第73話 スライムガール
「お兄ちゃん、準備できたよ」 「師匠、そろそろ行きましょうか」
レオノールとカーリナの声が中間部屋に反響する。
背中を壁に預けたままゆっくりとタバコの火を見つめ、
返したのはため息交じりの短い言葉だった。
「ん……あと一本、吸ってからにしよう」
指に挟んだ煙草の火を壁で押し潰し、
代わりに新しい一本を取り出して火を点けた。
もう一本吸うと言うのは、単に時間を稼ぎたいからだと自分でも気付いている。
ゆっくりとタバコの煙が静かに立ち上がる。
今日は29階層の奥で、例のスライムガールと相対することになる。
あの水色の髪に笑みを浮かべた少女の姿が思い起こされる。
彼女はノンアクティブ、つまり自分から攻撃してこない魔物だ。
しかも抱えたスライムの向こうに幼い少女の顔がある。
そんなものに槍や矢を向けるのかと思うと、
どうしても胸の奥がざわついてしまう。
それでも、自分の逡巡を口に出すわけにはいかない。
カーリナが槍の石突きを床に軽く打ち、明るい声で話し掛けてきた。
「スライムガールは非戦闘系の魔物ですし、師匠がいれば楽勝ですね」
「そうだね……」
適当な返事をするしかない。
自分の声に違和感を覚えたのか、
レオノールは不思議そうな顔でこちらを見ているが、その視線から目を逸らす。
二人に余計な心配をさせたくない。
タバコが短くなり、灰を落として最後の一口を吸う。
これ以上引き延ばせば本当に怪しまれてしまう。
指先で火を消して立ち上がった。
「二人ともお待たせ。じゃあ、行こうか」
頷く二人を追いながら中間部屋を後にする。
迷宮の奥から微かな湿り気と甘い匂いが漂ってくる。
自分の胸に残るわだかまりを押し込め、石の廊下へと足を踏み出した。
***
回廊を進むと、足元に紫色の塊がうごめいていた。
Bランクのパープルスライムである。
動きは速くはないが、毒を含んだ体液を飛ばしてくるので、
カーリナとレオノールには距離を取らせた。
槍の届かない範囲からレオノールが矢を打ち込み、自分は水魔法で牽制する。
粘り気のある体に矢が刺さり、表面が波打つたび薄い毒霧が漂う。
こちらが踏み込まなければ危険は少ない。
淡々と処理を繰り返し、慎重に通路を進む。
やがて通路の奥に、青白い光の中で人影が立っているのが見えた。
腰まで伸びる水色の髪、淡い水色のチュニックに紺のレギンス。
胸には青いスライムを抱え、にこやかにこちらを見ている。
その姿はまるで村で見掛ける少女のようだ。
以前、見たときと同じ――いや、それ以上に人間らしく見えてしまう。
「スライムガールです。思ったより早く見つかりましたね。
師匠の香料に引き寄せられたんでしょうか?」
レオノールが矢を番え、カーリナは躊躇なく一歩踏み出そうとする。
「ちょっと、待って」
「「えっ!?」」
つい、反射的に声が出てしまった。
二人がこちらを見ている。
カーリナはその表情に疑問が浮かんでいる。
「どうしたんですか、師匠?」
「いや、その、なんだ……相手がスライムガールだからさ」
「はい、Sランクの魔物です。早く倒しましょう」
「そうなんだけど……」
スライムガールは微笑んだまま動かない。
ノンアクティブという言葉の通り、
こちらから手を出さなければ何もしてこないのだ。
それでも抱えているスライムの向こうに幼い顔が見える。
無抵抗なものに刃を向ける感覚に手が震えてしまう。
しかし、内省を説明しようとすると余計に自分の逡巡が露わになりそうで、
適当な言葉が見つからない。
レオノールが小さく首をかしげる。
「今日のお兄ちゃん、変だよ」
「変か――」
二人からしてみれば、自分の考えは変なのかもしれない。
相手は魔物、見た目に惑わされてはいけない。
そうだ、あれは魔物、しかもSランク。
倒すべき存在なのだ。
しかし、頭では理解しているのだが……心が納得しない……
「じゃあ、師匠が攻撃するんですか?」
カーリナの問いに首を振る。
「まさか。止めて悪かった。カーリナ、やってくれ」
槍を握り直したカーリナが駆け出す。
穂先がスライムガールの肩へ突き出された。
刺さった瞬間、空気が震えたような声が聞こえた。
「きゃっ」
魔物は人間の言葉を話さない、だから今のは鳴き声だ。
そのはずなのだが、耳には幼い少女の悲鳴のように届き、
胸の奥が引きつってしまう。
再び槍が突き込まれると、同じ声が漏れる。
悲鳴に耐え切れず、思わず視線を横に逸らした。
「ちょっ、ちょっと待ってくれカーリナ」
「さっきからどうしたんですか師匠」
「んー……続けてくれ」
もう一度悲鳴が上がると、指先に汗がにじむ。
自分の命令で始めさせたのに、繰り返される音が鼓膜に刺さってくる。
耳を塞ぎたくなるのを堪え、視線を下に向けた。
「師匠! 逃げてください」
カーリナの叫びが通路に響いた。
反射的に顔を上げると、彼女が通路の奥でこちらに手を振っている。
すぐ脇ではレオノールが矢筒を抱えたまま駆け寄ってきた。
「お兄ちゃん、こっち」
状況がつかめないまま、レオノールの声に引かれて数歩下がる。
何が起こった?
スライムガールを見ると、両手を挙げたまま立っている。
抱えていたはずのスライムが見当たらない。
次の瞬間、頭上の暗がりで何かが揺れた。
「振って来ます!」
カーリナの声に反応し、視線を天井へ向けると、
上から巨大な青い塊がゆっくりと落ちてくる。
おいおい、なんだあれ?
理解が追い付かないまま、駆け出した。
ドスーン!
背後で鈍い音が響き、通路全体が震える。
振り返ると、視線の先で巨大な青い塊が通路を塞いでいる。
「レオノールちゃん、怪我はないか」
「うん、大丈夫だよ」
「よかった、カーリナは……」
カーリナの姿が見えない。
まさか、下敷きになったってことはないよな?
「カーリナ! カーリナ!」
「こっちです。無事です」
カーリナの声はいつも通りだが、声が少し遠い。
どうやらこの巨大な青い塊の向こうにいるようだ。
「師匠、そっちはどうなってます?」
「どうもこうもない。これ一体なんなんだ?」
「スライムガールが放り上げたスライムが巨大化したんです」
「これがスライム?」
自分の側には青い壁のような塊が揺れている。
近付いてワンドで軽く突くと、柔らかい弾力が返ってきた。
触れた部分がぶるぶると震え、その波が全体に広がる。
これがさっき抱えていたスライムだとすれば、
どうやってこんなに大きくなったのだろう。
体積は増えているのに密度は変わらないのか。
質量がどこからか湧いて出たようだ。
「レオノールちゃん、少し下がって」
「お兄ちゃん、どうするの?」
試しにアクア・バレットを数発打ち込む。
水弾が表面に吸い込まれ、何の反応もない。
効いてない、水ではダメなのか。
それならば、イグニス・スパエラを放つ。
火球が青い塊に当たると、ぼわっと蒸気が上がり、表面が大きく波打った。
ぶるぶると震える動きが先ほどよりも大きい。
火の魔法なら反応するのかもしれない。
「カーリナ、そっちに何か反応があったか?」
「はい、少し震えていました。何かしたんですか?」
「ああ。火魔法が効いたみたいだ。槍を試してくれ」
「わかりました。刺さるかな……試してみます」
カーリナが槍で突いたのか、青い塊が小刻みに揺れた。
続いてレオノールの矢が横から刺さる。
矢が沈むたびに塊が震える。
攻撃が効いているのだろう。
「カーリナ、スライムガールに何か変化はあるか?」
「いえ、立ったまま動こうとしません」
「わかった、とりあえずこれを倒すぞ」
相手がただのスライムなら何も躊躇することなどない。
続けて火球を放つ。
連続で当てると、青い塊は少しずつ縮んでいくように見えた。
ぶるぶると震え、粘液が床に垂れて広がる。
***
時間はかかったが、火と槍と矢の集中攻撃で青い壁は段々と小さくなり、
最後には大きな震えとともに黒い煙となって消えた。
煙の向こうに見えたのはカーリナだけ、
スライムガールの姿はどこにもない。
カーリナは肩で息をしながら槍を構えている。
レオノールがそっと矢を降ろし、ほっと息を吐いた。
「これで終わり、なのかな?」
残った粘液がぽたぽたと床に落ちる音を聞きながら、ようやく力を抜いた。
背筋を走っていた緊張がゆっくりとほどけていく。
巨大なスライムが消え去った後、
足元に青く輝くものが転がっているのが見えた。
レオノールがしゃがみ込み、そっと拾い上げる。
「お兄ちゃん、石と指輪が落ちてたよ」
手渡された石は、透き通るような青色をしていた。
深い海のような濃さではなく、澄んだ空のような淡い青。
鑑定スキルの結果は天青石。
光にかざすと、内部にわずかな縞模様が見える。
「綺麗……」
レオノールが感嘆の声を漏らす。
もう一つは小さな指輪。
表面にはぷっくりとした意匠が彫られていて、
まるで小さなスライムが輪に張り付いているようだ。
指にはめてみると、ひんやりとして滑らかだった。
これがスライムの指輪か。
カーリナが肩で息をしながらこちらへ歩いてくる。
「師匠、大丈夫ですか」
彼女の槍には粘液が絡みついて光っている。
「ああ、無事だ。よくやった。レオノールちゃんもお疲れ」
「うん……でも、なんか不思議な感じだったよ」
レオノールが目を瞬かせる。
「カーリナ、スライムガールは最後、どうなったんだ?」
「最後まで立ったままだったんですけど、巨大なスライムと一緒に消えました」
「そうか」
「あっ、その石綺麗! ノーラちゃん、ボクにも見せて!」
二人が天青石を見てうっとりとしている。
天青石と指輪、今回の収穫は予想以上のものだった。
「よし、一度休もうか」
「はい」「うん」
中間部屋へ戻る通路は静かで、遠くから水滴の落ちる音が聞こえる。
石の匂いに混じって微かな甘い香りがまだ漂っていた。
耳にはまだ、あの悲鳴のような鳴き声が残っている。




