4.La Notte Bianca
人生には自分ではどうすることもできないことが降りかかる。誰かに言われなくてもこんなことしてちゃいけないことよく分かってる。でも出来ない時ってあるよね。結婚を機に彼の勤務地についていく為、仕事を辞める決意をし最後の出勤を終えた。これから幸せが待っていると思ったら、どん底の現実に直面した彩菜。本当はこんなはずじゃない。こんなことしている場合じゃないし、こんなことしてちゃいけない。どうにもこうにも現実に向き合い切れない彼女が逃げた先はイタリア。偶然の優しい出逢い・不思議な縁によって癒され、新たな一歩を踏み出す物語。
4.La Notte Bianca
帰国のフライトを決めれば、その日にでも出発できるのに、決めきれず日々は流れていく。パオロが仕事で留守となり私はまた一人になった。フィリピン人のハウスキーパーは決まった時間に訪れ、決まった仕事を行い、終わらせるとそそくさと帰っていく。帰国することは決まっているのに一歩が踏み出せない。行く当ても見つからず、その日もミケランジェロ広場の日本庭園で座っていた。本を広げたが読む気にならず、そこからの穏やかなパノラマもソワソワし始める。もうそろそろ席を立とうと一ページも読んでない本を閉じた時、遠くから声が聞こえた。
「チャオ。彩菜さん」
この前と同じコックコート姿の健人が自転車に乗り、こちらへ手を振っていた。
「あ、チャオ。久しぶり」
「どうしたんですか。まだ帰ってなかったんですか?」
「いやぁ。やらなきゃいけないことを先延ばしにして。分かってるの。よく分かってるんだけどね、なかなか一歩が踏み出せななくて」
「分かります」
「え。なんで分かるの?」
「僕もそんなに変わらないんで」
「そうなの?」
「人間なんてそんなに強くないっていうか、お前が言うなって感じなんですけど」
「あっ、そうだ。ねぇ本物のダビデ像は見に行けた?」
私は自分の問題から目を背けたくて、会話を全く違う話題にすり替えた。
「すいません。まだです。あんだけ言われたから見に行かなきゃとは思ってはいるんですけど。なかなか。日々の雑用に追われて。それも言い訳でしかないんですね」
「それならさぁ。今夜どう?予定空いてる?」
「突然どうしたんですか?」
「別に取って食おうって訳じゃないよ」
「そんなこと思ってないですけど…今から戻って、チェーナの時間があるからその後になっちゃうけど…」
「何時頃になる?」
「今日はラストまでじゃないんで、日付が変わる前には。一体どうしたんすか?」
「今夜はノッテ・ビアンカじゃない?」
「何ですか。ノッテ・ビアンカって」
「ちょっと、それも知らないの。今夜は夜遅くまでフィレンツェの美術館とかがライトアップされて、色んなところに無料で入れる特別な夜なんだよ」
「あ、前に皆で行ったことあるかもしれないけど、そういう日って店も忙しいし、サッカーしてた頃はサッカーの事しか頭になくて。付き合い悪い奴だったんすよね。まぁ、今もそんなに変わらないけど」
「ねぇ、本物のダビデ像を一緒に見に行かない?」
「わかりました。いいっすよ」
「えっ、本当にいいの?」
「全然、いいっすよ。行きましょう」
「ほんとに?本当にいいの。断られると思った。わたし一人だと、夜の街はちょっと危険だから諦めなきゃって思ってたんだけど、それでもせっかくその日にここにいるから、どうしようかなって迷ってたの」
「彩菜さんは一人でここに滞在してるんですか?」
「いや、一人じゃないんだけど」
時を告げる鐘の音が遠くから近くから、音が重なり始めた。
「あ、すいません、夜の仕込みしないといけない時間だ。じゃあ、連絡取れるように番号交換だけ」
「うん。じゃあ、後で」
「終わったら、連絡します」
健人は柔らかな日差しを背に自転車にまたがり、スルルと坂を下っていった。
彼からの連絡を今か今かとそわそわしながら、携帯電話の画面を何度も確認してしまう。パオロが出張から戻るのは明後日だ。フィレンツェまでやって来たのに、観光する気になれず過ごしてしまい、大好きなイタリア・ルネッサンス美術と対面できると思っただけで胸が高鳴る。健人との約束を交わすとすぐ、駅前インフォメーションに立ち寄り情報を集め、ネットでも検索し、準備だけで心躍った。彼にもこのルネッサンスの芸術家たちの作品をここでしか味わうことの出来ない体験をしてほしかった。雑誌や本、テレビや映画では体験することのできない、自分の瞳のレンズの奥を通すことでしか味わえない貴重な心のフィルターを使い、この街にいる醍醐味を体感するのだ。入場無料だから連日の長蛇の列となにも変わりはない。いつもと違うのはこの行列の大半がこのフィレンツェに住むイタリア人、フィオレンティーナたちってこと。普段の長蛇の列の国籍はここの国じゃない異国からの観光客がほとんどだけど、この日だけはこの街の住人がこの街が誇る芸術品の数々を堪能する日でもあるのだ。健人を待ちわびながら、この長蛇の騒がしいイタリア人の列に一人、ポケットに何度も手を入れ、携帯電話を確かめ、ドキドキとわずかな緊張を握りしめていた。ようやくポケットの携帯電話がブルっと震え、着信音が鳴った。
「プロント。チャオ、彩菜」
「パオロ」
「ひとり家で大丈夫ですか?」
「シィー」
「うるさくないですか?」
「大丈夫。テレビの音」
「テレビなんて珍しい」
「天気予報をそのままつけっぱなしにしてたら、スポーツニュースにかわって」
「明日の夜、戻ります。おやすみ、彩菜。いい夢を」
「おやすみなさい、パオロ。あなたもいい夢を」
かすかな罪悪感を残したままパオロの電話を切ると、またすぐ着信音が鳴った。
「彩菜さん、健人です。今どこにいますか?」
彼は息を切らせながら話し始めた。急いで電話をかけてきた様子が伝わってくる。
「アカデミア美術館の前。列のだいたい真ん中あたり。並んで待ってるところ」
「待たせてすいません。僕、今、サンタクローチェの近くを歩いているところなんで。後、十分くらいでそっちに着けます。すいません、あと少し」
明らかに歩いてなどいないことも伝わってくる。
「わかった。ここで待ってる。まだまだ入れなさそうだから、急がなくても大丈夫だよ」
「わかりました。じゃあもう少しだけ、待っててください」
電話を切ると、全速力で走っている健人の姿が思い浮かんだ。(イタリアサッカーの試合で活躍する彼のプレーとともに大歓声まで聞こえてきそうだ)ほんの数分しか経っていないのに息を切らせて私の名前を呼ぶ声がした。その声に振り返ると、真っ白なTシャツにくたびれたジーンズ姿の健人が清涼飲料水のCMから抜け出したような白い歯を見せ大きく手を振っていた。
アカデミア美術館は外だけでなく、館内に入っても大勢の人でごった返していた。逆に普段よりも混み合っているように感じるのは、イタリア人の声が大きくよくしゃべるからかもしれない。この美術館の目玉であるイタリアルネッサンスの作品、ミケランジェロ・ブオナローティが制作した彫刻、ダビデ像の周りの人だかりが一番なのは言うまでもない。全長三、八八メートル。台座も入れると五、一七メートルもある巨大な大理石の作品だからすぐに目につく。
「彩菜さん、ダビデ、こんなに大きいと思いませんでした。いやぁ、びっくり。ヤバいっすね。本当にヤバすぎ」
健人が明らかに興奮している様子が伝わってきて、思わずほくそ笑んでしまう。
「あの、女性の方もこれを凝視しても大丈夫なんですか?なんか露骨すぎないですか?」
「それ、どういう意味?」
「だって、かなり露わじゃないですか」
「おいおい、少年。もぉ…。これはね、神の創造物なの。ミケランジェロ渾身の作なんだから」
「はぁ~」
「ちょっと、それ以上の質問は受けつけないから」
「すいません」
頭一つ私より背が高く、ガタイの良い彼が捨てられた子猫みたいにしゅんとなってしまった。私たちは黙ってもう一度、視線を上へ向け、巨大なダビデ像を見つめた。圧倒されるしかない大迫力と凛々しい肉体の美しさと力強さ。誰もがこのミケランジェロの彫刻を前に立ち竦む。人間の力だけで本当にこの大仕事を成し遂げることが出来たのだろうかと疑いたくなる。神の創造物と形容されるのもそれ故だろう。
「ねぇ、彩菜さん、こっち、後ろにも回りましょう」
健人が私の腕をとった。
「すごい人っすね。大丈夫ですか」
「こんなんじゃ、はぐれちゃうね」
あまりの人の多さ、喋り声に笑い声、子供のわめき声までもが反響し。近くの会話さえもかき消されてしまう。
「大丈夫っすよ。僕、守るんで」
「ありがとう」
「当たり前じゃないっすか。僕を頼って下さい。まだ見たいですか?」
「もういい。ありがとう」
「やっぱ、どの角度から見てもすごいっすね。ミケランジェロ、只者じゃない。ヤバい。どうやったら、こんなすごいもん作れるんですかね」
「ダビデ像をこうやって間近で一周すると、この迫力にこの大きさでさ、骨格や筋肉も生身の人間よりもリアルに人間らしくみえるから不思議だよね。イタリア・ルネッサンスって本当に素晴らしいよね」
「彩菜さんが力説した意味がこれでわかりました。行かないなんて言ったら、殺されそうな勢いでしたよね」
「そんなに怖かった?」
「はい」
健人が悪戯っぽい少年の微笑を浮かべ笑った。
「正直だな。でも、良かったぁ…。無理矢理誘って、連れて来ちゃったから責任感じてたの。だってせっかくここに居るなら、自分の目で本物を見て欲しいじゃない。ごめんね、この人混み、仕事帰りで疲れちゃったよね」
「全然、元気っすよ。体力だけは人並み以上あるんで。いやぁ、逆にダビデ見たら、めちゃくちゃパワー貰いました。ミケランジェロ、ヤバいっすね。世界中からこんなにも人がやってくるのも当然っすね。長蛇の列並んで見る価値あるって納得できました」
「良かった。せっかくここに居るなら、レプリカも悪くないけど、一度は本物を味わってほしいって思っちゃったんだよね」
「ねぇ、彩菜さん、あと一つくらい行きますか?」
「会った時より元気になってる?」
「彩菜さんはずっと並んでたから疲れました?」
健人の喜ぶ笑顔が私に元気をくれた。
「じゃあ、とりあえず、行ってみてから考えようか」
「はい。そこのバールに寄ってからいきましょう」
「ドゥエ・カプチーニ、ペルファボーレ」
カウンターで注文をすませ、バールの隅に空席を見つけた。
「彩菜さん、お腹空いてないですか。これ、もしよかったら」
健人はポケットからチョコレートを差し出した。
「ありがとう、何?」
「これ、僕らで作ったんですよ。まだ試作品の段階なんですけど」
「え、本当に。すごい」
「ちょっと今、カフェに添えるオリジナルチョコレートを皆で考えてて、もう少しで完成予定なんすよ」
「へぇ。すごいね。すごく美味しい。甘すぎなくてちょっとほろ苦い感じもいい」
「ダビデのお礼です」
「ミケランジェロに感謝だね」
「ミケランジェロ、偉大すぎっす」
「ねぇ、ウフィツィ美術館の方に行ってみようか?ピッティやベッキオ宮もあるし」
真夜中のフィレンツェ。ライトアップされた中世の街並みは時代が遡ったよう。ほんの少し遠回りして、ほの暗いオレンジ色した温かい柔らかな光の中、石畳を踏みしめるとこの街の歴史が伝わってくる。アルノ川沿いにも人が溢れ、恋人たちの甘い逢瀬も散在する。そんな夜のフィレンツェを結婚するはずだった孝でなく、さっき電話をくれたパオロでもなく、知り合ったばかりの青年と二人歩いていた。
「彩菜さん、どこもほんとに人がすごいっすね」
疲れを微塵も感じさせない若者をほんのり恨めしく思う。
「そうだね」
「昼間とは全く違った雰囲気ですね。フィレンツェ、やっぱり綺麗だったんですね」
レンガ色の街がやさしい光にふんわり包み込まれると、夜空の星々も今宵、特別な日だと周知されているみたいに輝きを放っていた。そのさまを競うかのようにアルノ川の水面をキラキラ、キラキラと小刻みに揺らめき、恋人たちのロマンスをより甘く演出していた。
「うん。この街全体が美術館だもん。時間も時代も超越してるよね」
「そうっすね。ロマンチックですね」
「あはは。そうだね」
「何でそこで笑うんですか」
健人があからさまに不機嫌になるから、余計に可笑しくなってくる。
「だって」
「だって、何なんですか?」
「健人くん」
「呼び捨てで構わないですよ。健人でいいっすよ」
「健人がロマンチックって言うと、ロマンチックな感じ全然しないんだもん」
「何ですか、それ。僕に対してめちゃくちゃ失礼じゃないっすか」
「ごめん。ごめん。ロマンチックだね」
「今更、とってつけたような」
「ごめん、ごめん。あのね、あの日、初めて君に声を掛けられた日、私ね、本当は困っていたんだって思い出したの」
日本からこんな遠く離れた場所まで逃げてきたに、あの日のことが頭から離れないどころか、何度も何度も繰り返され、より鮮明になっていく感覚すらある。飛行機まで乗って逃げてきたはずなのにいつどこにいても思い出す。さっきのダビデ像を見ていた時ですら…。孝が思い浮かんだ。そんなに筋肉質じゃなかったとか。些細な記憶まで蘇ってくる。白衣姿の研究熱心な彼がとっても好きだった。あまりお喋りじゃないのに、研究の話になると饒舌になり少し熱くなる。そんな時、専門用語をやたら使うからよく理解出来ない部分もあったけど、この開発が成功した暁にはきっと多くの命が救われる手助けになる筈なんだと瞳を輝かせる孝を尊敬していた。
「急にどうしたんっすか?彩奈さん、泣いてます?」
「ごめん。ごめん。何でもない。なんかさ、恋人たちのアモーレがやたら目に入ってきたら、色々思い出しちゃっただけ」
「イタリア人のアモーレ、見たい訳じゃないのになぜか目に飛び込んできて、こっちの方が目のやり場に困りますよね。バス停でバス待ってるだけなのに、濃厚なキスシーン見せつけられるし、電車の中でも若者たちのいちゃつきっぷりなんか、半端ないっすよね。彩菜さん、帰りますか?」
「大丈夫。イタリア人のアモーレ、日本じゃ有り得ない光景だよね、確かに気になっちゃうけど、正直困る。あのね、健人に初めて声を掛けられたあの日、結婚式だったんだ」
「誰の結婚式なんすか?」
「あの時、君にオジョウサンって声掛けられた瞬間、教会の鐘の音が同時に耳に入ってきて、あ、今日、本当だったら、私、教会で結婚式してたんだって、思い出したの」
「え、そんな大事な日にこんなところに居てよかったんですか」
「私ね、自分勝手なんだけど、まだ結婚式したかったとか、結婚出来たのかもしれないって思う時あるの。でもね、多分、出来そうになかったから逃げたのかもしれない。逃げるしか出来なかったんだ。ズルいんだ私。どうかしてる。今も逃亡生活みたいなことして、もう一か月も過ぎたのに。それなのに、まだ現実がどうしても受け入れられなくて。自分でも情けなくて」
「彩菜さん、今からでも急いで日本に戻った方がいいんじゃないですか?」
「イタリアまで来ちゃって、気づいたらもう一か月も過ぎちゃって、今日、やっとこんな風に観光地に来れて、少しだけど現実に戻ってこれた感じがしたんだ。ごめんね」
「そうだったんですね。それなら、ダビデも悪くなかったっすね」
「健人、無理に付き合わせてごめんね」
「彩菜さん、謝らないでください。僕こそ、本物のダビデ像に会えて良かったです。きっと一人じゃ、何年ここに居たとしても、あの美術館に入ろうとはしなかったと思うんで」
「まだ日本に帰りたい気持ちになれないんだ」
「急いで帰る必要ないなら、帰らなくてもいいじゃないっすか。何があったのかはよく分からないけど、居れるなら、好きなだけ居てもいいんじゃないっすか?」
「いいのかな?」
「分からないけど、彩菜さん、なんか苦しそうに見えたんすよね。なんて言ったらいいんだろう。上手く表現できないんっすけど…。呼吸してるはずなのに酸素不足みたいな感じで。言ってること分かりませんよね。すいません」
彼にそんなことないよと言おうとしたら、何だか妙に的を得ていたので、逆に言葉が詰まった。それから彼は何も言わずのんびり歩調を合わせ歩いてくれていた。しばらくしてシニョリーナ広場に着くと、ヴェッキオ宮殿の入口にはレプリカのミケランジェロのダビデ像がいた。私たちはその近くのネプチューンの噴水脇に腰を下ろした。
「やっぱりどこもすごい人が溢れてますね」
「そうだね。どうしよっか」
「じつは僕…こんな風に、夜中に出歩くの久しぶりなんで。なんだかそれだけで、ちょっと観光気分で楽しいっす。実はあんま観光したことなくて」
「それなら、よかった。私も楽しい」
そう言って微笑み返すと、時計の針はもう真夜中の二時を回っていた。白夜祭、この街は眠らない。いつもの場所が何もかも違って映る。緩やかにライトアップされ琥珀色に輝いたルネッサンス彫刻たちも中世の神秘を映し出されていた。
「彩菜さんはまだ帰らなくて大丈夫なんですか?」
「健人は?」
「明日はメーデーでほとんどの店は休みですよ」
「そっかぁ。ならどっかお店にでも入って休もうか」
「そうっすね。少し肌寒くなってきましたね」
とぼとぼと歩きながら店を探してみたが、気軽なトラットリアやタベルナは見つからなかった。イタリア人みたくジェラートを頬張る気分にもなれず、なんとなくサンタ・マリア・ノヴェッラ駅までたどり着いてしまった。バスターミナルはがらんとしていた。仕方なく駅前ファストフード店でバスが動き出すまでの時間を潰すことにした。
出張から戻ったパオロがドアを開けると、いつもハグと軽くキスを交わす。彼の香りがいつもと違うことに気付く。女性らしい品のある香りが混ざっていた。リボンが掛かったプレゼントの紙袋を受け取りながら、今回が初めてじゃないと気になるけれど、何も出来ないやしない。聞いたところで無意味だ。
「彩菜、僕の留守中に何かあった?」
「特にないけど…そう言えば、昨日、アカデミア美術館でミケランジェロのダビデ像を見てきたの。やっぱりミケランジェロのダビデ像は素晴らしいわね」
「そうだったんだ。それは良かったね」
「フィレンツェの街を歩いていると、レプリカがあるから、ダビデ像を見てるつもりになってしまうけど、本物はやっぱり違うわ」
「本当にそれだけ?他にも何かあったんじゃない?」
ノッテ・ビアンカの夜、アカデミア美術館で健人を待っていた時にかかってきた電話、パオロについた小さな嘘がチクっと痛んだ。隠す必要も、嘘をつかなきゃいけないこともないのに、パオロに健人のことを知られたくなかった。なぜかかすかな後ろめたさを感じた。
「そうかな。きっと、ミケランジェロにパワーを貰ったのかもしれない」
「それなら良かった。さすがミケランジェロは偉大だな。あ、そうだ。彩菜。早くプレゼントを開けてみて。君にとっても似合うと思ってね。これを着て明日の夜、食事に出掛けよう。とっておきの店を予約したんだ」
「グラッチェ」
「明日の二十時だよ。いつものバールで待ち合わせて一緒に行こう」
「どこのお店?」
「店の名前を聞くなんて珍しいね。マッチ通りの星付きだよ」
「もしかしてチルコ?」
「そう、フィレンツェの有名店だ。楽しみだろ?」
「ええ。嬉しい。ありがとうパオロ。このバイオレット、とっても素敵。ドレスアップして出掛けないとね」
カメリエーレじゃなく、厨房の中で働いているなら大丈夫。しかも健人が働いているのは隣のトラットリアと言っていた。ここの厨房はトラットリアとリストランテの間にあり、共有してるけど、まさかリストランテのホールにまで出てくることはないだろう。健人にはパオロと一緒に居るところを見られたくない。そんな思いを巡らしていたら、案の定すぐ見つかってしまう。健人は私に気づくと、ほんの一瞬、冷ややかな視線を向け、何も言わずにすぐ横をそそくさと通り過ぎた。まるで汚らわしいものを見た時のような軽蔑の眼差しを向けられた。パオロはカメリエーレにワインについてあれこれと尋ね会話が弾んでいた。健人は隣のテーブルに追加のパンを置き、空いた皿を持って厨房へ戻っていった。カメリエーレが持ってきたワインを数本、パオロがテイスティングをする。今夜は彼の好きなモンテプルチアーノに決まった。私たちの食事がひと通り終わり、カフェが運ばれてきても健人の姿は見られなかった。パオロが席を外すとすぐ、イタリア人の女の子が私の居るテーブルへと一目散に駆け寄って来た。
「あなたは健人の友達なの?」
彼女が口にした短いフレーズと大きな瞳から私への敵意が見受けられた。
「え」
私は見知らぬイタリア人の唐突な質問に戸惑ってしまい応えられずにいると、いらだった様子で彼女が続ける。
「私は健人のフィダンザータよ」
一体、わたしの目の前にいる彼女はどこの誰?見覚えはない。
「フィダンザータ?」
私は意味が理解できず、ただ言葉を繰り返した。
「そう、フィダンザータよ」
彼女がもう一度、フィダンザータと言うと、奥からシニョーラが彼女を見つけこちらに声を放った。
「フェデリカ、忙しい時にこんなところで一体何しているの?」
彼女は黙っている私をもう一度、大きな瞳で鋭く睨みつけた。
「フェデリカ、ちょっと今夜は忙しいんだから、早くこっちを手伝って」
とシニョーラが近づいてくると、茶褐色の長い髪と吸い込まれそうな大きい瞳のイタリア人の女の子はさっと厨房へ隠れてしまった。入れ替わりに戻って来たパオロにフィダンザータの意味を尋ねた。
「日本語だと婚約者、英語だとフィアンセ。まぁ、イタリア語のフィダンザートは結婚前提の婚約者じゃなくて、付き合っているだけでフィダンザートって呼び合うよ。結婚しないカップルも多いしね。日本とは言葉の感覚がちょっと違うだろ?」
あのイタリア人の女の子が健人の婚約者ってこと?そういえば私も婚約していたんだった、と他人事のように思い出された。
「そう、そういう意味だったのね。ありがとう」
「どうしたの。彩菜は僕のフィダンザータになりたい?」
「違うのそうじゃなくて、パオロ。ごめんなさい。そういうつもりじゃ」
「彩菜、そんなに慌てなくても、ただの冗談です。やっぱりここは美味しいね」
「本当に。こんなに美味しいトリッパも初めて」
「パンもここで焼いているんだよ」
「だから、美味しいのね。メニューがないのにもびっくりしたわ」
「カメリエーレと話ながら注文できるのがここの魅力の一つだよ。勿論定番メニューもあるけど、シェフの腕が一流だからね。どんな料理を注文をしても僕の胃袋を至福で満たしてくれる」
「本当ね。全部とっても美味しかった」
「そう言えばさっき、厨房に日本人の若者を見かけたよ。日本人はフィレンツェが好きだね」
やっぱりそうだ、健人だ。
「そうね。フィレンツェを歩いていると日本人をしょっちゅう見かけるわ。あなたのお店の製品も日本人にとっても愛されているし、人気があるものね」
もう忘れなきゃ。健人はただの通りすがり。彼はこの街の住人で私はただの旅人。彼が好まない日本人観光客の一人でしかないのだ。
「嬉しいね。日本人とは感性が似てるからね。両国の文化、家族や伝統を重んじて大切にするとか。なんていうのかなぁ、第二次大戦の時は同胞だったしね。戦後からの復興も似通っているところがあるからね。僕らは相性がいいんだと思う」
「そうね。日本人とイタリア人の相性はとってもいいと思う」
「まるで僕たちみたいだね」
と嬉しそうに話すパオロに微笑む以外、気の利いた言葉が見つからない。今夜のパオロはいい契約が取れたと上機嫌でいつも以上に饒舌だった。彼の話に相槌をうちながらも、笑顔が引きつっている自分に気づいた。今の私には会話を楽しむ余裕など持ち合わせてなかった。どれもこれも一流シェフが最高級の食材で創作する、予約も数か月待ちのトスカーナ料理が運ばれるのに記憶に残らない。私の脳裏に焼き付いているのは、ヒンヤリ鋭い刃を突き立てた健人の視線とフェデリカというイタリア人の敵意剥き出しの言葉だけだ。なにかとても悪いことをしてしまったかのように。食事を口に入れても味わえず、健人の冷たい視線が何度も何度も蘇ってきた。まるで鋭利な毒針みたいにチクリチクリと胸を刺す痛みが不規則に終わらない。
タクシーを降り、大通りに面した門のドアを開けた。古びたエレベーターに一緒に乗り込むとパオロが淡いバイオレットのワンピースが似合っていると褒め、腰に手を回し、同じ色合いのアメジストの小ぶりのピアスが揺れる耳元に唇を近づけ、キスし始めた。最上階でエレベーターが止まり、抱きしめられたままドアを開け家の中に入ると、そのままパオロの部屋へ誘ってきた。今までは特に断る理由が見つからず、流されるまま、なんとなく同じベッドに入ってしまっていたが、今夜はそれが出来ない。
「ごめんなさい、パオロ。今夜はとても疲れてしまったの」
「そう、それなら仕方ない。ゆっくりおやすみ、ベッラ。今夜のドレスは君にぴったりだ。とてもよく似合っていたよ、本当だよ、ベッラ」
「ありがとう。パオロ、おやすみなさい」
いつになく酔っぱらっている彼の頬にキスすると、足早に階段を上り、部屋のドアをしっかり閉めた。ヒールを脱ぎ捨て、急いでドレスとピアス剥ぐ。メイクを落としながら、シャワーが頭上に勢いよく落ちてくる。私、一体何をしているんだろう。お店を離れ帰宅してもなお、健人の刺すように冷たい視線がチクッと痛みを残し、その鋭い針が刺さったまま抜けそうもない。
孝のこと、パオロとここに居ること、出逢ったばかりの健人のこと、法を犯したわけじゃないけど、いいことをしているとも到底思えず、ベッドに入ってもなかなか寝付けなかった。小さな天窓に広がるただキラキラと、ただ静かに美しく瞬いている星空を眺めていた。どこまでも澄み渡った夜空はどこかヒンヤリ冷たい空気を纏っていた。この場所で偶然出会った唯一の友達、知り合ったばかりの健人とはもう会えないんだと思ったら大袈裟だけど、この世界に独りぼっちみたいな寂しさが襲ってきた。とうとう一睡もできず太陽の輝きが差し込んできた。喉が乾いたのでお水を飲みに階段を降りると、パオロはすでに出掛けた後だった。キッチンの隣にあるバーニョの蛇口をひねり、冷たい水で何度も顔を洗った。情けないバツの悪い顔が鏡に映しだされる。鏡の中をジーッと見つめると、ミラノのホテルを思い出した。あの夜、鏡の前でパオロに言われた言霊、あの日から、鏡の中の自分を見るとパオロの声がリフレインする。それはどういうことなの?私はまた失った。何もない。どうしたらいいか分からず、ただ甘えてるだけのサイテーな人間なのに。
読んでくださり、ありがとうございました。わたしが好きな国、イタリアを舞台に選んだ。わたしが生きていてもいいと気づけた街だったから。人生には自分ではどうにもならないことが、否応なく訪れる。そんな時、あまりその出来事にネガティブな意味をつけても、辛くなるのは誰でもない自分だ。いいことも悪いこともすべての出来事の意味づけは自分で決めている。そんな事に気づけたら、少しだけ生きていくのが楽になるんじゃないかな、と思った。「大丈夫、すべてはうまくいっている!」全くそう思えない日でもそう思って生きてける強さを持てたらと思って描いた作品。




