片桐さんと駅のホーム
プルルルルル――――
プラットホームに発車のときを告げるベルがけたたましく鳴り響く。何故電車のベルは、こんなにも人を突き刺すような、追い立てるような、金切り声で喚きたてるのだろう。普段なら考えもしないような、そんな苛立ちが私の心を満たしてゆく。そしてまた私はおなかの苦痛に耐えられなくなり、階段の途中に座り込んだ。
「お願いします、誰か。誰か、助けてください。子供が、私の赤ちゃんが生まれそうなんです」
何度目かの呼びかけ。しかし、そんな私の悲痛な叫び声に立ち止まって手を差し伸べてくれる人は、誰一人としていない。皆、この列車に乗り遅れまいと、うずくまる私の前を早足に駆け上がって行く。そんなにこの電車に乗ることが大事なのだろうか。朝のラッシュアワーで急いでいるのは私にもわかる。しかし、ここに身重で苦しんでいる人間が助けを求めているのに、それを無視してまで急がなくてはならない理由がどこにあるのだろうか。この一本を逃したとしても、次の電車が入ってくるまでたったの5分。その5分の時間すらも惜しいのだろうか。
私は、うずくまった姿勢のままで通り過ぎる人々を見上げる。
時間を気にするサラリーマン。
ギターケースを背負う若い男。
制服姿の学生の一団。
真っ白な髪の毛の腰の曲がったおじいさん。
深い皺を顔中に刻んだおばあさん。
曲を聞き化粧を直しながら歩いているOLらしき女性。
なんという、多種多様な人間が同じ場所に集まっているのか。私はおなかの痛みを一時忘れ、その驚きに圧倒された。
自分とは関係無い他人のことを、これほどじっくり見たことは久しぶり――いや、今までなかったのではないか。駅にこれだけ多くの人間がいても、その全てを“他人”という一括りの認識の網の中に入れてしまい、それが皆一人一人違った人間なのだと言うことを忘れていたのではないか。“他人”は自分とは無関係で、“他人”が何をしていようと、それを気にしたことなど一度たりとも無かったのではないか。
もし同じ状況で私がこの場所を通りかかってとしても、階段の端でうずくまる女のことなど、気にかけないのではないか。もちろん声をかけられたとしても応じることは無いし、こちらから声をかけることなど思わないのではないか。
――そう考えると、今私がこうやって誰かに助けを求めることなど、ひどく不遜でおこがましい行為であるような気がしてきた。
自分がやらないことを、どうして“他人”がやってくれると言うのか。
ズキン
思い出したように、おなかに鈍痛が走る。これはもう、鈍痛なんかではない。陣痛が始まっているのではないのか。
「誰か。誰か、助けてください。動けないんです。手を、手を貸してくださいませんか」
私にはただ助けを求めることしかできない。誰か……誰でもいい、私を助けて……
見上げる私と道行く青年の目があった。
甘栗色のやわらかなウェーブのかかった髪。黄色いチェックのパーカーを着た、今風の男の子だ。私のことを訝しげに見るその瞳は、どこか勘の鋭そうな感じがした。
始めて私に気付いてくれたこの男の子なら、私を助けてくれるかもしれない。いや、この子に助けてもらえなければ、もう私を助けてくれる人はどこにもいないのだという気さえする。
「あのっ、お願いします、わたしに手を――」
意を決して、私はその男の子に声をかける。
しかし、その男の子は私が声をかけきる前に、気味の悪いものを見たと言わんばかりの顔をしてそのまま通り過ぎていった。
結局、階段の途中に座り込んでいる私を一瞥しただけのことで、私が勝手に目があったと思い込んだということにすぎなかったのだ。
誰も助けてくれない……今や私は暗澹たる気持ちでそう考えている。誰にも気付いてもらえないまま、誰の助けの無いまま、私はこの場所でおなかの子と共に、力尽きてしまうのではないか。
それは、とても怖い考えだった。私一人が苦しむのであれば、まだ耐えることができる。しかし、神様からの贈り物のように宿ったこのおなかの子まで苦しむことは考えられないほど、怖い考えだった。
でも、現実にこうして苦しんでいる私に手を差し伸べてくれる人はなく、私を助けてくれる人もいない。
「誰か、誰か……助けて……ダレカ、タスケテ……」
それは既に声になってはいなかったように思う。おなかの痛みを押さえて、ただ、頭の中で繰り返し繰り返し唱える呪文のような、ひたすらな願い。
「大層苦しそうにしておられますが、大丈夫ですか?」
だから――
「あ……」
「おなかにお子さんがいらっしゃるのですか? それでは無理をしてはいけませんよ」
「は、はい。あ、あの、く、苦しいんです。た、助けてくださいませんか」
「もちろんですとも。さあ、私の腕に掴まってください」
「あ……ありがとうございます」
だから。
その人が私に声をかけてくれたことは、私にとって本当の奇跡だった。
◇◇◇
「――ありがとうございます。本当に助かりました」
私は、深くお辞儀をした。
実際、あそこでこの人に助けてもらえなければ、どうなっていたかわからない。
今私は、駅のホームにあるプラスティック製のベンチに座っている。あれほど暗かった階段を少し上っただけで、こんなにも明るくなるものかと思わせるくらい、あたりは陽の光に満ち溢れていた。
「いいえ、困っている人を助けるのは当然のことですよ。そんなにあらたまらないで下さい」
その男性はやわらかく微笑んでそう言った。でも、その“当然”のことをしてくれたのはこの人だけだったのだ。
「お名前を教えていただけますか。助けてくださった方のお名前も知らないのでは、あまりにも失礼です」
私は、少し興奮気味に聞く。
「名乗るほどのものではありません……なんて言う、キザなセリフは似合いませんし、普通に自己紹介させてもらいましょう。私は“片桐雅彦”と言います。良くある名前の、どこにでもいるしがないサラリーマンですよ」
片桐さんはそう自己紹介をしてくれた。
片桐さんは、上下を紺のスーツで固めたサラリーマン風の外見で、――本人がそうだといっているのだから間違いはないのだろう――おまけに髪は七三、四角い縁のメガネをかけていて、本当にどこにでもいそうな人だった。
でも、苦しんでいる私に声をかけてくれたただ一人の人で、その優しい微笑みは、どこにでもいるサラリーマンではとても持ちえないものであるように思えた。
「それでは私からも、貴方のお名前を聞いてもよろしいですか?」
「はい、私は――」
“私は?”
何故かその後が出てこない。自分の名前がわからないなんてことはあるはずがないのに、不思議にそこだけがぽっかりと空洞であるかのように、記憶に穴が空いている。
自分の名前が言えない。そんなことがあるのだろうか。私は混乱する。
「私……私の名前は……」
どうやっても浮かんでこない。夫の名前も、これから生まれてくる子供につけてあげるつもりで考えている名前も覚えているのに、なぜか自分の名前だけがでてこなかった。
「ああ、ご自分のお名前を胴忘れなされたのですか。心配することはありません、先ほど大変苦しそうなご様子でしたので、そのせいで一時的に記憶が混乱しているのでしょう」
片桐さんが、名前を言えないでいる私を心配して、そう言ってくれる。
一時的に記憶が混乱する。しかし、自分の名前が判然らなくなることなんてことがあるのだろうか。私の知る限りの常識では、そんなことはあり得ないように思われた。しかし、命の恩人の言葉を疑うわけにもいかないし、それ以外に説明できる答えを持たなかったので、そう思うことにした。
「たびたび、ご心配をおかけいたしまして申し訳ありません」
「いいえ、とんでもないことです。それより、失礼かとは思いますが、その、お体の方はよろしいのですか?」
恐る恐ると言う風なその言い方に、私はふっとほころぶ。
どうして男性と言うのは、女の身体のことを聞くのにこうも気を使うのだろうか。女が特別神聖なものであるかのような言い方。
そう言えば、私の夫も始めて会った頃は、まるで壊れ物でも扱うような態度で、少し気を倦んだものだ。
「どうかなさったんですか?」
「うふふ、すいません。少し昔のことを思い出しまして。おなかのことなら大丈夫です。一息つけたおかげで、すっかり痛みも引いてしまったようです」
その一番の理由は、絶望的な心境の中で片桐さんに声をかけてもらって、暗い気持ちを払拭できたおかげだったが、さすがに初対面の人に言うには恥ずかしすぎた。
それに、おなかの子の生まれてくる予定日は、まだまだ先だ。いくらなんでも陣痛には早すぎる。きっと、おなかの子が、早く外の世界に出たいと暴れていたのだろう。
私は、まだ見ぬ未来の赤ちゃんの姿を想像し、慈しむように自分のおなかをなでた。
「……そうですか。元気な赤ちゃんが生まれるといいですね」
なぜだろう、そう言った片桐さんの表情が少し哀しく翳ったように感じた。しかし、もう一度その顔を見るとやはり、それはやわらかい微笑みをたたえていた。
「随分と、おなかが張ってらっしゃるご様子ですが、出産のご予定はまだ先なんですか?」
「そうですね、確かさ来月……いえ、来月だったと思います」
まただ。どこか記憶が混乱している。子供の出産予定日を忘れてしまうなんてどうかしている。
「名前ももう、考えているんですよ」
「そうなんですか。よろしければ、お聞かせ願えませんか?」
「はい、少し恥ずかしいですが……男の子なら“優輔”、女の子なら“三冬”と言う名前を付けてあげたいんです。男の子だったら優しい子に、女の子だったらはきはきした、しっかりした子に育ってもらいたいという願いを込めて、夫と二人で考えたんです。今は色々な機械で、生まれてくる前から男の子か女の子か知ることが出来るんですけど、なにせ私たちが初めて授かった子供ですから、先にわかってしまうのはつまらないので、男の子か女の子か教えてもらわないで産むことを二人で決めたんです。でも、私にはわかるんです。この子はきっと男の子だって。きっと、これが母と子のつながりなんですね。娘を欲しがっている夫には気の毒ですけど、この子の名前は“優輔”で決まりです」
記憶が曖昧なことを気付かれまいと、覚えていることを早口でまくし立てるような言い方になってしまう。でもそんなことには関わらず、片桐さんは素敵な名前ですね、と微笑んでくれた。
自然、私も誇らしい気持ちになり私もそう思います、と返した。
それから私は、片桐さんに聞かれるままに、夫のことや暮らしのこと、またおなかの子供のことなどを話した。
「ええ、自分があと少しで“母”になるなんて、ちょっと信じられないような気かします」
「あなたなら、きっと良い母親になれますよ」
「だと、いいですね。いえ、きっといい母親になってみせますわ」
不思議な人だった。この人にだったらなんでも話せてしまう。言葉がうまいとか、そういうものではないのだろう。多分それは、
「はい? 私の顔に何かついてますか」
この、見る人全てを幸せな気分にしてくれるやわらかい微笑みのせいだろう。
やわらかい、すきとおるような、温かい笑顔。
全てを任せてしまえる、見るものを安心させてくれる、そんな穏やかな微笑みだ。
「――ところで、今日は何をかご予定があったのではありませんか?」
「えっ、ええ、はい、ええっと、確か……」
また、例の胴忘れだ。思い出せない。私は本当にどうしてしまったのだろう。それに、そのことを考えるとなぜかおなかに痛みが走る。この痛みは、あの誰も気付いてくれなかった階段を思い出す、苦しい……
「大事なことです。苦しいかもしれませんが、頑張って思い出してください」
少し硬い言い方で、片桐さんは私の瞳を覗き込んだ。
大事なこと……? それは一体どう言う意味なのだろう。片桐さんは私のことを何か知っているのだろうか。少なくとも私は片桐さんとは初対面だ。
苦しい、でも曖昧な記憶は自分でも気味が悪いので、片桐さんの言うように頑張って思い出そうと努力する。
「私は……そう、今日は産婦人科で診療の日で……」
そうだ。確か今日はいきつけの産婦人科で、定期的な診療を受ける日だった。家から産婦人科まではふた駅の距離がある。少しでも早くおなかの中の赤ちゃんが元気であることを確認したくて、だから、朝一番の診療を受けられるように早めにこの駅に着いたのだった。
「それで」
「それで……」
片桐さんに促がされ、徐々に今日の記憶を思い出そうとする。思い出そうとすると、思い出そうとした分だけ、おなかに痛みが走る。痛い、痛い、どうして今日のことを思い出そうとしただけでこんなに痛みが走るのだろうか。
自分の名前が、思い出せない。焦燥感が募る。私は誰で、何をしようとしていたのか。
大体、“今日”とはいつのことなのだろう。
昨日のことなのか、一昨日のことだったか。
――いいや、私は何を考えているんだろう、“今日”というのは、今日以外にはないではないか。
「それで……」
「それで」
そうだ、それで余りにも早く着きすぎて、朝のラッシュアワーに捕まってしまったのだ。大きなおなかを抱えて満員電車に乗るのは危険だった。仕方なく私は一旦駅を抜け出そうとして、もう一度あの暗い階段を下りて。
階段を下りて……かいだんをおりて……カイダンヲオリテ……
痛い……いたい……苦しい……クルシイ……ダレカ、タスケテ……
それはフラッシュバックだった。
突然に、唐突に、私に記憶が戻った。
反射的に自分のおなかに手をやった。
あまりの驚きに、恐怖に、哀しみに、私は何も考えられなくなって、ただ呆然と片桐さんを見た。片桐さんの顔は、笑顔だったけれど、その瞳は哀しみをたたえていた。そして、その意味も今の私には理解できた。
◇◇◇
「そして階段を降りる途中、私は急に産気づいたんです。予定日は確かに来月だったけれど、そんなこともあるんですね。私は、その場にうずくまってしまって、助けを呼ぼうとしたんですけど、ちょうど電車が行ってしまったばかりで、誰もいなくて。何人か、通り過ぎていった人もいたけれど、私のことを気にはしても、手を伸ばしてくれる人はいなくて」
私の口調はどこか、台本を棒読みしているように感情がこもっていなかった。
「そうしている内に、次の電車が入ってきて、大勢の人が暗い階段に押し寄せてきて……それで私はその流れに押されて、階段を落ちてしまって――」
片桐さんはただ静かに私の話に耳を傾けていた。この人は、多分全てを知っているのだろう。
「そして、おなかを庇うように階段から落ちた私は、打ち所が悪かったのか、そのまま死んでしまったんですね」
そう、私は死んでしまったのだ。
今、はっきりとそれが実感できた。幽霊が実感するというのもおかしな話ではあるが、そうなのだから仕方がない。
不思議なものだ、自分がこの世のものではなくなってしまったのだと言うことを、こんなに素直に受け止めることができるなんて。子供を抱えたまま死んでしまった無念で、成仏できなかったのだ。
真実を知った私にはもう、恐怖も、苦しみも、悔しさも無かった。
そして、そうとわかったからには、私に出来ることは一つだけだった。
「貴方の名前は“志村岬”さんです……人の名前、“姓名”は“生命”に通じていて、人は亡くなると自分の名前も同時に喪ってしまうのです」
いきなりに、片桐さんがそんなことを言った。
志村岬……思わず涙がこぼれてしまいそうなほど、その名前は懐かしかった。
「ありがとうございます。最後にもう一つだけ、お聞かせ願えませんか」
「はい」
最後に、本当に最後にたった一つだけ……
「私の赤ちゃんは無事だったのでしょうか」
「……もちろんです。あなたが文字通り命をかけて守ったのですから」
片桐さんは、やわらかいあの微笑みで答えてくれた。そして、あの哀しみの瞳で。
だから、私にはわかってしまった。
「じゃあ、名前は“志村優輔”ですね。きっと片桐さんみたいに優しい子に育ってくれますわ」
私も微笑んで、そう答えた。
最後に出会えた人が、片桐さんで良かった。
自分の身体の輪郭がぼやけていくのがわかった。自然に、ごく自然にとめどなく流れる涙を、止めることは出来なかった。私は幽霊でも涙を流すんだ、と少し場違いな感想をもった。
「次に生まれてくる時は、きっと幸せな一生になりますように!」
片桐さんの叫ぶような声が聞こえた。
「ありがとうございます」
もう一度、私は感謝の言葉を口にした。
太陽の日差しは白く、そうか、もう季節は秋なんだ、そう思うとまた涙が出てきた。
やがて、そのやわらかい白い光にすきとおるように私の意識が溶けていく。
最後の瞬間、おなかの子が中から足で蹴った。
そう、そこから、出たいのね。大丈夫よ、今度生まれてくるときは、絶対丈夫な子に産んであげるからね、優輔……
そうして、すこしかなしい、私の奇跡は、終わりを告げた。
◇◇◇
プルルルルル――――
ホームにけたたましいベルが鳴り響いた。電車のベルというのはどうして、こうも刺々しいのか、と私は苛立ちを感じた。
一緒に亡くなったお腹の子のことをうまく隠すことが出来たか、わからなかった。
なんの罪もなく死んだ女性に、自らの死の瞬間を思い出させるなど、業の深い職業である。
だがそうしなければ彼女は終わらぬ苦しみの記憶を繰り返すだけで、成仏することができなかっただろう。
彼女は最後に感謝を述べてくれたが、あれは哀しい笑みではなかったか。だとすると、悔いを持ったまま、逝かせてしまったのかも知れない。
「片桐雅彦……カタギリマサヒコ。私はまだ自分の名前が言える。生きている」
生きている限り、人生には多くの苦しみも、後悔も、痛みも、恐怖もあるだろう。
だからせめて、死は安らかなものであってもらいたい。
「さて……まずは依頼主への報告と、その後はあの方のお墓参りですね」
私は岬さんが消えた青空を仰ぐ。
雲一つなく晴れ渡った、すきとおるような秋空だった。
そしてそのまま、ホームヘ入ってきた、ラッシュ過ぎの人もまばらな電車の中に乗り込んだ。
なんでこんな話書いたし。