せてたら日が暮れちまう。食いもんのある店だったらなんでも良いんだよ」
「なんだよー、折角街まで来たのに勿体無いなぁ」
ブツブツと文句を垂れるパットを無視し、俺はカフェの中に入った。昼飯時だからか、結構繁盛しているようで、空いている席が殆ど無かった。
「あ、あの窓際の席が開いてるよ」
パットが時折人にぶつかりながら、ふらふらと窓際へと歩いて行く。俺もその後に続いた。
「うむ、それでは何を注文しようか」
席に着くなりパットがメニューを睨みつけた。俺は店員を捕まえ、コーヒーとサンドイッチを注文した。
「なにそれ、メニューも見ないで決めるとか、キミはこの店のメニューを考えた人を侮辱しているのかね?」
「知るか馬鹿。とっととお前も注文しろ」
「これだから、早食いが普通の軍人はイヤだねぇ」
パットが生白い手を上げて店員を捕まえる。そしてコーヒーにパンケーキとワッフル、ブラウニーにベリーのクランブル、とどめにチョコレートアイスを注文していた。
「お前の注文聞いただけで、吐き気がしそうだ」
「吐くならどこかに行ってからにしてくれよ」
本気とも冗談とも分からない表情でパットは言いつつ、上着のポケットからタバコを取り出した。
「お前は飯を食い終わるまで、吸うのを我慢出来ねぇのか」
「わたしの頭脳は、常にタバコと甘味を必要としているのだよ、ジミー」
タバコに火を着けながら、パットは頭の悪そうなことを言った。これだからコイツと飯を食うのが嫌なんだ。
うんざりして窓の外を見ていると、さっそく俺の分が運ばれてきた。
「ところで、近々また小競り合いが起きそうなのかい?」
パットが煙を吐き出しながら聞いてきた。
「さあな。上の連中は何とか、そうならないようにしたがっているが、まぁ無理だろうな」
サンドイッチに齧り付きながら俺は答えた。
「キミ達としては、願ったり叶ったりじゃないのかね? 戦争がなくなると、キミ達軍人はすることが無くなってしまうからねぇ」
笑いながらパットがタバコを吸う。
「そういうお前らのほうこそ、ワケの分からねぇ物を研究し続けられるのは、俺たちが使う武器や兵器の開発に乗じているお陰だろうが。あぁ?」
笑い返してやると、パットの笑みが一層深くなる。暫くの間、俺たちは笑い合っていた。内心、酷く不愉快だったが。
その異様な空気を打ち破ったのは、店員が持ってきたパットのパンケーキやコーヒーだった。
「おお、きたきた。ふぅん、これはなかなか美味しそうだ」
さっそくコーヒーに砂糖を何杯もぶち込むパットを横目に、俺はふと窓の外を見遣り、そして固まった。
なんでそいつと居るんだ――真っ先に頭に浮かんだ言葉はそれだった。
通りを歩く人の波の中に見慣れた胡桃色の頭を見つけ、同時にその隣に立ついけ好かない男の姿を目に留め、俺の思考は一瞬停止した。
メアリーだった。だがいつものメアリーではなかった。薄緑のドレスを着込み、髪を複雑に結い上げ、いつもコロコロと表情を変えるその顔は、よく出来た人形のように化粧を施されていた。
そのメアリーの隣に立つのは、いつもいつも王宮で俺に嫌味を言ってくる、あのローレンス・アルバーン。ヤツの男としては頼りない手が、メアリーの肩を抱き寄せ、その顔を覗き込んでいる。
「ジミー、おいジミー」
俺を呼ぶパットの声にはたと我に返る。怪訝そうな顔で俺を見るパットと目が合った。
「今にも人を殺しそうな顔をして、いったいどうしたんだい?」
「どうもしねぇ」
そっけなく返せば、パットは過剰にシロップが掛かったパンケーキを口に運んだ。俺も黙って残りのサンドイッチを片付けていく。
もう一度窓の外を見ると、そこにはもうメアリーの姿は無かった。通りを見回しても、どこにも見当たらない。まるで夢のなかの光景のようだったが、あれはどう見てもメアリー以外の何者でも無かった。
どうにも気分が悪く、俺は飯を食い終わると、パットを置いて先に城に戻ることにした。パットはまた文句を言っていたが、知ったことか。
人ごみの中を歩きながら、俺は脳みそにこびり付いた光景を振り払うのに躍起になっていた。