セカイが躍動した瞬間
「おお、見よ、自然の雄大な懐を───」
───全くもって退屈だ。
スペシードの詩の暗唱なんて、本当につまらないんだ。特にこの『コスモズ』は意味ありげな言葉を並べているだけで深みのない、きっとスぺシードが食いつなぎに嫌々書いた詩なんだろうと(彼は、読んでる方の顔が真っ赤になるくらい恥ずかしい恋のポエムばっか書いてるからね!)、当時から長い長い時間の経った現代の僕でも分かる。村の皆は―――たぶん目の前に居る役人二人も―――このことを知らないけど。
「───。空の色が太陽と同様で在りし時───」
気づいたら、暗唱を始めた時よりも、随分と多くの傍観者が集まっていた。多分、村人全員、もれなく職場放棄で揃っているだろう。オレンジの入った重たい籠を背負ったままで、この平和な(つまりはつまらない)村に突如湧き出た刺激に釘付けだ。
仕事しろ。僕は心の中で強く思った。家畜業・農業以外にこの村に取り柄なんてないんだから。
僕の正面には妹のセシルが、伯母さんの三歩後ろに立って、こっちを見ていた。なんだか不安そうな顔持ちだ。
心配しなくとも、セシルが僕の人差し指くらいの背っころだったとき、よく詩を読んでやってたんだぜ。スペシードの詩なんて楽に決まってるだろ。
「ああ、なんとまあ光輝いているのだろ───」
ずっと見ていたらふと目が合ったので、ニヤリと笑ってやった。
でも目の前の国の役人に睨まれたから、直ぐに顔をまた仏頂面に戻して暗唱を続けた。
「───、そして世界は躍動を覚えた、まるで呼吸するように───しかし、───」
───こいつら、本当に聞いているのか?
話している僕ですら眠くなっているのに、こいつらからは何の感情も伺えない。
じっと僕を見て、たまに何かを確認するように手元の資料をペラペラとめくる。
第一、これに意味はあるのか?
本当なら今ごろ、三件先に住んでるタイトと川でメダカを捕っているはずだったのに!
僕が悶々とくすぶっているのに、この村の時間はただゆっくりと穏やかに、風と共に流れていく。
ほんの少しサクラの匂いが混ざった、暖かな風だった。
どこかでカラスがひとつ鳴いた。なぜか、そのカラスはきっと幸せだろうとぼんやり思った。
「ー木の幹に耳を当て、ただすませ、世界の音に、聞け、」
「もういい、もういい、止め止め!」
───ちくしょう!ここからが良いとこなのに!!
これだからお役所仕事はダメなんだ。お役所仕事はどういうものか知らないが。
役人はまた手元の資料室めくると、いかにも厳格な雰囲気を醸し出す低い声で言った。
「もう一度確認するが、名前はアーサー・ユースクリッド、これで間違いないな?」
「いえ、ユークリッドです」
何故か睨まれた。
仕方がないだろう、ユースクリッドじゃないんだから!
「では、最後に、」
話している方とは違う方の役人が、上質なまき紙を広げて、僕に見せてきた。
顔面にこれでもかと近づけられ、逆に読みずらかったが、なんとか確認できた。
「『全ては王のために』───これでいいでしょうか?」
「よろしい。これで試験は終わりだ」
───試験だなんて初めて聞いたぞ!
人をいきなり捕まえて、説明もせずに暗唱をさせることが試験だなんて、おてんと様も気付かないよ!
とにかく、保護者と話がしたいと言われ、僕は真っ先に伯母さんを指差した(伯母さんは可哀想なくらい飛び上がって驚いた)。
伯母さんが変に上ずった声で役人と話している間に、僕はセシルの元へ行こうと思い立った。たった一人の家族。僕と同じ深青色の目の妹は、人混みよりも少し離れた場所にいた。クスノキに寄り掛かって、やはりさっきみたいに不安そうにしていた。しかし、僕の姿を目の端に認めると黄色の花が開くように微笑んだ。そしていかにも「私は怒っています!」と言いたげに、握りこんだ手を腰に添えた。その頃にはもう野次馬どもは、国の役人に目を付けられる前にいそいそと持ち場に帰っていった後だった。
「───セシル」
「お兄ちゃん、これはどういうことなの?タイトがカンカンだったわよ!約束より役人を選んだのかって」
セシルはそう言いながら、くすんだ金髪をふわふわと揺らした。
そんなことを言われたって、僕だってまだ状況を飲み込めていないのに。
半ば諦めの溜め息と共に答えた。
「よく分からないんだ。───本当さ!」
セシルが全く信じていない様子なので、急いで付け足した。
「ただ、何かの試験らしいんだ」
「試験?何の?」
「だから、それが分かったら苦労はしないよ。タイトには明日にでも謝りに行く。でもあいつ、僕が諳んじてたとき、似合わねーって大笑いしてたよ……もうこの話は止めよう。伯母さんも、話が終わったみたいだぜ」
伯母さんが向こうからズンズンと歩いてきた(ズンズンって、本当にズンズンとなんだ!)
早く家に帰れ、さっさと、と言われ、セシルが慌てて言った。
「ごめんなさい。このあと、友達と会う約束をしているんです。夕暮れ前には必ず戻ります。」
「……早くしな」
たっぷりと時間をおいて、セシルにまるで言葉を浸み込ませていくように余韻をもたせてそう言い、叔母さんは丘の向こうの家に帰って行った。
「きっと、役人に訛りを馬鹿にされたに違いないよ!北から来た田舎者だとすぐに分かるもの」
「しっ!お兄ちゃん、ダメでしょ!」
セシルは僕のほうを見て、いい加減学んで!と軽く目を尖らせて言い、そしてまた不安そうに顔を曇らせた。
とにかく、と前置きしてため息をついた。(つきたいのは僕のほうだよと、言いかけたが止めておいた。学んだからだ!)
「どうして国の役人がお兄ちゃんに会いにきたのかしら。都市からこの村までは山を二つは越えなきゃいけないのに…」
「さあね。税金の平等な分け方も分からないバカな役人の考えることなんて、さっぱりだよ」
そう言いつつ僕は本当は、正確な役人が来た理由は分からなかったけど、薄々予想はしていた。きっとセシルも勘付いているんだろう。
二人とも何も言わずに、クスノキの葉と葉が擦れあう音と共に沈黙を連れて行かせた。山と山の間にある僕らの村には風がよく吹く。小さい時から風の音が好きだった。僕がまだ見たことがない沢山の人の間、理路整然とした街並みを通ってきた風は、僕の髪をふわりと上に舞い上げる。そんな優しい風はクスノキの葉を散らし、空を緑色にした。僕もセシルも、それに見入っているふりをしていた。先にしびれを切らしたのはセシルの方だった。
「お兄ちゃんが唯一、文字を読めるからでしょう」
アーサーの第一歩です。
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