スターリンの娘に転生したけど、周りの男が消えていくのですが
父がスターリンだった。
いや、正確に言うと、私がスターリンの娘だった。
目が覚めたら知らない天井。
知らない部屋。
知らない寝間着。
そして鏡の中には、知らない少女。
ここまでは、まあ転生ものとして理解できる。
問題は、その日の朝食だった。
長い食卓の向こうに、世界史の教科書で見た顔がいた。
太い眉。
口ひげ。
やたら圧のある目。
ヨシフ・スターリン。
私はスープを飲むふりをしながら、心の中で静かに叫んだ。
よりによってそこ?
異世界転生なら、王女とか公爵令嬢とか、もう少し選択肢があったはずだ。
なのに、なぜソビエト。
なぜクレムリン。
なぜ父親が粛清の代名詞なのか。
人生二周目にして、難易度設定がバグっている。
とはいえ、なってしまったものは仕方がない。
私はスヴェトラーナ・アリルーエワ。
スターリンの娘。
歴史の知識がある現代日本人としては、この立場が危険なことくらい分かっている。
分かっているので、私は慎重に生きることにした。
政治の話はしない。
父の機嫌を損ねない。
知らない将校には笑いかけない。
余計なことは言わない。
完璧な方針だった。
三週間で破綻した。
原因は、図書館だった。
モスクワの冬は、思っていたより白い。
空も、道も、建物も、歩く人の顔色まで、全部が雪に薄められているみたいだった。
家にいると息が詰まる。
部屋は広い。
家具は立派。
食事も温かい。
でも、廊下にはいつも誰かがいる。
護衛なのか、使用人なのか、監視なのか。
たぶん全部だ。
そんな家から少しだけ離れられる場所が、図書館だった。
本棚の間にいる時だけ、私はスターリンの娘ではなく、ただの一人の女の子でいられる気がした。
そこで、アレクセイに出会った。
最初は本当に、ただの偶然だった。
高い棚の本を取ろうとして、踏み台の上でぐらついた。
まずい。
これは落ちる。
そう思った瞬間、後ろから手が伸びてきた。
「危ない」
青年が本を支えてくれた。
ついでに、私の肘も支えてくれた。
「ありがとう」
「いえ。本が落ちそうだったので」
「私じゃなくて?」
「え?」
「本が?」
青年は真面目な顔で固まった。
それから、数秒遅れて言った。
「……あなたも、です」
私は笑ってしまった。
この人、ちょっと面白い。
ソ連にもこういう男子いるんだ。
いや、当たり前か。
世界史の教科書に載っていない人たちも、この世界では普通に生きている。
「あなた、学生?」
「はい。モスクワ高等技術学校で、機械工学を学んでいます」
「機械工学。すごい」
「そうでしょうか」
「うん。絶対モテない感じがする」
「え」
「あ、違う。褒めてる」
「今のは褒め言葉なのですか」
「現代日本では、たぶん半分くらいは」
「ゲンダイ……?」
「なんでもない」
危ない。
うっかり前世ワードを出すところだった。
青年は不思議そうに私を見ていたけれど、それ以上は聞かなかった。
いい人だ。
聞かない優しさがある。
この国では、それが優しさなのか、単なる生存戦略なのかは、まだよく分からないけれど。
「あなたの名前は?」
聞かれて、私は一瞬止まった。
スヴェトラーナ・アリルーエワです。
スターリンの娘です。
そんな自己紹介、絶対に空気が死ぬ。
というか、場合によっては相手の人生も死ぬ。
だから私は、とっさに言った。
「ラーナ」
「ラーナさん」
青年は、私の名前を丁寧に繰り返した。
少しだけ胸が温かくなった。
スヴェトラーナではない。
スターリンの娘でもない。
ただのラーナ。
それが、思っていたよりずっと嬉しかった。
「あなたは?」
「アレクセイ・ミハイロヴィチ・オルロフです」
「アレクセイ」
私が名前を呼ぶと、彼は少しだけ目を逸らした。
分かりやすい。
この時代の男子、反応が純朴すぎる。
それから、私たちは図書館で何度か会うようになった。
約束はしていない。
でも、私が午後に行くと、アレクセイはだいたい同じ机に座っていた。
彼は機械工学の本を広げている。
私は詩集や小説を読んでいる。
たまに、言葉を交わす。
そのくらいの関係だった。
たぶん。
少なくとも、私の中では。
「詩って、逃げ場だと思うんだよね」
ある日、私がそう言うと、アレクセイの表情が少しだけ固まった。
「逃げ場、ですか」
「うん。現実が面倒な時に、ちょっと別の場所に行ける感じ」
「ラーナさん」
「なに?」
「そういうことは、あまり大きな声で言わないほうがいい」
「え、詩の話だよ?」
「詩の話でもです」
「ソ連、詩にも厳しい」
「言い方を変えましょう。詩は偉大です」
「急に模範解答になった」
彼は咳払いした。
私は笑った。
その時の私は、本当に笑っていた。
彼が何を警戒しているのか、ちゃんとは分かっていなかった。
アレクセイは優しい。
でも、少し心配性だ。
そう思っていた。
ある日、彼のノートを覗き込むと、歯車や配管や、よく分からない数字がぎっしり書かれていた。
「これ、全部分かるの?」
「分からなければ困ります」
「すごいなあ。私、こういうのを見ると、どこか遠くまで行けそうな気がする」
「機械で、ですか?」
「うん。汽車とか、船とか、飛行機とか」
「飛行機はまだ危険です」
「夢がない」
「技術者なので」
「じゃあ、アレクセイとなら安全にどこへでも行けそう」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。
あれ。
今の、ちょっと告白っぽくなかった?
アレクセイは耳まで赤くなっていた。
分かりやすい。
とても分かりやすい。
私は慌てて本に視線を戻した。
文字は一つも頭に入ってこなかった。
その夜、自室の机に向かって、私は本を開いた。
けれど、文字は少しも頭に入ってこなかった。
思い出すのは、図書館の机。
歯車と配管の図面。
真面目すぎる横顔。
そして、私の言葉に耳まで赤くなったアレクセイの顔。
私は頬杖をついた。
まずい。
これは、まずいのではないか。
友達。
たぶん友達。
少なくとも、まだ友達。
そう自分に言い聞かせたけれど、胸の奥が妙に落ち着かなかった。
もし次に会ったら、どんな顔をすればいいのだろう。
「じゃあ、アレクセイとなら安全にどこへでも行けそう」
あの言葉を思い出して、私は机に額を押しつけた。
重い。
あれは重い。
現代日本でもまあまあ重い。
ましてや私はスターリンの娘である。
恋愛感情の政治的質量が重すぎる。
私はため息をつき、窓の外を見た。
モスクワの夜は白かった。
雪が降っている。
彼は今ごろ、どこで何をしているのだろう。
そんなことを考えている時点で、もうだいぶ危ない気がした。
それから数日、アレクセイは図書館に来なかった。
最初の日は、少し残念に思った。
二日目は、風邪でも引いたのかなと思った。
三日目は、もしかして避けられているのかもしれないと思った。
四日目には、私は本を読むふりをしながら、入口ばかり見ていた。
来ない。
アレクセイは来ない。
やっぱり、あの台詞がまずかったのだろうか。
アレクセイとなら、安全にどこへでも行けそう。
いや、何その信頼。
普通に重い。
機械工学の男子に背負わせる荷重ではない。
その日の夕食で、父が急に言った。
「スヴェータ」
「はい」
「友人は選びなさい」
私はスプーンを止めた。
来た。
父親の交友関係チェック。
ただし、うちの場合は言葉の重みが異常である。
普通の父親なら、
「あの男はやめておけ」
くらいで済む。
うちの父は、
「あの男は存在していたか?」
まで行きかねない。
いや、さすがにそれは考えすぎか。
考えすぎだよね?
「友人くらい、自分で選べます」
父は新聞から目を上げた。
「自分で選ぶからこそ、慎重に選ぶのだ」
「お父さん、心配しすぎです」
食卓の端に立っていた給仕の手が、少し震えた。
なぜ震える。
親子喧嘩くらい、どこの家庭にもあるでしょう。
たぶん。
この家庭を一般家庭に含めていいかは、やや議論が残るけれど。
父は淡々と言った。
「近づいてくる者のすべてが、善意とは限らない」
「でも、悪い人ばかりでもないです」
「それを見分けるのは難しい」
「じゃあ、私ずっと家にいろってこと?」
「それが最も安全ではある」
「最悪」
思わず口に出た。
給仕の皿が、かすかに鳴った。
父は少しだけ目を細めた。
私は慌ててスープを飲んだ。
まずい。
今のは前世の女子高生感覚が出た。
スターリンの娘としては、たぶん口が軽い。
でも父は怒らなかった。
ただ新聞を広げ直し、短く言った。
「安全を軽んじる者から、順に危険に近づく」
言い方がいちいち重い。
私は内心でため息をついた。
お父さん、過保護すぎ。
父は新聞を読んでいる。
私はスープを飲む。
部屋の外では、雪が降っていた。
どこか遠くで、車のエンジン音が聞こえた。
黒い車が一台、夜のモスクワを走っている。
その車がどこへ向かうのか、私は知らない。
誰を乗せているのかも知らない。
アレクセイが今どこにいるのかも、もちろん知らない。
ただ、少しだけ拗ねていた。
彼はどうして来ないのだろう。
私の言葉が重かったのだろうか。
それとも、本当に忙しいだけなのだろうか。
私はスープを口に運びながら、そんなことを考えていた。
父は新聞を読んでいる。
食卓は静かだった。
外では雪が降っている。
モスクワの夜は、白く、深く、そして穏やかだった。
少なくとも、私にはそう見えていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「同志オルロフ」
その呼び方を聞いた瞬間、アレクセイは自分がもう助からないのだと理解した。
この国で、見知らぬ男から丁寧に"同志"と呼ばれる時。
それは、たいていの場合、仲間としてではない。
処理対象としてだ。
部屋は狭かった。
窓はない。
壁は灰色。
天井から吊るされた裸電球が、わずかに揺れている。
その光の下に、机が一つ。
椅子が二つ。
ストーブはあるが、火は入っていなかった。
寒い。
だが、寒さよりも耐えがたいものがあった。
隣の部屋から、ときおり低い声が聞こえる。
叫び声ではない。
叫び声なら、まだ人間らしかった。
聞こえてくるのは、声にならない息。
喉を潰された者が、それでも何かを否定しようとしている音だった。
そのたびに、尋問官はペンを止める。
耳を澄ませるでもなく、ただ待つ。
慣れているのだ。
この建物では、人が壊れる音も、時計の秒針と大して変わらない。
「名前」
尋問官が言った。
「アレクセイ・ミハイロヴィチ・オルロフ」
「所属」
「モスクワ高等技術学校、機械工学科」
「党歴」
「ありません」
尋問官は初めて顔を上げた。
「党歴なし」
隣に立つ記録係が、乾いた音でそれを書き留めた。
カリ、カリ、カリ。
その音がやけに大きく聞こえた。
「父親は?」
「ミハイル・オルロフ。鉄道工場勤務。内戦時、赤軍に――」
「こちらが聞いたことだけに答えなさい」
「……はい」
尋問官は、机の上の書類を一枚めくった。
紙の束。
誰が書いたのか分からない報告書。
誰かの署名。
誰かの密告。
誰かの保身。
アレクセイの人生は、すでに彼の知らないところで書き終えられているようだった。
「君は、自分がここにいる理由を理解しているか」
「いいえ」
「本当に?」
「本当に、分かりません」
尋問官は笑わなかった。
怒りもしなかった。
ただ、机の引き出しを開けた。
そこから一枚の便箋を取り出し、アレクセイの前に置いた。
安物の紙だった。
モスクワの雑貨店で買ったものだ。
彼の部屋の机に入れてあった。
誰にも渡していない。
その紙が、ここにある。
その事実だけで、アレクセイの胃が冷たく縮んだ。
「これは君が書いたものだね」
アレクセイは便箋を見た。
見覚えがある。
ありすぎるほどある。
昨夜、震えるような気持ちで書いた。
恥ずかしくなって、引き出しにしまった。
宛名も書けなかった。
ただの恋文。
届けることすらできなかった、若者の愚かな紙切れ。
尋問官は、その一文を指で叩いた。
君がそう言ってくれた時、僕は本当に、君とならどこへでも行ける気がした。
「これは何を意味する」
「……恋文です」
記録係のペンが止まった。
部屋の空気が、ほんの少し変わった。
尋問官はようやく、かすかに口元を動かした。
笑ったのではない。
何かを確認しただけだ。
「恋文」
「はい」
「誰への?」
アレクセイは答えなかった。
裸電球が揺れている。
遠くで扉が開く音がした。
誰かが廊下を引きずられていく音がした。
靴底ではない。
足が床を擦る音だった。
尋問官は静かに続けた。
「誰への手紙かと聞いている」
「……ラーナという女性です」
「姓は?」
「知りません」
「住所は?」
「知りません」
「所属は?」
「知りません」
尋問官はペンを置いた。
その音は、小さかった。
だがアレクセイには、拳銃の撃鉄が起きた音のように聞こえた。
「君は、姓も住所も所属も知らない女に、"どこへでも行ける"と書いたのか」
「そうです」
「なぜ」
「彼女を……好きになったからです」
沈黙。
今度の沈黙は長かった。
壁の向こうで、誰かが小さく咳き込んだ。
それから、咳は途中で止まった。
尋問官は、便箋を指で撫でた。
「彼女が、そう言ったのか」
アレクセイは唇を噛んだ。
答えてはいけない気がした。
だが、答えないこともまた、何かを隠している証拠にされる。
この部屋では、沈黙すら自分のものではなかった。
「……はい」
「彼女は、君とならどこへでも行ける、と言った」
「そういう意味ではありません」
「では、どういう意味だ」
アレクセイは言葉に詰まった。
あれは、図書館での会話だった。
機械の図面を見て、彼女が笑った。
汽車や船や飛行機の話をした。
技術者なら安全にどこへでも行けそうだと、冗談めかして言った。
ただそれだけだった。
ただそれだけの、少し恥ずかしくて、少し嬉しい会話だった。
けれど、この部屋に持ち込まれた瞬間、それはもう会話ではなくなっていた。
尋問官は便箋を持ち上げた。
「"どこへでも行ける"。これは国外逃亡の意思表示とも読める」
「違います」
「"君となら"。これは協力者の存在を示しているとも読める」
「違います」
「彼女自身がその言葉を口にした。つまり、君たちは逃亡について話し合っていたとも読める」
「違います!」
声が大きくなった。
その瞬間、記録係が顔を上げた。
尋問官は何も言わなかった。
ただ、アレクセイを見た。
その目を見て、アレクセイは理解した。
ここでは、否定も記録される。
沈黙も記録される。
震えも、汗も、息を呑む音も、すべて何かの証拠になる。
この部屋では、無実でいる方法がない。
尋問官は、便箋を机に置いた。
「君は、彼女をラーナと呼んでいたそうだな」
アレクセイは顔を上げた。
「……はい」
「可愛らしい呼び名だ」
尋問官は淡々と言った。
「だが、ここでは正確な名前を使う」
記録係のペン先が、紙の上で止まった。
尋問官は、アレクセイの目を見たまま言った。
「スヴェトラーナ・ヨシフォヴナ・スターリナ」
その名前が、部屋の空気を変えた。
いや、変わったのは空気ではなかった。
アレクセイの中にあった世界の形が、音もなく崩れた。
スヴェトラーナ。
スターリナ。
同志スターリンの娘。
ラーナ。
赤い手袋の少女。
図書館の踏み台でぐらついた少女。
詩を逃げ場だと言った少女。
機械の図面を覗き込んで、どこか遠くまで行けそうと笑った少女。
彼女が。
まさか。
尋問官は、アレクセイの表情を見ていた。
見逃さなかった。
「知らなかった、という顔だな」
アレクセイは震える声で言った。
「……本当に、知りませんでした」
「いつ知った」
「今、初めて……」
「嘘だ」
「本当です」
「嘘だ」
尋問官は同じ調子で繰り返した。
怒号ではない。
むしろ退屈そうだった。
この部屋では、真実など新鮮味のない素材にすぎない。
必要なら切り刻み、必要なら煮詰め、必要なら別の名前を貼る。
「君は同志スターリンの娘に接近した」
「違います」
「恋愛を装った」
「違います!」
「家族を通じ、党中枢への接触を試みた」
「違う!」
「反党分子との関係を隠している」
「違います!」
「トロツキー派の指示を受けていた」
「違うと言っている!」
アレクセイの叫びは、壁に吸い込まれた。
隣の部屋で、誰かが笑った。
いや、泣いたのかもしれない。
もう区別がつかなかった。
尋問官は便箋を丁寧に折り畳んだ。
まるで貴重な資料を扱うように。
「恋文だと言ったな」
「……はい」
「では聞こう」
尋問官は顔を近づけた。
「君は、同志スターリンの娘を愛しているのか」
その問いが、アレクセイの喉元に刃物のように当たった。
はい、と言えばどうなる。
国家指導者の娘を欲した男になる。
いいえ、と言えばどうなる。
彼女を弄んだ男になる。
沈黙すればどうなる。
何かを隠している男になる。
答えがない。
この問いには、正解がない。
正解のない問いを出されること。
それが、この国の尋問だった。
アレクセイは、唇を開いた。
何も言えなかった。
尋問官は満足したように、椅子に戻った。
「記録しろ」
記録係がペンを構えた。
「被疑者は質問に対し、黙秘」
「違う……」
アレクセイはかすれた声で言った。
「黙秘じゃない。答えられないだけです」
尋問官は首を傾げた。
「同じことだ」
記録係のペンが走る。
カリ、カリ、カリ。
アレクセイはその音を聞きながら、ようやく分かった。
人は銃で殺される前に、まず文章で殺される。
調書。
報告書。
密告。
供述。
そこに一度書かれてしまえば、現実のほうが後から追いついてくる。
尋問官は立ち上がり、部屋の扉へ向かった。
扉を開ける前に、振り返った。
「同志オルロフ」
アレクセイは顔を上げた。
「君が無実かどうかは、さほど重要ではない」
それは、これまで聞いたどんな脅しよりも恐ろしい言葉だった。
尋問官は続けた。
「重要なのは、君を無実にしておく理由があるかどうかだ」
扉が閉まった。
裸電球が揺れていた。
机の上には、彼の恋文が残されている。
もう恋文ではない。
反逆の証拠。
国外逃亡の計画。
トロツキー派との連絡文書。
同志スターリンの家族に対する不審接近。
何にでもなれる紙だった。
だからこそ、恐ろしかった。
アレクセイは椅子に縛られたまま、初めて彼女の本当の名を知った。
ラーナではない。
彼女は、スヴェトラーナ。
そして彼女の父は、この国で最も多くの沈黙を所有する男だった。
ヨシフ・スターリン。
その名を思い浮かべた瞬間、隣の部屋から乾いた音がした。
一発。
銃声だった。
記録係は顔も上げなかった。
アレクセイは、その時ようやく理解した。
自分は恋をしたのではない。
国家の心臓に、素手で触れてしまったのだ。




