1章:影の始まり
夜の街は静寂に包まれていた。
冷たい風が細い路地を吹き抜け、路面の濡れたアスファルトにざわめきを伝えている。
山他彦彦は、その路地の奥へと足を速めていた。
薄暗い街灯の下、彼の影が長く伸びる。
彼の心もまた、暗く深い闇の中に沈んでいた。
「なぜ、こんなことに」
自問自答が頭の中で繰り返される。
今夜、彼の人生は決定的に変わった。
数時間前、偶然の出来事が彼を殺人者へと変えたのだ。
山他彦彦は、繁華街の雑踏の中で突然の怒りに襲われた。
彼は男と揉み合った。
声は荒く、怒号が夜空にこだました。
しかし、それは単なる口論では終わらなかった。
拳が飛び、血の臭いが鼻をついた。
山他の手が、必死に防御しながらも、ついに彼の意志とは裏腹に、致命的な一撃を放った。
血が流れ、相手が倒れ込む音が静寂を切り裂いた。
男はゆっくりと地面に崩れ落ち、その瞳は次第に光を失っていった。
山他の手は震え、呼吸は乱れ、動けなくなった。
その瞬間、時間が止まったように感じた。
そして彼は、深い静寂の中で、自分が取り返しのつかない一線を越えたことを理解した。
「隠さなければ」
頭の中で、冷静な声が響く。
動揺を押し殺し、彼は男の体を見つめた。
逃げなければ自分が壊れてしまうことを直感し、必死に思考を巡らせる。
彼は死体を隠すために周囲を確認し、雑然とした店の裏口へと向かう。
指先は震え、心臓は激しく打っている。
しかし、彼の動作は確実で、迅速だった。
手際よく証拠を処理し、服の汚れを隠す為にワイシャツを脱ぎ捨てる。
心臓の鼓動が耳元で響き、冷たい汗が額を伝う
彼は全てを隠し終え、背を向けて歩き出した。
振り返らなかった。
逃げるように、ただただ前へ進むしかなかった。
彼の心には罪悪感と恐怖が渦巻き、しかしそれを見つめることはできなかった。
夜の街は無関心で、彼の心の内を見透かすこともなかった。
歩き続けるうちに、彼は自身の過去やこれからの未来について考え始めた。
彼はどこへ行くのか。
何を失い、何を得るのか。
それはまだ、誰にもわからなかった。
山他彦彦は、足を止めることなく闇の中を彷徨い続けた。
冷たい空気が肺を満たし、その度に胸の痛みが増していくようだった。
心臓の鼓動が耳鳴りのように響き、目の前の景色がぼやけていく。
それでも彼は歩いた。
止まれば、自分が壊れてしまう気がしたからだ。
その夜、彼は決して戻らない日常から離れ、暗い逃亡生活に足を踏み入れる。
街灯の灯りが次第に遠ざかり、代わりに暗闇が彼を包み込んだ。
静寂の中、微かな足音が彼の存在を告げる。
「追われている」
その言葉が頭の中に響き、逃げる理由を一層強くした。
彼は知っていた。
この逃亡は始まりに過ぎないことを。
この罪は、彼の心に深い傷を刻みつけ、そしてこれから続く道の先に暗い影を落としていた。
山他はふと立ち止まり、空を見上げた。
星は見えなかった。
見上げるその先には、何もなかった。
彼の心もまた、虚無に包まれていた。
「俺は、何をしてしまったのだろう」
その問いが、彼の胸を締め付ける。
彼は静かに涙を流した。
だが、その涙はすぐに乾き、彼の表情は再び硬くなった。
生き延びるためには、感情を殺さなければならなかった。
山他の逃亡生活は、無機質なものだった。
冷え切ったアパートの一室に身を潜めながら、山他彦彦は自分の存在の希薄さを感じていた。
窓の外では、夜の喧騒が遠くから聞こえてくる。
だが、彼の部屋の中は静まり返り、まるで時間が止まったかのようだった。
彼は小さなラジオのスイッチを入れ、無機質なニュースの声に耳を傾けた。
どこか遠い世界の出来事のように感じられ、現実味を帯びていなかった。
しかし、頭の中には殺人の瞬間が鮮明に焼き付いていた。
何度も何度も、あの一撃を繰り返し再生する。
「俺は…何をしてしまったんだ」
その問いが、彼の精神を蝕んでいく。
それでも、逃げるしかなかった。
食事もままならず、身体は次第に衰弱していった。
孤独な夜は、彼の心を容赦なく締め付けた。
誰にも相談できず、誰にも助けを求められず、ただ自分だけがこの闇の中にいる。
それが、山他の現実だった。
一方で、彼の中には奇妙な感情も芽生え始めていた。
それは、生きることへの執着と、死への逃避が交錯するものだった。
「生きていても、意味があるのか」
しかし、彼の身体はまだ動き続けていた。
逃亡のために、彼は再び街に出る決意を固めた。
彼は静かに立ち上がり、窓の外を見つめた。
夜は深く、街は眠っていた。
それでも、彼の中の闇はさらに深く広がっていくのだった。
山他は街の明かりを避け、人気のない路地裏を選んで歩いた。
彼の心臓は今も激しく鼓動している。
逃げるための息遣いは浅く、しかし止まることは許されなかった。
彼は夜な夜な、誰かに見られているような気配を感じた。
振り返ることもなく、ただ足を速めた。
逃亡の生活は、孤独でありながらも恐怖に満ちていた。
誰も信用できない。
誰かに触れれば、その人まで巻き込んでしまうのではないか。
「なんだそれ」
山他は自分を責め続けた。
だが、それだけでは済まなかった。
彼は繰り返し自問した。
「なぜ、あの男を殺してしまったのか」
それは単なる偶然か、運命か、それとも必然か。
答えは見つからず、彼の胸の中にただ虚無だけが広がった。
彼の足は、いつしか見知らぬ場所へと辿り着いていた。
薄暗い公園のベンチに腰を下ろし、山他は静かに目を閉じた。
「俺は、何者なんだ」
声にならない呟きが、冷たい夜空に消えていった。
しばらくして、彼は立ち上がった。
逃亡は終わらない。
どこへ行っても、自分からは逃げられない。
しかし、生きるために、彼は歩み続けるしかなかった。
山他は街の片隅で身を潜めながら、過去と現在が入り混じる迷路の中にいた。
彼の心は重く、まるで鉛のように沈んでいた。
逃亡生活は想像以上に過酷だった。
日々の食事は満足に取れず、疲労は蓄積し、身体は痩せ細っていった。
それでも彼は、逃げることをやめられなかった。
なぜなら、振り返れば破滅が待っていると知っていたからだ。
彼の頭の中で何度も繰り返されるのは、あの男との言葉のやり取りだった。
「あの時、俺は本当に彼を殺すつもりだったのか」
彼はその問いに答えを見つけられずにいた。
怒りの感情はあったが、殺意という確固たる意思があったわけではない。
それでも手は動いてしまった。
暴力の連鎖の中で、自分の意思とは無関係に。
そんな自分に、山他は深い嫌悪を抱いた。
しかし、同時に彼は生きることへの執着も感じていた。
「死にたいわけじゃない」
だが、「生きる理由もわからない」
その矛盾の中で彼は揺れていた。
彼はある夜、小さなカフェの窓越しに灯る温かい光を見つめた。
そこには、普通に生活する人々の姿があった。
笑い声、交わされる言葉、安心した表情。
その光景は遠い夢のように感じられ、彼の心に鈍い痛みを残した。
「俺は、もうあの世界には戻れない」
そう呟き、彼は背を向けた。
逃亡者の孤独は深く、暗く、時に絶望的だった。
それでも、彼は前に進んだ。
生きるために、罪を背負いながら。
夜が深まると、山他は慎重に身を動かした。
人目を避けるため、明かりの少ない路地や廃墟のような建物の影を伝いながら歩く。
その足取りは緊張と疲労が混じり合い、時折立ち止まっては周囲を見渡す。
食料を調達するためにコンビニの軒先を覗き込み、店員の視線を避けるように素早く動いた。
小銭を握りしめ、買えるものは限られていた。
インスタントのカップ麺やパン、飲み物が主な糧だった。
夜明け前、彼は人の少ない公園のベンチに腰を下ろした。
冷えたコンクリートの感触が、彼の孤独を一層際立たせる。
身体の痛みや空腹に耐えながら、彼は過去の記憶と向き合った。
あの男との言い争い、そして拳が交わった瞬間。
あの冷たくなった体。
逃亡者としての生活は、常にリスクとの戦いだった。
警察の目を気にし、時には通報されるのではと怯え、他者との接触を極力避けた。
だが孤独は心の拷問だった。
誰にも話せない秘密を抱えたまま、彼は街の影の中で生きていた。
ある晩、薄暗い公衆トイレの隅で彼は小さく震えた。
その時ふと、自分がどれだけ壊れてしまったのかを実感した。
それでも、明日もまた歩き続けるのだ。
逃げ場のない運命に抗いながら。
薄明かりの中、山他は目を覚ました。
寒さが身体を刺すように襲い、震えが止まらない。
重いまぶたをこすり、周囲を見回す。
彼が寝ていたのは、駅近くの廃ビルの片隅だった。
埃まみれの床に薄い毛布を敷いて、その上に身を丸めていた。
朝の冷たい空気が肺に入るたび、身体が痛んだ。
食事は昨日のコンビニで買ったパンと公園で入れてきた水だけだった。
彼はゆっくりと立ち上がり、周囲の様子を確かめた。
通行人の視線を避け、建物の陰に隠れるようにして外へ出る。
街はまだ静かで、人の気配は少なかった。
しかし、それが彼にとってはかえって恐ろしかった。
「誰かに見られているかもしれない」
そんな考えが頭をよぎり、足取りは自然と速くなる。
彼は公園のベンチに腰を下ろし、ポケットから地図を取り出した。
行き先は定まっていない。
ただ、警察の手が届きにくい場所へ向かうしかなかった。
心の中で葛藤が続く。
「あの時、もっと違う選択はなかったのか」
彼は拳を握りしめ、じっと空を見上げる。
日が昇ると、街の雑踏が戻ってくる。
彼は人混みに紛れ、姿を消した。
昼間はカフェの隅や図書館の片隅で身を潜めることが多い。
人々の話し声やパソコンのキーを叩く音が、なぜか彼の心を落ち着かせた。
しかし、それも束の間。
彼の心はすぐに再びざわめき始める。
「逃げているだけで、本当の自分はどこにいるんだろう」
夜になると、彼はまた街の裏路地を歩き続ける。
時折、目を伏せて足元の影を見つめることもあった。
身体は疲労で悲鳴を上げているのに、心は休まらなかった。
彼はふとした瞬間に涙をこぼすこともあった。
誰にも見せられない、押し殺した感情だった。
だが、その涙はすぐに拭い去り、彼は再び歩き出す。
逃亡者としての彼の一日は、そんな繰り返しだった。
薄暗い空の下、山他はゆっくりと目を覚ました。
背中に感じる冷たいコンクリートの感触に、全身がぞくりと震える。
薄手の毛布はずれており、彼は素早くそれを拾い直した。
開いたまぶたの裏に、昨夜の不安な夢がちらつく。
呼吸を整えながら、彼は耳を澄ませた。
遠くの線路を走る電車の音、かすかな犬の鳴き声、街の始まりを告げる微かなざわめき。
ゆっくりと体を起こし、肩を回して固まった筋肉をほぐす。
薄汚れたジャケットの袖を引き下ろし、ポケットの中の冷たい小銭を手に取る。
指先が震え、小銭がカチャリと音を立てる。
彼は服の裾を軽く引っ張って埃を払い、周囲の安全を確認するためにそっと立ち上がった。
足音を消すように爪先で静かに歩き、廃ビルの入り口まで慎重に進む。
外の空気に触れると、ひんやりとした風が顔に当たり、目が覚める感覚がした。
街はまだ静かで、人影はほとんどなかった。
だが、彼の目は常に周囲を警戒し、動く物音に反応してピクッと肩を震わせる。
少し先のコンビニの灯りが見えた。
彼はゆっくりとその方向へ向かい、壁の影に隠れるようにして歩いた。
店内に入ると、彼は素早く商品棚を見回し、安価で手軽に食べられるものを選んだ。
手がかすかに震え、パンの袋を掴む指先に力が入る。
レジの店員と目が合いそうになり、慌てて視線を逸らす。
会計を済ませると、すぐに外へ飛び出し、また暗い路地へと消えた。
手早くパンの袋を開け、歩きながら小さくかじる。
噛み締めるたびに、味が薄く、心も空っぽになる。
昼間は、人の目につかないカフェの隅や図書館で時間を潰す。
窓際の席で外を眺めると、通り過ぎる人々の笑顔が遠く感じられた。
彼はそんな様子をぼんやりと見つめる。
ただ、虚しさが増すだけだった。
夕暮れ時、再び街の影に身を隠す。
足元に落ちた枯れ葉を踏む音が、自分の存在をかき消してしまいそうで怖かった。
彼は壁に寄りかかり、ゆっくりと息を吐いた。
肩が震え、胸の奥が締め付けられる。
「逃げているだけなんだ」
小さく呟き、目を閉じる。
涙がこぼれそうになりながらも、彼はそれを必死で堪えた。
誰にも見せられない弱さが、彼の中で静かに膨らんでいった。
夜の闇に溶け込み、彼はまた歩き出す。
薄闇の中、山他のまぶたがゆっくりと開く。
まつげの隙間から差し込む冷たい朝の光は、まだ眠気を残した世界を淡く染めていた。
体を包む薄汚れた毛布は冷えきっており、彼はおぼつかない手つきで毛布の端を引き寄せて胸元に巻き直した。
彼の背中に触れるコンクリートの冷たさが、じわじわと身体の奥まで染み込む。
かすかな埃の匂いと、湿った空気の混じり合った匂いが鼻腔をくすぐり、無意識に顔をしかめた。
まぶたの裏で夢の残像がまだ蠢いている。
荒い息遣い、割れたガラスの音、そして男の血の匂い。
それらは現実と重なり合い、頭の中で不気味なリズムを刻む。
彼はゆっくりと身体を動かし、硬直した首を回した。
肩のあたりに痛みが走り、筋肉の張りを感じながら深呼吸をする。
吐き出す息は白く、冷えた空気に溶けていった。
細い指先がポケットの中の小銭に触れ、ひとつずつそっとつまみ上げる。
指先の震えは止まらず、冷たさで感覚が鈍くなっていく。
小銭同士がぶつかり合うかすかな金属音に、彼は耳を澄ました。
慎重に体を起こし、崩れかけた壁にもたれかかる。
辺りの静寂を確かめるために、彼は息を殺し、耳を澄ませる。
遠くで走る自動車の音、時折響く人の話し声、遠ざかる犬の吠え声。
それらすべてが彼の神経を研ぎ澄ませるための標的だった。
彼は片足をゆっくりと立て、地面に足裏を押し当てる。
ざらついたコンクリートの感触が肌を刺激し、少しずつ体温が戻ってくるのを感じた。
視線は暗闇の中、遠くの街灯の微かな灯りに向かう。
薄らとしたその光は、彼にとって遠い希望のようであり、同時に手の届かない現実の象徴でもあった。
腰を落とし、壁にもたれかかると、彼はそっと両手を顔の前に持ってきて指を絡めた。
震える指の間に、小さな爪の先が食い込み、無意識のうちに痛みで現実に引き戻される。
彼は深く息を吸い込み、吐き出す。
その吐息は時折震えを伴い、胸の内にくすぶる焦燥感と絶望が波のように押し寄せた。
「どうして…どうしてこんなことに」
低く、声にならない呟きが、冷たい空気に溶けていく。
ふと、ポケットの中のパンの包み紙が目に入った。
昨日の…、夕方に買ったものだ。
彼はゆっくりと包み紙を取り出し、パンを一口かじった。
口の中に広がる味は淡白で、空腹を満たすだけのものだった。
嚥下する際、喉の奥がひりりと痛み、咳き込んだ。
無理に押し込んだ痛みが、彼の心の奥にも刺さるようだった。
パンを食べ終えると、彼は残った包み紙を慎重にたたみ、ポケットにしまい込んだ。
その動作は無意識ながらも丁寧で、まるで日常の秩序を保とうとするかのようだった。
立ち上がり、肩を軽く叩いて埃を落とす。
足元を確かめながら、静かに廃ビルの外へと歩み出す。
肌を切るような冷たい風が彼の頬を撫で、鼻の頭が赤くなる。
それでも彼は、目を細め、前だけを見据えた。
歩くたびに、彼の靴底は割れたガラスや小石を踏みしめ、小さな音を響かせる。
その音は、彼の孤独な存在を街の闇に刻み込んでいた。
人の気配を避けるために、彼は壁伝いにゆっくりと進み、路地の角で一瞬立ち止まった。
息を整え、視線を巡らせる。
「誰か、いるか」
心の中で問いかけ、周囲の影を睨みつけた。
しかし、答えはなく、ただ冷たい夜風が返ってきた。
彼はまた歩き出す。
逃げ続ける道の先に、何が待っているのかもわからないままに。
薄闇の路地裏をゆっくりと進む山他の足音は、細いアスファルトの隙間に吸い込まれるように消えていく。
彼の視線は常に周囲を巡り、影のひとつひとつに警戒心を張り巡らせていた。
前方から、足音がかすかに近づいてきた。
その音は一定のリズムを刻み、誰かが歩いていることを知らせる。
山他の心拍数が瞬間的に跳ね上がった。
思わず壁際に身を寄せ、息を殺す。
身体中の筋肉が緊張し、指先がわずかに震えた。
目の前に現れたのは、薄手のコートを羽織った中年の男性だった。
無防備そうな彼の姿に、山他は戸惑いを覚えると同時に、なぜかほっとする自分がいた。
男性は立ち止まり、スマートフォンを取り出して画面を覗き込んだ。
その一瞬、彼の顔にふっと疲れたような影がよぎった。
山他は彼の背中に視線を落としながら、心の中で葛藤していた。
「声をかけてしまったら、逃げられなくなるかもしれない」
「でも、このまま孤独に押しつぶされるのも嫌だ」
数秒の静寂が流れた。
男性が歩き始めたのを見届け、山他は小さく息を吐き出した。
彼は再び歩き出し、背後の足音が遠ざかるのを確かめてから、ほんの少しだけ立ち止まった。
目を閉じて、肩の力を抜く。
胸の奥に芽生えたわずかな温もりは、すぐに冷たい現実に溶けてしまった。
「やっぱり、誰にも会ってはいけない」
彼はそう自分に言い聞かせ、また冷たい夜の闇へと身を沈めた。
「この街に居場所はない」
冷たい風が吹き抜ける中、彼は静かに呟いた。




