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異世界農業実習〜平凡な私がこの世界でできること〜  作者: 長月 朔(旧:響)
【序章】平凡という名の呪い

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平凡のままでは戻れない

第二会議室のドアノブは、思ったよりも軽かった。

押し開けた瞬間、ひんやりした空気と、紙とインクの匂いがふわっと鼻をくすぐる。


中には長机がコの字に並べられていて、正面のスクリーンには大学のロゴと、

《共同特別実習 異世界農業環境実習 概要説明》

の文字が映っていた。


風間先生と、見知らぬ教授が数人。

研究者らしい、白衣姿の人たちも何人かいる。


「全員、入って。好きな席に座ってくれていいよ。」


風間先生に促され、私たちはばらばらと席に着いた。

私は無意識に、いちばん端っこの椅子を選んでしまう。


隣には明日香さん。

向かい側に白河さんと岩城さん、その横に篠宮さん。

中央あたりに吉瀬さんが座り、自然と視線が彼に集まっていた。


(……こうやって見ると、やっぱり“場違い感”すごいな、私。)


そんなことを考えているうちに、風間先生が席の前に立った。


「じゃあ、改めて。選抜おめでとう。」


拍手は起こらなかった。

みんな真剣な顔をしていて、その「おめでとう」が、やけに重く響いた。


「ここから話すことは、外部への口外禁止だ。家族に話していい範囲も、後で書面で渡す。まずは——概要からだね。」


 先生はリモコンを操作し、スライドを切り替えた


《観測地点A-07世界における農業基盤の構築および環境安定化》


「簡単に言うと、向こうの世界に“農業”を根付かせてもらう。それが、この実習の一番大きな目的だ。」


「やっぱ、農業なんやなあ。」

明日香さんが小さくつぶやく。


風間先生はうなずいて、続けた。


「向こうの世界では、世界樹と呼ばれる巨大な樹が信仰の中心になっている。

大地を耕すことは“神を傷つける行為”だと信じられていて、農耕は長いあいだ禁忌とされてきた。」


「ただ、実際には耕しても世界樹は傷つかない。過去にあった災害と農耕が、偶然重なってしまっただけだと分かっている。」


「それは……先行調査が?」

白河さんが、静かに口を開いた。


「そう。君たちの前に、すでに《先行調査隊》が何度か入っている。

世界樹周辺の環境、魔力の流れ、人々の生活——ある程度のデータは揃っている。だが、農業に関しては、まだ“導入の入り口”にようやく立ったところだ。」


「だから、でしょうか。」

吉瀬さんが、前のめりになる。

「僕たちが“農業実習チーム”として送り込まれるのは。」


「その通り。」


風間先生は満足そうにうなずいた。


「生命資源で土や家畜を見る森田さん。

薬草と毒性を扱う白河さん。

水と環境を読む岩城くん。

技術と設備を考える吉瀬くん。

現地との交渉と制度設計を担う藤堂さん。

そして、家畜医療と畜産運用の篠宮くん。」


名前を挙げられるたび、胸の奥がチクリとした。


「君たち六人で一つの“農業パッケージ”だ。現地の人々が、自分たちの力で畑を耕し、育て、収穫し、売り、生活の基盤にできるようにする。

それが達成されたと判断されたとき——」


スライドが切り替わる。


《帰還条件:農業文化の定着と環境の安定》


「……君たちは、元の世界に戻ってくる。」



スクリーンに、二つの時計のアイコンが並んだ。


「さて。いちばん気になっているであろう話をしよう。」


教室の空気が、少しだけ固くなる。


「向こうの世界と、こちらの世界の時間の流れは——およそ《二百倍》違う。」


「二百……?」

思わず、声が漏れた。


「こちらの一日は、向こうの約二百日。こちらの一ヶ月は、向こうの二十年弱だ。」


「……二十年……」

明日香さんが、露骨に顔をしかめた。

「先生、それ、うちら……おばさんになって帰ってくるんちゃいますの?」


教室の空気が、少しだけ和らいで笑いが漏れる。


風間先生は、肩をすくめた。


「そこは、ちゃんと調べてある。さっき出てきた《先行調査隊》は、世界樹の加護下に長期滞在した。

血液検査、細胞サンプル、身体機能のデータ——戻ってきた彼らの“老化”は、ほとんど進んでいなかった。」


「ほとんど、って……どれくらいですか。」

白河さんが、なお食い下がる。


「こちらで一ヶ月。向こうで二十年暮らしても、見た目も機能も、“一、二ヶ月歳をとったかどうか”程度だ。」


「えぐ……」

明日香さんが、変な声を出した。

「二十年分タダで生きる、みたいなもんですやん。」


「ただし、精神的には“二十年分”の経験をすることになる。それは忘れないし、消えない。そこだけは、覚悟しておいてほしい。」


精神年齢だけ、ぐっと上がる。

私たちだけ、取り残されるように。


(……二十年。二十年も、向こうで……)

自分の二十代を、全部あっちに置いていくみたいだ。

想像すると、背筋が冷たくなる。



「あ、先生。」

今度は吉瀬さんが手を挙げた。


「時間の流れは分かりました。でも……

こちらから見れば一ヶ月とはいえ、僕たちからすれば二十年近く“大学の授業から離れる”ことになりますよね。戻ってきたあと、勉強についていけるのかどうか……」


(あ、それ……)


心の中で、私は大きくうなずいていた。


二十年も現場で農業ばかりして、教科書なんてろくに開けなくて。戻ってきたら、周りとは比べ物にならないくらい差が広がっているのでは···。


(……絶対、ついていかれへんやん……)


風間先生は、その不安を見越していたようにうなずいた。


「いい質問だね。このプロジェクトは“実習”であると同時に、“研究”だ。」


スライドには、新しい文字が現れる。


《帰還後カリキュラム》

・特別編入制度

・ブリッジ科目

・研究室優先配属 など


「帰ってきた君たちは、通常の講義とは別枠で扱われる。向こうでの二十年分の記録、観察、データは、そのまま“卒業研究”にもなる。不足する知識を補うための特別科目も用意されている。」


「……じゃあ、完全に一からやり直しってわけではないんですね。」

篠宮さんが、ほっとしたように言う。


「むしろ“実務経験二十年の学生”が戻ってくるわけだ。君たちの方が、教える側に回る場面も多くなるだろうね。」


(教える側……私が?)


イメージが湧かなくて、頭がくらくらした。



「次に、生活面の話をしよう。」


スライドに、簡単な図が表示された。

ゲートと、その向こうにある小さな拠点のイラスト。


「向こう側には、すでに最低限の拠点が作られている。先行調査隊が立てた建物だ。寮みたいなものだと思っていい。」


「じゃあ、ホームレスにはならんのや。」

明日香さんが、心底安心したような声を出す。


「水道、簡易的な発電、魔術による防御結界——生活と安全に必要なものは、最低限揃えてある。現地の村とも協力関係を築いてあるから、食材や物資の交換もできるだろう。」


(……ちゃんと、“生活”する場所があるんや。)


少しだけ、不安が軽くなる。


「こちら側の“家”についてだが——寮や一人暮らしをしている者は、大学側で家賃の補助や荷物の一時保管を行う。

家族への説明は、“一ヶ月間の集中実習で連絡が制限される”とだけ伝えて構わない。」


「実家、心配するやろなあ……」

思わず、小さく漏らす。


母の顔が頭に浮かぶ。

祖父の、あの口癖も。


たった一ヶ月、されど一ヶ月。

こっちは二十年も帰ってこないのに。


(……バレたら、なんて言われるやろな。)


『あんた、平凡でええって言うてたのに、何してきたんや』

そんな声が聞こえてきそうで、胸の奥がきゅっとなる。



「最後に——これだ。」


風間先生が、机の端に積まれた厚い封筒を指さした。


「異世界への渡航と、実習への参加に関する契約書だ。危険の可能性、帰還条件、こちら側のサポート内容、守秘義務……すべて書いてある。」


スタッフが一人ひとりの前に、封筒を置いていく。


手に取ると、思った以上に重かった。

紙の重さというより、中身の意味の重さ。


「今日ここでサインしろ、とは言わない。家に持ち帰って、よく読んで、考えて……数日以内に結論を出してくれ。」


「辞退は……できるんですよね。」

気づけば、私が口を開いていた。


「できるよ。」

風間先生は、はっきりと言った。


「辞退したからといって、評価が下がることはない。これは、“向き・不向き”と“覚悟”の問題だ。誰にでも勧められるような実習じゃない。」


少し間を置いて、先生は穏やかに笑った。


「ただ——この話を聞いたうえで、それでも行きたいと思った人だけが、向こうで生き残れるとも思っている。」


その言葉は、静かに胸に沈んだ。


(行きたい、か……)


自分に問いかけてみる。


怖い。

不安。

戻ってこれるかどうかも分からない。


でも——。


(……行ってみたい気持ちも、ちゃんとある。)


そのことを、自分で認めるのがいちばん怖かった。



説明会は、それで終わった。


私たちは分厚い封筒を抱えたまま、ぞろぞろと部屋を出る。


「うわー……中身、絶対難しいやつや。」

明日香さんが、封筒をひっくり返しそうになって慌てて持ち直す。


「ちゃんと読めよ。」

吉瀬さんが、苦笑いしながら言う。

「これにサインしたら、冗談抜きで“向こう二十年分”の人生が変わるんだから。」


「分かってますて。」

明日香さんは、ふんと鼻を鳴らした。

「なあ森田ちゃん。……どうするつもり?」


「……まだ、分からへん。」


正直にそう答えると、明日香さんはにやりと笑った。


「ほな、うちもまだ分からへんってことにしとこ。」


「え、明日香さん、絶対ノリノリやと思てた……」


「ノリはノリ。でも真面目に悩むぐらいの脳みそは持っとるわ。」


そんなやりとりをしていると、

岩城さんが、ぼそっと一言だけ言った。


「……土、見に行きたいけどな。」


それだけ言って、スタスタと歩いていく。


その背中を見て、ふと胸がちくりとした。


(……私も、見てみたい。向こうの土。)


乾いてるのか、湿ってるのか。

匂いは、こっちの田んぼと同じなのか。

世界樹の根っこの近くの土は、どんな手触りなのか。


考え始めたら、止まらなくなった。



その夜、私は寮の自室で契約書を最後まで読んだ。

難しい言葉が多くて、何度もページをめくる手が止まる。


「危険」「死亡」「帰還不能の可能性」。


黒い文字が、じわじわと胸を締め付ける。


(……怖くないって言ったら、嘘になる。)


母に電話をかけて、「一ヶ月だけ集中実習に行く」と伝えた。

場所は言えない、と言うと、少しだけ不審がられたけれど、最終的に


『あんたが決めたんなら、ええよ。無理だけはせんとき。』


と、いつもの調子で言ってくれた。


祖父には、電話を代わってもらえなかった。

昼間の畑仕事で疲れて寝てしまっているらしい。


(帰ってきたら、ちゃんと話そ。)


そう決めて、私は署名欄にゆっくりと名前を書いた。


——森田 結衣。


ペン先が紙から離れた瞬間、なにか小さな音を立てて、心の中で何かが切り替わった気がした。


 


そして数日後。


研究棟の地下にあるという“ゲート室”に入った瞬間、私は言葉を失った。


広いホールの中央に、石造りの門がぽつんと立っている。

何もない空間に、そこだけぽっかり穴が開いたみたいに。


門の内側は、透明な水面のように揺らいでいた。

見ていると吸い込まれそうで、目をそらしたくなる。


「これが……」


「向こうの世界への入り口だ。」


隣で、風間先生が静かに言った。


背後には、何人もの教授や職員たち。

さっき契約書を受け取った事務の人までいて、まるで“見送りの列”みたいだった。


「緊張してる?」

小声で篠宮さんが聞いてきた。


「……そりゃ、してますよ。」


答えながら、自分でも声が震えているのが分かった。


明日香さんは、大きく息を吐いてから笑う。


「ここまで来て辞退したら、逆に伝説になるで。“ゲートの前まで行ってUターンした女”って。」


「やめてください、やりますから。」


冗談交じりの会話に、少しだけ肩の力が抜けた。


吉瀬さんが、一歩前へ出る。


「風間先生。順番は?」


「特に決まりはない。……だが、リーダーとして、まずは君から頼めるかい?」


「分かりました。」


吉瀬さんは、振り返って私たち全員を見た。


「ここから先は、たぶん想像以上にしんどいと思う。

でも——」


一人ひとりの顔を、きちんと見て言葉を続ける。


「僕たちは、六人でチームです。誰か一人だけが頑張る実習じゃない。困ったときは、頼り合いましょう。」


それを聞いて、胸が少しだけ温かくなった。


(……頼っても、いいんかな。私も。)


吉瀬さんは、門の前に立った。

一瞬だけ深呼吸して——

そのまま、揺らめく光の中へと足を踏み入れる。


水面を割るように、彼の姿がゆっくりと消えた。


一人、また一人。

白河さん、岩城さん、篠宮さんが、それぞれのペースで門をくぐっていく。


明日香さんが、最後まで残った私の方を振り向いた。


「ほな、行こか。——相棒。」


「……相棒て。」


「うちの商売、森田ちゃんの畑あってのもんやし。ちゃんと、ええ世界にしよな。」


にっと笑って、彼女は先に門の中へ消えていった。


 


残されたのは、私と門と、見送る人たちの視線。


「森田さん。」


風間先生が、そっと声をかける。


「最後に、もう一回だけ聞こうか。本当に、行く覚悟はできた?」


喉が、からからだった。

それでも、なんとか声を絞り出す。


「……怖いです。」


正直に言う。


「でも——」


バッグの肩紐を握りしめた。


「平凡って言葉のまま終わるのは、もっと嫌です。」


風間先生は、目を細めて笑った。


「……行っておいで。」


背中を押されたわけじゃない。

でも、その一言が、最後の一歩をくれた気がした。


門の前に立つ。


揺らめく光の向こうには、何も見えない。

ただ、かすかに土の匂いがしたような気がした。


(どんな土なんだろう。)


それを確かめたいという気持ちが、恐怖のすぐ隣で、静かに灯っている。


「——行きます。」


自分に言い聞かせるように呟いて、私は右足を、一歩、前へ出した。


冷たい水の膜を割るような感覚が、足首を包み込む。


平凡ではいられない世界へと、私は確かに踏み出した。

体調崩してて更新サボりました!

ようやく次の話で異世界です!


20.12.01

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