2章:影の足音
逃亡生活は、街の闇と人混みに紛れ、際限なく続いていた。
山他彦彦は、誰の目にも触れず、存在そのものを透明にするような孤独感に日々を覆われていた。夜の街を歩くとき、彼の癖は時折振り返ることだった。冷えた石畳の歩道は硬く、足音が確かに反響する。彼の目は常に周囲の陰影を捉え、誰かに見られているかのような錯覚に襲われる。ポケットの中で小銭を握りしめ、その冷たい感触を確かめることで、わずかながら心を落ち着かせる。
過去の罪の記憶が断続的に頭をよぎるたび、彼の心は均衡を失いそうになった。薄暗い部屋、押し込むように閉じた扉、血の匂い——過去の殺人現場の光景がふと脳裏に蘇り、息が詰まる。
「また同じことを繰り返している」
彼の呟きは、暗闇に吸い込まれ、誰にも届くことはない。それでも、次に迫る「処理」に備えて、冷静に計画し、実行するしかない。生きることだけが目的となり、感情は麻痺し、行動は無機質な連続として身体に染み込んでいった。街灯の下で一瞬立ち止まり、冷えた空気を深く吸い込む——それが彼にとっての唯一の生の実感だった。
薄暗い地下鉄のホームに立つ山他の背中を、冷たい喧騒が押す。騒音の中で、自分の存在が小さくかき消されていく感覚。目は線路の向こう側をぼんやりと見つめていたが、心の奥では次に取るべき行動を必死に思案していた。
昨日の夜、また一人、彼は「処理」しなければならない人物と遭遇した。その記憶が頭をよぎり、吐き気がこみ上げる。逃亡生活は単なる逃げではなく、次々と訪れる「事件」の連鎖であり、自らの罪を隠すための戦いでもあった。それはいつ終わるのか、彼には見当もつかなかった。
列車がホームに滑り込む音が近づく。山他は深く息を吸い込み、決意を固める。
「もう、逃げるだけじゃない…」
その言葉と共に、彼の足は次の行動へと動き出した。
薄暗い蛍光灯の下、ホームの端に移動し、指先でポケットの縁をそっと撫でる。寄りかかったコンクリートの冷たさが背中にじわりと伝わり、息を吐くたびに白い霧となって空気に溶けていく。耳を澄ませば、地下深くから響く機械の振動音が微かに伝わり、遠くで人々の足音や携帯の通知音が散発的に響く。胸はひとつひとつの音に敏感に反応し、鼓動は速まった。
ポケットの中の小銭を握りしめる指先に、わずかに安らぎを感じるて、ただ静かに呼吸を整えた。
頭の中に昨夜の記憶が蘇る。薄暗い部屋で息を潜めていた相手の瞳の輝き、突発的に発生した争いの瞬間、鼻を刺す血の匂い——激しい動揺が彼の心を引き裂く。全身に冷たさが残り、心の奥で低く呟く。
「これが終わりじゃない」
列車が遠くから近づく音が次第に大きくなり、金属が擦れる軋みが耳に響く。呼吸は浅くなり、肩が小刻みに震える。目の前を通り過ぎる通勤客のざわめきは、彼にとって遠い世界の音のようだった。自分の存在が透明になり、消えてしまいたいと願う。それでも、足は確かな決意をもって前へ向かう。
列車の床に淡々と響く足音、視線は不意に壁際の広告ポスターに留まる。色褪せた紙の質感が心に妙な違和感を呼び起こす。自由や幸福を象徴する日常の一瞬が、遠い幻想のように見えた。
しばらく進むと、次の駅がぼんやりと見え始め、金属の擦れる音と車輪の軋みが耳に届き、鼓動はさらに速くなる。心の奥で重く響く声——
「もう逃げるだけじゃない」
足を止め、視線を落とす。過去の罪が重くのしかかり、冷たい風が心の隙間に吹き込む。しかし、足は再び動き出す。振り返らず、ただ前へ。
列車到着のアナウンスが響き、人々が慌ただしく集まり始める。その波に紛れ込み、彼は姿を消すようにホームを後にした。人混みの中で鋭く視線を巡らせても、誰も彼に気づかない。だが、心の奥では常に「見られている」という感覚が消えなかった。
歩道の石畳は冷たく、足音は自分の耳にだけ大きく響く。小銭を握る指先で冷たさを確かめる。わずかな安心感は、透明になった自分がこの街に存在している証のようだった。街灯の灯りが遠ざかるにつれ、影は濃さを増す。歩くたびに生まれる影が、まるで後ろでついてくる足音のように見えた。
頭の中に過去の記憶が断続的に襲いかかる。薄暗い部屋、押し込むように閉じたドア、血の匂い——
「あの時も…今も…」
声は闇に吸い込まれ、誰にも届かない。その瞬間、後ろから微かな足音。一定のリズムで、無作為ではない。振り返ると、人影はまだ遠く、街灯の下に揺れているだけだった。山他は全身の筋肉を固める。心臓が跳ね、呼吸が浅くなる。
「追われている…?」
問いは答えを持たず、頭の中で反響する。足音は一定の距離を保ち、後ろをついてくる。山他は歩幅を変え、路地に入る。影に身を潜め、息を殺す。冷たい空気が肺に染み渡り、孤独が骨の隅まで突き刺さる。人影は気づかず、それでも山他は立ち止まらず、静かに後退しながら狭い路地を進む。
影が去ったことを確認し、再び歩き出す。冷たい風が頬をかすめ、街の雑踏の中で完全に透明になった自分を感じる。夜が深まるにつれ、街の音は徐々に消え、人気のない通りを歩く彼は、自分の呼吸に意識を集中させる。胸の奥の緊張を呼吸で整え、生きるためだけに行動する——感情は麻痺し、手の震えも恐怖も、すべて抑え込まれる。
ビルの陰に見つけた薄明かりの飲食店。中では人々が笑い、談笑し、温かな光が満ちている。その光景は遠い世界の出来事のように感じられ、胸を締め付けた。
「あの世界には、もう戻れない」
吐息混じりに呟く声は闇に溶けて消えた。
再び歩き出すと、夜に響くのは山他の足音だけ。誰にも触れられず、孤独は深まる。それでも、止まらず、影に追われ、過去に縛られながら、ただ前へ進む。小さな交差点に差し掛かると、後ろから再び微かな足音。体を低くし、影に紛れて曲がる。逃げる先々に潜む不安を一歩ずつかわしながら進む。
「これが…生きるってことか」
胸に渦巻く言葉は寒さに押し潰されそうになるが、確かな現実として存在する。街灯の下、彼の影は長く伸び、足音は闇に溶けながらも、この街を確かに踏みしめていた。
逃亡の足音——影の足音は、まだ止まらない。




