第63話 鬼姫
中間部屋へ戻る途中、静かな威圧感に包まれた。
足元は黒革のロングブーツ、そこから上は黒の詰襟風装束に紺の袴。
白銀の髪に二本の角。
その姿はまるで、幽鬼めいた剣豪だった。
闇に浮かぶ輪郭は微動だにせず、ただこちらを見据えている。
自然と陣形が整い、カーリナ、キャット、クリスが前衛へ。
レオノールとトラヴィスは後方へ下がり、自分も支援の体勢を取った。
「ヒデキ殿、あたしとクリスはSランクと戦うの初めてなんだよね」
キャットが軽く笑ったが、その裏に緊張の色が見える。
クリスに視線を送ると、わずかに震えているのが見えた。
初めてのSランク戦ならば無理もない。
緊張で手が震えるのも当然だ。
自分もSランクとの戦闘は毎回、胸の奥が締めつけられる。
だが次の瞬間、クリスは剣を抜き、凛と声を上げた。
「全員戦闘準備! 相手はSランク、オーガプリンセス!」
その声からは、恐れの気配など感じなかった。
あの震えは恐怖ではなく、昂ぶりの発露。
武者震いだったとは。
「よっしゃー! この時を待ってた!」
キャットが叫び、剣を構えて前躍り出る。
カーリナもすでに槍を構え、戦闘態勢に入っていた。
また自分だけが出遅れてしまった。
挽回するためワンドを構え、すぐさまアクア・バレットと唱えた。
魔力を収束し、水弾が形成されかけた、その瞬間。
オーガプリンセスの手元が微かに光を反射した。
チンッ――
一音と共に、水弾が霧のようにかき消えた。
失敗した……?
もう一度、魔法発動を試みる。
だが、またも同じ音と共に水弾は掻き消される。
さらに三度目も、やはり水弾は霧散する。
ここでようやく理解した。
あの光、あの音、これは偶然ではない。
オーガプリンセスの刀の微細な動きが、
自分の魔法を無効化しているのだ。
一見すると、静止しているようだが、
魔法の発動に合わせて何かを仕掛けているに違いない。
あの居合のような構え、ここからでは何をしているのかはわからないが、
きっとあの僅かな所作が、自分の魔法を打ち消しているのだろう。
ダガーンッ――
突如として、金属の衝突音が迷宮内に鳴り響く。
キャットが片膝をつきながらも盾で一撃を受け止め、戦闘が始まった。
自分も前へ出るべきかどうか、一瞬の迷いが自然に足を止めさせていた。
だが、カーリナたちが前に出ている以上、自分は後方支援に徹するべきだ。
後方のレオノールとトラヴィスを視線で確認し、戦場の流れを掴む。
オーガプリンセスに、キャットが左から斬り込み、正面からクリスが踏み込む。
カーリナも背後から鋭く槍を突き込んだ。
三方向からの挟撃。
陣形は機能していたが、
切り結ぶ音、踏み込む足音、槍が空気を切る風音。
最小限しか動かないオーガプリンセスに全て受け流されている。
前線は押されてはいない。
だが、押しているわけでもない。
わずかに、こちらが崩れ始めている。
傍観しているわけにはいかない、魔法で加勢せねば。
魔力をワンドの先に集中させる。
狙うはオーガプリンセスの足元だ。
「アクア・バレット!」
今度は途中でかき消されることなく発射された。
近づく水弾に気づいたオーガプリンセスが腰を沈めた瞬間、
空気を断ち切るような一閃。
遅れて、突風が戦場を薙ぎ払った。
目を細めた瞬間、足元で石床が抉れ、破片が跳ね上がり、
壁に無数の亀裂が走ると、砕けた破片がぱらぱらと降り注ぐ。
前線の三人は直撃を免れたものの、その圧に呑まれ、動けずにいた。
静寂の中、オーガプリンセスの深い呼吸音だけが聞こえてくる。
ふと、Aランクのオーガキングとの戦闘が脳裏をよぎる。
強烈な一撃の後には、次の攻撃までに一定時間の猶予が生まれた。
そのクールタイム中に攻撃を仕掛けることができたのだ。
オーガプリンセスはまだ動きそうになく、目を閉じて肩で呼吸していた。
これは例のクールタイムではないだろうか。
だとすれば、これは攻めどきだ。
クリスも気づいたようで、キャットとカーリナに目配せしている。
だが、その瞬間―― オーガプリンセスの目がゆっくりと開かれた。
半眼の瞳が、こちらを静かに睥睨していた。
次の瞬間、空気を切り裂くような速さで踏み込み、すぐに静かに構えを取る。
また……強烈なアレが来る。
オーガプリンセスの刀が再び鞘の中で走り、
今度は地を這うような鋭い風が戦場を貫いた。
石床を裂くその一閃は、明らかに先ほどより速く、そして深い。
しかし、クリスが低く身をかわすと、風を紙一重で避け、
キャットも一歩引いて受け流し、戦線を維持する。
攻撃直後のオーガプリンセスは、またしても動きが止まり、
深く息を吐いてから呼吸を整えはじめた。
やはり、攻撃の度に隙が生まれる……
前線の三人がすかさず動いた。
キャットが腕に斬りかかり、クリスが正面から肩口に打ち込みを仕掛け、
背後からはカーリナが槍を振り下ろした。
オーガプリンセスは防御姿勢に入ったが、
呼吸が整っていないためか、わずかに遅れた。
「いける! このまま押し込む!」
クリスの声に応えるように、キャットとカーリナが連撃を繰り出す。
しかし、そろそろ動き出しても……そう思った途端、
オーガプリンセスの目が開いた。
それと同時に、キャットの足が滑った。
「うわっ……っと……!」
体勢を崩した彼女の剣筋は逸れ、
オーガプリンセスの側面をかすめるように通過する。
だが、オーガプリンセスの反撃も微妙に外れ、
刀がキャットの頭上をかすめるように通過した。
滑った床。
さっきの水弾が、まさか……自分の水弾が原因か?
そう気づいた直後、オーガプリンセスも踏み込みざまに滑った。
体勢を崩したところにカーリナの槍が突き刺さる。
しかし、槍先は袴の端を裂き、腰布を引き裂いて止まった。
続けてキャットとクリスが左右から踏み込み、斬撃を浴びせる。
鋭い音とともに、オーガプリンセスが初めての後退を見せた。
攻撃を浴びながらもオーガプリンセスは構え直し、
今度は刀をカーリナ目掛け振り下ろす。
その攻撃をキャットが一歩前に出て、盾で受け止め、
すかさずクリスが斬撃を放ち、オーガプリンセスの肩を掠める。
体勢が大きく崩れたのを見て、
間合いを詰めたカーリナが、低く鋭く槍を放つと、
オーガプリンセスの胸を正確に貫いた。
刹那、オーガプリンセスの体から黒い霧が噴き上がった。
オーガプリンセスは膝をつき、ゆっくりと地に伏す。
その身体はあっという間に黒煙に溶け、静かに消えていった。
残されたのは、静寂だけだった。
誰も声を上げない。
ただその光景を見つめるだけだった。
自分も、ただその場に立ち尽くしたまま
胸の奥から湧き上がるじわりと広がる熱いものを感じていた。
――勝てた。
あの三人がいたからだ。
キャット、クリス、カーリナ。
誰一人欠けていても、ここまで辿り着けなかっただろう。
静寂を破ったのは、キャットの声だった。
「あれ……ほんとに、斃れたんだよね……?」
黒煙の消えた跡を見つめたまま、ぽつりと呟く。
クリスも剣を下ろし、肩で息をしながら言った。
「Sランク魔物と正面から交戦して……生き残った」
その声には、驚きと、少しだけ誇らしさが滲んでいた。
トラヴィスが周囲を見回しながら口を開いた。
「そういや、オーガのSランクってレアモノの指輪を落とすらしいが、
出ればかなりの代物だぜ、ヒデキさん」
その言葉に、自分の胸が高鳴るのを感じた。
水魔法が使えるようになったのも、水の指輪を手に入れたおかげだった。
オーガの指輪……もし手に入れば、また一つ、自分は強くなれるかもしれない。
そんな期待で胸を躍らせていると、
「見つけたよ、お兄ちゃん」
レオノールがオーガプリンセスが消滅した跡を指差し、
その先に小さな光が残っていた。
トラヴィスがそれに歩み寄り、しゃがみ込む。
「あちゃー、こっちだったか」
トラヴィスの苦笑まじりの声が聞こえる。
「トラヴィスさん、どんな指輪ですか?」
「金の卵だったわ」
「卵……? 指輪じゃなくて?」
「ああ、でもこれもレアだから高く売れるから」
指輪じゃ、なかったのか……
レオノールがそっと光の中に手を伸ばし、金の卵を大事そうに抱える。
その無邪気な様子に、場の空気が少しだけ和らいだ気がした。
***
中間部屋から地上へ戻ると、
小屋の周りはきれいに整えられ、柔らかな昼の陽射しが降り注いでいた。
戦場の余韻を纏ったままの自分が、その景色に戸惑っていると、
こちらに気づいたアイリスが手を振ってきた。
「お帰りなさい。遅かったのね。昼食はもうできてるわよ」
相変わらずの穏やかな声を聞くと、
さっきまで自分たちが迷宮の深層で命を賭けていたことが、
まるで遠い出来事のように感じられた。
焚き火を囲うようにして昼食を取った。
スープは温かいが、相変わらずパンは硬い。
香ばしさとは無縁だが、その素朴な味が妙に沁みる。
火のはぜる音だけが静かに時を満たしていった。
***
食事を終えると、クリスが立ち上がった。
「では、わたしたちはそろそろ次に行きます」
簡潔で、どこか引き締まった声だ。
「午後も別の迷宮ですか?」
「はい。予定ではあと二箇所残っています」
「ご苦労様です。無理なさらないように」
トラヴィスも腰の剣に手を添え、こちらに向かって軽く頷いた。
「ヒデキさんの方こそ、無茶しないようにな」
「ええ、肝に銘じます。
でも、オーガプリンセスとは再戦したいですね。
なんとしてでも指輪を入手したいので」
「だから、それが無茶って言うんだよ。まったく……
オーガに拘らなければ、もっと浅い階層で指輪を狙うってのも手だかなら」
それもそうか、全階層が行き来できるようになったのだから、
浅い階層から順番に回っていけば良いか。
仮に指輪でなくても鍵や他のレアアイテムが出れば儲けモンだ。
まだ、ワンドの初期投資を回収できていないのだから、
着実にお宝を狙っていくか。
キャットは肩に背負った剣を揺らしながら、いつもの調子で笑った。
「じゃあね、カーリナ。
今度会う時、どんなアイテムを手に入れたか聞かせてよね」
「もちろん。次会う時は、師匠の両手が指輪だらけだからびっくりしないでよ」
「ははは、ヒデキ殿ならホントあり得そうだから、楽しみにしとくよ」
焚き火を囲んでいた輪が、自然とほどける。
アイリスも、支度を整えた騎士団見習いたちに寄り添いながら、
こちらを振り返る。
「皆さん、気をつけてね。ノーラちゃんもまたね」
「うん。またね、アイリスさん」
一行はゲートへ向かうと、吸い込まれるように姿を消していった。
残された小屋の周りには、柔らかな昼の風が吹き渡っていた。
ぽつんと残された感覚だ。
レオノールが、遠慮がちに近づいて来た。
小さな両手にいっぱいに何かを抱えている。
「あの……これ、拾っておいたの」
控えめに差し出されたのは、先が尖ったアイテム。
ブルーオーガがドロップした角である。
「見て。こっちの角よりも、こっちの方が大きいんだよ」
嬉しそうに角を並べ、比べるレオノール。
その仕草に、自然と頬が緩んだ。