第76話 タイト
冷気が漂う通路の中央を塞ぐのは、葡萄染のキャットスーツを纏った魔物だ。
足元には引き裂かれたロングドレスが落ち、
裂けた布の端が石畳に貼りついている。
両腿のホルスターには二振りの斧、右目は眼帯で覆われ、
黒髪の隙間から覗く左眼だけがこちらを凝視してくる。
まずい、目を合わせ続けるのは危険だ。
視線がかすめただけで、皮膚の下に細い針を滑り込まされたような痺れが走る。
これがあの魔物の麻痺攻撃か。
それでも、手足はまだ利く。
耐状態異常5倍が効いているのだろう。
だが無効化ではない。
長引けば、いずれ脚が止まる。
早期決着が必要だ。
ホルスターから斧が抜けるのが見えた。
「来るぞカーリナ! レオノールちゃんは後方から援護を頼む」
指示を飛ばした瞬間、乾いた金属音が弾けた。
前を見ると、魔物がもう目の前まで踏み込み、
右手の斧が低い弧で足を刈りに来ていた。
「師匠!」
叫びと同時に、カーリナが槍の石突で石畳を叩きつける。
柄が刃を噛み、目の前で火花が散る。
上からもう一つ、斧が肩口へ落ちてくる。
とっさに体を捻り、肩を落として刃を紙一重で避けた。
空を切った斧風が衣を引っ張り、体温が一枚剥がれたように冷える。
踏み替えが遅れ、その場に尻餅をつくと、
視界の上から二つの弧が頭上に迫って来た。
その瞬間、石突が視界の恥から跳ね上がり、鼻先をかすめた。
カーリナが槍で両方の斧を食い止めたのだ。
「助かったカーリナ」
「うぐぅ……早く、立って……」
石畳の冷たさが尻から腰へ吸い上がってくる。
低い視点のまま顔を上げると、カーリナの姿勢がやけに大きく見えた。
前のめりに踏み込んだ姿勢で、
槍の柄が斧を押し返すたびに硬い金属音が鳴り、
振動が石畳を伝って自分の尻へ響いてくる。
魔物は歩幅を浅く刻みながら全身に力を載せ、
じりじりと押しつぶそうとしている。
膝に力を入れて体を起こしながら、呼吸ひとつで水弾を飛ばす。
斧の腹に当たり飛沫を散らし、革紐に沿って薄い膜を走らせる。
カーリナが柄を下げると、行き場をなくした斧が床を叩いた。
視線は合わせず、続けざまに放った水弾が魔物の上半身で飛沫をあげる。
数歩下がった魔物は、すぐさま滑るように角度を変え、
肩と足首だけを残して視界の端へ消える角度に入ろうとした。
鋭い一撃が胸を掠める。
斧柄の端で軽く突かれただけなのに、肺がきしみ、骨に衝撃が走った。
踏み返しで間を詰められ、次の斧が耳の上を掠めていく。
熱い風がこめかみを舐め、鼓膜の奥がじんと鳴る。
勝ち筋が見えないまま、ただ防ぎきることだけに意識を奪われていく。
通路の奥から複数の足音が重なり近づいてくる。
刃と槍が噛み合う音に紛れてもはっきり聞き取れるほどの響きだ。
現れたのは六人組――ロジャーたちだ。
黒髪を振り乱しながらセシルが叫ぶ。
「カーネイジアイよ」
初めて耳にする名。
視線だけで痺れを植えつけ、二振りの斧を自在に振るうこの異形に、
確かに相応しい呼び名だった。
助けを求めたい気持ちはある。
だが同時に胸の奥に引っかかる。
彼らもまた指輪を狙っているのだ。
共闘すれば背中を預けることになる。
その状況で戦利品を巡る争いになったら――声が喉に張りついた。
「ロジャー、あたしたちも加勢するわよ」
「いや、待て。別の迷宮に行くぞ」
「何言ってんのよ。あんた見えないの? あれ、第二形態じゃない。
あれを三人で相手するなんて絶対無理よ!」
「だからこそだ。冒険者は自己責任だからな」
低く吐き捨てたロジャーにセシルが詰め寄る。
その背後で獣人の男が肩を竦め、気のない声を出した。
「俺もロジャーに賛成だな。
第二形態を相手するくらいなら、別の迷宮にした方が良い」
深紺の外套を纏う女性が苛立ちを隠さず足を踏み鳴らし、
純白のローブ姿の女性も眉をひそめて口を固く結んでいる。
こんな時に……やるなら余所でやってくれ。
刃と槍の軋みが耳を刺している最中に、口論まで聞かされれば神経が持たない。
「いいか、よく考えろ。俺たちの目的は魔物の指輪だ。
あいつらを助けたところでなんになる? ん?」
「だからって、目の前で人を見殺しにするって言うの!?」
「ああ、むしろここで倒れてくれた方が、
あいつらが持っている指輪が手に入るんだぞ」
「ちょっと、あんたね!」
セシルとロジャーの声がぶつかる。
魔物がカーリナへ詰め寄り、首と腰を同時に狙った。
槍を立てて刃を止めると、軋みが鼓膜を叩き、自分の鼓動までが速まっていく。
「いいわ、ロジャーとジェイムズ抜きで戦うわよ」
「まずは、前衛で戦っているあの子の回復ね」
「ありがとうアガサ。ラルフはあの子を回収、キャロラインは援護をお願いね」
「……」「任せといて」
「ラルフ……どうしたの? 前衛のあなたがいないと始まらないじゃない」
「えっ、あっ、はい……」
大盾を持った鎧姿の男が、煮え切らない態度を取ったまま、
ロジャーの顔色を窺っている。
「ラルフ、行くわよ。ほら!」
「だめだ、ラルフ! ここに残れ」
「ロジャーは黙ってて。ラルフ、あなたはどうしたいのよ?」
矢継ぎ早に投げかけられる声に、板挟みになって困り果てている。
自分の視界の端で、鎧の肩が小さく震えていた。
「えーっと、僕はパーティー全員で行動した方が良いと思います」
「だろ? だから全員で別の迷宮へ――」
「いや、そうじゃなくて。ロジャーさん、交渉してはどうでしょう?」
「交渉?」
沈黙が落ちる。
しばしの間を置いて、ロジャーが口を開いた。
「――いいだろう。
おい! そこのお前、聞こえてたか?
俺たちも共闘する。ただし、指輪が落ちたら俺たちが貰う。
それでいいなら手を貸してやってもいいぞ」
これは妥協でもあり、脅しでもある。
けれど背に腹は代えられない状況だ。
首を縦に振ると、ロジャーが顎を引き、背後の面々へ短く合図を出した。
セシルはポーチの留め具を外し、ラルフが盾を構えて半身に入る。
ジェイムズは外套の下で武器を光らせ、
キャロラインは弓弦を弾いて張りを確かめる。
アガサが槍の握りを一段下げた。
わずかだが、通路の空気が変わったような気がした。
「ロジャー、初めからそうしなさいよ。素直じゃないわね」
「お前っ……!」
セシルの軽口にロジャーが顔をしかめる。
そんなやり取りすら、この場の緊張をひとしずくほぐすように感じられた。
カーリナの肩を支え、アガサの指示で一歩退いた。
立っているのがやっとの状態だ。
槍を握る手が震えていたが、無理に戦線に残せば命を落とす。
石畳の壁際に寄り掛からせると、アガサが素早く治療にかかる。
「先にこの子から始めるわね」
アガサの声にうなずき、カーリナを任せる。
レオノールは背後に控えていた。
怪我の様子を確かめると、擦り傷ひとつ見当たらない。
安堵が胸をかすめる。
「大丈夫か、レオノールちゃん」
「うん。お姉ちゃん大丈夫かな?」
「ああ、カーリナは強いから大丈夫だ。今は、あの人に任せよう」
視線を戦場へ戻す――先頭を走ったのはラルフだ。
大盾を構えたまま突進し、セシルの声が後ろから響いた。
重厚な盾が光を帯びると、振り下ろされた斧を正面で受け止めた。
衝撃で火花が散り、石畳に亀裂が走る。
「ラルフ、どうだ?」
ロジャーの問いに、ラルフが押し返しながら答える。
「これなら、何とか持ちこたえられそうです!」
「よし、わかった。隙を見て下がれ。セシル、俺にも頼む」
その直後、ラルフの盾がふっと軽くなったように見えた。
入れ替わるように、ロジャーのサイドソードが淡い光を帯びる。
どういう理屈かはわからない。
ただ、後方のセシルが片手を掲げ、じっと戦況を見据えていた。
ロジャーが踏み込み、剣が鋭く閃いた。
ジェイムズはその横で暗器を投げ、死角を突くように斬り込む。
二人の攻めは老練で、カーネイジアイが軌道を翻すたび、
刃の弧が紙一重で外される。
翻弄、という言葉がふさわしい攻防だった。
ラルフはなおも盾を掲げ、斧を受け止める。
鉄と鉄のぶつかり合いが響き、盾が唸った。
「セシル、お願い!」
今度は、キャロラインの声が飛ぶと、セシルが即座にうなずいた。
彼女の弓から放たれた矢は、
風を裂く音が一段鋭く響き、矢羽が光を帯びたように見えた。
その矢は一直線に魔物の肩口を貫き、皮膚を裂いた。
威力は確かだ。
何をしているのかは分からないが、
後方のセシルが動くたび、前衛や矢が力を増しているように思える。
「すごい……」
思わず声が漏れた。
自分たちにはない手際の良さ。
しかし、なぜ麻痺にかからないのかと疑問が浮かんだ。
ラルフは盾で視界を遮っているからわかる。
だが、ロジャーとジェイムズは視線をまともに浴びているはずだ。
答えはすぐに見つかった。
二人が前に出て斧を叩き込むたび、
魔物は対応に追われ、片目の光を使う余裕がない。
攻撃を優先させる今なら、麻痺を狙う隙は与えないで済むのだ。
――この三人に限っては、凝視による痺れは届かない。
自分は勝手に納得した。
しかし、戦況は思うように傾かない。
カーネイジアイの動きは衰えず、むしろ速さを増しているように見える。
ジェイムズが短く声を漏らした。
「ロジャー、こいつどうなってる?」
「……かなり手強いな」
ロジャーの返答は重い。
その直後、両腕の斧が頭上に掲げられた。
ラルフが盾を構える。
轟音とともに二振りの斧が振り下ろされ、盾が悲鳴を上げる。
鉄が裂け、破片が石畳を跳ねた。
なおも勢いは止まらず、斧が鎧に突き刺さる。
「ぐあっ!」
ラルフの呻き。
仰向けに倒れた胸を踏みつけ、魔物が斧を引き抜いた。
鉄臭さが鼻を突き、通路の冷気に混じった。
「レオノールちゃん、援護!」
自分は水球を撃ち出した。
もう治療を待つ余裕などない。
盾役を失った陣形は崩れた。
ロジャーの横でジェイムズが踏み込むが、肩口を斬り裂かれ深手を負う。
そのジェイムズを庇ったロジャーもまた、
斧の打撃をまともに受けて膝をついた。
前衛三人が次々に倒れ、通路が一気に静まる。
だが、沈黙は短かった。
キャロラインとレオノールが矢を放ち、アガサが槍を構えた。
しかしカーネイジアイは滑るように攻撃を避け、逆に後衛へ斧を振り抜く。
横一閃――
キャロラインの肩を切り裂く鋭い弧。
弓が落ち、彼女の身体が石畳に崩れ込んだ。
続けざまに魔物の視線がカーリナに向く。
壁際で治療を受けていた彼女に狙いを定め、走り出す。
「くっ……!」
アガサが槍を振りかざして立ちはだかる。
レオノールが弦を鳴らし、矢を放つ。
だが、斧で容易く弾かれた。
自分は全力で水球を撃ち込む。
水弾は確かに命中し、魔物の動きがわずかに鈍る。
だが足は止まらない。
次の魔法はまだ練れていない。
間に合わない――
胸が冷える。
カーリナを庇う術を探すより早く、カーネイジアイの影が伸びていく。
その瞬間、カーネイジアイの背後から、風を裂いて飛んで来る斧が目に入った。
背に食い込む鈍い音とともに、カーネイジアイの体躯がよろめく。
ロジャーだ。
それに、あの斧はドレス姿のカーネイジアイが携えていたものだ。
それでもなお、カーネイジアイの左眼は光を失わず、
カーリナを捕えたまま、狂ったように迫ってくる。
背を石壁につけたまま、
カーリナはまだ痺れの残る左腕を押さえ、右手で槍を拾い上げた。
歯を食いしばり、壁際に座り込んだ体勢のまま柄を構え直す。
「カーリナ!」
思わず声が出る。
アガサがその横をすり抜け、槍を突き込んだ。
狙いは喉元。
しかしカーネイジアイがわずかに体をずらし、
鋭い切っ先は肩口へ深々と刺さった。
咆哮とともにアガサが振り払われる。
それでも槍は肉を裂いたまま、抜け落ちない。
間髪入れずにレオノールの矢が飛ぶ。
体の脇へ突き刺さったが、カーネイジアイはまるで気にする様子もなく、
視線をカーリナへ戻した。
「くっ……!」
壁際、逃げ場のない体勢のまま、カーリナが槍を突き上げた。
瞬間、刃が強い光を帯びる。
セシルの仕業か、威力が増しているのが素人目にも分かった。
鋭い突きが魔物の胸を貫き、その体躯が宙に浮き上がる。
自分は全力で水球を叩きつけた。
炸裂した飛沫がカーネイジアイを飲み込み、
宙で痙攣した身体が黒煙となって崩れ落ちる。
――石畳に残ったのは二つ。
掌に収まる澄んだ石“天眼石”と漆黒の"眼帯"。
目的の“サイクロプスの指輪”はどこにも落ちていなかった。
***
「骨折り損だったな。これなら別の迷宮に行けばよかったな」
「ロジャー! あんたねー!」
中間部屋に戻ると、ぽつりとぼやいたロジャーにセシルが噛みつき、
すぐに口喧嘩が始まった。
「そうよそうよ」
キャロラインまで参戦し、三人の声が部屋に反響する。
「兄妹喧嘩は帰ってからにしろ。
キャロライン、お前も一緒になって何やってるんだ」
ジェイムズが呆れたように口を挟む。
その光景を、割れた盾を手にラルフが見つめていた。
アガサが近づき声を掛ける。
「ラルフ、盾割れちゃったわね」
「これ買ったばかりなのに……それに、見てくださいよ、この鎧」
泣き言混じりに胸板を叩くと、そこには大きく裂けた痕。
「結構大きく穴が開いちゃったわね。鎧も買い替えた方がいいんじゃない?」
「そんなお金ないですよ……」
ラルフの泣き言に、アガサが小さく肩をすくめた。
騒がしいロジャーたちを見やり、自分は少し呆れかえる。
壁際に目を向けると、
カーリナはレオノールと二人並んで戦利品である天眼石を手にしていた。
「ノーラちゃん、綺麗だね!」
「うん、光ってる!」
二人は呑気に笑いながらはしゃいでいる。
レオノールは拾った眼帯まで目に当てているほどだ。
さっきまでの死闘が嘘みたいだ。
生き残ったからこそ、そう思えるのだ。
もし、あのまま三人だけだったら最悪な結末を迎えていただろう。
ふと、パーティーメンバーを増やした方がいいのか、と頭をよぎった。
魔物の指輪は六種類あると聞いている。
これまでに手に入れたのはゴーレム、トロール、そしてスライム。
残りはゴブリン、オーガ、サイクロプス。
残り三つ、どう集めるかは……明日考えよう。
錬金術師のスキル
変成の鍵を使用することで味方の武具にスキルを付与できる。
一度に付与できるのはひとつまでのため、戦況把握が必須である。
堅牢の守護:盾に耐久力強化を付与し、敵の攻撃を軽減
挑発の光輪:盾が発光し、敵の注意を引き寄せることで他の味方を守る
裂断の刃:剣に切断効果を付与し、敵の防御力を一時的に無力化
疾裂の矢:弓矢の速度とダメージ力を向上させる
癒光の杖:回復魔法の効果を上昇させる
霧散の外套:外套に敵の視界を奪う防御的な効果を付与




