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始発が動く時間まで

今現在、自分の考える「愛」の形とはこういうものかと。

 始発が動く時間まで。

 駅前のファーストフード店は夜の熱を放出させ尽くして、魂も半分以上抜けかけたような人達がぼんやりとストローを咥えていたりする。

 ガラス張りの壁にはセットメニューの価格や店のロゴなどがテープで貼られていて、その向こうに透けて見える空は不思議な薄青色をしている。夜の明け切らない不安定な空の色。夜の明け切れない、心細い光の色。

 一睡もせずにひとつの夜を明かした、白目を充血させながらふたりは向き合う。すっかり溶けた氷が薄めてしまったコーラ。冷えて妙な温度になっているコーヒー。しなびたポテト。意味もなく丸められたティッシュ。

 抱いて欲しい、と女は言った。

 一度だけ。

 それですべてを忘れるから。

 無理な我儘を言わないで下さい、と男は困った顔をした。

 一度だけで済むはずがない。

 そこからすべてが始まってしまうから。

 なにかを諦めたような、叶わない夢の尻尾を追いかけ続けているような、そんな空気が店内には満ちている。ふたりとも言葉は身体のどこにも残っていなかった。言葉は絡み合ってどこにもたどり着くことなく消えることもできずにただそこにあった。 

 抱いて欲しいと言って自分を抱かなかった男はいない。露骨な上目遣い、胸を強調する服、どこからでもつけこめるようにわざと作った隙。下唇を舐めて舌先を覗かせる。後腐れなんてない。大抵の男は一度交わればそれで満足する。殺してでも自分だけのものにしたい男なんて、きっとこの世には存在しない。

 なのに、この男にだけはそれが通用しない。

 手に入らないものはどうしてもこう、欲しくて欲しくてたまらない気持ちにさせられるのだろう。身悶える。自分自身を抱きしめるように腕を背中に回して、そのままねじれてしまいそうになるくらい。

 抱いて欲しいと言われて、ここまで躊躇したことはない。面倒くさそうな女ではない、嫌いなタイプではない、むしろ今まで知ってきた女の中でも極上に分類される代物だと思われる。女は唇を見れば分かる。目は嘘を吐く。言葉も嘘に彩られる。けれど唇だけは本当のことしか言えない。本当に欲しいものの前では、唇がやたらとつややかに潤う。物欲しそうになる。後腐れなく女を抱く術なんていくらでも知っている。

 どうしてこの女は抱きたくないんだろう。

 いや、本当は抱きたい。自分のものを突っ込んで滅茶苦茶にしたい、ものすごく丁寧に愛撫したい、髪を撫でて唇を重ねたい、夜の隙間にすっぽりとふたりで収まってしまいたい。

 だけどこの女は抱きたくない。

 きっと抱いたら、自分は今までのすべてを捨てたくなる。この女とどこまでも落ちてしまいたくなる。もしくは、昇ってしまいたくなる。

 分かってる。勘だ。それは、足の指、足の底、そこからびりびりと走って身体中を巡る微粒の電流みたいなもの。

 男の伏せた目を、まつげの意外と長いメガネの向こうの目を見て女はかすれたため息を吐く。

 愛しいというのはこの胸を重苦しく締め付ける、スモーキーピンクのどんよりとした想いなのだろうか。そんなものを感じたことは今までない、のに。

 女のため息に男は顔を上げる。くたびれた顔から化粧は半分失われ、鼻の頭が完全に無防備になっている。なんだか泣きたい気持ちだ。やさしくしたい。この女に。甘やかしたい。この女を。だけどできない。自分にその資格はないような気がして。

 ふたりが繋がってしまったら、天井知らずの幸福か、地の果てを知ることのない不幸しかない。きっと。

 女が唇を微かに開く。

 言葉は喉よりもっと奥で、もうすでに枯渇している。

 男はけれどその言葉をじっと待つ。

 意味もないのに。

 女を喜ばせてやることは、できないというのに。

 意地ではなく。

 ただそこにふたりはたたずむ。

 出会ってしまった幸せ、出会ってしまった不幸。

 愛の言葉としての「殺して」。そんなものが、まさかこの世に、自分達の人生に、存在してしまうとは。殺してもらった方が楽になれるほどの恋心なんて。そんな、ものは。

 始発が動く時間まで。 

 ふたりに残された時間は、ほとんどない。

 女は抱かれたい。そんなわずかな時間の中で、祈るようにそれだけを思う。

 男は抱きたくない。なのに自分達に残された時間が少ないことに、ひどく動揺している。

 愛してる、の言葉は必要ない。

 そんなものならいくらでも交わした。

 そんなものなら、いくらでも交わせる。

 欲しいのは現実としての身体のつながり。

 欲しいのは、身体のつながりなど通り越した先にある心。

 男と女の望みは交差しない。それなのにお互いを想う気持ちだけは天秤で確実につりあっている。意味のないつりあい。本当はどちらかの愛がほんの少しでも少ないか、多ければふたりはただの幸せな恋人同士になれるはずなのに。

 女の唇が嘘を吐けずにいる。

 男の視線には愛しさがあざやかにあふれている。

 始発が動く時間まで。

 淋しいカラス達がゴミをあさるように、誰かがこの心を引っ掻き回せばいいのに。次第に明けてゆく空の色のように、ゆっくりと、けれど確実に心の色が変わればいいのに。

 始発が動く時間まで。

 ふたりはよどんだ空気の店内にただたたずむ。ぐったりとしたポテトと共に。ベコベコになった紙のコップと共に。

 気を抜いたら泣き出してしまいそうな、互いへの恋心を抱いて。

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