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Short Story

作者: しろきつね

拙いですが…。

辺鄙な位置取りに、その店は構えている。


二年前にできた、カフェである。初めは誰も見向きもしなかった。

こざっぱりとした外観で、入っても特に普通のカフェとはさして変わらない、ごく凡庸な店だったから。

髪をシンプルに束ねた20代の女性が、男性と一緒に切り盛りしている。

女性はいつもにこにこしていて、愛想がいい。

元和裁士という異色の経歴を持つ彼女の腕にはコテの跡がいくつもあり、苦労をうかがわせた。

「やっちゃうんです、しょっちゅう。儲からないんでやめたんですけどね」


そんなごく目立たない、これといって印象の無いカフェに、人気が出たのは、ここ二週間ほど前のこと。

アルバイトに、イケメンの男性が働くようになったからだった。12月に入り、ストーブやヒーターを置いて、温まりに来る客も多い中、数多くのカフェの中でこの店を選択するきっかけが、彼だということもある。

30代の落ち着いた雰囲気の彼。にこにこと笑うこともなく、緊張した面持ちでカップをテーブルに置いては、「一緒に写真撮ってください」という客からの要望に応えている。

彼はただ、苦笑していた。


そんな彼を目で追うようになったのは、私――狩宮沙紀かりみや さきも同じだった。

私は、人に笑いかけるのが苦手だ。昔からそう。


「あの…これ」

「はい」


ある日、カフェラテを持ってきた彼に、私はプレゼントを渡した。マフラーが入っている、箱である。


「いいんですか?頂いて」

明らかに困惑する彼に、私は顔を赤らめた。


声が出ずに頷くだけの私に、彼は優しく笑ってくれた。


「ありがとうございます」


彼の笑顔が嬉しくて、私はそれからほとんど毎日のようにその店に顔を出すようになった。


彼はいつも、きびきびと仕事をこなしていて。時折、飲食店のようにしびれるような声で「いらっしゃいませ」と言う姿が、なんとも可愛らしかった。


「彼女、いらっしゃるんですか?」


仕事帰り、カフェに寄ると、客の二人組が彼に訊いているのが聞こえた。

メニューを目で追っていると、その声は鮮明になる。

「いえ…まぁ…」

彼はそう言って誤魔化していた。



それから数日くらい経った頃のことだった。

私はついに、目撃してしまう。


トイレを探して店の外に出ると、回り道をして、いつの間にか裏通りの専用駐車場に来てしまった。

「あれ、こっちじゃなかったのかな…」


どうやら、方向を間違えたらしい。

回り道をする形で店へと戻ろうと、踵を返す。すると――誰かの声が聞こえた。


「うん…順調…」


誰かの話す声だった。

顔をひょい、と壁際から覗かせた。名前を、雄一郎さん。

いつもの彼が、駐車場で電話していた。


「美紀…心配すんなって。俺、ぜってー今度のデートは、時間守るから」


染み込むような笑顔で、彼は電話していた。見たこともない、笑顔だった。

落胆した。とても重い何かが体を落とすように、私は脱力する。

――彼女、いたんだ。

「はぁ…」

まぁ、夢を見ていた、そんなところだろうか。現実問題、彼とどうこうなろうなんて烏滸がましいのかもしれない。


落胆して店に戻ると、店員の礒江さんが声をかけてきた。


「どうしたんです?」

彼女は、ここのマスター、小百合さん。抹茶色のエプロンをして、髪を結った人である。特に器量がいいというわけでもないが、仕事熱心な人だ。


「いえ…」


私は手を振った。


12月12日。


私はこの日のことをよく覚えている。


ガッシャン!


陶器が粉砕する音が響いて、私だけでなく客がみな音のした方を見た。

「小百合!お前…またかっ」

旦那さんの敦也さんが声を荒げている。

このところ、カップを落とすことが多い、彼女。私もこれで食器が割れる音は二回も聞いたことになる。

「すみません…」

彼女はどこか、考え事をしているようだった。


私は気になって、彼女を休憩時間の正午、店の外へと連れ出した。

「小百合さん、何か悩みでもあるんですか?」

彼女は、口を結んでためらっていた。

「言ってください、私、秘密は守りますから」

彼女は、少し嬉しげな顔をした。

「ありがとう」

そう言うと、彼女は首を振った。何でもないの、そう言って立ちあがる。

「気にしてくれて、嬉しいです。ありがとう、大丈夫だから」


去って行く彼女を、見ていると、私は一つ溜息を洩らした。


でも、彼女が一体何を悩んでいたのか、私は知ることになる。


彼は、どこまでも人を見ていると思った。

雄一郎さんは、気立てがよく、心配りができる人だ。見ていて分かる。

それはきっと、彼女も気づいていたのだろう。


「これ…」

客が少なくなってきた時間帯、彼女小百合さんに彼が、声をかけているのを私はテーブルで見かけた。平日のこの時間帯、客は数人しかいなかった。しかも、彼らはおしゃべりに夢中である。

彼は、小百合さんにカップを差し出している。中に入っているのはカフェラテだろう。作っている彼の姿がみえたから。

彼女はどうやら試作段階のカフェラテの味見をしているらしかった。彼は、カップを彼女に手渡していた。

「はい、できたてですから熱いですけど…」

彼はもう一つのカップを口に運ぶ。

「どうです?」

「はい…美味しいです」

私は気づいた。

思わず、あ、と言いそうになって唇を噛んだ。彼女は、彼と目を合わせようとはしなかった。ただ、彼が喋るのを聞いている。

そんな彼女を見て、彼は微笑んだ。

「大丈夫です、彼…旦那さんは来ませんよ」

彼は、彼女を見ながらカフェラテをまた一口飲んだ。彼女は、恥ずかし気に、口元に笑みを作った。

そうして、彼は彼女の貌の横に貌を寄せた。そうして、耳元で何かを囁いた。

「…――」

そうして、笑う。

彼女は、視線を下げると、困ったように笑った。




私はそれから、彼女と彼を、目で追うようになった。

――不倫……なのだろうか。

私はそう、考えていた。

彼は、暇さえあれば彼女を遠くから見つめている。私は、彼、旦那さんがこないか、ひやひやしていた。

よく出来た旦那さんで、ちょっとだけ小太り。でも温厚そうな印象で、いつもお客さんに丁寧な接客をしているのを感じ取れる。

私は毎日そんな旦那さんと、二人を見ていると、やがて彼、雄一郎さんの灰汁を見とがめるようになっていた。

彼は優しい。そして、どこかプレイボーイだった。


二人の関係を疑ってから5日後。私は、来店したとあるお客さんを見つめていた。清楚そうな、髪をカールした美人さん。彼女の傍に、カウンターへと腰かけると、彼、雄一郎さんは彼女と楽し気に話し出した。

「雄ちゃんは、そう思うかもしれないけどさ…」

綺麗にネイルをした彼女は、彼に言った。

この日は雨の日で、客の出入りはまばらだった。小百合さんの旦那さんはおらず、小百合さんも、見当たらない。私は唯一の客だった。

「結やんは、そそっかしいんだよ…」

彼が言うのが聞こえた。

そうして、会話を探るように顔を上げる私は、はたと彼を見上げた。すると――。

彼女と軽くキスしているのが見えて、私は思わず顔を伏せた。

――見ちゃった…。

私は、驚いて、カフェラテを慌てて飲んだ。

ゴクッ

そうして立ち上がると、私は慌てるように会計口に向かった。

パタパタパタ…。

彼もすぐに来た。

「お会計480円になります」

彼が言って、私は小銭を受け皿に出すと、彼を上目遣いに警戒して見上げた。すると、彼は気づいたのか、にこりと微笑んだ。

プレイボーイだ。

そう、彼は魅力がある。笑顔。とても彼はこのはにかんだ笑顔がよく似合うのである。ムカつくほどに。

私が凝視しているのに気づいたのか、彼はキョトンとした。

「…何か?」

私は慌てて出て行った。




この店に通い続けて4週間とちょっと。

カウンターから左寄りのテーブルで私は、メモ帳にあるイラストを描いていた。


小百合さん、雄一郎さん、結さん、旦那さん、の構図である。余計なことかもしれないが、私はこの4人の先々が気になっていた。

小百合さんは、これからどうするのだろうか、彼に色目を使われ、旦那さんから心が離れて。その色目を使った本人には二股をかけられて。

「最っ低…」

そう呟いて、私は雄一郎、結と描いた場所に黒いハートを描いた。


「いらっしゃいませー」

彼は、相変わらずどの女性客にも色目を使っていた。

にこにこと笑う姿が、苛立たしい。この日は、珍しく小百合さん、雄一郎さん、旦那さん三人がそろって接客をしていた。

雄一郎さん、とテーブルから黄色い歓声が上がる。彼は、にこりと、笑みを向けていた。

私は、気の毒に思い、その視線をそのまま旦那さんに向けた。すると、彼はどこか拗ねた目で、彼を見ていた。

え、と私は旦那さんを見た。彼はすぐに仕事に戻った。


私は堪らず、雄一郎さんを呼び出した。小百合さん、旦那さんが職場にいる、この忙しい午後の時間帯である。それでも雄一郎さんは、迷惑気な貌は見せなかった。

「何ですか?話って」

「私、あなたのこと好きだったのに…笑顔が似会う人そうそういないから、私もあなたみたいになりたいなって思ってたのに」

私は振り返ると、眉を吊り上げた。

「もう、止めた方が良いと、思いますよ」

へ、と彼はプレイボーイな貌を、下した。

「小百合さんにこれ以上近づかないほうがいいと思います。旦那さんもいらっしゃるんですよ?なのに不倫して…」

すると、彼は私に近寄った。どんどん一歩一歩近づき、すぐ目の前まで顔を近づける。

「…っ!…」

何ですか、とも声が出ず、私は彼を見上げた。

彼は、まっすぐ、私の目を見つめてくる。そうして――。

ドン!

後ろの壁を叩く。


「俺が…怖い?」


そして、彼は私の背中の壁、私の貌の横を、またドンッと叩いた。

頭の中が、真っ白になる。

ふふふと、薄気味悪く、彼は一人笑った。刺すような目つきで私を見下ろした。


「大丈夫だよ?何もしない」


そうして、彼は私の耳元で、何かを囁いた。


私は、彼を見たまま動けなくなった。彼は気が済んだのか、私にまた笑みを見せると、「じゃ、仕事あるんで」と言って店内に戻っていった。


私は、その場に脱力し、小百合さんのあの困った顔を思い出していた。そうして、私は、きっと同じことを言われていたのだ、と初めてそこで悟った。


――「いつも、見てるから」。




彼女はきっと、何か弱みを握られている。私はそこで初めて、自分が何か勘違いをしているのだと気づいた。


私は、その日から数日かけて悩み、あることを始めた。私にも、何か小百合さんを救う手立てがあるだろう、と。

必死にテーブルで手紙を書いていた。


――小百合さんの旦那さんへ。


突然のお手紙失礼いたします。

私は、客の一人で、狩宮沙紀といいます。

小百合さんは今、とても大変な窮地に立たれていらっしゃいます。

どんなことかは分かりませんが、一緒に働かれている雄一郎さんと言う方に、恫喝をされているようなのです。助けてはいただけないでしょうか。お願いいたします。


その紙を、私は彼、旦那さんに渡しに行った。

「はい、何でしょう」

「これ、読んでください、ぜひ。一人の時に…」


翌日。店に行くと、そこには、旦那さんの姿しかなかった。

「今日は…小百合さんは?」

私は彼に訊いた。彼は複雑な貌をして、答えてはくれなかった。その代わり、手紙を一通差し出してきた。

「これ、お返事です。外ででも読んでください。でも、恥ずかしいので誰にも見せないでください」

私は怪訝に思ったが、言われた通り、独りで見るために、店の裏、駐車場まで出向いた。


――お手紙、ご連絡、ありがとうございました。

妻に尋ねたところ、心配はいらない、とのことでした。

誤解を招くようなことは慎めとも言っておきましたので、よろしくお願いいたします。



「はぁ…」

何だかあいまいな表現にいまいちしっくりとは来なかったが。その時だった。

「沙紀さんっ!」

声が聞こえて、私は顔を上げた。

そこには、バケツを持った小百合さんの姿。彼女は、私に思いっきり水をぶっかけた。

「…っ!!」

私は瞳孔を開いて目を見開いた。真冬、極寒の中、全身がびしょぬれになる。

「何であんな手紙書いたんですかっ!」

彼女は泣き顔でそう言ってバケツを捨てた。

カンカンとバケツが地面に転がる。

でもそんなことよりも彼女の左頬に目が行く。

小さい、赤いアザができていたのだ。

「それ…」

指さした私に、彼女は泣き顔で言った。

「昨日!主人に咎められて殴られたんです!分かります?これ!痣です!痣!」

彼女は、言って眉を下げた。

「何で放っておいてくれなかったんですか!…せっかく…せっかくあの人に…」

恋をしていたのに、そう言おうとしているのが分かって、沙紀は目を泳がせた。

「ごめんなさい…私…」

ただ、謝るしかなかった。

「もう、遅いですよ…」

彼女は呟いた。道路に自動車が走る排気ガスの音が聞こえた。

そうして、私に彼女は近づいた。

顔を上げた時だった。

突然、激しい痛みが全身を巡って。私は、視界を真っ赤に染めた。


「ぁぁ!!」


痛みとともに、私は強い衝撃を受けた。

気づくと、倒れていた。駐車場の横、積もってよけられた雪の上に、私は雄一郎さんに押し倒されていた。


彼は、ばたばたと何かを私に掛けていた。――雪だった。必死に私の体に雪を掛けて、炎を消そうとしている。掛けながら、灯油の染み込んだジャケットを脱がせると、雪に、まるで私を埋めるようにして、雪に包んだ。

それからのことは覚えてはいない。

救急車が呼ばれて、私は東都高度総合医療専門センターに運ばれた。



「どうして、どうして本当のことを言ってあげなかったんですか!」

沙紀の母、早苗が雄一郎に詰め寄った。夕方、病院の受付の前、「手術中」の点灯が灯るドアの前、警察官の二人と、看護師、そして小百合と雄一郎、医師が早苗に問い詰められていた。

放心状態の小百合。その手首には、手錠がはめられている。

「何もしないと思ったんです…」

雄一郎は答えた。

「あの子が!…あの子がこんなもの書いてたら、普通気づくでしょう!」

そう言って、早苗は4人の名前と黒いハートマークが書かれた手帖を雄一郎に突き出した。

「…」

雄一郎は、ただただ目を泳がせていた。



その日の夜中、雪が降った。二日ぶりのことだった。牡丹雪が、窓の外で揺れる。


ピンコン…ピン…コン…

心拍数を告げる機械の音を、雄一郎はただ、見つめていた。徹底的に管理された室内で、キャップを被り、ビニールの衣装を着けて、沙紀の手を握る。


―――「あの…これ」

プレゼントを渡してきた沙紀。

笑顔が見えた気がして、雄一郎は沙紀の手を握った。


両手と肘、首と右肩、左ももと左側腹部、左耳と左の髪の毛。

雄一郎が小百合が灯油をかけた時を目撃して駆け寄り、ライターで火をつける直前に、雪の上に押し倒したのが、不幸中の奇跡的な幸いだった。貌と頭は、彼女が驚いて手でよけたためか、灯油はほとんどかぶらなかった。火傷は、2度の程度だった。

今は麻酔で眠っている。


「…もう帰ってください」

母、早苗は怒気を込めた声でそう言った。

雄一郎は振り返ると、黙って頷いた。そうして、沙紀を振り向く。

「また、きますね」

そう短く言うと、滅菌室を出て行った。




カシュ


病院内の自動販売機の前で、雄一郎は早苗が言った言葉を頭の中で反芻させていた。


「どうして、本当のことを言ってあげなかったんですか!」


雄一郎はコーヒーを口に含んだ。


そもそもの始まりは、小百合だった。


彼女の働くカフェで、雄一郎は、刑事の勘を働かせていた。

「こんにちは、コーヒーいただけますか?」

小百合に訊くと、彼女は笑顔で頷いた。

「少々お待ちくださいね」


しばらくして出てきたのは、香ばしい香りのするブラウンのコーヒー。雄一郎は一口飲んだ。そうして、彼女の首を見つめる。彼女の首には切り傷があった。

「おいしいですか?」

彼女は尋ねてきた。

雄一郎は頷く。

「おいしかったです、ぜひ、また頂きますね」

そう言うと、カウンターから立ち上がる。そうして見ると、彼女は片付ける為にカップに手を伸ばす。その手を待っていたかのように、彼はその手を掴んだ。

「…な…なんですか?」

彼女は不意を突かれたようだった。

「これ、和裁じゃない、ですよね?」

彼は尋ねた。元、和裁士だった時に付いたという、コテの跡。腕は古い跡がたくさんついていた。

「…」

彼女は黙る。

「話してください、僕はこういう傷、たくさん見てきてるんですよ」

「…え?」

困惑した顔をした彼女に、雄一郎は警察手帳を見せる。

「でも、他の人には内緒ですよ?」

笑った顔に、小百合は暗い顔で笑んで返した。



それから全てを知り、雄一郎は小百合の店でアルバイトとして働き始めた。

全ては―――旦那を監視するために。


朝、自宅のリビングのソファーで目を覚ますと、雄一郎は、昨夜の悪夢を思い出した。

自分でまいてしまった、沙紀の不幸。

申し訳なさといたたまれなさで、顔を両手で拭った。

顔を洗う。洗面所で、顔を洗うと、洗面所の台に腰かけ、はぁ、と溜息をついた。

「何で…何でこんなことになった…」

タオルをゴミ箱に放ると、立ち上がった。



「どうです?」

あの時私は尋ねた。

「はい…美味しいです」

彼女は、私と目を合わせようとはしなかった。ただ、私が喋るのを聞いている。決して旦那さんに刑事がいることを悟られてはならない、そう思っているのだろう。

だが、当然ながら彼女と私は不倫関係ではない。何も怯える必要はないのだ。これこそ、DV被害者の特徴だった。

そんな彼女を見て、彼は微笑んだ。

「大丈夫です、彼…旦那さんは来ませんよ」

私は、彼女を見ながらカフェラテをまた一口飲んだ。彼女は、恥ずかし気に、口元に笑みを作った。不安なのだろうか。彼女のその表情を見て、私は思った。

そうして、おもむろに彼女の貌の横に貌を寄せた。そうして、耳元で囁く。

――「いつも私が彼を見てますから、心配ないですよ」。

そうして、笑う。

――「監視してますからね…」

彼女は、視線を下げると、困ったように笑った。

心配なのだろう。気持ちはわかる。




医療センターに面会を申し出たが、母親は拒んだ。

仕方なく、小百合のいなくなったカフェに向かった。入ると、そこはまるで針の筵のような視線が雄一郎を迎えた。


誰ももう、彼を黄色い視線では見てはいなかった。

構わず、カウンターに座る。

旦那さんはいなかった。

雄一郎は、ポケットから紙を出すと、何かを書き始める。


沙紀さんのお母さまへ――。


その時、背後から感じた強烈な痛みに、雄一郎は振り返った。

悲鳴が飛ぶ。


「沙紀!気づいた…」

母、早苗は、沙紀の手を握った。

沙紀は、透明なマスクをして、呟く。

「お母さん…痛い…」

その声に、早苗はにこりと微笑んだ。

「大丈夫、すぐに麻酔で痛みが取れるから…」



雄一郎は、必死にあがいていた。旦那さんが、包丁で自分を刺してきたこと。そればかりか、まだ、刺そうとしていること。必死に叩きつけて、抵抗する。彼は包丁を持ち変え、また狙ってくる。その手を、私は限りの力ではたいた。すると――。








2年後――。


沙紀は、一つのお墓の前にいた。まだ、体がぎこちなくしかうごかない。首と耳は、スキンバンクの移植を受けて、ほとんどわからないほど火傷は治った。


お墓に、ユリの花を供える。

――糸田。

そう書かれた、お墓だった。


バスを乗り継ぎ、また別の場所へと向かう。

あの、カフェだった。

あの事件以来、PTSDを発症し、治るまでは行くまいと決めていた場所。

そのドアを開ける。客は二人しかいなかった。

カウンターの向こうを見る。いたのは、雄一郎さん一人だけ。


小百合は収監され、旦那さんは――亡くなった。


「こんにちは…」

私は思い切って声に出した。彼は、ぎこちなく笑ってくれた。



―――お母さま。

担当医師は尋ねた。

「シチリーレルは、ほとんどリスクはないんです、投与されてはいかがですか?」

シチリーレルとは、火傷の組織修復を促進する新薬である。しかし、30パーセントの割合で、麻痺が残る可能性があるという。

「娘は、女の子です…麻痺は辞めてください…お願いします」

引かない母。医師は、渋々「…そう言われるのでしたら…まぁ」と頷いた。早苗は、ハンカチを握っていた。

その手元には、一通の手紙と、丸坊主になった雄一郎が映った写真があった。




「カフェラテ…一つ頂けますか?」

私、沙紀は彼に尋ねた。

彼、雄一郎は微笑んだ。

「沙紀さんはいつもカフェラテですね」

「はい」

沙紀は久しぶりに彼に笑顔を向けた。


少しして、彼は私の前にカップを出した。カフェラテである。それを一口飲んで、私は体がぽかぽかと温まって行った。そうしていると、懐かしく、言葉が口から突いて出た。

「警察官…だったんですね、雄一郎さん」

彼は、どかこか一瞬ためらってから頷いて見せた。

「何にもわかってなかった…私」

呟いた私に、彼は答えてくれた。

「あんな態度しておいて、そう思えって方が無理ですよ」

声は笑っていたが、顔を見上げると、その貌はシビアだった。

「旦那さん…亡くなってたんですね」

「えぇ」

早苗から、二人がもみあいになり、旦那さんが首を切ったことが致命傷になったと聞いていた。正当防衛だったらしい。雄一郎さんは一命をとりとめた。


「そういえば…一つ…」

私はそのことを口にした。

「気になってることがあるんですが」

「何ですか?」

彼はグラスを布巾で拭きながら顔を上げた。

「何て書いてたんですか?」

「え?」

早苗に、沙紀の母に当てた手紙である。シチリーレル投与を辞めてほしい、と雄一郎が、丸坊主になってまで撮った写真。それを、覚悟として、彼の意見を聞いてほしいというものだった。

果たして、その内容はなんだったのか。私は知らなかった。

母も、どうしてか、教えてはくれない。

――何故だろう。なんて書いてあったんだろう。


――何でそんな丸坊主になってまで、シチリーレルの投与を拒んでくれたんだろう。



彼を見つめていたが、彼は何かを思い当たったような顔をしたかと思えば、私の顔を見た。

「――そ、れは…」

「それは?」

私は反復した。

しかし、彼は言わなかった。

「忘れました」

「は?」

「いや…思い出したような気がしたんですけど…なにぶん、嫌な思い出だったので…それに――」

ドンッと彼はカウンターを叩いた。

私の顔を睨みつける。

「用済んだなら、さっさと帰れよ」

ふん、とどこか、小馬鹿にしたような顔をして。私はこめかみに青筋を浮かべた。

―――だが。

「はっ…そんな手にはもう乗りませんよ」

私は言ってやった。

「なーにが“俺が…怖いか?”はー?」

すると、彼は顔をひきつらせた。

「“いつも、見てるから”はー?そんなんが格好つけて怖いと思うとでも思ってんの?」

「いや…でも、あなた怖がってましたよ?」

上げ足を取られて、私は顔を引きつらせた。

「いいですよ、教えてくれないなら、くれないで」

いじけてカウンターに突っ伏して寝ると、鼻がこそばゆくなる。見上げると、彼がタンポポの花で私の鼻をこそばしていた。




沙紀さんのお母様さまへ――。


シチリーレルの投与、お聞きしました。言葉少なからずで、沙紀さんを苦しめていたこと、お詫びいたします。

先ほど私は、丸坊主にしました。私の本気を分かって頂きたくてしました。この写真を証拠としてお渡しします。沙紀さんは恥ずかしながら、私に良い印象を受けてくださっていたようです。シチリーレルは神経を麻痺させると聞きました。投与、考え直して頂ければと思います。



「なにすんですかっ!」

私が怯むと、彼は笑ってくれた。




私、あなたのこと好きだったのに…笑顔が似会う人そうそういないから、私もあなたみたいになりたいなって思ってたのに。


――彼女が笑顔でいたいといってくれたのです。彼女の貌から笑顔が消えるのが、私は怖いのです。彼女の笑顔を、残してあげてください。



ありがとうございました。

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