3章:終わりなき逃亡
夜の森は、時間そのものを溶かす深海のようだった。山他彦彦は低い土手に腰を下ろすと、背中にリュックを押し付け、冷たい土に身を預ける。湿った土と落ち葉の匂いが鼻腔を満たし、微かに揺れる枝葉の影、風に混じる夜鳥の声が、彼の感覚を引き裂きながら同時に抱き締めた。街の硬質なアスファルトも、人工の光も、この世界には存在しない。ここでは時間が跳ね、伸び、途切れ、消え、また絡み合いながら流れていた。
ひとつの呼吸が永遠に続くかのように長く伸び、次の瞬間には無数の記憶の破片が押し寄せる。倒れた相手の表情、血の匂い、冷たい鉄の感触――それらは夢のように漂い、しかし皮膚の下を針で刺すように生々しく胸を締めつけた。山他の心拍は混乱したリズムを刻み、秒針の存在さえ幻のように遠くなる。時間は同時に流れ、止まり、後ろへも前へも押し戻し、彼はその波間に漂う漂流者のようだった。
懐から水筒を取り出す。冷たい水が唇に触れ、喉を滑る感触は、かすかに現実を呼び戻す。しかし飲み干すたび、遠くの影が揺れ、時間は再びねじ曲がった。目を閉じると、追跡者の顔、倒れた人影、濡れた衣服の感触――それらが夢の中で反復し、永遠と瞬間の境界が溶ける。秒も分も時間の単位も消え、呼吸と微かな動作だけが、唯一確かに存在するものとなった。
森の音は街のざわめきの残響と絡み合い、枝の揺れ、小動物の足音、遠くで鳴く鳥の声は、意識の中で時間をねじ曲げ、現実の流れを曖昧にする。目を開ければ、月光が枝葉の間から零れ、地面に揺れる影を描く。影は生き物のように揺れ、光は静かに溶けて消える。山他の呼吸は深く、肩と背中の力は抜け、身体と意識の境界は揺らぎ、現実と幻の区別は消えた。そこにあるのは、揺れる時間そのものと、自分の身体だけだった。
食料を取り出す。咀嚼する音がわずかに響き、胃に落ちる感覚は「生きている証し」として微かな安堵を与える。しかし遠くの影が微かに揺れるたび、時間は過去へ逆戻りし、死の記憶、追跡者の姿、街のざわめきが夢幻のように交錯した。山他は小さく息を吐き、身体を現実に引き戻す。だが森の闇に溶けた現実は再び揺らぎ、掴もうとするたびに指先から滑り落ちた。
冷たい空気が肺を満たすたび、微かな安心と神経の緊張が交互に押し寄せる。時間はゆるやかに流れるかと思えば、瞬間ごとに断片化して跳ね、過去の影、死の記憶、街のざわめきが夢の中に混ざり合う。山他は息を整え、身体の感覚だけを頼りに揺れる時間を生き、現実と幻の境界に身を任せた。
夢の中で、倒れた相手の手が伸び、追跡者の足音が耳元で反響し、血の匂いが空気を満たす。過去の悲鳴が重なり、街の雑踏の残響が森の影に吸い込まれる。だがその瞬間、葉の匂いと湿った土の感触が、過去の断片を解体し、時間の渦を再び押し広げた。過去と現在、死と生、現実と幻――すべてが互いに侵食し、交錯しながら、山他は揺れる波の中で呼吸を続ける。
夜が明け、森は柔らかな灰色の光に包まれた。葉先の露が光り、小川のせせらぎが耳を打つ。背中をリュックに預け、山他はゆっくり目を開ける。時間はさらに歪み、過去の恐怖と現実の生が溶け合う。揺らぐ時間の中で、彼は呼吸と身体感覚を通じ、わずかに生命の存在を拾い上げる。生きている、という実感が微かに差し込む。
枝葉の影は揺れ、鳥の声は不規則に森に反響し、小動物が足元で柔らかく駆ける。山他は耳を澄ませ、身体の力を抜いた。森の秩序とリズムが、街の喧騒とは異なる、揺らぐ時間の中の現実として刻まれる。
残りの食料を静かに口に運ぶ。森の匂いと混ざる香りが胸の奥に微かな安堵をもたらす。生きることは呼吸し、身を潜め、揺れる時間を生き延びること――その単純な行為が、逃亡者の山他にとって、唯一の確かな実感だった。
体温が戻り、肩や腰の重さを森に預けながら、山他は深く背伸びをした。時間は再び伸び縮みし、過去の影は消えず、未来の不安も押し寄せる。しかし揺らぐ森の中で、彼は現実と接続し、生きている自分を微かに確認した。
枝葉の影が揺れ、鳥の声が森に反響する。山他は再び背中にリュックを背負い、ゆっくりと立ち上がる。逃げる道はまだ続く――だが、揺れる時間と過去の幻影の交錯の中で、この森の朝、彼は小さな静謐と、生の微かな実感を確かに手にしていた。




